ススキとセイタカアワダチソウの棲み分け?

 ススキが群落形成するころとセイタカアワダチソウのそれとは重なるようだ。後者はひところ盛んに目の敵にされていたが、最近ちょっとおとなしい気もする。見慣れたせいだろうか。建設残土を入れたところなどには相変わらず強い生命力ではびこっているようだが。
 群落を形成するものには、他の植物体を排除する物質を出すものが多い。蕎麦もそのひとつで、焼畑初年に蕎麦を播くのには、雑草の侵入をおさえる効果を期待してのものもある(椎葉村聞き書き記録で見聞した)。セイタカアワダチソウはやがて自らの出すその物質が自家中毒的に作用し弱っていくのだというニュースを見たのだが、どれほど信頼できるものかはその作用機序も含めて一度調べてみたい。
 茅葺きのまねごとだけでもしてみたいと、茅(ススキ)が生えているとつい見入ってしまうのだが、昨日こんな風景を見た。

 ススキとセイタカアワダチソウが共存共栄している。どんな関係なのだろう。現在拮抗しつつ、これからススキが黄色い花を駆逐していくのだろうか。

 そして、こちら。茅葺きをしようと目論んでいる小屋の周りをセイタカアワダチソウが取り囲んでいる。写真では見えないかも知れないが、ススキもすこーし混じっているのだ。

 両方とも刈ってしまった。さて、今後どうなるのやら。これまでの経験から、刈り取り後の勢力回復力が強いのはセイタカアワダチソウのほうである。開花時期はススキとほぼ同時期だが、地下茎に蓄えられる力はセイタカのほうが強いのではないか。また、ススキは株立ちだが、セイタカはバラ立ち(なんというのか)のように面積を広げやすい。ただ、環境変化に最終的に強いのは株立ちなのかもなあと思ったり。
 そして、この小屋周辺は種取りや実験的菜園として利用できればと思っているのだが、、、はてさて。
 その生き物がそこにいるのには何か理由があるはずで、それを知りたいのだ、ぼくは。
 竹が邪魔だというので、まず切り倒すというのではないやり方を試行してきたのだが、なかなか伝わりづらいものだなあ。
 この建設残土を入れた場所が牧場となっている。竹がはびこる理由は人間が管理しなくなったからというだけではないと思うのだ。なぜ竹がそこにふえたのか。そんなことを草刈り機をとめて、夕暮れの道をとぼとぼ歩く途中で考えている。わからない。わからないことだらけだ。
 余談。
 荒地に最初に進出するのはオオアレチノギクやヒメアレチノギクで、焼畑(夏焼)の跡地にもこの2つが入り込んでいる。開花は夏から初秋にかけて。一方、ススキもセイタカアワダチソウも晩秋である。ほかの花が咲き終わった後にくる。さて、このふたつともが外来種で明治以降に「来日」したものである。江戸以前の焼畑ではどういう遷移をたどったのだろうかという点が気になる。
 さてさて、建設残土の荒地といえば葛。こちらは在来で利用法も多様。繊維から糸をとったり、若葉を尻拭きにも使い、そして葛根は澱粉をいまでも利用する。葛の葉はまだ元気があるが、気温が10℃を下る日が増えてきて勢いが急速にしぼんでいる。
 荒地にふえる者たちと竹との共通項など、少し整理してみたい。次回!

第13回日本オオサンショウウオの会邑南大会

全国から(邑南町をのぞく県内参加者はおそらく10人未満)約150名が集まった”第13回日本オオサンショウウオの会邑南大会”のレポートは今週末に〜。
10月2日の昼間の部のみ参加して奥出雲町布勢・八代川のオオサンショウウオのことも片隅でアピールしてきました(A1ポスター2枚手作り)。噂にたがわず報告会は大変エキサイティングでして大満足、いや、ホントおすすめしたい、来年は鳥取県南部町で開催です。みなさん是非!

さて、以下は自分用・関心のポイントです。
◉出雲地域の関心の低さは根深い。形成されてきた自然観の違いと社会集団のスケールが関与しているんだろう。
◉中高生と研究者が同じ舞台で発表するなんて「学会」はそうそうないです、素晴らしい! 「大人」の態度もそれぞれでこれまたおもしろいし、いい!
例えば……中学生の発表に対して質問が3つの姿勢でなされました
・大人A)言葉が不適切ではないか。おかしい。説明して。
・大人B)○○だったんだよね。その時こういうところが大事なんです。どうでした? 教えて。
厳しく大人げなくもあるけれど、同じ研究者として対等に接しているAさん。中学生の理解度を考えながら、教育的にやさしく接しつつも、ポイントを引き出そうとしているBさん。
どちらもありでしょうし、両者とも探究心・好奇心・研究心が感じられて、大会への好感度がさらにヒートアップしました。
◉人がバカにならないための環境・頭がまわる、頭を使う環境設定がある。
人口密度と人口の違いがどうやらわからなくなっている人がいて、何度も自分の耳を疑ったのだが、どうやら頭を働かせることを全力で回避するような環境にいると、そうなるのかなと思い。
◉近い将来オオサンショウウオは奥出雲からはいなくなることが見えたので、なけなしの保全活動&調査だけじゃあかんのだろう。
◉江戸期の博物誌などをみると、サンショウウオオオサンショウウオが混同同一視されている。サンショウウオをのぞくと紙に残っている地方名も思いの外少ない。ハンザキ、ハンザケ、アンコウ、ハダカス。食す、飼うなど。食べた人の記憶が残っている間にもうちょいひろっておくべし。
◉タニグクはヒキガエルではなくオオサンショウウオであるとの見解を碩学から頂戴した。土壌の神=スクナヒコナ=農業神とのかかわりの中であたってみたい。

牛の山登りと竹林の役割

 アワとヒエの収穫のために山に向かう日が続いた。毎日数時間。放置し過ぎた焼畑地ゆえ草刈りが半分以上の労力と時間を占める。火入れしなかった防火帯が通り道となるのだが、藪に近づきつつあって、かき分けるのと刈るのとで半日を要したほど。その時の勢いで漆を巻き付けたのか、顔と首がかぶれてしまった。これはまあ軽傷。傷と怪我がいつも絶えない。

 さて、収獲の振り返りはまた別記事にまとめるとして、昨日の発見を。

 この写真である。

 牧場の乳牛があがったあとである。若い牛だ。たぶんあいつだろうと個体も見当がつく。昨年まで、ここの牛たち(といっても恐らく好奇心旺盛な1頭のみ)この写真の手前まではきていた。火入れをこの上のところまでにした理由のひとつでもある。

 なにせ急な斜面だ。何を思って登ったのかをしばし想像してしまった。ずり落ちる速度より早く脚を前へ動かし、転倒のリスクを回避しながら一段上へ身体を移動させる。何度か失敗した跡がみられる。それでもなぜ上へあがろうとしたのだろう。

 好奇心。

 なんだろうな。

 あがった先には一面の蕎麦畑が広がっている。牛の目にはどう映ったのだろう。

 そこで満足したのか、さらに登る意味を感じなかったのか、蕎麦畑に入った形跡は見られなかった。ただ、1週間前にはなかったイノシシの遊び跡が少々。牛が頻繁にくるようになればイノシシも出てこなくなろうし、それが狙いでもある。

 どうやら確かなのは、花が出始めた蕎麦は牛も猪も口をつけないということである。忌避する物質が含有されているのかもしらん。

 ここの乳牛はホルスタイン種である。向かいの山には山岳牛のブラウンスイスが育牛放牧されている。牛舎につながれて育てられたホルスタインは外に出たがらないものだ。その仔牛は外で遊ぶようになり、その仔牛の仔牛になってようやく放牧に慣れる。最低でも3代かかるということに加え、難題はほかにもある。冷涼な気候に適した種であることと平原に適応した身体であること。北海道が適した地であるのだが、それをこの奥出雲の山間地でどう適応させていくか。

 木陰の有無は重要だと思う。落葉広葉樹であれがなおよいが、竹林は夏のいちばんきつい時期、まとまってあると、蒸散効果は高いはずなので、1〜2℃ほど気温をさげてくれるのではと思う。平地であればそう。山の場合、風の通り方にもよる。放牧地は(おそらくかんな流しで)山を削って谷間となった地形である。念頭においておきたいのは、生物多様性を高めるモザイク植生の単位面積がどのくらいだったか。原理と事例をもって確認すべし。

 全体の生態系をどこまで見切っていくか。参照項をあげてみる。

・自然利用の履歴

・周辺の歴史と信仰

・民俗と自然利用の記録

・気温降水量などの記録

・林間放牧研究論文の参照

・竹林の効果について論文参照

・モザイク植生について

 用語など適当すぎるところは後ほど訂正することにして今日はここまで。

 

竹林景観ネットワーク

 昨日は竹林景観ネットワークの研究集会が島根県飯南町中山間地域研究センターで開催されました。(本日はエクスカーションです)レポートは追って!

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 樹冠ネットワークの発表でも話題にあげられました、存続問題に揺れるJR三江線「竹」駅です。

https://www.facebook.com/balanet2/

《発表プログラム》

・後迫辰哉(県立広島大学):中実マダケ竹稈の組織的特徴の解析

・江上浩(住化グリーン株式会社)・久本洋子(東京大学千葉演習林)・鈴木重雄*(立正大学):事前伐採と塩素酸ナトリウム粒剤(クロレートS)全面土壌散布の組み合わせ処理による放置マダケ林の地上部および地下部調査(3年経過時点)

・河合洋人(NPO法人竹人):Google地理空間情報は竹林の健康診断に有効なデータとなるか?

・河本大地(奈良教育大学):茶筌製造業の現状と展望―奈良県生駒市高山町の事例を中心に―

・西政敏(島根県西部農林振興センター):島根県中山間地域研究センターにおける竹に関する研究

・面代真樹(奥出雲山村塾):竹の焼畑里山利用をめぐる枠組みの模索~島根県奥出雲地域におけるNPOの挑戦

・大津裕貴*(鳥取大学)・羽里信和(徳島地域エネルギー)・小池浩一郎(島根大学):そうだ、竹材を売ろう!‐竹材の燃料利用の可能性‐

・國光謙壯*・中村孔紀・小池浩一郎(島根大学):タケヤブヤケタ―仁多郡奥出雲町での孟宗竹林の焼畑

・國井加代子(樹冠ネットワーク):郷蔵普請と竹取のかぐや

・和田譲二(NPO法人緑と水の連絡会議):石見銀山石銀地区での景観整備の取り組み10年

失われた自然の再生とは

「失われた自然の再生とは何か」への回答として、さくらおろち事務局長時代にこたえたものがある。こういうものだ。

 ここにいう「自然の再生」とは、平成15年施行の自然再生推進法に基づき政府が決定した「自然再生基本方針」、ならびに平成24年閣議決定された「生物多様性国家戦略2012-2020」が基本方針とするものと同義である。
 すなわち「自然」は、人や人工物をも含めた生態系のことを指し、「再生」は狭義の「復元」の意味のみならず、修復、創出、保全、維持管理を含む。つまり、ここでの自然再生とは、人間が生態系の構造や機能を左右しうる存在であるという自覚に基づき、後世の人間が持続的に生態系の恵み(財、サービス、文化的価値など)を受け続ける持続可能性の確保に向けて、生態系を管理する行為である。

 そして住民参加について。

また、「住民参加」とは、内発的動機に基づく個人の自発的参加形態を指し、当該業務として実施する学習会へ、案内チラシや様々なインターネットサービスを使っての案内によって情報を得るか、参加経験者からの勧め等によって、その内容・趣旨を知って参加するその形態をいう。

 そして、環境保全活動を進める上での課題として、以下のように回答している。

 当業務を受託する団体の役割として、生物多様性・持続可能性を根幹とした環境活動を推進するうえで、以下のことを明確にすることが課題であると考えている。
生物多様性、②地誌・地理情報、③生態系を特徴づける物理・化学的環境要因、④地域の文化、社会、産業、⑤自然資源の利用に係わる技術について、
現状とその歴史的変遷をあきらかにしたうえで、そららに基づいて、どの範囲に、いつの時代に、どのような理由で、何が失われてきたかを、出来る限り具体的に把握し、目標・課題に反映させること。

 ま、そういうことです。
 時々読み返して反芻・記憶しておくために残しておくのです。
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写真はさくらおろち湖上流部の夏。湖底があらわれている。縄文遺跡もあれば水辺祭祀のあともあった場所。
 

日の出団扇を竹紙で

 今年の竹紙づくりはちょいと青色吐息。今年の漬け込みはなしにしよう。なんといっても場所の確保が難しい。樽の置き場所が。まだ漬けこんだままのものも乾燥させて取り込まねばならぬし、漉き枠をつくることと、竹意外の植物を試すなどをしてみよう、そのぶん。
 そして、団扇に使う紙を竹紙でつくるのをやってみたい。まずは団扇の骨だけは既成のものを使う。。。のであるが、夢は日の出団扇です。

 出雲民芸館で邂逅した金津ちかさんのそれ。無骨な竹の骨なのに優美を感じるのはなぜ。人の手がぐぐーっと入っているその気によるものなのではなかろうか。

今日の雑読断片

 昨日、6月16日のことであるが、書きとどめておくべきことして。
【ダイコン】
魚谷常吉 (著)・平野 雅章 (編)『味覚法楽』 (2003;中公文庫)

ダイコンは日本人の食物として最も広く、かつ多く用いられ、常にその恩恵に預かっているのにもかかわらず、恩に慣れてかあまり珍重がられず、その真価を認められていない傾きがあるのは、不思議といわねばならない。
(中略)
最後に、その料理法の中で特にうまいと思われる二、三について述べると、おろしダイコンをもって第一に推したい。(中略)ただ水で洗い、皮のままおろし金でおろせばよいので、そのとき汁を捨てないだけが条件で、もし水分が多すぎると思う場合にはカツオの粉を加えて加減すれば、食いやすくなり味も優れるのである。なおこれに使うしょうゆは、うま味があるものを用いるのも条件である。ぜいたくにするならば揉みノリなど加えてもよいが、そのうま味を賞するには、おろしたままの汁をしぼらないところへ、しょうゆを適宜加えるだけのものに限るようである。

『風来好日スモールライフ』の久保田昭三さんもダイコンをよく使っておられたのではと記憶する。巻頭の写真の中で畑の小さなダイコンを撮っているのだ。常食は馬鈴薯と大根と屑米と自飼いの鶏の卵であったか。そして、お元気だろうか。一筆したためてみよう。
 ダイコンの民俗については、まだ最低限の整理ができていない。平凡社・世界大百科の項で飯島吉晴はこう記しているので、引っ張っておく。整理したものはひとつ前の記事に加筆する。

大根は,かつて青森県五戸地方で,10人家族でひと冬700本用意したというほど,漬物やかて飯の材料として日常の重要な食糧とされた。一方,大根 は種々の形に細工しやすく,婚礼の宴席に男女の性器を模したものが出され,またその色が神聖感を与えるために,古くから正月の歯固めをはじめ,ハレの日の食品や神供として用いられた。

 追記すると、アエノコトにおいて、ひと組のダイコンを男女に模している再現写真があって、これは興味深い。これは奥能登のこととして後述されてもいる。

また大根は種々の俗信や禁忌を伴っている。種を土用の入りや丑の日に撒くと,葬式用や曲り大根になるといって 嫌う所が多い。また大根畑に七夕飾りの竹や桃の枝をさしておくと虫がつかないという所も多い。東日本では,十日夜(とおかんや)を〈大根の年取り〉といい,この日に餅をつく音やわら鉄砲の音で大根は太るといい,大根の太る音を聞くと死ぬといって大根畑へ行くことや大根を食べるのを禁じている所もある。西日本では10月の亥子に同様の伝承があり,この日に大根畑へいくと大根が腐る,太らない,裂け目ができる,疫病神がつくといい,また大根の太る音や割れる音を聞くと死ぬともいう。このほか,半夏生(はんげしよう),彼岸,社日,夷講などの季節の折り目や収穫祭にも大根畑にいくのを忌む。これは大根が神祭の重要な食品であり,大根畑は霊界に近い神の出現する神聖な場所と見なされていたことを示している。

 北九州では,稲の収穫祭である霜月の丑の日の前日に大黒祭が行われ,二 股大根を箕(み)にのせ,供物をして祭っている。奥能登のアエノコトでも,二股大根を田の神として丁重に扱う風がある。大黒と大根は語音が近いためか,二股大根を〈大黒の嫁御〉といっている地方は多い。また〈違い大根〉は聖天(歓喜天)の紋とされ,この絵馬を聖天にささげ,大根を絶ち,夫婦和合や福利の祈 願を行う。また,大根が聖天の持物とされることもある。


【河内とは】
奥出雲町三沢の河内と四日市の土地の履歴をたどるにあたっての知識として備えておきたく。
大塚 英志 (編) 『柳田国男山人論集成』(2013,角川ソフィア文庫)所収
「山民の生活」(下)

p73
山々の神を本居宣長は、大山祇神であろうとか大山辺の神であろうかというけれども、そうではない。民俗にはただ山の神とのみいいならわして居る。山に向かって入るところに祀るまでの神である。荒神は原野山野の神である。

「山民の生活」(第二回大会席上にて)
p76

「山口」とか「川上」とかいう村は次の時代にはすでに川下に成ってその奥にまた村が出来る。例えば若狭の南河の谷などはほとんど源頭まで民家がありまして、「奥坂本」という村の奥になお数箇の部落があります。我々の祖先はかくのごとき地形を河内(カワチ)と名づけまた入野(イリノ)とも呼びました。「我が恋はまさかも悲し草まくら多胡の入野の奥もまかなし」という万葉の歌などは、入野が盛んに開かれた時代には人を感ぜしめた歌でありましょう。
 入野では三方の山から水が流れますから、……

p88

全国を通じて最も単純でかつ最も由緒を知りにくいのは「荒神」「サイノ神」「山ノ神」であります。仏教でも神道でも相応に理由を付けて我領分へ引き入れようとはしますが。いまだ十分なる根拠はありませぬ。
「山ノ神」は今日でも猟夫が猟に入り木樵が伐木に入り石工が新たに山道を開く際に必ずまず祀る神で、村によってはその持山内に数十の祠がある。思うにこれは山口の神であって、祖先の日本人が自分の占有する土地といまだに占有しぬ土地との境に立てて祀ったものでありましょう。

荒神三宝荒神などといって今は竈の神のように思われておりますが、地方では山神と同じく山野の神で。神道の盛んな出雲国などにも村々にたくさんあります。

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その水はどこからくるのか

 蛇口をひねれば水が出る。ありがたいことだ。感謝の気持ちを忘れようが粗末にしようがそのことの価値は変わらない。水を汲むという大仕事にかかわる時間をほかのことに振り向けることで、いまのわたしたちは、生と社会を営んでいるのだから。

 だが、どうだろう。「蛇口から注ぎ出る水、その水はどこからくるのか」という問いに、はっと立ち止まり、いずまいをたださねばと思う大人の数のへりようは、見えないだけに、そらおろしいものがある。

 ことは水にかぎらない。みずからを、家族を、地域を、国を、飢餓や差別や汚職やありとあらゆる不合理で理不尽なものにまみれながらも、成り立たせているものごとに対する「理解」が、徹底的にかけている人たちがまとめて出現するようになっていると、感じるのである。

 どこかのステージで、それが常識であり正当であるとなったときに、戻ったり、修正したりはできない。。。。わけではない。それができる、ほとんど唯一の手段が活字メディア、「本」であり「雑誌」であるところの「出版」なのである。

 さて、そうした抽象の水ではなく、具象の水たる、この水路の水。島根県雲南市木次町にある尾原農村公園の水路の水である。ときは天平の時代。この水を汲み、なにがしかの容れ物に大事にかかえて、この地から都におわす天皇のもとに、行かんとする男がいた。

 その姿をどう想像したものか。そのときの風景はいかなものであったか。思い描くために、もう少し、書をめぐってみる。

竹の樽あけ

 ドキドキしながらふたをそーとあけると、赤く染まった液体。臭いはきついですが、いやではないかなあ。なれると平気。悪臭とは違うと思います。さてさて、7月初旬ごろにつけた真竹ですが、取り出してみました。水にさらすまえからさらさらとほぐれています。まだ若すぎかなあというものだったので、これは想定内。 image

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 そして、こちら孟宗竹です。トラックの荷台に積んで運び出し、民家裏の小さな竹林に、樽をおいて漬け込んだのは約100日前。今日、樽をあけて、軽く水で洗いました。よくほどけます。流水だけでバラバラになります。よしよし。合格。(鍋に入っていると、ほんと素麺にみえてしょうがない) さて、これから、網に入れて、山水にさらしておきたいのですが、いまに至るも、そんな奇特な場所は見つからず。なくはないのですが、小屋でもいいので、作業ができる屋根のあるところがベター。探しています。
◎水について……今回つくづく思うのは、竹などの材料はいささか遠くにあってもよいが、水(流れる水、きれいな山水)はそばにないと無理。
◎漬けた樽の置き場について……匂いはそれほどじゃありませんので、柿の木でもなんでも日陰ができる木、もしくは庇の下でもOK。

竹紙づくりを萩で教わるの巻〜その1

3月末に山口県萩市に行ってきました。

NHKもよう観んのですが、放映中の時代ドラマの舞台になっているようですね。吉田松陰が毎日通っていたという橋のたもとから400メートルほど離れた川沿いに、その工房はありました。

萩竹紙工房綵雲の西嶋さんから、半日即席講習を受けて、今年は竹紙づくりをはじめます。

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これ、竹の繊維です。まずここまでたどりつければ、半分うまくいったようなもの。

5月〜6月にタケノコから伸びきった若竹を取ってくるところからです。

アルカリ性重曹かなあ)液につけてほぐすのですが、失敗すると腐敗して蛆がわくのだとか。どうすりゃええのか。西嶋さんは風通しのいい屋外で屋根があるところがいいのだと。

「まずはやってみる」というのでもいいのですが、もうちょい調べてみます。