雪の下から芋を掘る。
一般的には遅いのだろう。サツマイモはもちろん里芋だってもとは南国の芋なのだから、零下の気温ではたちまちにだめになる。が、しかし、だ。菊芋は雪の下のをとってくるものだと不確かながら聞いたことがある。そういう芋なのだと。
ならば、まさにいまが旬。
ここ数日、雪も溶けてきた山の畑でためしに掘り上げてきた。
感触はかなりいい。食べての報告はまた。

人間が放置した土地。いま、そこやあそこ、かしこで、当然という顔をして普通にみられる大地の断片。小さな裂目のような場所から自然による「奪還」がはじまる。
はじまりの場所は「荒廃地」と呼ばれ、人をますます寄せ付けず、荒廃の勢いはます。 さて、そうした場所でこそ、人間が「切札」(なんの?)になるのだと言っていた庭師の言葉を思い出しながら、蔓のからまった小さな雑木山に入る。下層は背丈以上もある笹におおわれ、これまた放置された杉の植林地がわずかに笹の侵入をとめているほかは、荒れた森である。
秋から少しずつ伐開をはじめた。その日は、笹のヤブをこいで(迷いながら)森を寸断する塗装の道にでた。
頭上で巨大な蔦のからまった樹林は、見た目にも実際(落下、倒木)にも恐ろしい。が、こんな太い蔦が豊富にとれる時代は数百年ぶりではないのだろうかと思いいたった。 この蔦、なにかに使えないのだろうか。直径10センチをこえるような大物も見たことがある。キヅタ。春にかけて荒れた雑木山からそれなりにとっていくのだが、燃やしてしまうのは惜しい、気がして、まずは小さなものを座右に。

5月17日の妻のつぶやきからひろう。
ダムの見える牧場の山の畑を耕しに。
たかきびを撒く。
牛は今日はのんびり。

そう。5月17日に蒔いたのだった。孟宗竹の地下茎が残っていて、再生竹を毎年ほそぼそと出していたところである。根は分解過程にあり、土はところどころふかふかなれど、茎はがっしりと張っているので、掘り起こすのには難儀した。
写真右手の切れ目から2mくらい先に昨年は同じくタカキビを植えている。土も日当たりも良好でよく育ったので、今年は同じようにここでということ。昨年もそうだったのが、竹の根が分解過程にあり、土がしまっていないので、タカキビはすぐに傾く。そしてもうひとつ、草のほうが強く、負けてしまうので、除草必須だろうということ。
まして、昨年より20日ばかり早く蒔いているので、草が先行して丈をのばし、それにうもれるようにしてタカキビがあった。草を抜くときにいっしょにぬけてしまったりで、いろいろ試行錯誤しながら、ようやくにして8月2日の姿がこんな具合。

夏本番にどこまで成長できるか。見守っていくのであるが、どこかで土寄せしないと後半の雨風で倒れる。いま生えている草はおそらくいっしょに。
そして8月16日。出穂。


8月23日になり、ほっと一息。

9月12日。そろそろ収穫をはじめようと思っていた。

そして、9月16日を迎える。

ほかにも、いろいろ。
「今日は山へは行かれますか」
「いやあ行けません。倒れますわ」
と、言ってはみるものの、じつは行っている。山というと、眺めのよい景色のある登山でのぼるような山をみなさん、イメージされるようだ。が、山もいろいろ。標高250〜400mくらいのところでも、少し中に入ってしまえば、猛暑日でもすずしいものだ。たいがい。標高600m超の山を背後にもつところや、水を保持しているような水源の山の水脈があるところ、などが条件だろうと思う。
昨日も、この林のなかで、古竹や倒れかけた杉を片付けたりしたりしていた。時刻は11時から13時ごろ。外の気温は35℃前後だったが、汗だくにまではならない。ここは林縁に近く、ふつうは涼しくはないのだが、この竹林のおかげだろうか。そして水源地からの水脈がこの下を通っているはずで、そうしたことも大きいのだと思う。荒れてはいるが、気持ちよさがある場所だ。
そして、この竹林が果てるところに咲いていて、気になっていた、ジャスミンの香りがする木の花。調べてみると、クサギの花だ。木の野菜としてかつては食されていたらしい。佃煮がうまいともある。木の実は青の染料になる。媒染剤なしでも染まるのだとか。秋に春にためしてみたい。
出雲国産物帳でみてみれば、おそらく「山ウツギ」がクサギに相当する。なぜ山のウツギと呼ばれていたのか。境界木としての徴をおびていたのか。気になることいろいろ。なにごとも、少しゆとりをもってすすめると、風景の映り方が豊かになるものだな。







◆数日前に、奥出雲のいくつかの「山」をみてまわりました。参加者の多くは自分で自分の山を手入れしているきこりさんたちだったのですが、みなさんの心を強くひきつけていたたのは、見ても入っても心地のよい、美しい森ではなく、見捨てられ荒れ果てて見える森でした。ここ数日、そのことをつらつらと考えるに、ふたりの言葉を思い出しながら反芻しています。
◆ひとりは徳島の林家、橋本光治さんがレクチャーの中でおっしゃっていたこと。
「間伐も枝打ちもしないで放棄されたこういう山ですけど、まんざら悪いものじゃないんです」
「(師匠に教えを求めたときに)道をつけるのは、この葉っぱを見習えといわれました。葉脈があるでしょ、ここから学べといわれ最初、途方にくれました」
「(仕事を息子を任せるときに、好きなようにやれと、ただしひとつだけ守れと言ったことがあります)。(山に)道をつけるときには、虫一匹殺すな」
◆もうひとりは、フランスの作庭家、ジル・クレマン。
「(この庭の植栽は)虫から教わるのです。虫は弱い存在です。だから、植物と動物との間にたっている」
「荒れ地。それは閃く秩序の美的なうつろいであり、時間のかけらを照らす束の間の出会いなのだ」
「人間がそう感じるのとは逆に、荒れ地は滅びゆくこととは無縁であり、生物はそれぞれの場所で一心不乱に生みだし続けていく。荒れ地を散策していると、たえずものごとを考え直さないといけなくなる。なぜならそこではあらゆることが起こり、もっとも大胆な推測でさえも覆されてしまうから」
オリゼの庭も、森と畑と牛との森も、そこに命を吹き込む生物の流れに、人として入り込み方向づけることを狙いとしているのですが……。はてさて。

Amaranthus cruentus
草刈りはそのときどきで、少しずつやっています。飲んで終電で帰るなんて何年ぶりだろう。しかもこれが人生最後、かもしれないなと思い記念に撮影。
あと30分ばかりは残っていたビアガーデンの宴席を辞し、急ぎ足で橋を渡り、歩道を横切って無人の駅の改札を抜ける。ちょうど一両編成のディーゼル車がホームに入ってきた。ドアが開き、整理券を抜き取って席につく。ほかの乗客はいない。その木次線出雲三成駅から終着である木次駅まで所要35分。
乗車してから、人が乗り込むことも降りることもなく、窓の外は深い闇。意識はさえてきて酔いが遠のいていく。下久野から日登の区間は時折、窓ガラスに木の枝がこすれていく「ざざーっ」という音が、現実の安心感すら与えてくれる。20時50分、終着であった駅につくと、車掌が運転席から出てきた。あぁ人はいたのだ。運賃をその場で渡して、ホームに出ると、そこにも駅にも人影はない。駅前には一台のタクシーのなかで運転手がなにやら見ている姿が見えたが、ほかに人の姿はない。下りの最終便を待っているのだろうか。そこから歩いて家に帰ってきたのだった。
さて、闇の中を通り抜けた帰路と違って行路は夕刻であり、車両も2両編成で、数名の乗客があった。そして車窓からはいつもと違う風景がのぞめて新鮮であった。気づいたことなどいくつか記しておきたい。
下久野に2軒ほどかぶせものをしていない「生の」茅葺き民家が見えた。驚いた。どちらもよい状態には見えなかったが、あぁ、すぐでにも降りて訪ねてみたい衝動にかられる。訪ねてどうなるというものでもことでもないのだが。
夕刻ということもあるのか、線路脇の道にたつ親子が、楽しげに列車を眺めている姿をみた。なんと言っているのだろう、母の口が動くのが見える。そして列車に、すなわちこちらに向かって笑顔で手を振っている。
鉄道というものの本質がその向こうに見えるような気がしてならない。車が走る道路とは違うなにか、なのだ。その何かについて、また思いついたことを記していきたい。
お米をいただいている奥湯谷の農家から、昨秋収穫ぶん最後の一俵をいただいての帰路でした。おそらく江戸の昔から道幅の変わっていない上阿井の八幡神社の前の通りをすぎて、国道に入る少し手前。路傍に小さな石、といっても一抱えはあるやや丸みをおびたその表に文字が見えました。「右云々、左云々」とあり、車を停めて確かめようと思いながら、薄暮のなか小雨でもあり、ゆるめたアクセルを再び戻し、後ろ髪をするりと梳かしたつもりでした。
それからというもの、道というものが気にかかって仕方がありません。
あの、古い道しるべは、なぜ、あそこに残り続けているのだろう。道路工事にあえば、たちまちにどかせられ、文化財でも神仏でもないために、その石が残ることもないのでしょう。同じように、ひとびとの記憶というものも失せてしまうのでしょうが、ただ、ひとつ言えることがあります。私たちの時代にも道しるべはあって、その多くは国家あるいはその中央集権機構の出先機関としての各自治体の管理下にあり、規格統一化されたそれとして、あるのです。そして考えてみれば興味深いことに、それはすべて車のためにある標識なのです。
私がその日みた道しるべは、日本全国どこでも同じような形態をしていたのでしょうが、それらは幕府や各藩が管理して整えたものだとは考えにくいのです。彼らは領土を点でおさえることにその本義があるようで、関所、宿場、一里塚など、動かない点を動かぬように置くことがそれら機構が共有する思考空間の特質でしょう。少なくとも近世以降の権力機構はそうでしょうし、動きまわるものを自家に抱えていたそれ以前のマイナーな力とは性質を異にするものです。動くものは山のものです。山は動きませんが、山の線はつねに変化し続ける。中世山城が「山」に展開したのに対し、近世は平地に降りてくる、と同時に山を敵視し排除することで成立したものでもある以上、動かぬもの、均質フラットで不動のもの、すなわち点こそが重要であって、線はあくまで点の集合に過ぎないのです。
話は飛びますし、わかりにくいのですが、道しるべ、石に記されたそれは、点ではなく線なのです。分岐をあらわしているから。そして、道の上でもなく、だれかが所有管理する地面の上にあるのでもない、境界上に置かれている、ように見えるから。また、それを「よむ」のは旅の人間であり、「役人」ではあり得ない。なにより、迷い・不安に対する安堵あるいは信頼の気持ちが、その石にいまだ念としてこもっているようで、そこに心ひかれる私の気持ちがあるのです。
それは妄想だろうと。妄想が願望や不安をその生成動因とするのならば、そうしたものはあまり認められないようにも思うのです。ざっと二百年ばかり前の、旅の人間となりかわって、その石の前に立つ自分を仮想してみるための材料を史実その他から集めてみたいものです。
話をもとに戻します。その道しるべ、だれが置いたものでしょう?
これまでいくつか見たそれは寺社の近くにあるものでしたから、その関係ではないかと思います。
今回は、平凡社世界大百科事典の「道しるべ」の項に胡桃沢 勘司が述べたものをひいて、ひとまずしめます。
《日本における道しるべの起源は明確ではないが,現存する遺物の大半は近世,さらには近代以降に設けられたものである。石製のものが多いが,木製のものもある。石製の場合,道しるべとして造られたもののほかに,庚申(こうしん)塔,道祖神,石地蔵,石灯籠,常夜灯等,石神・石仏などの石造物にこれを兼ねさせたものも見られる。前者の設置には為政者が関与することがあるが,後者は民衆が自らの意志で設けたものがほとんどである。旅の安全を願う庶民の素朴な信仰心が,これら石造物のなかにこめられていると言ってよい》

雨が続いたこともあり、しばらく山の畑へ出向けなかったのだが、合間をみて少しでもと夕刻に向かう。里芋は草に埋もれつつあるものもいて、この際、草刈。この草、なんという草なのかすきまなくびっしりと生えており、土もつくってくれそうなので、残す方向で。

大豆は虫に少々食われているものの、まずまずの生育ぶり。もともとこの区画は痩せておるのか草も少なく丈も低い。トウモロコシはじめ穀物は育たんかったので、大豆ならと、少しだけ耕起しての挑戦。

大豆のそばにはヒメホコリタケがぽつぽつと。

ヘミツルアズキは柵のそばに。柵にまとわりついてくれればよいのですが。

カボチャ(かちわり)は草に負けそうで負けてない。少々手助けはしないと実を太らせてはくれないので、草をどかした。

アマランサスが草に埋もれていたのでえこひいきしてみた。種を蒔いたつもりはないので、靴について運ばれたのか、ほかのなにかにたまたま混ざっていたのか。今年は山ではつくれずに終わるのかと思っていたので、少しうれしい。

タカキビ、初期成長がよくなかっのがようやくここまで。やや遅い。しかもこれ、間引くか何かしないと。次回にまわすことにして草刈りを少々。
◆白大豆を蒔きながら
6月21日の山の畑、白大豆を蒔きながら、思い出す。
昨年の山の菜園場でのこと。白大豆をまいたまわりには、トウモロコシやタカキビを蒔いたが、まったく成長しなかった。ナスもそうだった。もともと土壌がやわらかだったところに蒔いたタカキビが数本だけ、なんとか上出来の収穫だったほかは、まったくといっていいほどの出来だったのだ。
大豆だけがよかった、その昨年の記憶が、こうして大豆を今年、まかせている。
昨年は、最後の最後でタヌキかだれかに半分弱ほどを食われてしまった。今年はどうするか、まず畑地と藪との距離を広げておくことがひとつ。草も夏の終りには刈っておく。そして、収穫の前に一度外側なりで消炭でもつくって、焼けた匂いを漂わせておくか。草を焼いて燻された匂いを残すようにするのも、あるいはよいかもしれない。
一方で、まったく駄目かもしれない、そんなことも思いつつ、だ。
そう、これから夏本番を迎えるにあたって、こうした天然農場は、まさに土づくりのシーズン。いかに草に仕事をしてもらうか、考えておこう。
外から持ち込むのは米ぬか、そして、今年は購入した油かすを少々。稲わらはないので、茅で代用か。
それにしても、なぜ大豆なのか、だね。
※7/3追記…白大豆は半分ほどが発芽していた。10日で半分か。
◆6月12日の消炭づくり
