令和2年7月11日山墾り備忘

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雨が続いたこともあり、しばらく山の畑へ出向けなかったのだが、合間をみて少しでもと夕刻に向かう。里芋は草に埋もれつつあるものもいて、この際、草刈。この草、なんという草なのかすきまなくびっしりと生えており、土もつくってくれそうなので、残す方向で。

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大豆は虫に少々食われているものの、まずまずの生育ぶり。もともとこの区画は痩せておるのか草も少なく丈も低い。トウモロコシはじめ穀物は育たんかったので、大豆ならと、少しだけ耕起しての挑戦。

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大豆のそばにはヒメホコリタケがぽつぽつと。

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ヘミツルアズキは柵のそばに。柵にまとわりついてくれればよいのですが。

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カボチャ(かちわり)は草に負けそうで負けてない。少々手助けはしないと実を太らせてはくれないので、草をどかした。

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アマランサスが草に埋もれていたのでえこひいきしてみた。種を蒔いたつもりはないので、靴について運ばれたのか、ほかのなにかにたまたま混ざっていたのか。今年は山ではつくれずに終わるのかと思っていたので、少しうれしい。

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タカキビ、初期成長がよくなかっのがようやくここまで。やや遅い。しかもこれ、間引くか何かしないと。次回にまわすことにして草刈りを少々。

山墾りからあれこれ備忘

◆白大豆を蒔きながら
6月21日の山の畑、白大豆を蒔きながら、思い出す。
昨年の山の菜園場でのこと。白大豆をまいたまわりには、トウモロコシやタカキビを蒔いたが、まったく成長しなかった。ナスもそうだった。もともと土壌がやわらかだったところに蒔いたタカキビが数本だけ、なんとか上出来の収穫だったほかは、まったくといっていいほどの出来だったのだ。
大豆だけがよかった、その昨年の記憶が、こうして大豆を今年、まかせている。
昨年は、最後の最後でタヌキかだれかに半分弱ほどを食われてしまった。今年はどうするか、まず畑地と藪との距離を広げておくことがひとつ。草も夏の終りには刈っておく。そして、収穫の前に一度外側なりで消炭でもつくって、焼けた匂いを漂わせておくか。草を焼いて燻された匂いを残すようにするのも、あるいはよいかもしれない。
一方で、まったく駄目かもしれない、そんなことも思いつつ、だ。
そう、これから夏本番を迎えるにあたって、こうした天然農場は、まさに土づくりのシーズン。いかに草に仕事をしてもらうか、考えておこう。
外から持ち込むのは米ぬか、そして、今年は購入した油かすを少々。稲わらはないので、茅で代用か。
それにしても、なぜ大豆なのか、だね。
※7/3追記…白大豆は半分ほどが発芽していた。10日で半分か。

◆6月12日の消炭づくり

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森のことの葉〜#7_Book 7 days

◆本の顔の7日間、その7。

ある夜、何を思うわけでもなく書棚から一冊の本を抜き、開いた頁から押し寄せてくる波に、ゆだねながらそれに乗るということができたなら、読むという愉悦とともに、どこまでもいつまでもその時間は延伸できる、ように、そのただなかには感じられる。その全き自由を支えているのも時間なら、ついていたはずの翼がないと気づかせるやいなや、全身を襲う倦怠を墜落の後悔とともに押付けるのも時間だ。

そして、次の3冊の中には時間が欠けている。欠けているがゆえに読むことの永遠性に開かれている。と同時に3冊はスタイルと顔をまったく異にしながら、ひとつの物語のように連続している。……この続きは、森と畑と牛と1号で、たぶんそして必ず。

◉ミッシェル・フーコー、神谷恵美子『臨床医学の誕生』みすず書房

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わたしが、そしてあなたが、考えない(考えられない)ことは何なのか? この問いを抱えて読む書。

「人間の思考のなかで重要なのは、彼らが考えたことよりも、むしろ彼らによって考えられなかったことのほうなのである」序文より

そして、右の英文は、パースのWhat Is A sign?
https://www.marxists.org/reference/subject/philosophy/works/us/peirce1.htm
この本に時間がない、欠けているという言いぐさは、おかしいだろうか。医学史の一冊として読まれているだろう書であろうし、書名からして、歴史=過去の時間の流れを追いながら、生じた出来事をある規則性、構造として可視化するもの、そういうものであろうから、時間が欠けているはずはなかろうと、そういう疑問が浮かぶほうが自然だ。その自然さに対して、こう言ってみよう。時間の本質とは流れと変化であり、そこからして、未来と同義であると。歴史が扱うのは過去でしかないし、過去のすべてがわかったとて、未来を知るのに十分ではない。そして変化こそが知ること、治める、統治することととは異相の世界を開くのである。


さて。
時間とは、ハイデガーの現れを支えるものではないかと、そう捉えることが、この本と顔と顔をつきあわせて対話することを可能にする。

  

エドゥアルド・コーン、奥野克巳、近藤宏『森は考える』亜紀書房

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 「この本の内容は空間、ことばおよび死に関するものである。さらに、まなざしに関するものである。」
先のフーコーの著書において序文冒頭に掲げられた一文は、そのまま、この本の序となりうる。

川の源を同じくするからなのか。
50年ばかりのときを隔てて、フーコーソシュールから、コーンはパースから、記号論の支えを得ている。

そうしたことも理解の支えになるが、なにより強調されるべきは、「まなざし」であろう。
まなざしを支えるのは、姿勢、位置でもあるが、意思でもある。その意思=心とは、個のものではない。individual、分割できない単位とは違い、心とは川の流れ全体に浮かぶ泡のようなものだ。

河井寛次郎『六十年前の今』日本民芸館

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のちほど。

◉ユクスキュル『生物から見た世界』岩波文庫

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のちほど。

すべての生き物はね、死んだらだれかに食べられるのよ〜#6_Book 7 days

◆本の顔の7日間、その6。

◉ジル・クレマン、山内朋樹『動いている庭』2015,みすず書房
これは焼畑の本である。
ピンとくる人は、どこにもいない、と思うけれど、言ってみる。
庭の本でないことは確かだが、著者は作庭家である。
また、すぐれた実務書でもある、と私は思う。
なんの役にたつ本なのか?と問われても困るけれど、なにかの役に立つ本なんて実は何の役にも立たないものだが、この本はなんの役に立つかわからないのに、いやだからこそきっと役に立つのだと、強く言ってみる。
あぁ、そうそう本題。庭を畑におきかえても通じる本。動いている畑、それが焼畑

下は同名の映画の画面ショット。みすずの本の方よりも顔としていいなと思う。中央、横切る人物がジル・クレマン。

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 https://www.msz.co.jp/book/detail/07859.html
みすず書房のサイトでは序文が読める。
これだけでも読んでみられることをおすすめしたい。

 

何年か前の火入の後、3日後くらいの様子。こんなにも菌が炭にくいついている。

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◉小川真『森とカビ・キノコー樹木の枯死と土壌の変化』2009,築地書館
これも焼畑の本である。
今年島根県で開催される予定だった植樹祭は1年延期となった。
なぜか。コロナのせい? いや、そうではない。そんなことを考えさせてくれる。
原因と結果を単純に結びつけたがるのは、機械を組み立てる発想だが、生物・生命は違う。
パーツを組み立てれば機械は動く。生物はそうはならない。つねに部分ではなく全体が先にあるからだ。
そこから、病気とはなんなのか、その本質性を垣間見ることができる稀有な書。

不思議なほどに島根県の話がたくさん出てくる。

 

◉大園享司『生き物はどのように土にかえるのかー動植物の死骸をめぐる分解の生物学』2018,ペレ出版

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これだって焼畑の本である。

「ねえねえ、死んだらどうなるの?」
「すべての生き物はね、死んだらだれかに食べられるのよ」
生と死が交錯する、食べたり食べられたりする場に、自らも同調すること、それこそが、森の本質であると思う。
焼畑は森とともにある。

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本は物であり、物には心がある〜#5_Book 7 days

◆本の顔の7日間、その5。
◉バッジュ・シャーム、ギター・ヴォルフ『世界のはじまり』2015,タムラ堂

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木綿、麻のクズ布を砕いて漉いた紙。都度調合される色。中部インド、ゴンドの吟遊詩人であり画家であるバッジュ・シャームの神話世界。
さわる本。本が物であることを忘れないために。


Creation 『世界のはじまり』メイキング映像

◉田中忠三郎『物には心がある。』2009,アミューズエデュテイメント

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 本が物であるとき、本には心が宿る。
 そして、この本は、いまの書店・流通を拒否しているかのようだ。わたしは、ドンジャをさわることができた浅草の博物館で贖った。だれもがどこでも買える本など本ではない、のかもしれない。心は買うものでないのと同じく。

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茸師と飢饉

【雨の日の地図旅行、その備忘】
五年ごし?の宿題を少々。

◉茸師 三平
大分県津久見市長泉寺境内にある椎茸碑の中に、次の一文がある。
「往昔、天保の頃、津久見の先覚者彦之内区三平、西之内区徳蔵、嘉吉、平九郎、久吉等の椎茸栽培業研修に端を発し、三平、徳蔵は石見へ出向、椎茸栽培業を経営す。是中国に於ける専門事業者の始祖なり」
 三平は、豊後から隠岐島にわたり後継者も続く石堂長吉とくらべて一世代ちょい前の享和三年(1803)の生まれ。
 徳蔵は津和野藩領であった横道村に、三平は浜田藩領の広見河内村に入って茸山(ナバヤマ)をする。

 嘉永5年12月、三平は茸山を下って里に出た。その帰路、平泊(二軒家)にあった知人の家に立ち寄り、知人は泊まっていくようすすめるが、三平は山へ帰っていった。雪が溶けた頃、三平は雪に埋もれて冷たくなっていた。三平は平泊の人にねんごろに葬られた。その春、三平の茸山には凄まじいばかりの春子ができ、村人は驚嘆し、その遺徳をたたえ、供養塔をたて三平祭りを営んでいる。
……というのが要旨なのだが、平泊がどこなのかがわからないし、疑問は多々。
たとえば。
「茸山を下って里へ出た」とあるこの里とはどこなのか。平泊(二軒家)の地名がさすところがはっきりすればと思うのだが……。いちばん近い里は東村(下の石見国図)。しかし、東村から広見のどこかに存在した三平の茸山(をのぞむ三平の住処)に帰るにしては距離がかえって近すぎるのではなかろうか。平泊が東村と広見の中間的位置にあるとして、どうだろう、遠くても3km程度か。が冬山で吹雪にあえば距離の問題ではない。
石見ではなく現在の北広島にあたるところだということも考えられる。里とは、横川または戸河内。冬でも半日から一日ほどもかけず行けるところではありそうだ。
ただ、平泊で調べるからわからないのであって、平溜なら、匹見の小原集落の奥にある。しかも、三平の墓はかつてそこにあったという渡辺友千代さんの証言もある。そちらがどうかということはまた別途。(2020/09/26追記…)
匹見に残る三平の墓石には、茸師市兵之墓と刻まれている。三平ではなく市平。これもわからない。

三段峡〜広見

 三平が匹見にやってきた(と思われる)天保11年あたりの年について、石見国図を眺めながら、あれこれ渉猟してみたが、天保8年に広見河内村で17戸中6〜7戸が逃散の記事からの前進はなし。逃散後、空いたままの民家に三平が住まいしたかもしれない。この年は大阪で大塩平八郎が蜂起する事件が起こっている。前年の天保7年は、「申年の飢饉」と呼ばれる大飢饉がこのあたり一帯を襲った、そんな時代である。

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石見國図〜国会図書館デジタル

◉向峠のウダオレ
 三平は、豊後から匹見へわたってくるその道で、多くの窮状を目にしたであろうことを想像しながら。
三平が没した広見河内から一日あれば行けるところでは一村全滅に近いこともあった。昭和11年には百回忌の法要があったという。

《この土地で困ったことと言えば飢饉であった。飢饉はじつに多かった。食べるものがなくなると、座に敷いてある筵をさいて食べたという話もある。すると子供の小便がしみていてうまかったという話さえ残っている。
 向峠から宇佐へ下るところに墓があるが、これはウダオレとて餓死したものを埋めたところだという。さびしいところで木がよく茂っていて、若いものが夜宇佐へあそびに行って、ここまでかえると狼が頭の上をとび越して行ったという。その藪の中に何人も死んだ人がいた。坂がのぼりきれなかったのであろう。
 銭をくわえて死んでいたという話もある。一番ひどかったのは申年(天保七年)の飢饉で、村のものはおおかた死にたえかけたという。その百回忌が昭和一一年にあった。》
 宮本常一著作集23「中国山地民俗採訪録」未来社より。
 現在の山口県玖珂郡高根村向峠のこと。昭和14年の記録。

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△昭和4年〜7年に修正測量された5万分の1地形図を張り合わせたもの。

◉美しい村
 昭和11年、向峠で申年の飢饉の百回忌が行われた五年後の昭和16年牛尾三千夫は、現在の金城町波佐から匹見、河津、向峠までを歩いている。いくつかのルートが(道なき道のため)不明なのだが、次の地点を確かめたく、あれこれ見た。
《河津越の頂に立って細長い谷間に点在している河津の部落を見下ろした時、非常に古風な感じがした。恐らくこの小さい部落は最初に木地屋等が来て住みついた処であらう。このあたり一望見渡す限りのナバヤマである。あれだけの栗の木を倒して椎茸を生やすのであるが、これが栗の木を切らずにゐた場合の栗の花盛りに、たまたまゆきあふとしたら、さぞかし花の匂いにむせかへるだらう。そして秋は何石何十石といふ栗の実を拾うことも可能であらう。大庭良美君の話によると、日原村の左鐙の横道では、十何俵といふ栗の俵が軒に吊ってあったのを見たと云ってゐた。そして此処では栗一升に米一合の割で日々食べてゐる。即ち栗が主食物であるといふ事を知ったと云ってゐた。》
 牛尾三千夫「美しい村ー民俗採訪記」昭和52,石見郷土研究懇話会

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△河津越の頂とはどこであったか。現在、山道は埋もれているが、昭和50年代撮影の航空写真でみると、推測しやすい。おそらく囲ったあたりから図外に至るところ。

茸作 豊後國市平墓〜#4_Book 7 days

本の顔の7日間、その4。
◉茸作 豊後國市平墓

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匹見の紙祖にある茸作・豊後國市平の墓。市平(三平)は、天保11年に豊後國から石見國の疋見組にやってきます。嘉永5年まで椎茸の栽培を行います。どこの山かはわかりません、ひとりだったのか、何人かで手掛けていたのか、それもわかりません。ただ、嘉永5年の11月、ある雪の日に亡くなったということ。僅かな伝承と盆踊りの歌詞に残るほかには、この墓石が残るのみ。
私にとっては、本のカヴァーのひとつということで。本そのものはすべて、すでに死んでいるのであって、表紙は墓石のようなものです。
ただ、こう書くと、なんだか奇を衒っているようで、そんなつもりはさらさらなく、言い訳がましくも、二冊のカバーと一枚の写真を添えて。

◉大庭良美著『石見日原村聞書』

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明治九年に大分の豊後に生まれ、ナバつくりを覚えて、18歳のときには「柿木の椛谷のしもの地蔵さんのおんなはるえき(大きな谷からわかれた支谷)」にいた老人の聞き書きがあります。
「ナバつくりは十一月三日の天長節のうらひら(前後)に水を見る」のだというところからはじまる一連の流れを、何度読み直したことか。「水を」「見る」のです。この見るは「占う」に近いのですが、私たちが考えている占いとはかなり異なるものです、たぶん。

◉昭和三十年代のとある写真

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先の聞書で、老人が大庭氏へ語って聞かせたのは昭和39年。昭和30年代の一葉として。妻の実家の前なのですが、石見日原村聞書に現れる方言を、妻に問いながら読めることは、この写真ともあわせて、時間の扉を開ける手助けをしてくれます。
「いかいナバ」
「ボヤボヤすればすわく」
言葉とは意味内容だけではわからない、そして翻訳不能なものを含んでこそ。

テッド・チャン『息吹』

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墓石からはじまってベストセラーで締めるのはいかがなものかとも思いますが、カバーといえばこれを。
コロナの件で観に行けなくなった映画「つつんで、ひらいて」を観に行くぞという意とともに。(どこで?いつ?)

www.magichour.co.jp

装丁家・水戸部功のカバーです。
さて、巻頭におさめられたテッド・チャンの「商人と錬金術師の門」は、これまで紹介してきた前の3冊、そしてこの後の3冊をつなぐものでもあるのです。
「過去と未来はおなじものであり,わたしたちにはどちらも変えられず,ただ,もっとよく知ることができるだけ」

◉茸作 豊後國市平墓補遺

†1. 田代信行さんに調べていただき、実在を確認のうえ、写真まで送ってもらいながら、まだ参れていないのですが、今年の夏までに。

†2. 2018年11月9日のメモより
青木繁,1966『豊後の茸師』(富民協会出版部)…匹見に茸づくりを伝えた三平について、この文献を参照とした資料をいくつか見てきた。国会図書館にもなく、大学図書館で蔵するところも少ないのだが、なぜか島根大学附属図書館にはある。2年越しの宿題をかなえるべく、のはずだが、やや拍子抜け。そこまで詳細なものではなかった。とはいえ、生年や経歴などがはっきり記されているのは、ほかに参照している資料があるのだろう、、ということは伺える。
・茸師三平
享和3年(1803)、現在の大分県津久見市彦之内に生まれる。天保5年から同10年まで深場官山の藩営事業場でシイタケ栽培の講習を受け、同11年から嘉永5年まで、現在の島根県津和野町匹見に居住しシイタケづくりに励んだ。

†3. 天保8年の広見河内
角川の地名辞典からの

本の読み方、世界の見方〜#3_Book 7 days

本の顔の7日間、その3。
種村季弘『雨の日はソファで散歩』筑摩書房,2005

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「書かれたものは、いわば音符に過ぎない」中井久夫
この本は、推理小説にも似た、謎解きを誘うようなところがあって、そんな奏で方(読み方)があったのかという訪れを、静かに待っているようにも、見える。
たとえば。
「鳥目絵の世界」と題された一編。
鳥目絵、鳥瞰図をめぐるひとしきりの話の後、これでおしまいという結語のような〆につづけて、そうそう大事な話を忘れていたというように取り出される一節がある。
ドラマシリーズ「相棒」で杉下右京が、去り際「あぁ、そうそう、最後にひとつだけ」といって大事な質問をするあれのように。
種村季弘によって、それはこう切り出されているのだ。
”気になっている鳥瞰図がある。精神病理学者の中井久夫がポーの「ランダーの別荘」を、その記述通りに鳥瞰的に再現した地図である。……(略)……ポーの「ランダーの別荘」は、谷崎潤一郎「金色の死」や江戸川乱歩「パノラマ島奇談」のモデルとなった。とりわけ「パノラマ島奇談」では独裁者的人物の偽の神の目の下でパノラマ化した島が果ては大花火とともに空無として消え去ってしまう。”
どうだろう、迷宮の入口らしきものを感じられたのであれば、この続きを、どこかで誰かと話せる日を楽しみに取り置こう。
いや、いや、その前に、手元に置かれたままの原稿を本にまとめる約束を果たさなければならない。
まち、むら、やま、そういうものを本を読むように読むことができる。「……そのノウハウを教えてくれたのは、私の先生で種村季弘という人がおりました」と語られる髙山宗東氏の一稿。
どんな絵になるかもわからないパズルのピースだけが、本の外側のほうぼうに、転がっている。それを拾ってきて、この本の中にあてはめてみるのだ。

〜#2_Book 7 days

本の顔の7日間、その2。

中井久夫『「つながり」の精神病理』ちくま学芸文庫,2011

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いま、自分の手元にある本の中から、一冊だけを過去の自分に贈れるのだとしたら。
これを二十歳くらいの自分へ届けてやりたい。
その理由について……。
日本語の文章として究極のお手本。よくよく分析してよくよく学べと。天賦の才がなせる技芸とはちがい、正しくわかりやすくおもしろく伝える何かをもって記されている。だから、学べる。
論点の明示と理路の明晰さ。伝え方のリズム、文体と内容の一致、鍵となる言葉の選び方、素晴らしい。そして、なにより読みやすい。かなり抽象度の高い内容であっても。これは、読む側の身になって書かれているからであろう。精神科医の基本的な構えから鍛錬されたものだろうか。

日本では、病院でも官庁でも中で一般人が迷うようにできている。日本の組織は自分の活動がしやすいように仕組みをつくり、相手の身になる発想がないからだ。中井はそう述べているが、多くの日本語テキストもそれが当たり前になっているのがわかる。いかんいかん。

あらゆる職業人、実務家、プロフェッショナルを自負するあるいは目指す人にとって、直接間接に大変重要な示唆を与えてくれる箇所が頻出する。ほとんどはそれと意識しないと読み取れないが。わかりやすいところもある。医学研修生に向けて書かれた短いテキストもそのひとつ。
「医学はなぜ独習できないか。技能的行為ー熟練行動ーは言語よりも多分情報密度が一次元高いからである」
ことは医学に限らない。あぁ、そうだ、そうなのだと、もちろんわかっていても、こういう総括の表現があるのだと、声をあげるなり膝を叩くなりする人は私ひとりではないだろう。
「読むよりも語るほうが、語るよりも示すほうが正確な伝達という場合が確かにある。…中略…書かれたものは、いわば音符に過ぎない」
読み物として流し読みしても残るかもしれないが、意識的に読むといい。

世界の複雑さと深遠さは「at home」の中に凝縮されてある
「一つの家族を精神科医が理解することは、ひょっとすると、文化人類学者が一つの文化を理解することに相当するほどの事柄なのではあるまいか」
1日目で紹介した『家族のように暮らしたい』とのつながりでもあるのだが、このヒントを三十年前に得て、進んでいたら、ずいぶんといまより先に進めていただろうにと。

 余談ではあるが、コロナ禍ついでに。
中井は1960年に京大ウィルス研究所でそのキャリアをスタートさせる。入所直後から「しまった」と気づき、転身をはかるのだが、このときに残した「遺産」のひとつが助手のためのマニュアルであった。試験管を洗う洗剤の選定から溶かし方、くしゃみが出そうになった時の対処法などをガリ版でつくったのだ。そのマニュアルは他の研究所にも複写が伝わり改訂を重ねていったのだという。その現物に、二十年後に再会する逸話がある。おそらく、そのかけらは、今日も、PCR検査の現場で、生きて使われているのだと、思う。
最後に。
中井がウィルス学の世界にいたのは「しまった」と気づいてから六年間ほど。その間の主な仕事は、細胞とウィルスの相互作用だった。ウィルスとレセプターとの反応を時系列的な分類にまとめ、それぞれの標識を見つけようとした研究だ。成果のひとつが、初期の反応は一見感染が成立しない細胞からとったレセプターでも起こることのようだが……。
あぁ、「つながり」とはウィルス感染の原理(でもあった)か。

 ついでに。中井の京大ウィルス研時代の上司は川出由己である。川出の一高時代の親友が南方熊楠研究で知られる長谷川興蔵。川出は長谷川の死に際して寄せた一文にこう記している。「どうやら彼の魂の一部が、ぼくのなかに入りこんで生きつづけているのに違いない」と。
これもまた「つながり」であるが、ではつながりとは何かをここでまとめるのなら、生物が、それはヒトだろうがゾウリムシだろうが桜の樹だろうが、ウィルスだって、生きるという目的を持つことから生まれるものだと、そういうことになろう。

〜#1_Book 7 days

◉大河原宏二著『家族のように暮らしたい』2002年太田出版

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絶版にはなっていますが、古書はそこそこ流通しているようです。
著者がなくなったのは、2010年12月31日。
読まれ続け、残っていてほしいと願う本。
疲れすぎた夜も、なんだかイライラするときも、やるせないときも、やる気がでないときだって、この本を開くと、不思議に落ち着いた時間が訪れます。
あとがきには、こう記されてます。
「思想もない、理念もない。では、こだわりもなかったかと問われれば、ひとつだけあったと、答えることができます。それは無名であり続けることのこだわりでした。わたし達の運営してきたケアハウスは、無名の老人がその余生を送るところです。ここは、どのような意味においても特別な場所ではなく、また、特別な場所であってはならない。……(略)……老人がどこに、どのように暮らそうとも、そもそも生活というものが複雑で猥雑なものなのですから、いろんなことがあるでしょう。それを誰かが、いちいち取り上げて記述し、公表するなどということはありません」
こだわりという言葉が好きではない私ですが、ここで使われた「こだわり」の、その反抗性に、ひどく揺さぶられるのです。