大正7年8月20日(1918)―松江の米騒動

阿井村には大正はじめに種子ものの通販が入り、白菜・ほうれん草・かんらん栽培が広まったという記録があることを以前記した。同じく阿井村で、トロヘイ(ホトホト)が風紀紊乱を理由に禁止されたという記録があるのも(要確認)この頃である。以来、出雲地域の大正前期の社会変化を、少し整理しておかねばと考え、ちょびちょび集めている。

引っかかったのは松江市米騒動。wikiからの孫引きだが、井上清、渡部徹編1959『米騒動の研究』によれば、大正7年8月20日(1918)に松江市で米騒動ありと。ただ県のホームページには、浜田、益田があげられているのみ。ちょっとこのあたり掘ってみないとわからん。

大正の米騒動については、従来

《1918年の大米騒動を引き起こした米価騰貴は凶作を原因とせず,直接的にはシベリア出兵を見越した地主と米商人の投機によるものである。また,その根底には第1次大戦中の資本主義の発展による非農業人口の増大に米の増産がともなわず,地主保護政策をとる寺内正毅内閣が外米輸入税の撤廃などの適切な処置をとらなかったという事情がある。》平凡社『世界大百科事典』文・松尾尊兊

という観点が原因のまとめとして流布し、多くの人はそう理解している。私もかつてはそうだった。が、しかし、近年、食生活の変化という観点が語られることも多い。それが私の追っているテーマだから耳目にひっかかるということでもあるにせよ、だ。そして、米騒動に現れた何かであって米騒動そのものの原因じゃないよともいえるのだが。

というわけで!? 時間がないので、とりあえず、メモをひくのと引用を以下に。また考えましょう。

ウィキより

《背景には資本主義の急速な発展が指摘されている。第一次世界大戦の影響による好景気(大戦景気)は都市部の人口増加、工業労働者の増加をもたらしたほか、養蚕などによる収入の増加があった農家は、これまでのムギやヒエといった食生活から米を食べる生活に変化していった。また明治以降都市部の中流階級では大量の白米を少ない副食で食べるという食習慣が定着してきていた。一方で農業界からの人材流出のために米の生産量は伸び悩んでいた。大戦の影響によって米の輸入量が減少した事も重なり[12]、米価暴騰の原因となった。》

〈日本長期統計総覧〉をどこかから孫引き

◉日本の輸入米の推移

明治元(1868)……1万2000t

明治3(1871)……32万t

★3年で27倍!(統計数値に問題ありかもだが、急増には間違いない。)

明治23年〜明治末にかけて、10万t⇒88万t(これは近隣諸国を支配下においたことによる)

明28(1895)台湾領有

明43     日韓併合

⇒明30から米価は次第に高騰。大正7の米騒動に至る。

大東町老人クラブ連合会『大東の食文化』1999.10にある唐米の記録

《唐米(とう米)

大正一五年〜昭和元年の頃、小学校で北川福正先生が昼食時に、とう米入りの弁当だから見にこいといわれ、校長先生の弁当を見学に行きました。

我が家でも麦の代わりに混ぜて食べましたが、粘りの足りない感じでした。黒い油の玉のようなものが混じっていたりして嫌でした。米不足を補うというより、安い唐米という経済からでドンゴロスの袋(唐米袋)に入っていました。【佐世地区】》

甘味の変遷―備忘録001〜砂糖はどのように普及したのか

 石見のほうから奥出雲に引っ越してきて、煮しめを筆頭にありとあらゆるものが甘いのに驚いた。砂糖の使い方が半端ないのである。いつからどのようにこうなってきたのかを知りたく思って3年あまりが経過した。「いつごろから」の端的なこたえは「戦後から」。明治の終わりから大正のはじめにかけての変化とともにある。前にも記したが、種の通販が村々にも入るのが同じ時代だ。ただ、石見の山奥もそれは同様。出雲(奥出雲)と石見の砂糖使用の差異はどこから生じているのか。吉賀町蔵木をまず見てみよう。

 

 吉賀奥”蔵木村”民族誌という章が、石塚尊俊2005『暮らしの歴史』(ワンライン)の中にある。氏の旧稿から拾遺してきたもので、軽い読み物ふうの体裁だったのだが、さらっと読もうとぺーじをあけたら、びっくり。なかなかに貴重な記録が含まれている。

 石塚は津和野・日原の古老がこう語るのを聞いてしまう。

「同じ鹿足郡でも吉賀の奥は里部とだいぶ違う、ことに蔵木の奥となると、まるで原始時代そのままだというような話も出てくる」

 そこで、どうしても一番奥まであがってみたいと訪ねていくお話である。昭和20年代はじめのことだ。古老の言う「一番奥」とは、吉賀の金山谷と河津のことである。金山谷は4年前か、近世史研究者で茶道家の高山氏をお招きしフィールドワークと講演会を主催したときに訪れた土地である。髙山氏は大変昂奮しながら、ここは古い、文書や伝承でしかふれたことのない隠れ里がまさに今目の前にあるようだと、おっしゃっておられた。石塚氏も蔵木の村役場で取材するうち、「この二地区(金山谷・河津)が西中国山地では最も古い土地であるやに思われてきた」と残している。

 そうかもしれない。ただ、その古い地層のようなものが、いまどこにどのように残っているか、そこまでたどれるかが問われる。預かっている『吉賀記』を開き直し、行ってみたいなあ、また。

 閑話休題

 さて、本題の砂糖。

 蔵木村の民俗調査からの抜書であろうか、山陰民俗9,昭和31年2月からのものとして、項目別に記述があるところから砂糖の項がある。

《[砂糖]調味料として、味噌・醤油はすべて自家製、砂糖は金毘羅まいりの土産などに少しずつ買ってきて配るくらいのものだったが、大正四、五年ごろから一般化した》

 ほかにおもしろい記述をいくつかあげておく。砂糖から脱線し続けるけれど。

《[食器]昔は羽釜はなく、全部鍋だった。それが漸次羽釜にかわったのは、羽釜そのものの普及もさることながら、そこにはまた、雑穀を主とした炊事から、米を主とした炊事への飛躍もありはしないか。茶碗や皿も昔は木のゴギで、塗ってはいなかった。膳は丸い盆で、箸はコウゾの芯でつくった。焼物はカガツ(唐鉢)でもドビンでもほとんど素焼きだった。摩棒のことをデンギという》

 そして、なぞの山芋、モメラのこと。なんだろう。《雑穀時代によく摂られたものにモメラがある。牛モメラという大きい方のは食えないが、普通の小指の先ぐらいのものを四月ごろ採り、えぐいから一日中煮、それに醤油をつけて食う》と。

 砂糖のことがすっかり飛んでしまった。改めて加筆することにして、締切3つをとっとと仕上げる。最後に補助線を3つ。

・山間部における甘味として柿の皮を干して粉にしたものはかつて多用されていた。

・山間では甘味よりも塩がとにかく貴重だった。塩による野菜や魚の保存は、塩そのものを備蓄するという意味も大だった。飢饉の年は天候が悪い、天候が悪いとできる塩の量が少ない(海水の天日干しが不調)。

阿井村の大正7年

 島根県立図書館に、駒原邦一郎,S35.1「私の村のはなし(下)」を確認してきた。〈阿井の山野に自生している草木で〉で載せた草木の名が間違っていないかと。なにせ乱暴な写筆だったのだ。いちばん気になっていた「ゴロビナ」はコロビナでなく、ゴロビナで間違いなかった。

 そして、そこで大正7年という年を明らかにしてある重要なことが記されていたのだ。

 阿井で食料として何が栽培されてきたかが記されているのだが、そこには大正はじめに種子ものの通販によって白菜やほうれん草が栽培されるようになったとある。そして、大正7年にタマネギとトマトが入ってきたのだと。

 そもそもである。

 あくまでも私の作業仮説なのだが、阿井、三沢、馬木については、在来種は戦前まで他地域とくらべてもかなりあったと思われる。しかし戦後他地域よりはるかに急速に潰えてしまう。

 諸要因が整理できてはいないのだが、ひとつの典型例として、サツマイモの栽培がある。阿井では又蔵芋と呼ばれていた。明治14年に大吉の又蔵さんが栽培をはじめたという(年号までわかっているのはなぜか。これも調べてみたい)。ひろく普及するのは戦中戦後のことだ。

 全国どこでも戦中戦後にサツマイモ栽培が広まるということは見られるようだが、入るのが遅かったのは、救荒作物としてさまざまなものがあったということが大きいのではないか。多品種多品目によるリスクヘッジが働いていたということ。それがために江戸時代にあった何度かの飢饉においても、サツマイモあるいは琉球イモが入り込む余地がなかったのだとはいえる。

 飢饉や災害による収獲減に対する松江藩の統治の柔軟性というか独自性もあったといわれるが、栽培品の多品目多品種という側面が大きかった。捜して求めている出雲地方と広島北部・岡山北部にのみ見られる(おそらくある特徴をそなえた)アワの呼称である「クマゴ」の謎にもかかわるかもしれない。

 しかし、資料がそろいきれていない。とりあえず以下のものをあげておく。

岸崎佐久治

『免法記』

『田法記』

櫻木保1967『松江藩の地方役岸崎佐久治ー免法記・田法記』

黒沢石斎(三右衛門弘忠) 『懐橘談』(前編1653,後編1661)

黒沢長顕・斎藤豊仙『雲陽誌』⇒大東図書館・県立図書館で貸出可

『雲陽秘事記』

渡部彝

『出雲神社巡拝記』

『雲陽大数録』

『雲陽郷方古今覚書』

桃好裕『出雲私史』

『出雲鍬』

『懐中万宝記』

地誌等

『大日本地誌大系』

『島根縣史』

島根県人名鑑』

出雲国人物誌』

松江市誌』

林原の焼畑でつくられていたカブとは

 昨年、年取りカブの存在を語ってくれたのは三沢の山田さんであった。『尾原の民俗』の中に「年取りカブ」「正月カブ」という名称はみられないが、「地カブ」という名で幾度か出てくる。地カブがあるからには地でない(地元のものでない)カブもあるはずだが、それがなんだったのかはわからない。江戸中期に名称採集された諸国産物帳をみると、出雲地内の《一菜類 蕪》の項目には14ほどがある。

・近江蕪

・白かぶ

・空穂蕪(うつぼかぶ)

・壺蕪(つぼかぶ)

夏菜

・平田蕪

・地蕪

京菜

・三月菜

・高菜

・青蕪

・水蕪

・芥菜(からしな)

・赤蕪

 はて、林原でつくられていたのは、どんな蕪だったのか。白石昭臣氏が担当した『尾原の民俗』の項よりひいておく。

《この林原ではトシトリの晩(大晦日)のオセチは女性がつくるが、この中にサイナマスという大根を小さく切って煮たものと、大根なますは欠かせない。また、正月には二又大根と地カブをするめやジンバ(海藻)などともにぶらさげて床マエの上に飾る(稲穂はない)。》

《この地区ではカリヤマという焼畑が近年までみられ、そこでは1年目に大根、2年目に小豆などをつくり、山の畑には小麦などの麦類も多く栽培していた》

《山方、前布施や下布施地区でもカリヤマで大根やかぶをつくり、床マエには林原と同じ様に大根やカブを下げる》

 林原の正月に二又大根やジンバとともに床前に供えたのは「地カブ」である。これを年とりカブと呼んだのかどうかはわからないが、地カブが年とりの行事になくてはならないものであったのは確かだろう。

 大根が二又であるのは、収獲儀礼豊穣儀礼の断片なのか。

 なぜカブかということについては、次年度の夏焼で大根を試してみればなにかわかるかもしれない。焼畑でなくとも、春植えの大根を竹の根が残る場所に植えてみたい。

 どこまでなにができるのか。自問をつづけながら冬が深まる霜月の日。

 そうそう。平田蕪の取材、おそらく篠竹の薮を焼いてつくっていたそれについて、また聞きにいかねば。旧平田村にひとり住むその方は蕪香煎にして食べていたという。香煎という言葉が生きた人の口から発せられてるのをはじめて聞いたそのお宅へ。

 

阿井のホウコはいまどこに

阿井の山野に自生している草木での中でとりあげた「ホウコ」のこと。今日、阿井の方からお電話があり、いくつか教えてもらって、どうやらホグチである可能性がぐぐっと高まりました。ご自身は餅のことしかご存じなかったのですが、知っていそうな方に聞いて頂いたのです。ありがたいことです。

要点は4つ。
・草餅にして食べた。おいしかった。自分はつくり方を知らない。
・葉は粘りがある。
・春はやわらかいがだんだん硬くなる。秋になると丸い玉のようになる(花の部分が)。
・山の中でも道ばたでも、どこということはないが、いろんなところにあった(あるかも)。

知っている人が多そうですし、身近な場所にあったということですね。

さて、『広島の食事』S.62(農文協)をみますと、神石郡油木町(現神石高原町)では「ほうこうもち」のほうこうは、やまぼくちのことだとしています。

●よもぎもち、ほうこうもち

よもぎの若芽を摘んで、あく汁でゆでて水にさらす。これを固くしぼり、もち米の上にのせ、一緒に蒸して搗く。

よもぎと同じように、ほうこう(やまぼくち)でもつくる。

よもぎもほうこうも、ゆでて乾燥しておいて年中使う。

ちなみに、このほうこうもち、『島根の食事』の中には一カ所も出てきません。都賀か横田にはあってもよさそうなのですが。阿井(仁多)にはあったが、鳥上村大呂(横田)にはなかった可能性が高いです。*1「冬の間はもちをきらさない」「麦はほとんど食べない」「主食は白米」という大呂(昭和初期の頃の食生活)ですが、そこに草餅を食べない理由があるのかもしれません。追究中です。

さて、油木町は広島県東部の高原地帯であり、中央にあたる備北の双三郡君島村(ふたみぐんきみしまむら)ですと、見出しとして草餅はありませんが、「もちは夏以外きらさない」として出てきます。

 もちは秋、冬、春ときらすことなく搗き、ごはんとともに食事の中心となる食べものになっている。毎回、一臼三升を二臼は搗く。白いもちは「おひら」といい、味噌汁に入れたり、きな粉もちなどにして食べる。小豆あんを包み、搗いてから三日ばかり食べるのは「あんびん」といい、節句、彼岸、正月などにつくる。もちによもぎをつきいれることもある。

ほかに大根おろしで食べる「からみもち」、きびもち、豆もちのことが出てきます。なかでも彼岸のもちは見出しとなっていて、これが草餅です。よもぎの新芽を摘み、水にさらしてから、蒸したもち米と一緒に搗き、小豆あんを入れて包むという。

ところが、です。『広島の食事』に出てくる奥山県(おくやまがた)の村・中野村では、ほうこをははこぐさのこととしています。

 ほうこは、ははこぐさのことをいう。ほうこもちのつくりかたはよもぎもちと同じである。

そして、ぼくちのことは「うらじろ」と呼び、うらじろもちをつくるのです。しかも、西日本に多く分布するキクバヤマボクチではなくオヤマボクチのことだとも。

これまたおもしろいことであります。

それにそれに、なんといってももちの種類の多いことといったら!

とりあえずあげておきます(追記用備忘に)。

・てんこもち

・よもぎもち

・うらじろもち

・ほうこもち

・うのはなもち

・あらかねもち

・あわもち

・そばのはごもち

・だんごもち

・こうぼうもち

・とちもち

この中での注目は「こうぼうもち」。こうぼうびえ、すなわちしこくびえのもちです。

さらに加えて、焼畑が明確に位置づけられているのです。

そこらはまた。

◉2017/04/20追記

阿井の福原で、なんとホウコモチをいただきました。ほんのちょっとしたお手伝いのお礼に。

売られてます。ふつうにモチとして。

ヨモギとホウコのブレンドとのこと。ホウコをまぜると粘りがますということでした。

「ホウコ」はそこらじゅうにたくさんあるとのこと。

*1)追記(令和6年10月22日)…鳥上にはあったであろう。横田町史など参照。

阿井の山野に自生している草木で

 手帳のメモを整理してみます。  駒原邦一郎『村のはなし(下)』昭和35.1の中に、「阿井の山野に自生している草木で昔から食糧としてつかわれたもの」として出てくる草木に以下のものが名称のみですが、あげられています。
 ひとつひとつ注をつけていきます。なお、この記事は適宜追加・更新予定です。

・フキ クサギ  比婆郷土料理『クサギナと豆の炒り煮』に記載があります。山菜でもなんでもそうですが、奥出雲よりもその周辺に昔のものは、まだよくノコされています。つまり奥出雲を知るには、県境を越えた比婆や髙野、あるいは頓原や大和を調べてみる必要があるのだと私は考えています。

・タキナ ウワバミソウをさすようです。雲南市大東町では「あるところにはたくさんある。水が流れる山の中」と聞きました。出雲、伯耆因幡あたりの地方名か。(2017/11/19追記)

・ゴクナ 横田の山菜料理から 「紫の器の中はゴクナという地元の山菜を塩漬けにしておいたものです。この苦味が絶妙で、ご飯にもお酒にも合うんだな」だとか。 どうやら奥出雲の地方名のようですが、これは調べてみましょう。阿井に出向いたときにでも。
→ウコギをさすようです。『聞き書き島根の食事』p.147参照(2017/12/14追記)
ただし、ウコギ科全般(タラの芽、ウド、ハリギリ、コシアブラなど)をさすのか、ヤマウコギ、ヒメウコギをさすのかは不明です。

・ハシギウド →不明。ウドと類縁か形質が似ているものか?

・ワラビ →ありふれたもののように思いますが、そしてその通りなのですが、寺領のTさん曰く。「昔はほんとにどこにでもたくさんあったのに。いまはどこに消えたのでしょうね」と。(2017/12/14追記)

・ゼンマイ ・セリ ・カケゼリ →標準和名が山ゼリ。 「広島の山村でカケゼリとかカキゼリとか呼んでいる」

・ミツバ ・ショボナ →リョウブのこと。横田のほうではそう呼ぶようだ。 《リョウブは「救荒食料として採取と貯蔵を命じた令法が発せられたことから。リョウブは令法(リョウボウ)の転」(『花と樹の事典』・木村陽二郎監修)と言われている。この名が生まれたのは律令制の時代であろう。当時にあっては、それほど価値のある人々にはありがたい木だった。全国的に分布していることもあって、ハタツモリ、ショボナ、ビョウバなど別名、地方名の実に多い木であることも言える》 大和だより~写詩 写歌 写俳~小筥集

・メライラクサのことか? http://www.qkamura.or.jp/azuma/news/detail.asp?nId=561 ・サンショウ ・オオバコ ミョウガ ・クズバカズラ ・タラ ・ゴロビナ →不明。なんだろう。気になる。日本国語大辞典には島根の一部の方言ころぶ」がアブラギリのことだと出ている。農林省統計調査部による1951年刊の「農作物の地方名」による記述である。農商務省山林局の1916年刊「日本樹木名方言集」には出雲の方言名として「ころび」で出てくる。
 ころびの「な」=菜、すなわちアブラギリの葉のことだろうか。ただし、地方名というよりほぼ一般名として用いられたようでもある。近江、丹波、山陰で奨励栽培されたことも一因か。

・ホウコ →キクバヤマボクチでしょう。 産経新聞「出雲の市民グループが自生のホウコで、そば開発 幻のうどんに続き発表会」2015.2.16

 そばなどの名物料理開発に取り組む市民グループらによる「幻の蕎麦(そば)・うどん&佐田のふるさと料理」の発表会が25日、島根県出雲市佐田町の出雲須佐温泉ゆかり館であり、地域の山間地に自生するホウコ(キクバヤマボクチ)をつなぎに使った緑の「ほうこ蕎麦」がデビューした。  地域食材を掘り起こす活動を続ける食材店経営、森山太史さん(48)が、同町の朝原振興協議会と協力し、ホウコのうどんに続いて開発。発表会では、ほうこ蕎麦のほか、山菜おこわ稲荷(いなり)、イノシシソーセージ、アユの甘露煮などが並び、約30人が舌鼓を打った。  ホウコはヤマゴボウの一種。ゆがいてあくをだし、乾燥させて製粉し、そばのつなぎに使う。森山さんは「弾力が生まれ、素材の味を引き立てる」とPR。  ホウコを使ったうどんとそばは、旧JR大社駅(同市)近くの食材店「山太」で味わえる

 あえて全文引用したのは、この記事ダメでしょうというためです。「ホウコはヤマゴボウの一種」のところ。ウェブに書く素人記事ならともかく、全国紙の新聞記事なのですから。辞書を引いてないのだと思います。 「ヤマゴボウ」を辞書でひいてみますと、、 国語大辞典はこう。

根に有毒成分を含むが、漢方では商陸(しょうりく)といい利尿薬に使う。漢名、商陸。いぬごぼう。とうごぼう。学名はPhytolacca esculenta

世界大百科事典はこう。

根に多量の硝酸カリとアルカロイドのキナンコトキシンchynanchotoxinを含み,有毒植物であるが,漢方では商陸(しようりく)と呼び,利尿薬として使われる。葉は食用にされ,辛味があって美味であるが,多量に食べるのはよくない。和名は山牛蒡の意味であるが,ヤマゴボウとよんで食用にされているアザミの根とは別物である。  日本にはマルミノヤマゴボウP.japonicaMakinoが野生する。全体はヤマゴボウに似るが,花が淡紅白色で,果実は分果を作らず球形の1個の液果となる。

 さてはて記事では「ホウコ(キクバヤマボクチ)」と言っているのだから、ホウコはキク科ヤマボクチ科の一種とすれば、誤解も字数も少なくてすむですよ。
 キクバヤマボクチの写真はNature Logの植物記で確認できます。比婆山で撮影されたものですから、奥出雲に分布していてもよいものです。先の記事中にあるように蕎麦のつなぎに使うのは、根のほうではなく葉です。
 キクバヤマボクチの類縁であるオヤマボクチの葉は草餅の材料にも使うようで、ごんぼっぱと呼ぶ地域もあります。(つぶやき小道)  オヤマボクチの写真も、Nature Logの植物記で見てみましょう。素人には見分けがつきませんね。こちらの葉も蕎麦のつなぎに使うようです。自生の分布域はキクバヤマボクチが西日本、オヤマボクチが東日本だと、おおまかにはいえましょう。そして、おもしろいのが、ボクチの語義です。
 キクバヤマボクチは菊葉山火口、オヤマボクチは雄山火口、ほかにハバヤマホグチもあります。「火口」なのです。この植物を分類したときに人が見出した特徴は。
 さぁ、ここで問題。火口にしたのはどの部位なのか。 日本大百科事典

世界火口は火をおこすときに使うものの名であり、ボクチとあるのは葉裏の白綿毛を火口に利用したことに由来する。[小山博滋]

国語大辞典

冠毛は褐色で火口(ほくち)に使う。葉を乾燥してもぐさを作り、また、タバコの代用にする。若葉と根は食べられる。きくばやまぼくち。やまごぼう。くまとりぼくち。

 葉裏の白綿毛なのか、冠毛なのか。それとも両方なのか。冠毛はいかにも火がつきそうですが、実は白綿毛のほうが火付きがよかったりするとおもしろいですね。確かめてみたい。。。実物で。

 さて、ここまできてようやく「ホウコ」の糸口が見えてきました。
「ホウコ=火口」
 これが私の仮説です。なぜ出雲地方にこの名で伝わっているのか(方言辞典などをあたっていますが、現在まったく見当たりませんよ、ホウコ)。少し掘ってみたらおもしろそうですね。

 ちなみにヤマゴボウのほうですが。日本に自生しているのは3種類。わかりやすくまとめている「四季折々に:夏の花めぐり②~ヤマゴボウ三種」を参照ください。

 閑話休題、続きです。

ヨモギ ・カエデ 「等のほかに」につづけて以下。

・山芋 ・ムカゴ ・イチゴ アケビ ・山ブドウ ・スズノコ →スズタケ(篠竹)の子だからスズノコ。スズコ、ススコとも呼ばれる全国区名。高さ1〜3m。阿井にあるんだあ。奥の方だよね。奥出雲にはないとみてました。吉賀の昭和初期の地図には篠竹記号がかなり広範囲に出てくるのです。焼畑地だったりもします。平田村の竹の焼畑はこれだったんじゃないかな。ん!? 取材、取材、、。 そして。 このリスト、最後に「など」で終わります。 「など」です、「など」! そのなどの中身を知りたい! ———–

★追記1)妻に阿井のとあるお宅で聞いてきてもらいました。(2016/10/31)
 ホウコは「ホウコ餅」というのをお嫁にきたときにお母さん(姑さん)につくってもらった。草餅みたいなもの。つくりかたなどはわからない。
 ころびな→わからない。
 スズノコ→Hのおじいちゃんだったらわかるかも。 参照 阿井のホウコはいまどこに

温海カブの状況〜2016年10月16日

 温海カブは生育はまあまあ順調。しかーし。10月16日に間引きに行ったところ、牛の侵入痕跡があ。5分の1程度(?)食われていました。味をしめてしまったのかも、というかそうでしょう。雨が降り始めましたが、急遽、竹柵を増強。来週の間引きで再度増強します。
 関係各位にお詫び申し上げます。管理不行き届きでありました。申し訳ありません。
●10月16日
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●10月11日
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●9月25日
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●9月9日
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●9月3日
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土用豆の花が咲いた

 播くのが遅れてどうなることかと思っていた土用豆です。やっと花が咲きました。なんとか豆ができるまではいけそうです。
 三沢でわけてもらった土用豆。文化祭(産業祭)に出品されているのを見つけ、在来の豆があったのかと驚き喜び、、、放棄地に囲まれながらも元気に一人暮らしする婆ちゃんの家を訪ね、「持っていきんさい」とわけてもらい、それから在来の蕪菁(地カブ、正月カブ)に出会い、、、と。
 いろいろありました。まだいろいろあるでしょうが、ともかく、花をつけたのがうれしかった。

大根は縁起ものか?

 出雲民芸館で藍染め木綿を見ていたら。あれ、これは大根? 蕪じゃないの?

 というものを見つけた。

 他の図柄は鶴、松、海老、など縁起のよいものばかり。しかるに大根って縁起ものなの? 蕪なら年取りカブのこともあるし、とその場では勝手に思っていた。

IMG_2598

 いや、大根も縁起ものらしい。大黒との音の類似によってという記述がある。

 それから大和野菜には、祝い大根なるものも。

http://www.pref.nara.jp/8041.htm

※もうちょい調べて加筆しましょ。

備前國備中國にも熊子はあった

 昨日は島根県立図書館へ。諸国産物帳のなかの熊子探しです。索引をみながら、中もめくりながらしていたら時のたつのは早い早い。『備前國備中國之内領内産物帳』のなかに熊子を見つけて、〆切定刻ジャストに複写申請。備中にあったのは意外でした。ここまで、石見・伯耆因幡・播磨とあたってきて、残るは備後・安芸のみ。広島に行ったときにと思ったら、なんと島根大学図書館にあるではないですか。金曜日にGO。

 秋あわかあ。しかも「ただあわ」との並置です。ただあわ=熊子あわってことでしょうか。ただ米=うるち米という用法ですから、ただあわ=うるちあわでしょう。

 そして、熊子あわという名辞は出雲國では見られないものでした。《熊子=餅ではない/うるち》なのか? 粟の部のいちばん最後にもってきたということは、粟のなかでも特殊な部類にあるとの認識なのだろうか。出雲國の粟、あるいは他の穀類との名称や並べ方の異同をあたってみるべし。

 それから春焼きで播いた粟の状況も予断を許しませんね。日曜日に試しに少し間引いてみたのですが、いや、もっと大量に発芽していればざくざくと大胆にいけるのですが、なにせ少ないので気が引ける。

 逆にヒエなんて出過ぎているから、はさみで切らんとダメかも。そしたら、粟も鋏で切る〜?

 栽培法の教科書、ほしい、です。