万延元年夏、そして万延2年春、匹見で起きた椎茸山騒動

中村克哉は、著書『シイタケ栽培の史的研究』(1983,東宣出版)の中で、天保12年(1841)に起きた人吉藩の茸山一揆を取り上げている。一揆研究の中ではよくとりげられるものであるとして。

その諸研究も史実が語る一揆、主として政治-藩政史が主題であって、当時にあっての「椎茸」をめぐる諸関係が詳細に検討されているわけではなさそうだ。もちろん個々の研究にあたっての考量ではない。あて推量である

人吉藩における椎茸山は、天保年間からはじまったものであろうか、早い段階から専買制がしかれていたというが、初源については精査を要する。ここでは一揆の要因としてみる。制度たるものの宿痾として、時がたつにつれ整合性—秩序形成力—諸主体の均衡を欠いていく。制度は硬直していなければ制度足り得ず、硬直は内的矛盾—不均衡を拡大していく。制度は外部と内部を作り出すことで安定した(硬直でもある)運動をはじめることができるのだが、安定した運動がスケールの拡大を容易にし制度として機能を発揮すればするほどに、内的矛盾の拡大は進む。矛盾の抑制あるいは調整に失敗すれば、均衡は崩れはじめ、制度そのものの崩壊をもたらす。

崩壊—最初の襲撃(打ち崩し)は、椎茸問屋横田辰右衛門の邸であった。専買制にかかわる不正疑惑と過剰な搾取を容易に物語るようではあるが、そうそう簡単なものではあるまい。まず、その背景に天保年間前後より全国各地で進展していたインフレがあることをおさえておかねばなるまい。幕府各藩とともに経済統制をもってこれに対処しようとして失敗する。幕府によるものは問屋組合・仲間の解散によりインフレをおさえようとしたが、元来問屋が担っていた市場調整機能を単に破壊しただけとなり、逆に大きな混乱を招いた。そうした考察は多々なされている。

さて、私がそうした背景も踏まえつつ注目したいのは、農民の心理であり、山稼ぎあるいは山の民との間で生じている摩擦・葛藤である。

一揆の主体は稲作農民であり、その訴えのなかには、出稼ぎにきている茸作(ナバツクリ)が、雨をもたらし、不作を生じさせるということがあったと、文書に記録されている。

以下は中村克哉『シイタケ栽培の史的研究』よりそのままひくが、この箇所について中村は複数の史料からひいたものと思われる。詳細は追々確かめていきたい。

《人吉藩の茸山は球磨郡の鹿蔵山でかなりの規模で行われ、乾燥小屋なども各地に散在していた。茸山では秋になるとほだ木を浸水して、水から出す時に「ナバよでろ、でろ。稲はナバになれ。豆もナバになれ」といったような意味の歌をはやしながらほだ木をたたいて作業をしたものだ。シイタケの発生には雨が多いほうがよい。(中略)「茸山では盛んに雨乞いをする。そのためによく雨が降る。夏の気温が上がらない。人吉藩内の凶作は藩の茸山が元だ」という妄想が生じはじめた。水に浸けたほだ木を出す時に「米の精よナバになれ」「ソバの精もナバになれ」などと景気をつけていたことも一般農民の反感をあおり、一揆の原因をなした》

ここで着目したいことがふたつある。

ひとつは、「不作の原因は茸山で雨乞いをするからだ」というような妄想が、他の地でも見られたかどうか。全国各地であたってみたい。中村によれば、豊後にひとつあったようだが、一揆研究でとりあげられることはないという。

そして、匹見(現島根県益田市匹見町)にも、安政年間から幕末にかけてそうした事態が生じているのである。一揆には至らない不穏として記録されているものだ。矢富熊一郎『石見匹見町史』から。

万延元年の夏、西村の農民一同が椎茸の製造は、湿気を必要とするため、雨天を祈って栽培をするのであるから、農作に支障を起こすものである、との見解から、その栽培者を放逐しようと企て、大勢が集会し一揆徒党がましい振舞いに出たが事は平和に落着した》

しかしことはこれで収まらなかった。西村の農民が敵視していた豊後の茸師(ナバツクリ)集団は小原のハビ山、七村、三葛一帯の山に入っていたものと思われる。西村の南方にあたる山々だ。この頃、匹見の山に入り込んでいた茸師(ナバツクリ)集団は、多数にのぼり、農民の不安・不満は暴発寸前だったのだ。豊後の茸師は晩秋に小屋番を残して一旦帰郷する。そして春ふたたびやってくる。

その春は万延二年のこと。浜田藩の詰所(代官出張所)のあった澄川村の農民が他の村を巻き込みながら、道谷村へ押し寄せた。二月五日(新暦で3月中旬か)のこと。席旗・竹槍を携え、山に点在する小屋を焼き討ちに入ろうとしていた。その理は、近来組内の奥筋(匹見の山々に)へ、他国人が多数入りこみ、椎茸山や伐木の駄賃等に従事しておるので「穀類高直ニ相成、及難儀」、このままでは村一同飢餓に陥ると。これに驚いた東村庄屋斎藤六左衛門と、西村庄屋本多万右衛門の両人は、早速飛脚を組内の各庄屋へ走らる一方、各村々から集まりつつあった一同を道谷村に集合させ、懇懇と慰撫に努め事なき不穏として収まったという。※1)該当箇所

残っている記録は断片的であるのみならず、何か大事なものが欠けているようだ。

・安政年間中に、匹見町広瀬で豊後の茸師が椎茸栽培を開始(大谷道太,藤谷一夢「広瀬物語」1984)

・浜田藩、河鮨景岡、42歳で御用人になる。藩の財政改革に着手。シイタケについては、横道での成功を知り、茸師を招き、栽培を奨励し、藩政たてなおしにつとめた(メモにつき出所確認中)※2

一次史料を欠くものではあるが、問題は「茸師を招き」にある。藩が雇うわけではない。財政改革中にそれはしないであろうし、同時代の他藩の例をみても、いわば委託方式である。いずれにせよ本当に「招いた」のだとしたら、農民にとっての山の用益権・既得権を無視した暴挙となったであろうことは想像に難くない。つまり、農民たちの矛先が向かっていたのは藩政に対してのものであったろうということだ。

この時代の匹見における御立山(官林)の所在は不明である。旧広見河内の西部に位置する赤岩がそうであることは知られるが、ほか数カ所あったはずである。御立山の用益ではなく、村の共有林をめぐるものであれば、当然村がよしとしない限りは、その借上はできない理屈である。が、藩からの指示でそれが無理にでも動いたのであれば、大きな摩擦が起きたであろう。もちろん相応以上の対価は払われたであろう。が、その対価ではいかんともしがたい。幕末のインフレが襲ってきた。共有林では焼畑での雑穀栽培が地域の貴重な糧であった。その資源を奪われ、対価は受取ったものの、それでは口に糊できないとなれば、「穀類高直ニ相成、及難儀」となる。以上はあくまで作業仮説である。これからさらに詰めていく。

そして、もうひとつの着目点。

《ナバよでろ、でろ。稲はナバになれ。豆もナバになれ」といったような意味の歌》が、記録されている史料である。中村は人吉藩の一揆の史料で見ているようなので、そちらの確認とあわせ、各地をみていく必要がある。

引き続き探索は続けるが、別なアプローチも試す。

段上達雄「海辺の山人・豊後なば山師」(『山と民具』1988,雄山閣)にあるのが、以下の一文である。

《なば山師たちはセコ(山あがりした河童)の話をよくする。なかなか姿を見せないが、子供くらいの大きさだという。夜になるとホーホーと鳴いたり、母屋の棟を揺らしたりした。いたずらはするが、人には危害を加えない。セコは春の彼岸から秋の彼岸までは川に入って河童になるともいわれている。》

この《セコ(山あがりした河童)》とはそもそも何か。柳田国男が早くから着目していた山童と同一とみてよいのか、どうか。

また、同書で段上はこうも言う。

《お茶を沸かしたり、シケウチ(秋子を出す時、よきで小口をたたく)の時に焚き火をたく際、火つけをすることを「お明かりを上げる」といい、神棚の灯明にたとえるほど神聖視した。(改行)。仕事から戻って暇があると、相撲をとって遊んだ。漬け木をする堤を築いたときにも、相撲をとって池底を固めることもあった》

シケウチの際に唱えたものが、先の一揆で例として出た唱え言である。 以上のなかで、関連する事項がいくつか出てきた。 灯明、堤ー水、お茶の湯をわかす—灯明、相撲ー河童ー水。 それぞれに興味ふかいが、とりわけ水ー火(明かり)ー沸かすーシケうち、の関係である。

※1)「澄川村の農民が他の村を巻き込みながら、道谷村へ押し寄せた」とするのは地理的にも状況としても違和感がある。澄川村にあった浜田藩の詰所へ向かい、村民が連れ立って書状を持ち込まんとしたところ、道谷村付近で庄屋の説得にあったのではないか。

※2)

椎茸は菌類である

椎茸は菌類である。2025年の世にあってはふつうの常識である。ただ菌類という言い方は世俗的には細菌を含めることもあり、違和感を覚える人がいなくはない。多くのキノコと同様、カビと同じ仲間だとされると首をかしげる人もまた少なくはない。何が正しいということや、正しい知識を身に着けようということへ向かうのではない。菌類であることは、その認識把握において、不確定性を余儀なくされるということをそれとなく伝えたいのである。

あぁ、だから、こうして書くということが大変むずかしい事態となるのだ。一行書いたらつまづいてしまう、ためらうのだ、続けることを。かつて、生物を動物と植物のふたつにわけていた時代があった。いまでいう菌類は植物の一種であってキノコは隠花植物という分類であった。生殖や機構構造、系統において明らかに植物とは異なる菌界というグループができたのは、1960年代であったと思う。

だから、どちらといえば、植物の仲間に近いと常識感覚は訴えるであるが、現在では植物よりは動物に近いものという捉え方が、生物学的には主流である。

こう考えれば、常識的感覚でも納得できるのではないか。植物は形を描ける。静止した状態、カタチそのものが、その機能・性質を表しうる。すべてではないにしても。ところが動物の場合、植物ほどにはいかない。日本語はそれをよく表している、動くものであることがその本質にあるのだから。

 

吉賀の背負い梯子

蔵木の水源会館

宇佐郷を振り返る。そこへ至る道から徒然に記す。

11月7日であった。晴れていた。木次を出たのは8時前であったろうか。下須の三浦家で妻をおろし、柿木の旧エコヴィレッジの前を通りすぎる頃から、10年前の記憶と変わらぬ風景が次々と現れる。七日市の六日市学園は、看板だけが新しくつけられていたような気がする。建物の姿形ははっきりと、当時と変わっていないように見えた。
外側は何も変わっていない。10年前とて、内側を見ていたとは思えない。自分はどうかと言われれば、変わっているはずなのだが、変わらぬ風景を見ている自分のありようは何も変わっていないように思える。
変わらないだの、思えるだの、見えるだの、曖昧な字句に終始するのは、車で駆け抜けるからなのだ。歩くということがほとほと少ない。歩いている人を見かけない。それが、ここ、吉賀町の特徴なのかもしれない。

さて、水源会館に着いたのは12時前であったと思う。吉賀町の蔵木、吉賀川の水源地にある。山の道具の展示があり、あるいは背負子もあるのではないかと立ち寄ったのだ。受付であるかどうかを確かめ入館。有爪の豊後型と思われるが、爪はとれたのかはずされているのか、寝かせて置かれており、詳しく見ること叶わなかった。事務所で伺うに、図録はじめ資料の類はまったくないようだ。展示されている道具は「このあたり」から集めたものだという。

資料の説明プレートには「せた」とある。地方名である。柿木村史には「蔵木ではせたと呼ぶ」とあることとも一致する。
そういう柿木では「にこ」と称されていたらしい。蔵木の南方、宇佐郷では「せた」「せいた」「せーた」であった。
柿木の北方、日原では「にこ」と呼ばれていた。
単純にみれば、呼称は北でにこ、南でせた、となる。事例少なしとはいえ何かを語ってくれるかもしれん。下書き中の【民俗文化地図ににるセータとニコと】に、このつづきは記す予定。

柿木の背負い梯子

妻から、「背負子、最近まで使っていた人はみたよ」と聞き、ひょいと「柿木村史」をめくってみれば、豊後型のそれがニコとしてあったし、なにより使っている人がいるというところが朗報であった。柿木=旧柿木村といってもひろい。下須、福川、椛谷、白谷、木部谷と。木部谷や椛谷を歩いてみてもよいのかもしれないが、またの機会に。

さて柿木村史の当該箇所を下に挙げておく。背負い梯子が入る前に、荷を背負う縄として使われていた「ニオ」にまつわるまじないのことが記されていて、興味深い。

ニオのまじない

ニオは日原では、オイノコと呼ばれていたものとほぼ同じものだと思う。さて、そのニオ、一方の縄の先を特に長くしておき、まじないに使うのだという。

《もしも作業中などで、両口蛇(両方に口のある蛇)やハミツグロ(多くのマムシが一つに固まっている)に出くわしたら、すぐさま、その長い方の端を切って与え、次のまじないを唱えれば、食いつかれずに済む》

唱えごとにある「ワラビの恩を忘れたか」とはなんだろう。気に留めておこう。

ナバニコ考#4

日原のなばにこについて

大庭良美,1974『日原聞書』(未来社)の「きのこ山師」に、ナバニコのことが出てくる。ところが、「ナバニコ」という言葉を話者の薬師寺惣吉は用いていない。「ニコ」と言っているのだ。同じくナバ=茸を語頭に冠した「ナバミノ」という言葉は使っている。それは当時、ミノはあってもニコが当地にはなかったからだ。

《私がここへ来た時、ここにはニコというものがないのでオイノコで物をかるいよりました。私のニコを見てこれは何にするものかというと分けてくれえというので二〇銭で売りました。それからだんだんこしらえてくれえというのでこしらえてやりました。》

採話は、昭和37年、話者が87歳のときであるが、大庭良美,1986『日原の民俗資料』日原町教育委員会から、4年後に刊行された『日原民具志』では、ニコについて、この『日原聞書』からの抜粋をはじめ、かなり書き加えられた説明がある。オイノコからナバニコへの転換についても簡単にさかれているが、『日原の民俗資料』での「次第に在来のは使われなくなった。わたしのところでこれを入れたのは大正の終わりである」というテキストは抜かれている。訂正とみてよいのかどうか。そうした地域もあっただろうが、少なくとも茸師であった薬師寺惣吉が語る滝元ではオイノコからナバニコへという転換であった。加えて、こうある。

《滝元では前にはにこはなくてオイノコでかるうていたというが、脇本わたりでもオイノコであった。オイノコは山へゆくにも肩に投げかけてゆけばよいので便利であった》

滝元、脇本の位置についてはのちほど追加するが、ほか大庭加筆のポイントとしてふたつ。

・初めは男が、のちには女も使用するようになった

・私のところでなばにこをつくったのは昭和56年頃である

後者について。大庭がいうわたしのところとは、畑のことであろう。なばにこを畑に「いれた」のが大正の終わりで、「つくった」のが昭和56年頃ということか。『日原の民俗資料』と『日原民具志』に矛盾がなければそうなる。しかし、移入から自家での作成まで50年以上を有するというのはいささか長すぎはしまいか。不明であるなかで、確かなこと、それは畑でなばにこをつくったのは、昭和56年頃であったということ。そして、なばにこの日原への移入と在来にこの転換は、複雑な様相をもって推移したであろうと、いまは捉えておこう。

 

ナバニコ考#3

ナバニコなる語彙は、日原の土地で生まれたものではないか。
背負梯子をニコと呼んでいた日原に、茸師(なばつくり:日原、匹見での語彙)が、新奇である特徴をもったニコを持ち込んだ。そのニコを在来のニコとは区別してナバニコと土地の人は呼んだ。やがて土地のニコそのものがナバニコに近づく変化を遂げつつも、ナバニコへと「置き換わっていった」。

そう仮説づけて、ナバニコと椎茸の栽培化で生じた自然認識と環境管理技法の変遷を自然思想史(あるいは民俗学)のなかで捉えてみたい。西中国地方から九州にかけてのローカルなそれとして。時代のなかでは石見地方のたたら師が九州へと流れていくのと逆の流れ、人の流れが九州から石見へとあることを意識してみたい。

材料は乏しく、わずかな断片からそこまで広げようとすれば、孤立的離散的な諸事実に架空の連関と歴史を賦与するだけだという誹りを受けよう。誹りは一向にかまわない。意思と冷徹な頭をもって行けるところまで行ってみたい。

ナバニコと名付けられた民具が展示されているのは、日原歴史民俗資料館。開館は昭和56年(1981)11月4日。大庭良美が蒐集と開館へ向けて指導したもので、大庭良美,1986『日原の民俗資料』日原町教育委員会にまとめられている。そのあとがき、すなわち開館記念の挨拶の記録には次の一言がしるされている。

《今後に残された問題
一、開館はしたがこれで完成したのではない。まだ足らぬものもたくさんあり、これで十分ということはないからひきつづき資料を収集して充実したものにしなければいけない。
二、資料には一つ一つ写真や図をつけ、名称、使用方法、使用場所、使用年代、製作者、材質、寄贈者等くわしいことを記入した台帳を整備しなければいけない。》

昭和56年11月4日は、はじまりに過ぎない。そこから何がどのように進展したのか、今知ることはできない。何もないかのようにすら見える。だが、公開されていないだけで何かが残っているはずだ。そこからさらに歩を進めるために、足がかりを探してみよう。ひとつには、ここで記されている台帳が閲覧できればと思う。

そして、もうひとつ、蒐集者のこと。大庭良美が民具蒐集にあたりたどった足跡である。代表的著作には『石見日原聞書』、『家郷七十年』『唐人おくり』があるが、寄稿論文で書籍にまとまっていないものもあるだろう。それらを年代順に整理しよう。大庭の民俗学への傾倒、そのはじまりは幼少の頃の星空への憧れであったか。随筆に記されているかもしれない未読のそれをあたること。野尻抱影とは無名の頃からの文通があった。野尻が星の民俗を蒐集しはじめるきっかけとなった、最初に星座の地方名を書き送ったのは他ならぬ若き大庭良美である。

大庭が東京のアチック・ミューゼアムへ野尻抱影の紹介で訪問したのは昭和12年1月21日。この時、磯貝勇から『民具蒐集調査要目』『山村語彙採集帳』を出してこられ、民具名彙や農村語彙を採集してみたらとすすめられている。

地方名というものに大庭の関心のみならず、それをどう扱うべきかについての深い洞察があったことはこれら状況から推察できる。ただ『日原の民俗資料』にはその面は希薄であろうか。6年後の1992年に刊行された『日原民具志』と比較してみようと思う。

ナバニコと同様の民具名として、安田村(現益田市安田)の「なば山負子」がある。『安田村発展史』p.407からひろっておく。国東治兵衛が椎茸栽培法をもたらしたとする記載中に出てくるのだが、国東治兵衛の椎茸栽培がどこまで成功したかは実際のところ不明である。

《東仙道村ではあし高の背負梯子を、なば山負子と云って居る。椎茸栽培が豊後邊の他國人に指導されたことは、那賀郡杵束村に存する、せんどうばつちの語を見ても、了解できる》

つづく。

 

ナバニコ考#2

木次図書館で確かめた。7月に資料館でみたナバニコは、大庭良美1986に1点ほど掲載されているものとは異なるし、口絵で確認できる2点のナバニコ(らしきもの)とも違う。同書巻末に掲載されている収蔵品目録には「にこ」10点とあるので、どこかに所蔵されているはずである。観覧願いを出して確かめてみたいものだ。

同書の「交通運輸」の章、運搬道具の項に解説と写真がある。p.136-138. 国会図書館デジタルの個人送信でも見ることができる。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9576167

《普通のにこは在来のもので、荷をのせるコは枝を利用してつくった。なばにこは豊後のなば師が椎茸つくりにきた時持ってきたもので、足が長く、荷をおごねたり、途中で休んだりするのに便利なので、なば師に頼んで作ってもらって使うようになり、次第に在来のは使われなくなった。わたしのところでこれを入れたのは大正の終わりである》

なば師からはいくらで作ってもらったのだろう。そして、在来のにこと入れ替わっていくのはいつごろのことなのだろう。大庭良美の『石見日原村聞書』も参照するに、日露戦争が終わる頃から大正時代の終わりにかけてではないか。そしてそれは豊後から入ったなば師がひいていく頃でもあったろう。

《在来のにこやなばにこは、草や稲、藁、ひたき、薪といったものから米でも木炭でも何でもかるわれ、なくてはならぬ道具であった。かるい荷の大部分はこれを使った。》

「なくてはならぬ」ものが、「なくてもいい」ものに変わり、消えていくのだが、これほど大事にされてきたものがそう簡単に消え失せるとは思えないし、思わない。こうして博物館の展示を通して、私、令和4年に生きているひとりの人間が、かつてナバニコを背負い、山と山を、山から里へ里から山へ、里からまちへと行き来したもうひとりの人間と出会おうとしているのだし。

「かるい荷の大部分はこれを使った」というナバニコ、在来のニコと置き換わっていったというナバニコ。まずはその時代へ、「わたしのところでこれを入れたのは大正の終わりである」と大庭氏のいうその時代へ行ってみよう。『石見日原聞書』が案内してくれる。わたしのところというのは、大庭氏の生まれ育った日原の畑である。天然記念物の大楠で知られる。

文献

†. 大庭良美,1986『日原の民俗資料』日原町教育委員会

ナバニコ考#1

日原民俗資料館で見たナバニコ。
ナバは茸、ニコは荷子だろうか。日本の山ではあまねく見られたであろう民具であり、現代にあっては背負子(背負子)と呼ばれることが多い。子は梯子の子と同根と推定。民具の一般名としては「木負子」になるのだろう。

さて、ナバニコ。大庭良美,1986『日原の民俗資料』日原町教育委員会にある写真と若干違うような気がして、図書館で確かめてみようと思う。ナバニコについている札には「名称:ニコ」とあるのだ。また、ナバニコの分布について、少しおってみたい。

下のニコと比較して、上部がスリムであること、脚が長めであること、背がゆるやかに弧状であることなどが特徴的。背負ってみればわかるだろうが、荷重の重心がより腰や背に近くなるだろう。背当ての丸い藁編み(緩衝具)も含めてのものなのかどうかは不明である。
明治に入る以前から豊後の茸師が持ち込み、日原の人が見て背負ってみたのだと思う。仕事に雇われて使ってみて良さを実感した。そして肝心なのはその次だ。大庭1986によれば、茸師に「頼んでつくってもらった」ものだという。

まず、この展示一点だけなのか、他にいくつもあったのか。後者であればどの程度あったのか。少なくとも「なばにこ」という名で呼ばれ、少ない数が存在したのだと考えるのが自然だ。せめてもう一点現存していれば特徴を定めやすいのだが。

これら民具の収集にもっとも協力的であったのは左鐙地区の老人会であったと聞く*1。かの地は天保11年頃には豊後の茸師・徳蔵が入って営業をはじめている地である。(徳蔵は文久4年に山小屋で喀血死。天保5年〜天保10年まで三平、徳蔵、嘉吉の3名は深葉の官営事業所で椎茸栽培に従事した仲間として、嘉吉が西郷武十に語ったものが典拠であるが、資料は現在入手折衝中。西郷武十『日本特殊産業椎茸栽培沿革史』昭和30年,津久見椎茸顕彰会刊)

3つ目に、匹見の美濃路屋敷(歴史民俗資料館)にあっただろうかということ。あれば撮っているだろうから、たぶんないのだろうが。数年前に一度駆け足で訪れた際には豊後ヨキの写真を撮っている。豊後由来で名称がついたものを集めてみる必要もあろう。

ちょっと横にそれた。
ナバニコであるが、名称表示はなくとも、同じような形態のニコをどこかでみたぞとたどってみれば、芸北 高原の自然館の隣にある山麓庵にあったのだ。下の写真右上のがそれらしい。その下にある「にこ」とは形態が異なることがみてとれるが、どうだろう。

 

*1
博物館で聞いたのかパネル説明にあったのか。大庭1986のあとがきにもあったので以下記す。
《特に《左鐙にあった資料は大きなものだけでもトラックに八台、運ぶのに一日半かかりました》

椎茸の栽培法〜鉈目法について

2025/08/12現在。多少の補筆をする。

以下は2015年2月に書いたもので、引用したところには誤りも多いのだが、そのままとするが、特に気になる1点について。

*1「江戸時代末期になると,自然に菌が付着するのを待つのでなく,積極的に種菌を植えつける方法が開発され, 椎茸栽培は大分県内に広まり」とあるが、まず、積極的に種菌を植えつける方法が試みとして始まったのは昭和初期。ひろまったのは戦後である。椎茸栽培の初期的広まりは大分県内に限らない。宮崎、鹿児島、三重、和歌山、静岡(伊豆)、複数にわたる。大分に発してそこから全国へというように、この津久見の発祥地をたてた人たちに思えたのにも理由があろう。

 

〜〜以下元〜〜〜

備忘として記すものなり。

それは「タヌギなどの原木に鉈で傷をつけ(鉈目という)、自然界に浮遊しているしいたけ胞子が鉈目に付着するのを待つという極めて原始的な方法です」とある。

私にとって、鉈目法についての関心は、いま、できる人はいるのか、が真ん中にある。

映画「千年の一滴」の中では、宮崎県椎葉村の椎葉クニ子さんをあげていた。

山の谷ごとに異なるような微細気候(マイクロクライメット)の読み方という点で、いま取り組んでいる竹の焼畑の可能性ともつながる。

web辞書どまりの記述では、傷をつけて待つという、のんびりしたものだが、私が聞いたことがあるのは、胞子が飛んで付着する時期を長期で読みながら準備し、短期でよむその数日の間に、一気に原木を運ぶ(水から出す? 鉈目をいれる? それら全部?)のだというようなこと。

文献レベルでもう少し知る必要がある。

大分がその発祥の地とされる証左はこちら。
http://hamadayori.com/hass-col/agri/SiitakeSaibai.htm
なくなるといけないので、複写しておく。

日本特殊産業椎茸栽培業者発祥地

大分県津久見市上宮本町

JR日豊本線の津久見駅から 500mほど南西に 浄土宗の寺・長泉寺がある。

寺の土塀外側の道路脇に,古い苔の生えた大きな石碑と「由来記」と書かれた副碑が建っている。

大分県は 椎茸の大生産地で,乾椎茸では 全国で第一位,30%のシェアを有する。栽培の歴史も古く, 江戸時代初期(17世紀前半)に豊後の国で炭焼きをしていた源兵衛という人物が, 原木の残材に椎茸が生えるのを観察して 初歩的な人工栽培を始めていたという。

これは“鉈目法”と呼ばれる方法で,クヌギなどの原木に鉈で傷をつけて野外に放置し,自然に椎茸菌が 付着して繁殖するのを待つという原始的な方法であった。

江戸時代末期になると,自然に菌が付着するのを待つのでなく,積極的に種菌を植えつける方法が開発され, 椎茸栽培は大分県内に広まり,明治以降は椎茸輸出の増加に伴い生産量も急増した。

大正時代になると,種菌を原木に打ち込む“埋ほだ法”が開発され, さらに昭和になるとくさび型の木片に椎茸菌を培養した“こま菌”を原木に打ち込む方式がが開発されて, 簡便な接種方法のため広く受け入れられ全国に普及した。

この発祥碑は,江戸時代末期に種菌を人為的に植えつける方法が行われるようになったことを記念・顕彰したもので,昭和30年に建碑された。

また,内陸の豊後大野市には「しいたけ発祥の地」という碑が建っている。

現在国内で栽培されている椎茸のうち上記のような“原木”を用いる方法を採っているのは少なくなり, 多くは“菌床法”と呼ばれる,おが屑に栄養分を混ぜ込んで固めた“菌床”で種菌を培養したもので 栽培されるようになっている。 しかし大分県での椎茸栽培は,現在もほとんどが原木を用いているのが特徴である。

なお,この発祥碑については 若干の疑問点がある。

§ 発祥碑の表面に刻まれている文字は「日本特殊産椎茸栽培業者発祥地」と読み取れ, 「産業」の「業」の文字が抜け落ちているように思われる。

「特殊産」では意味が通じないし,副碑(由来記)には 「日本特殊産業椎茸栽培業発祥之地」と書かれていることから,「特殊産」というのは誤記ではないかと想像される。

§ 標題の「日本特殊産業」とは何を意味するのだろうか? 椎茸栽培は林業に分類されているので,その中の“特殊”な業態という意味であろうか。

§ 椎茸栽培の発祥地は “静岡県の伊豆半島”説がある。

伊豆は17世紀末~17世紀にかけての話であるのに対して,大分県は 17世紀前半なので, 大分の方が若干早かったが,いずれも不確かな伝承に基づくので断定は難しい。

日本特殊産椎茸栽培業者発祥地

(副碑)

由来記

往昔天保の頃津久見の先覚者彦之内区三平西之内区徳蔵嘉吉平九郎

久吉等の椎茸栽培業研修に端を発し三平徳蔵は石見へ出向椎茸栽培

業を経営す是中国に於ける専門事業者の始祖なり嘉吉平九郎久吉は

九州奥地に於て創業した是九州地方の専門的事業者の始祖にて郷土

の子弟に是を継続して連綿百二十余年伝統を保つ而て本業の推移は

時恰も幕末期にて営業上幾多の支障あり従て労多く得少く継続困難

の状態なりしが明治初年日支貿易開港以来輸出椎茸旺盛となり価格

の躍進につれ本格的に事業化し此頃より業者の数も著く増加せしは

歴史が明示する九州地方百九十四名中国四国済州島地方七十余名の

専門事業者を算す斯くて日本特殊生産品として輸出市場に名声を高

揚し神戸港及長崎港を経由輸出椎茸は年々巨額に達せり其大部分は

津久見人の出先経営地の生産品である実に開港以来七十余年間何等

名聞も求めず深山に籠り孜々黙々として外貨獲得の一役を果し其余

沢は郷土の経済安定に寄与し一面着々未墾地の開拓を励行し風土に

最も適応した柑橘園の基礎を構築したのも現実が証する此先輩の貴

い伝統を子弟は能く継承し出ては貿易品増産に勤め入りては郷土の

産業を振興した其業績の偉大さは全国的に総合し椎茸栽培専門業者

として抜群的特技の存在にて是業界再興の権威日本特殊産業椎茸栽

培業者発祥之地を穣成す此国家的大産業の振興は津久見市の大なる

誇なり茲に碑を建設し過去と現時を通じ斯業に精進せる郷土人士の

敢闘精神と其業績を讃へ以て永遠不朽の記念とす

昭和三十年五月二十一日

一介茸山子  西郷武十 (八三翁)

そして、大分から中国地方へこの技術が伝わる拠点となったのが、匹見町広見であるという。それについては今度。