2月16日 奥出雲竹取りの会〜研修会_レジュメ

 まずは当日配布したレジュメをのっけておきます。

【竹林の整え方】

1)安全に楽しく

  ・山の中ではゆっくり動く。

  ・竹林、竹やぶはすべりやすい。

  ・切り稈(株)のささくれ、切断面でのケガ

  ・虫、獣

2)まずは「観察」から

  ・竹の年齢をみる…1年生:タケノコの皮が残っている

           2〜3年生:稈が青々しい、節も白い

           4〜5年生:稈が赤みがかる、節がやや黒い

           6〜8年生:節が黒い、稈が汚れた感じ

  ・ひろがりかたを地上部(稈)と地下部(地下茎)で想像してみる

  ・どこを作業場にするか(竹を置く場所、チップにする場所、焼く場所)

  ・明るさ:太陽光がどの程度地面(林床)に届いているか

  ・稈の太さ、葉の茂り方

   ★拡大侵入防止の基本…①タケノコ蹴飛ばし

               タケノコの出る期間は約2ヶ月。この間に見回り、

               全部!取る→5年程度?でタケノコが出なくなる

              ②溝きり…重機で掘れれば。1メートル深さは必要。

              ③埋設資材…波板など

              ④伐採繰り返し…伐採後、笹状の再生竹が出てくるが、

                      逐一刈るより、冬に初回皆伐、夏に再

                      皆伐がよいらしい。

              ※他の植生帯とは1メートル以上の緩衝地帯を設ける。

              ⑤道をつくる?水路をつくる?……

               踏み固めた道を地下茎は横切れない。水路も同様?

3)季節ごとのイロハ

  ①冬……12月〜2月 ▼稈部(地上部)

            材を利用するのにはよい=水分が少なく腐りにくい。

            →裏をかえせば切り稈も腐りにくい(残ってしまう)。

            1メートル程度の高さで切れば春に水を吸い上げて腐る

            竹炭等にするのにも適期。

            チップにするのにもよい?

            ▼地下茎

            タケノコの芽。

  ②春……3月〜6月 ▼稈部(地上部)

             4月が最も水・養分を吸い上げる=切った後も腐りやすい

            ▼地下茎

             タケノコから若竹(1年生)になるため栄養を消費。

             竹の秋(5〜6月)=落葉の後、葉を茂らせて光合成活発化、

             地下茎に栄養が蓄えられる。

            

  ③夏……7月〜8月 地下茎を弱らせるにはこの時期に稈を刈るというのもあり。

 

  ③秋……9月〜11月 竹は9月に切るのがよい?

            

4)刈り方

  ≪道具と機械≫

  ・チェーンソー……太いものの場合と、玉切りに。

           受け口、追い口で倒すのは普通の木と同じ。

           跳ね返りに気をつける。

  ・刈り払い機……細いものなら。

  ・のこぎり……効率がよいのは、仮枠用(コンパネ切断用)。

  ・ナタ……なくてもよい。枝払い用。

  ・チッパー(樹木粉砕機)

  ①足場の整理……枯れて倒れた竹の整理

  ②作業場、作業道の確保……一部の竹を伐倒

  ③斜面であれば、基本下から上へ帯をつくる(帯状皆伐

  ★1本1本について、どの位置で切りどの方向へ倒すか

【竹チップ余談】

イネ科だけあって、肥料として使うのに稲藁や茅と性質が似たところがある。

1)袋づめにして嫌気発酵……なるべく空気を抜く。

                袋につめて約1ヶ月。浅くすきこんで施用。

2)野積み堆肥とカブトムシ……野積みにすれば発熱堆肥化する。

               熱が下がったあとにカブトムシの幼虫が

3)マルチとして表面施用……土着菌、微生物に食わせる。

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高開の石積み集落訪問

やってきました。徳島県吉野川市美郷町字大神。高開と呼ばれる集落です。

「石積み修復の基礎」をまとめた小冊子も入手しましたよ。徳島大学工学部建設工学科・真田先生より拝受。感謝。集落は4戸を残すのみ。石積みを学びに仲間を募って再来したいです。

今日は眠いので、詳細をまた更新します。

石積みは城郭のそれについては研究も豊富なようですが、棚田などでは論文なども少なく、ようわからんところが多そうです。

・技術はどこから伝えられ、広まって・あるいは伝達や継承をされて、近年まできていたのか。

・時代による変化変遷について

・地域による違い。とりわけ岩の質のよるものに由来するところなど

・どこから運ばれてきたものなのか

かつて(そのおばあちゃんが知る限りでは)は、タバコの葉、麦、蕎麦、を栽培して営みをつづけていたとか。一時期は桑と養蚕が主たる時もあったそうです。

残り4戸のなかの1軒で聞いた話ですと、同じような石積みの集落はそこここにあったが、崩落による全戸離村もあり、ここでも1軒、また1軒と離村が続いてきたのだか。村を出るときには植林をして出たのだそうで、森を徐々に切り開いて生まれた場所が、また森に帰っていくのだと、訪れた大学生がいうのだといいます。

うーむ、いや、素人意見ですが竹林の急拡大が進展している場所もありますし、森ではなく薮が生まれつつあるのです。放棄すれば(豊かな)自然にかえるというものではない。

この場所とこの里とどう付き合っていくのか、姿勢と理念がとわれているのかなあ。

……つづく。

■追記2022/10/01

森でなく藪に戻るだろうという臆見は今読むに恥ずかしい限り。

奥出雲竹取りの会・研修会チラシ完成&益田のコナラ

 やっとできて、昨日輪転機にかけてきました。
 週末日曜日に新聞折込み。
 郵送での案内は本日!です。
 チェーンソーの竹用の刃も購わねば。
 立て込んでいるので、柔軟に振る舞えるよう、腹をすえていきますよ〜。

 それから、田中淳夫氏が益田を訪問されていたようで、ブログに載ってます。
 ・次は竹林ジャーナリスト
 収益がよいのでしょうかね。設備投資への助成・補助率が高ければ、ではありますが、おそらく着目点は、竹の場合、ふつうの木よりも資源を採取する計算が立てやすいはずです。まず、成長が早いため、再生サイクルが短いし、「植林」がいりません。また中空構造なので、運び出しは意外にもローコストですむのかもしれない。軽いのです。ただ、軽いということは容積をくうということでもあります。長距離運搬はコスト的にアウト。里山の麓で加工するのが基本。
 考えるのはおもしろいかもしれませんね。
 ・コナラの旅路
 確かに、益田、というよりは高津川水系の森林は落葉広葉樹が多い。また、比較的若いように見えます。

資料によると、この地域は主伐が多く行われているとあったので、伐採跡地の再造林はどうなっているのか心配だったのだが、雑木林の皆伐なら基本的に放置しても萌芽更新するだろう。むしろ若返りを進める効果があるかもしれない。

 このあたり、また調べておきますわ。
 

2月16日 奥出雲竹取りの会〜研修会へ向けて

 喫緊の研修会である標題のやつも急がねば、なのですが、一方でこれ、人間社会と環境の関係を定位し直す取り組みでもあるのです。いやはや。
 奥出雲竹取りの会では、環境活動を推進する事業として「自然資源の活用にかかわる技術について」調べる必要から民俗学的アプローチも目論むのです。
 課題をいくつかあげておきます。
・竹の焼き畑と出雲蕎麦のルーツについて……白石昭臣氏の著作を中心にいくつかの文献を参照して論点を整理する。(島根の)竹の焼き畑では蕎麦をつくっていたと白石氏は語っています。蕎麦を蒔くと、竹の成長を抑制する効果があるようです。2年目からは畑としない九州山地を北限とする南方の「竹の焼き畑」との相違を明らかにしていきます。
・『竹の焼き畑』を観ての検証……映画『タケヤネの里』の監督・広島在住の青原さとし氏が、竹と人の暮らしにまつわる映像を撮るきっかけとなったのが、『竹の焼畑十島村悪石島のアワヤマ』(2001年/50分/民族文化映像研究所/鹿児島県歴史資料センター黎明館)です。川野和昭氏が企画して、途絶えていた「竹の焼き畑」を再現、民映研がフィルムにおさめているのですが、青原氏はこの時、民映研のひとりとしてフィールドに入り多大な影響を受けたといいます。川野氏と青原氏の対談をセッティングしてみたいものです。
 ※『焼き畑の環境学』「総合地球科学研究所」は要CH。
・「火」を軸にした環境観を……「火」は破壊する文明の象徴として、自然保護、環境活動の中では縁の薄いものでした。水と土と緑と、というグループの中から「火」は仲間はずれにされてきたのです。昭和20年代から30年代にかけて、日本各地で消失していった火を取り扱う技術にせまっていくための道を模索します。
 さて、そろそろ<2月16日 奥出雲竹取りの会〜研修会>の配布チラシをつくります。
 裏面はこんなんです。表はこれから!

2月16日(日)の奥出雲竹取りの会〜実地研修

 2週間後に実施する研修会の時程をやっと作成。

 地元の講師と打合せをしてきました。

 杉との混交地帯を刈るのがいいかもしれません。最初の写真のところ。

 目的は竹(地下茎)の拡大抑止です。すなわち、棹からの栄養吸収を少なくすること、新たな棹の成長をとめること=すなわちタケノコを掘ることと若い棹もとってしまうこと。

 なかなかの急斜面ですが、撮影している地点は平地であり、出しやすいです。

 炭焼きの窯があります。竹炭焼きをやってはという案がありますが、木炭は経験があっても、竹は未経験だとか(今日の打合せで知った)。材を用意しておくだけでもよいとは思いますが、メニューが多すぎて沈没しても困るので、余裕とやる気のバランスをみて、です。

 刈って、チッパー(手前の小屋にある)でチップ・パウダーにしてしまうところまでを主なメニューとします。

 さて、明日は配布・告知用のチラシをつくりますよ。

竹の焼畑についての断片

竹の焼畑について、まず、出雲そば.comで記述を見つけたので引っ張っておきます。

白石昭臣氏のコメントの中に出現します。

①学者の中には竹の焼畑などできはしないだろうと否定する人もいますが、今でも経験者がおられます。東日本のような大がかりな焼畑ではなく竹薮を焼くとか、雑木や草むらを焼くというブッシュフォロー型のやり方です。

ちょっと、4者の会談の中での脈絡が読めないところがあるのですが、竹の焼畑も含めた島根での焼畑についての言葉だろうなあというのが次。

②昭和25年の記録で、島根県では106町歩の焼畑をやっています。石見地方が中心です。その焼畑で作ったのはそばですね。

この後、荒木英之氏、中田敬三氏とのやり取りがなされる。

荒木 孟宗竹はどっちかというと沿岸部が多いのです。それと竹と木とでは地下茎が違います。竹はほとんど表面だけだから焼いて畑にするのは楽です。木の生えている林だったら根が深くてそういうわけにはいきません。

白石 土用の後に切って盆明けに燃やすとよく乾燥して油がありばちばちと非常によく燃えて、類焼を気遣うくらいです。そこで作ったそばは貢納の義務がありません。

焼く時は数人で焼きます。そしてとれたものは、「もやい」といって皆で分配します。これは記録に残りません。だから記録に残らないそばの文化がずい分あるのではないかと思います。

中田 もやいですか、「ゆい」から来ていますね。

白石 雑木や竹の山に道切りをして火を入れます。多くて四、五人、家族だけという所もあります。私の知っている方で今68才の経験者がおられます。隠岐では焼畑のことを「あらけ」、あるいは「あらあけ」と言います。ここではそばも作っていました。しかし牧畑では麦が中心です。この牧畑は「あらけ」から生まれたものです。牧畑は、ほんの形だけですが隠に残っています。これは貴重だと思います。隠岐だけでなく中国山地のいたる所でやっていた栽培形式です。輪転式で、中心は粟山、麦山です。ローテーションがありまして、土地を分けて栽培するとか、組み合わせてやっています。かっては共有地だったのでしょう。

白石昭臣氏には大河書房から2005年に刊行された「竹の民俗誌 」もあって、一読はしたものの、まとまりに欠けた印象が強い。資料として確保しておきたいのですが、絶版ゆえなにぶん高値です。島根立図書館で読めるので、再読して確かめます。

つらつらと調べる中で、竹の焼畑については、川野和昭氏のいくつかの論攷を確かめるべきと認識しました。竹の焼畑の再現と記録を企画・実行しているのです。それが『竹の焼畑-十島村悪石島のアワヤマ』(2001年/50分/民族文化映像研究所/鹿児島県歴史資料センター黎明館)。このドキュメンタリーの撮影に携わったのが、知人であり、「タケヤネの里」を上映したいと話していた広島在住の青原さとし氏なのですよ。なんと。

さて、川野氏の小論ですが、ウェブに転がっているものですと、<竹の焼畑〜森を食べ森を育てる持続可能な農耕〜>があります。
要点を整理してみます。

1)焼き畑地として、木だけの山よりも竹の山を意識的に選択する「竹の焼き畑」を伝承する地域がある。九州山地を北限、高知県の椿山にわずかな痕跡が確認。

具体的には鹿児島県のトカラ列島、三島村、大隅半島東海岸、さらに熊本県五木村泉村(五家荘)、宮崎県の米良地域、椎葉村……である。

…とあるのですが、白石昭臣氏によれば山陰でも「竹の焼き畑」があったといいます。出雲の蕎麦栽培とも関連している。

これは、確かめる価値があります。県立図書館へ赴く前に、川野氏の小論の整理を続けます。

2)東南アジアにも「竹の焼き畑」はある。

3)日本でもアジアでも「竹の焼き畑」の共通点は、竹の再生力の強さと「半栽培的」な採集畑としての利用である。

竹の再生力の強さというのは、焼いた翌年にはタケノコがとれ、10年たてば元の竹の山に戻り、火入れが可能となるという点。日本の雑木の焼き畑が20〜30年で元の森に戻り、また焼くというサイクルよりも循環が短い。

次の「半栽培的」というのは、ちょっとわかりにくい。

畑としての利用は1年から2年で終えて、あとは山菜や筍を採取する「里山」的利用が続くということだろうか。

3)鹿児島県十島村悪石島では、タケ(琉球寒山竹)の山を伐って焼いて、粳粟を栽培するアワヤマ(粟山)と呼ぶ竹の焼畑を、昭和30年代まで行っていた。

1年目はアワヤマ

1年経てば竹の子畑

3年経てば元の(竹)山

10年すればまたアワヤマ

と語るように、粟は1年だけ作る。

その跡地では翌年からタケノコが取れるようになり、10年経ったら山が再生するので再び伐る。

4)九州山地の「竹の焼き畑」では、木の山の焼畑との比較がさらに際立つ。

・「タカヤボ」、「タカコバ」、「スズコバ」、「タッコーラ」という呼称。

・稗、粟、蕎麦などを栽培。特に稗は「タッコーラビエ」と呼び、一番美味しい稗であると語られる。

・伐る作業が木よりも簡便

・木の山の2倍深く焼けて雑草が出にくい

・竹の灰が天然の肥料となる

・根が張り表土が流れにくい

・出来た作物が美味しい

・地力の復元(森の再生)は10年ぐらいで木の山よりはるかに早い

5)九州山地でも悪石島同様に、アラシ(焼跡地)に出てくるタケノコを食料として利用する。それ以外にも、茶、ドジン(ヤマウド)、タラノメ、ゼンマイ、ワラビ、サド(イタドリ)など豊かな採集場となる。特に、干し竹の子とお茶は重要な換金作物となる。

写真は2〜3枚ほどしかウェブでは見ることかないませんが、刈った竹は斜面に対して水平に並べて置き、火を上から入れています。……もっと詳しく見たいものです。目指せ「焼き畑倶楽部」。

■追記2022/10/01

・出雲そば.comはリンクが切れてしまった。ただ記事の内容そのものは冊子になっているが書名失念。島根県立図書館で蔵していると思う。

・竹の再生力の強さに関して。焼いた翌年にはタケノコがとれるのは、全面皆伐しなければの場合であろう。

竹の家……Bamboo House

 竹の建築について、いくつか調べてみた。ネットで漁る程度であるので、ほんの備忘であり、近いうちにもうちょい突っ込んでみたい。たとえば、その強度・耐久性と、コスト(主として労力)について。
 まずひとつめは、陶器浩一氏(滋賀県立大)の一連の建築。2012年度の日本建築大賞を受賞した「竹の会所」。(写真は、わわプロジェクトから)

 2013年度は滋賀県でプロジェクトを進めていらっしゃって(菩提寺まちづくり協議会)、今度は第5回建築コンクール大賞を受賞された。滋賀、京都、名竹林にブランド筍の産地復興を目指す地でもあって、見学してみたい。

 意匠の魅力は誘惑し人を行動へと駆り立てる大きな力だとは思うのだけど、実用的で無骨な感のある「首都大学東京+青木茂建築工房」によるBamboo Houseは、サイズや仕様を洗練させて汎用性を高めていけそうだ。
 竹による屋外テント、農業用ビニールハウス、可能性は高い。
 そして、完成度という点ではやはり、こちら。
 竹でつくられた世界最大の建造物がインドネシア・バリ島にある。

 グリーンヴィレッジと名付けられたその「場所」は、シュタイナー教育に基づいた学習コミュニティであり、「自然と人との共生」を柱とし、「会社」「学校」「図書館」「食堂」「寄宿舎」「ゲストハウス」からなるらしいです。
 ONE PROJECTの記事(写真もONE PROJECTより)で知ったのですが、これはやはり一度は行かねばなのでしょうか、バリ島。

 開放的な南方建築とは、とても相性がよいのだなあ。
 

冬の竹もきれいだよ

ここのところ、「竹林整備活用事業」について学習会などを実施している関係上、竹をみるとつい近づいて観察してしまう。今日は、奥出雲のとある山にちょっとわけいってみた。

雑木林に竹が侵入しているのだが、ある程度は間伐してあって、きれいだ。特に雪の白に青い竹は映える。

昨今、繁茂する竹を目の敵にしたような口ぶりを、とくに環境教育に携わる方々が多くするものだから、「竹やぶ=悪=駆除すべきもの」という洗脳が進行しているようで、憂慮している。今日もある環境アンケートをまとめていて、そう思った。しかし、10人に0.5人か1人は、空気に惑わされない人がいるものかもしれない。竹が侵入しはじめているとある場所への景観アンケートがある。その地点で案内者が、件のように竹を困った存在として説明したものだから、アンケートは「刈ってしまえ」のオンパレード。その中にあって、「竹は部分的には残してもよい。風にそよぐ感じがよいので、バランスがとれればよい」という一文があって、涼風が吹き抜ける爽やかさを感じた。

「困った」「大変」という立場でなく、竹の声を聴き、どう付き合っていくのかという、そんな立ち方、振る舞い方、ものの言い方を、ひろげていきたいものだ。

道の過去と未来

 2013年12月7日にこの記事をテストとして記した。

 川の道、山の道、鉄の道。

 これら、すべて、今、人が省みなくなっている「道」なのである。

 鉄の道については、とくにここ奥出雲の歴史にかかわるところ大ではあるが、他の日本の村においても見落としがちな道である。

 

ホースセラピー

 

 上の記事から7年後の2017年12月18日に追記する。

 このときに抱いた思いはいまでも変わらない。

 忘れられた道の痕跡はいまでも、手をのばせば届く過去を生きた人の記憶に残っている。

 牛の道、峠、塞ノ神、馬頭観音……。

 あと少し。あと少し。