天保7年の浜田、ある春の日

忙中閑あり、といえるのかどうか。
ここのところ、江戸時代の文書やら記録やらを、慣れぬ頭と手であれこれしているためか、ふと手を休めた夕暮れ、ほんの一瞬であるが、その時代の空気が流れてくる気がするのだ。
備忘として、その錯覚を記す。
天保7年の春。なぜか浜田城の裏門が見える場所に私はいた。ひとりの男の後ろ姿を見ている。
その男の名は橋本三兵衛。
浜田藩勘定方のひとりであった。
三千石の家老岡田頼母に見出された百姓の三男である。
豪放にして細心、奇想天外の意見するときもその裏に周到緻密な計算あって空想に馳せることなく、才気あるを認められて勘定方に進んだと伝えられる。町方、下士からも信望あり、また愛されたとも。
その日、朝から快晴であった空は、昼すぎより雨を降らせはじめていた。
三兵衛は、半年以上前から、準備していた。
郷里の親元親戚にはかたみの品をわけ、妻子は戸籍(宗門帳)から外し、別家をたてた。
後世が竹島事件と名づけた一件である。
家老岡田頼母、年寄松井図書、橋本三兵衛、そして廻船問屋八右衛門、ほか関係するものも多数いたであろう。逼迫する藩財政を陰で支えた抜け荷・密貿易が事件化したのである。
いくつもの但し書きを要するが、政争の渦中にあっての出来事にして、なにが本当だったかという目的をもってのぞめば徒労感に苛まれるだろう。
間宮林蔵の告を受けてこの件に動いたのは、大阪西町奉行矢部定謙である。翌天保8年、大塩平八郎が大阪で乱を起こした際、奸佞として糾弾された人物として知られるが、経済政策の見識についてはのちに高く評価されている。定謙もまた江戸町奉行を罷免後、無実を訴え絶食死と伝えられる。
そういう時代である。
濱辺には穏やかな春の波が打ち寄せていた。網を手入れする漁師と世間話をしていた廻船問屋の八右衛門は、やってきた捕縛吏に対し、どこにも逃げはしない、母に挨拶してからだと。その堂々たる態度に役人も気圧され従ったとは地元に伝わる話である。
それから幾時かをへた浜田城。橋本三兵衛は、門外で待つ捕縛吏を知ってはいたが、そんなことはまったく感じさせず、定刻どおりに辞し家路につくかのように門へ向かっていた。
小雨がだんだん強くなっていく中、傘もささずに、軒をわたりながら進む姿に、「橋本の旦那、傘をお持ちなさい」と差し出すものがあったが、「有がたう、もう、ついそこだから」と言って門を出たという。
二人は6月10日、大阪から江戸へ引き渡され、12月23日に死罪の申し渡しを受けた。
岡田頼母、松井図書の二人は呼び出しに応じ出立する前日の夜(暁方とも)、6月29日に自害。頼母74歳、図書34歳。
この年、雨は夏になっても降り止むことなく冷夏、加えて暴風雨と大洪水が襲い、ついで大霜となり諸作のすべてが大凶作。百年以上語り継がれる「申年のがしん」となった。
*多くは大島幾太郎『浜田町史』一誠社, 昭和10による。

其の日の早く来れかしとのみ存候

昭和19年5月3日。2日後には古賀峯一の殉職が発表されることになっていた。山本五十六の後を受け連合艦隊司令長官の職位にあった古賀の死が意味するものを、この国に生きていた人々が、この時どう受け止めたのか、思い至るは難しかろう。すでに戦局は著しく悪化、前年から学徒出陣が多くの若者を戦地への送り込んでいる時勢である。1ヶ月後の6月15日には、本土空襲が福岡の八幡製鉄所を嚆矢としてはじまる。

東京帝国大学の国史学科に学んでいた加茂町出身の速水保考は昭和18年に海軍予備中尉として大学から離れた。戦死している私の祖父の弟は戦地から帰還するも、再び出陣しているのだが、同じ頃ではなかったかと思う。送る者も見送らるものも、誰もが生きて帰れるとは思っていない。そんなころのことだ。

この日、柳田は疎開先の神奈川県愛甲郡(現厚木市)から、島根県松江市奥谷に住していた牛尾三千夫へ葉書を認める。

十六島のわかめ御手紙と共に今朝到着皆々珍らしかり且つなつかしく存候 北濱の村長ハ心ある人のよしうけたまはり候 一度そういふ人たちに逢ひニ出雲路をあるいて見たく候 其の日の早く来れかしとのみ存候

十六島かどうかはわからんが半島産の板わかめをあぶり食したあと、「炭焼日記」をとかんとして、たままた目にしたのだった。美しい文の調べと当時の時勢、東京と島根の距離、その他諸々、候文の機微に心打たれる。
「其の日」はついに訪れることはなかった。

定本柳田國男集の別巻2であったか、書簡の入っている巻には牛尾宛の書簡が2~3頁にわたって収められている。昭和17年1月13日には伊豆熱海の樋口旅館からのはがきに、折口氏来訪三泊共同し、の文のあと、「粒々辛苦」は精読いたし候 と。