松江騒擾事件と切腹

松江騒擾事件の主犯、岡崎功が自害を試みた際、その法・手立てはいかなるものであったかを確かめたい。

《切腹の後、喉を切って突っ伏した》

概略はこれで間違いないかに思われる。猪瀬直樹は、事件から三十数年後に資料精読と当事者への取材をもって、「恩赦のいたずら―最後のクーデター」を発表した(『天皇の影法師』1983年,朝日新聞社刊・所収)。事件を包括的かつもっとも詳細に描いたものである。

しかしながら、一点の曇りもなく切腹を肯んずることには戸惑う。当時の県警警防課長で、顛末を「島根県町焼打事件懺悔覚書」として残した西村国次郎。そこに切腹の記載はない。西村は問題の瞬間を見ていない。

「ワァッ」「ウワァ」と号泣喧騒する大声がするので、驚いて現場へ飛んで行ってみると、剣道場の板場で首魁その人が打ち伏せとなって居り、其の傍らには日本刀が投げ出されてあり、又真っ赤な血潮が流れ出ている。(「島根県町焼打事件懺悔覚書」p.34)

現場にいた、特高課長と放送局長が棒立ちになっていたのを彼は見る。おそらく正気を保っていた西村が主導し、岡崎は日赤松江病院へ搬送。手当を受け一命をとりとめる。当時の位置関係を確かめてみたいが、車で5分とはかからないであろう。西村は「後で当時の模様を聞いて見ると」という言い方で顛末を次のように記す。留意すべきは、ことは警察の不祥事であり、何かを伏せようとする意思が常に働いている可能性である。

首魁その人は特高課長の尋問を受けた後
「自分の為に同士を誤らしめたから謝罪がしたい」
と懇願するので特高課長と放送局長が随伴して、同士二十余名が監視されている剣道武道場に入ると、彼は先ず道場に設けられた神棚に礼拝をしてから座につき、同士に対して陳謝の辞を述べて後突然所持の日本刀を抜き払って二度までも自己の咽喉を突き切って自殺を図ったと云うのである。(「島根県町焼打事件懺悔覚書」p.34)

令和6年(2024年)に生きる我らの過半は、この場面、喉を切っての自殺未遂と取るであろう。時は昭和20年(1945年)、遡ること80年ほど前になる。腹を切る、切腹だけで自殺を遂げることが難しいことが未だ常識としてあった時代である。また戦時下、敵の辱めを受けぬための自害、その法についての理解は今より深かったと思われるが、今はふれない。すなわち切腹による自害には、致命傷とするための何かが必要であり、それは介錯による頭部切断か、咽喉を自ら突き刺す、あるいは心臓に向けて刃を突き刺すことで達せられるという「常識」である。

岡崎に随行し、みすみすその自害に至る行為を許してしまった特高課長と放送局長にとって、その不祥事への引け目がことの隠蔽まではいかずとも、なにがしかの力を持っていたと思われる。すなわち、いきなり咽喉を突かれたのであれば、止めようもなかろうが、切腹ののち、咽喉を突くまでを許した自らを認めたくはなかろうということ。

しかしながら、別な可能性もある。切腹の詳細を記している猪瀬は、岡崎の「回想録」はじめ、首謀者側からの言・文をもとにしている。彼ら彼女らにとっては、単なる自害であるより、神を拝し腹を切ったという儀礼が完遂されたことは、自らがなしたことの誇りの擁護たりうる。切腹がなかったのにあったように記す可能性はある。が、しかし、岡崎の思想・信条・行動の履歴から考えて、それは極めて考えにくい。ただいまは、岡崎らの中にある虚偽―影の存在に留意しておくにとd岡崎が記録として残した歌集からひく。(岡崎功『火雲』)

白鳥の如く清けく今死なむ
國の生命(いのち)の終るこの日に

 

古(いにしえ)の 武士(もののふ)のごと 腹切りて
死出の旅路を 手をとり往かむ

 

介錯を頼めど 友は立たざりき
傷つきし吾を 助けむとして

 

現し世に別れむとして君が代を
唱ひ終れば残るものなし

介錯を頼んだ友とは、直接には、県庁焼討を遂行した森脇昭吉か大野火薬店を襲撃した波多野安彦。岡崎が所持し自らを切るのに使ったのは「鎧通し」である。猪瀬の記述をみてみる。

岡崎ら「皇国義勇軍」がNHK放送局立て籠もりから投降する際の条件は、岡崎以外のメンバーの罪を問わないということであった。しかし、手錠もかけられず武器も所持されたままの投降後、松江署での話し合いでこの約束は撤回される。岡崎は「同志に相談させて欲しい」といい、みながいる剣道場にいく。投降が午前9時過ぎ。同志は車座になって昼食を終えた後であっただろうか。緊張がほぐれた18歳から20歳ぐらいの少年たちの顔をみながら、ことにいたる。先の西村の記載とあわせると、岡崎はまず神棚に礼拝し、二十数名が車座となっているところに腰をおろす。

「取り調べを堂々と受けてくれ。釈放されたあかつきには日本の再建のために頑張って欲しい。こういう結果を招いて済まなかった」
というと懐中から、よろい通しを素早く取り出し腹に刺した。腹を切るとき、バリバリと紙を裂くような音がして一度ヘソの上で浮き上がった。岡崎は同じ傷口にもう一度、よろい通しを刺した。特高課長と放送局長はあわてて駆けよろうとしたが、日本刀をつかんだ波多野が目を血走らせて立ち向かう。真っ赤な血が床の上に飛び散っている。岡崎は波多野を制しながら「天皇陛下万歳」と叫び、よろい通しを今度は首筋に突き立ててその場に伏した。(猪瀬直樹「恩赦のいたずら―最後のクーデター」;『天皇の影法師』中公文庫,2012 )

切腹はなく咽喉への突き刺しを「二度までも」と表する西村の記述。腹に立てた刃が浮いたため「二度目」の刃を刺し、その後「天皇陛下万歳」を叫び、喉を切ったとする猪瀬の記述。いずれも「二度」の「刺し」があったことが共通し、さらに重要なのは岡崎本人が所持していた刀でことが行われたことに双方齟齬はない。

猪瀬の実質的には処女作となる「恩赦のいたずら」が『天皇の影法師』に収められ朝日新聞社から刊行されたのは1983年。その数年前から、何か封印が解かれたかのように、続々とこの事件を一項目として記した書が世に出始める。

それ以前。昭和43年(1968年)に元県知事であった山田武雄の回想録には、NHK放送局に立て籠もった岡崎らは「軍と警察で強制武装解除した」と記されている。山田は武装解除なしに署での取り調べならぬ「話し合い」がなされていたことを隠蔽したかったのか?
そうでもあろうし、そうでもないように思える。

戦前の知事は現在の知事とは似て非なる官である。言行とその心理・原理推し量るのは容易ではないことに留意しつつ、山田(元)知事は、事実を知っていた上でと考える。昭和20年の8月24日未明。終戦から10日という日に、NHK松江放送局という場で起こった事実とは《武装警官50名が放送局を包囲し、松江聯隊からもトラックで兵隊がかけつけたために、ついに岡崎ら皇国義勇軍は放送を断念し、県知事に直訴するということで警察に同道することを決定した。武装したままで警察練習所に護送されたのであった》(内藤正中『島根県の百年』1982,山川出版社)

山田にとっては想像の範疇を越える事態、相通ずることのない心情がそこにはあったのではないか。先に引用した内藤の記事は次の文で終わっている。

この事件の特徴は、海軍航空隊や松江聯隊の抗戦派軍人と連絡をとりあい、松江憲兵隊長の了承もとりつけたうえで、皇国義勇軍だけで実行されたものであり、事前に配布したビラや檄文で警察当局もじゅうぶん承知していたはずの『武装決起』が実行されたことにある。そのかぎりからすれば、終戦時において、軍隊や警察が内部にもっていた”感情”が、表明された事件といわなければならない。

つづく

 

斐伊川の記憶、残酷の根源#1

誰もがあたりまえに知っていることが書き起こされることは稀である。書き起こされたとして、人々の目にとまることはさらに稀である。
言うに憚られることも同様。
また、あたりまえの事象は言語化するに困難を抱えている。
以上みっつはよく似ている。
また違った側面、たとえば「あたりまえ」の側、すなわちあたりまえを言語化しようとはつゆも思わぬ側からみれば、あたりまえのことは曖昧模糊とした事象にみえるだろう。それがなにかを知ってはいるのだが。だからこそ、「あたりまえ」であるのだが。ことは言語化しようとする側にとってもそうは変わらないと思われる。知っているというのはみんなが知っているということを知っているというほどのことで、じつは誰も本当に知ってはいないのかもしれない。

そうした「あたりまえ」も、幾星霜か経るうちあたりまえではなくなる。場合によっては、世間の耳目を集める事象へと変貌をとげることもあるだろう。しかし、その正体・実態・正確な姿といった面では、皆目見当もつかないことになっているのだ。南方熊楠は「人柱の話」のなかで、こう語っている。(平凡社の全集第二巻)

《本邦の学者、今度の櫓下の白骨一件などにあうと、すぐ書籍を調べて書籍に見えぬから人柱など全くなかったなどいうが、これは日記に見えぬから、わが子が自分の子でないというに近い。大抵マジナイごとは秘密に行うもので、人に知れるときかぬというのが定則だ。……中略…… こんなことは、篤学の士があまねく遺物や伝説を探って、書籍外より材料を集め研究すべきである》

南方は書籍を事象を記録している媒体として真っ先にあげているが、書籍外ともいえるし書籍ともいえ、書籍同様の確かさをもって存在している紙に記されて残っているものがいくつかある。地図もそのひとつ。地図にしろ航空写真にしろ、読める人と読めない人がいる。伝聞ではあるが、台湾の少数民族の調査でこんなことを聞いた。山岳少数民族出身の大学生も増えてきてわかったことだという。地理や航空写真の分析をやってきた学者でも読み取れないあるいは思ってもみなかったものを、そのマイノリティを出自にもつ学生は見ることができるのだという。当地を訪れたことはなくても、である。自らの故郷であった土地からの類推なのだろうか。地図を読むということについては、断片的ないくつかの逸話を思い出すのが、ここでは割愛する。

ここまでが長い序にあたる。本題は、地図が語るもの。2022年9月にFacebookに投稿した記事への、補足なのだ。すなわち次の一文への補足である。

「斐川の実家諸々整理のためもあり、昔マップをふとみてみるに、大正7年の斐川における新川の存在がにわかに現前し、驚き、しばし黙考。川の姿の記憶は失せようと、なにかが残り続ける。そうしたすべてを失うときに、生命は物に変えるのだなあと、パース=ジェスパー・ホフマイヤーを重ねがら考える」

端的には、新川開削に人柱はたてられたろうか、ということへの答えである。

斐伊川は暴れ川であって、慶長12年(1607)松江開府以降、凄まじいものとして記録からも伺うことができる。件の新川開削は天保2年(1832)からはじまるが、洪水被害の軽減をはかるのが主目的であった。現在まで200年はたってない開削事業は、語り草として家々で語られることもあると聞く。堤をつくるとき、人柱がたてられたという話は、新川より前のものだろう。私は親から聞かされたものだが、「足を引っ張られるから、斐伊川では遊んではいけない」と言われて育ったものだ。だからなのかどうなのか、身近な小川で遊ぶ子どもはいても、斐伊川で遊ぶ子どもはいなかった(と記憶している)。いや、いたし見たりもしたのだが、都会から遊びに来ている人たちで、「バカが!」と言いながら、通り過ぎる大人がいたという記憶はある。そうつぶやいたのは自分の親だったかもしれない。

《熊楠は、民俗学には残酷の感覚が必要である、と考えていた。それはこの学問が、人間的なるものすべての根源に触れていくような、始原学でなければならないからだ。人間的なるもののその根源、その奥底の闘技場では、たえまない残酷が行使され、その残酷の中から、差異の体系としての文化が創出されてくる。民俗学の主題は、近代のあらゆる学問に抗して、その始原の光景を、知の言葉の中に、浮上させてくることにある。近代のあらゆる学問に抗して、と言ったのは、近代の社会とそれをささえるすべての文化装置が、あげて、この始源の光景を隠蔽することから、みずからの存在理由を打ち立てようとしているからであり、民俗学はそれに抗して、近代の言説に亀裂を入れる、本質的に「例外の学問」にならなければならない。南方民俗学は、そのような始源学をめざしていた。》(中沢新一,1992『森のバロック』

中沢新一は南方熊楠の「人柱の話」から「南方民俗学」と自ら名付けたものを見出そう=作り出そうとしている。

〜つづく。

 

 

トロヘイ・ホトホトの現在を追う#1

頓原交流センターでトロヘイの藁馬をつくりながら聞いた話で、山口県地福との交流があるとのこと。頓原の子たちが地福へ行ったり、地福の子たちが頓原に来たりしているのだとか。山口地方で盛んであったことは柳田国男も書いていた(要確認)。なかでも地福は今でもトロヘイ儀礼(地福のトイトイ)を保持しており、国の重要無形民俗文化財指定を受けている。
頓原も申請すれば指定はおりるのだという。が、検討はしているものの「めんどうだ」と。誤解なきよう添えれば、その良否が複雑である意をもたせた言であろうし、私は指定なしでもいいではと思う。大事なのは国のお墨付きを得ることではないし、この来訪神儀礼は外に向いたものではないのだから。指定を受けようとすれば、あるいは受ければ、説明と報告をしなければならない。そういうものではないのだと私は考える。この儀礼については。

さて、本題。

現在、中国地方で確認できるトロヘイと類縁儀礼の現存地区は、広島県口羽、山口県地福、鳥取県日野町菅福(すげふく)の4箇所。これ以外にもあるかもしれず、また近年まで続いていた地区もあるだろう。それらを掘り起こしてみてはどうかということだ。
まずは引っかかったものから続々と。30くらい出揃ったところで、整理の方針をつけていきたい。

少しずつ。

†. 日野町菅福地区のホトホト行事について……鳥取県公文書館

†. 岩手県久慈市のホロロン……(wikipedia)

また、飯南町教育委員会に詳しい方がいると聞いたので、そちらの取材もいずれ。

◆備忘追記

トロヘイに今はなくて、かつてより明瞭にあったもの。そして東北のナマハゲ系、ことにその南端とされる福井のアッポッシャに見られる来訪者=鬼、被差別の民という系譜が今どこにあるのかということが問題となる。
それは、現代、まさにいま現在の「いじめ・差別」の構造をとらえておく必要がある。
まずは中井久夫の「いじめの政治学」を再読のこと。そこから現代の論考をみておくこと。

頓原でトロヘイをつくる#2

頓原交流センターにて、小正月行事トロヘイの藁馬をつくる機会を得たことは、前回少し述べた通り。その時、講師の方から昔はどういうつくりをしていたのかはわからないと。
はてどこかに…あったよう……な、で、あった。勝部正郊の撮影したものを酒井董美が『中国の歳時習俗』(1976,明玄書房)中、島根編のなかに入れたもの。細部は微妙に違うけど、現存する一番古い親馬のつくりに近いのかなと思う。

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ついでに同書にある鳥取県智頭町の記録写真をのせる。
記録用に撮影されたものなのだろうか。お行儀のよさはさておき、蓑笠が浮いて見えるのは、この時点ですでにその装束の意味が薄れ消えていく過程にあることを物語っているようだ。近年、少なくとも2000年代に入ってからの記録をみると、みな雨具を身につけている。蓑笠がかけられる水をよける用としてしかとらえられなくなっていたからだろう。
だがしかし、少なくとも縁側に座している老人の記憶には、蓑笠がまとい続けてきた、人々に与えてきた心象が、残存していたのではないか。そんな空想をめぐらせてくれる一枚の写真である。すなわち、異人・法外者・富・死であると同時に、超越的権能・正義・抵抗者・生を表象した存在。まあ複雑、複雑なんだけれど、「おそれ」がそこにあったことは確か。そう、いくつかの地誌に散見される「こわいものだった」という記録は傍証たりえるやいなや。

次に、少し変わった事例をふたつ。

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岡山県勝田郡奈義町……トロヘンと同じ日に、子どもたちが「今日は嫁さんの尻叩き」といいながら、正月のゴミを集め丸めて縄でくくり、新嫁さんの尻を叩いてまわり、子どもたちはそこで餅をもらう。そうして叩かれると強い子どもを産む。同系のものは梶並にもあり、こちらは多産ということと、小さな鏡餅をもらうのだという。※上掲書より

木次の村方・斐伊……若者が頬被りをして藁馬を「ほとほと」と唱えながら門口の戸をあけて投げ込む。楽しみに用意していた餅や祝儀を馬についた袋に入れる。隠れていた若者は綱をたぐって馬を引き出す。家人は桶か柄杓で水をかける。その家は一年、菜の虫がわかない。餅を牛に喰わせると牛が繁盛する。藁馬は荒神におさめる。古くはトシジイサン(歳神?)に扮した若者が白髪の老神の面をつけ、子どものいる家を訪れ、餅やお年玉を与えたもの。(木次町誌,1972)

1970年代に編まれた史誌記載の民俗は明治40年代から大正年間にあったものが多く、明治30年より前の姿が伺いしれるものは少ない。参考に現山口県錦町向峠のトロヘエについて下記をあげる。若者がやめたのは明治27、28年とあるが、中国山地のほかでもほぼ同時期にやめているところが多いように推察される。明治32年、養蚕の飼育法が安定し、全国くまなく盛んになり、入会地や山畑が桑畑に転換され、日本が世界最大の生糸輸出国になる。また、農村から都市へ若者が出ていくのもこの頃である。
《入口でトロトロというと家のものは餅を一つずつやった。貧しいというほどでなくても老人仲間も夜草履など持って歩いた。老人はたいてい草履を二足出した。若連中がトロヘエをやめたのは明治二十七、八年頃であり、貧しい仲間は明治三四、五年までやっていた。貧しいものは村内の者だけではなく、隣村からも随分来たもので、深須村のある女の如きは大正年代までやって来たという。》
しかし、それでもこの時代には、申年の飢饉の記憶が家々で語られていたことを想い起こしておくべし。

トロヘイの消失は農村から若者が都市へ出ていくことと軌を同じくして進行した事態である以上、その再生復活は民俗行事の保全にとどまらず、農村の再生への足がかりなのだ。だからこそ、ひろくおおくの地域で記録にも残らない復活と頓挫が繰り返されてきたのだろう。

頓原で藁馬をつくる#1

10月28日。午後より頓原交流センターでトロヘイの藁馬づくりを教わる。講師は、現在、張戸地区の小正月行事・トロヘイにおいて、藁馬づくりを子どもたちに教えておられる方だ。最初に公民館長の石川さんから当該地区トロヘイの概要を教えていただく。”生徒”は私含めて3人ほどのプライベートレッスン的なもの。

正直最初は、つくるほうより聞くほうに専念しようかと思っていたくらいだが、やってみていろいろ思うところあった。藁をしつける上手い下手ってあきらかに才能だなあとか。私は下手。だからわかるのだ。たぶん自分が持っている空間認識の欠陥があって、ふつうの人ならふつうにできる藁細工のあることが決定的にできないのだと思われる。

挨拶をしてセンターの玄関を出る際に、これ(藁馬)いいよねえ。かわいいよねえとは女性2人の言。藁草履のほうが実用性もあるしいいじゃないかという趣旨のことを言ってみたら、どうせ使わないのだから、こっちがいいのだと返されたのには、そうなんだと蒙を啓かれた。

私はむしろ、わら草履をつくってみたいと今回思った。そんな時間ができることを願って。

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こちら(上写真)が、講師の先生のお手本。きれいだねえ。私のような初心者は、藁たたきをより入念にしっかりやって水分もしっかりもたせてやること。手がおそいので、やりすぎぐらいにやわらかくないとうまくできないものだ。繊維が切断されてはもともこうもないけど。

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こちらが。いつのものかはわからないけれど、親馬で現存するもの。親馬に袋を結びつけて、子馬といっしょに縁側に置く。親馬は餅やおやつの入った袋といっしょに持ち帰り、子馬はその家に残す。残された子馬は神棚に。かつては厩の棚におかれていたという。

今回、久しぶりにトロヘイの世界にふれて、やっておくべきことを再認識。石見についてもふりかえりつつ、知らなかった山口のそれともくらべてみたい。

日原のといとい

日原聞書のp367 に、といといのことが記されており、そこでは草履と餅を交換する儀礼としてある。要素としてこちら(日原)にないのは「水かけ」と「馬」である。以下に引く。

 といとい

といといの晩(一月一四日)になると子供たちはといといといって餅をもらって廻りました。学校ではあんなことをしてはいけんと先生から止められたが、一四日の日には遊びに行くと今日はといといじゃけえというて、餅を紙に包んでくれる家もありました。餅はどこの家にもありましたが、もらうとこれはわしの餅というて子供はよろこびました。

「もらうとこれはわしの餅というて子供はよろこびました」
日本の餅の本質として、食は共有する慣習が支配的な中、正月の餅だけは個のものであったという柳田国男以来の見立てを証するものがここにもある。
また、その日は遊びに行くだけでも餅をもらったということから、「子どもへの贈与」ということがといといの本質であるともいえよう。これだけではなんともいえないが。

 といといは子供や若い者がしましたが難儀なものは大人でもしました。伊勢十さァは婆さァと二人でおりましたが、とても藁仕事が上手で、草履も上手につくると「伊勢十さァの草履のような」と人がいいよりました。伊勢十さァはといといの日にはおいのこをもって心易い家を廻りました。そしてこれを姉さんにあげてつかあされえなどといって置きました。そうすると米の一升もあげよりました。薄原(畑から一里半)の方からも来て、草履を二、三足も配って廻りました。これにも米の一合も出してやりました。

…つづく

昭和26年12月25日、木次のクリスマス

木次に引越してきて何回目かの年越しと、クリスマスがやってくる。今年も持越しの宿題を棚にあげつつ、手がかりくらいはつかんでおきたいと思う。つかみたいのは、かれこれ75年前のこと、昭和26年の木次のクリスマス、そして年取りとカブについてである。
昭和26年、1951年の12月の歴史的事件。クリスマスを前に、フランスの地方都市ディジョンで、サンタクロースが火炙りの刑に処せられた。C.レヴィストロースの『サンタクロースの秘密』に詳細がある。問題は同じ日に、日本の木次では市長がサンタクロースの衣装と子どもたちへのプレゼントを用意していたこと。C.レヴィストロースの著書を読めばわかるように、ディジョンと木次は、つながっている。そんなこんなを考えながら、年の瀬をなんとか乗り切りたい。

*写真は昭和27年2月刊?の広報きすき(だったかな)。つながり?と首をかしげる方へ。その深淵の入口は、なぜ、ディジョンでも木次でも市長(町長)のサンタなのか、というところでどうでしょう。あるいはマーシャルプラン、サンフランシスコ講和条約。ディジョンの事件では、市長が”復活”したサンタクロースとなってプレゼントを配るのだという新聞記事で論争が終焉したかのようだ。サンフランシスコ講話条約は昭和26年9月8日に締結。もはや知らない人も多いのではないか。が、小さな町でもこの年の話題はこれが筆頭であったのだ。縮刷ではなく、できれば当時の紙で、それを味わってみたいと思うがどこかにあるのだろうか。
占領統治すなわち戦争状態が終わり、日本は主権を回復した。その年の年越しはいかなものであったのだろう。と同時に、市長サンタの政治と子どもたちの夢とみなそれぞれの不安と希望と、なんともいえない渦を感じないだろうか、みなさん。

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予祝とは願いではなく感謝である

すべてはうまくいっている。なんの問題もない。満ち足りた日々。

このような気持ちになることが、予祝というものの本質なのだと、ここ数日で思うようになった。めでたいことなのだ。だから、新年は「おめでとう」なのだ。

新しさ、門出、そうしたものへのめでたさ、あるいは祈りや願いではない。

通説とはまったく異なる解釈であるが、そうなのだ。民俗学では俗信的呪術という言い方をすることが多い予祝。正月に、秋の豊作を模擬的に実演するなど、農耕儀礼としてみられるものが多い。

死んだらどうなるの?#3

西宮一民『上代祭祀と言語』1990,桜楓社を手がかりに。
わたしたちの霊魂に対する考えは、大きな隔たりをお互いに持たない。だからこその「死んだらどうなるの?」なのだ。わたしたちとは、日本人といってもいいのだろうが、なんだろうそう言ってしまっては駄目、というよりは違う気がしてならない。わたしたちという言い方にとどめ、そこから先、何も付け足さない理由、あるいは言い訳である。

西宮が霊魂の定義づけに、現代の通念と違和なく受け取れるものとして第一にあげる『古事類苑』は明治から大正にかけて刊行されたものであるから、宜なるかなと言えるのだが、だからこそ、西欧の生命霊魂感を受けつつのものではなかろうか。

なんとなれば、件の霊魂の義については、「生命」の項にあるのだから。

《生命ハ、邦語之ヲイノチト云ヒ、霊魂ハ、タマ又はタマシヒと云フ、霊魂ハ不滅と信ゼラレ、其人体ニ存在スル間ヲ生ト云ヒ、其出離シタル後ヲ死ト云フ、因テ又霊魂ニ、生霊、死霊ノ別アリ、上古ハ霊魂ヲ分チテ和魂、荒魂、幸魂、希魂ノ四種ト為シ、其人体ヲ遊離センコトヲ恐レテ、為ニ鎮魂、招魂等の法ヲ修セシコトアリ》

(つづく)