本の読み方、世界の見方〜#3_Book 7 days

本の顔の7日間、その3。
種村季弘『雨の日はソファで散歩』筑摩書房,2005

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「書かれたものは、いわば音符に過ぎない」中井久夫
この本は、推理小説にも似た、謎解きを誘うようなところがあって、そんな奏で方(読み方)があったのかという訪れを、静かに待っているようにも、見える。
たとえば。
「鳥目絵の世界」と題された一編。
鳥目絵、鳥瞰図をめぐるひとしきりの話の後、これでおしまいという結語のような〆につづけて、そうそう大事な話を忘れていたというように取り出される一節がある。
ドラマシリーズ「相棒」で杉下右京が、去り際「あぁ、そうそう、最後にひとつだけ」といって大事な質問をするあれのように。
種村季弘によって、それはこう切り出されているのだ。
”気になっている鳥瞰図がある。精神病理学者の中井久夫がポーの「ランダーの別荘」を、その記述通りに鳥瞰的に再現した地図である。……(略)……ポーの「ランダーの別荘」は、谷崎潤一郎「金色の死」や江戸川乱歩「パノラマ島奇談」のモデルとなった。とりわけ「パノラマ島奇談」では独裁者的人物の偽の神の目の下でパノラマ化した島が果ては大花火とともに空無として消え去ってしまう。”
どうだろう、迷宮の入口らしきものを感じられたのであれば、この続きを、どこかで誰かと話せる日を楽しみに取り置こう。
いや、いや、その前に、手元に置かれたままの原稿を本にまとめる約束を果たさなければならない。
まち、むら、やま、そういうものを本を読むように読むことができる。「……そのノウハウを教えてくれたのは、私の先生で種村季弘という人がおりました」と語られる髙山宗東氏の一稿。
どんな絵になるかもわからないパズルのピースだけが、本の外側のほうぼうに、転がっている。それを拾ってきて、この本の中にあてはめてみるのだ。

〜#2_Book 7 days

本の顔の7日間、その2。

中井久夫『「つながり」の精神病理』ちくま学芸文庫,2011

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いま、自分の手元にある本の中から、一冊だけを過去の自分に贈れるのだとしたら。
これを二十歳くらいの自分へ届けてやりたい。
その理由について……。
日本語の文章として究極のお手本。よくよく分析してよくよく学べと。天賦の才がなせる技芸とはちがい、正しくわかりやすくおもしろく伝える何かをもって記されている。だから、学べる。
論点の明示と理路の明晰さ。伝え方のリズム、文体と内容の一致、鍵となる言葉の選び方、素晴らしい。そして、なにより読みやすい。かなり抽象度の高い内容であっても。これは、読む側の身になって書かれているからであろう。精神科医の基本的な構えから鍛錬されたものだろうか。

日本では、病院でも官庁でも中で一般人が迷うようにできている。日本の組織は自分の活動がしやすいように仕組みをつくり、相手の身になる発想がないからだ。中井はそう述べているが、多くの日本語テキストもそれが当たり前になっているのがわかる。いかんいかん。

あらゆる職業人、実務家、プロフェッショナルを自負するあるいは目指す人にとって、直接間接に大変重要な示唆を与えてくれる箇所が頻出する。ほとんどはそれと意識しないと読み取れないが。わかりやすいところもある。医学研修生に向けて書かれた短いテキストもそのひとつ。
「医学はなぜ独習できないか。技能的行為ー熟練行動ーは言語よりも多分情報密度が一次元高いからである」
ことは医学に限らない。あぁ、そうだ、そうなのだと、もちろんわかっていても、こういう総括の表現があるのだと、声をあげるなり膝を叩くなりする人は私ひとりではないだろう。
「読むよりも語るほうが、語るよりも示すほうが正確な伝達という場合が確かにある。…中略…書かれたものは、いわば音符に過ぎない」
読み物として流し読みしても残るかもしれないが、意識的に読むといい。

世界の複雑さと深遠さは「at home」の中に凝縮されてある
「一つの家族を精神科医が理解することは、ひょっとすると、文化人類学者が一つの文化を理解することに相当するほどの事柄なのではあるまいか」
1日目で紹介した『家族のように暮らしたい』とのつながりでもあるのだが、このヒントを三十年前に得て、進んでいたら、ずいぶんといまより先に進めていただろうにと。

 余談ではあるが、コロナ禍ついでに。
中井は1960年に京大ウィルス研究所でそのキャリアをスタートさせる。入所直後から「しまった」と気づき、転身をはかるのだが、このときに残した「遺産」のひとつが助手のためのマニュアルであった。試験管を洗う洗剤の選定から溶かし方、くしゃみが出そうになった時の対処法などをガリ版でつくったのだ。そのマニュアルは他の研究所にも複写が伝わり改訂を重ねていったのだという。その現物に、二十年後に再会する逸話がある。おそらく、そのかけらは、今日も、PCR検査の現場で、生きて使われているのだと、思う。
最後に。
中井がウィルス学の世界にいたのは「しまった」と気づいてから六年間ほど。その間の主な仕事は、細胞とウィルスの相互作用だった。ウィルスとレセプターとの反応を時系列的な分類にまとめ、それぞれの標識を見つけようとした研究だ。成果のひとつが、初期の反応は一見感染が成立しない細胞からとったレセプターでも起こることのようだが……。
あぁ、「つながり」とはウィルス感染の原理(でもあった)か。

 ついでに。中井の京大ウィルス研時代の上司は川出由己である。川出の一高時代の親友が南方熊楠研究で知られる長谷川興蔵。川出は長谷川の死に際して寄せた一文にこう記している。「どうやら彼の魂の一部が、ぼくのなかに入りこんで生きつづけているのに違いない」と。
これもまた「つながり」であるが、ではつながりとは何かをここでまとめるのなら、生物が、それはヒトだろうがゾウリムシだろうが桜の樹だろうが、ウィルスだって、生きるという目的を持つことから生まれるものだと、そういうことになろう。

〜#1_Book 7 days

◉大河原宏二著『家族のように暮らしたい』2002年太田出版

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絶版にはなっていますが、古書はそこそこ流通しているようです。
著者がなくなったのは、2010年12月31日。
読まれ続け、残っていてほしいと願う本。
疲れすぎた夜も、なんだかイライラするときも、やるせないときも、やる気がでないときだって、この本を開くと、不思議に落ち着いた時間が訪れます。
あとがきには、こう記されてます。
「思想もない、理念もない。では、こだわりもなかったかと問われれば、ひとつだけあったと、答えることができます。それは無名であり続けることのこだわりでした。わたし達の運営してきたケアハウスは、無名の老人がその余生を送るところです。ここは、どのような意味においても特別な場所ではなく、また、特別な場所であってはならない。……(略)……老人がどこに、どのように暮らそうとも、そもそも生活というものが複雑で猥雑なものなのですから、いろんなことがあるでしょう。それを誰かが、いちいち取り上げて記述し、公表するなどということはありません」
こだわりという言葉が好きではない私ですが、ここで使われた「こだわり」の、その反抗性に、ひどく揺さぶられるのです。

山吹の咲くころ、藪払い少々と筍掘りと

山へ通う道の途中、ヤマブキの花がこぼれ落ちるように咲き乱れているカーブがある。見とれすぎないように気をつけているのだが、あぁ、車をとめてみてみようと、何度も思いつつ、いつも通り過ぎてしまう、今日も。

さて、今朝方は少しばかりの雨模様。予報ではすぐにあがり晴れとなるはずだったが、雨は断続的に降り続き、曇り空は昼前まで続いた。今日の山仕事は中止にしようかという思いがほんの少しかすめたものの、早めの昼食をとった頃からは、陽が射しはじめ、風も強くなった。春らしい、そう、たしかに春らしいお天気だ。

なにせ2週間ぶりくらいではなかろうか。なにをやるか、どこから手をつけるか。こういうときは慣らし運転から。淡竹の小さな林となっているところの藪払いから手をつけた。数年放置してあったから、蔓もからんでいてひどいものだ。1時間ちょっとで半分弱ほどを片付けた。次回、それは再来週までのところだと思うが、残りを片付けられたら、この場所がもう少し気持ちよい場所となるだろう。

そう。藪を片付けているところへ、「筍をとらせてもらいにきました」と老夫婦おふたりが。めったに「お客さん」はこないところではあるし、ほとんどひとりでやっているところへ誰かがやってくるというのは、うれしいものだ。きけば、ここに四軒ほどあったうちの方だという。「ここはよう筍が出るのを知っとるから」と。そうでしょう。岩内山の水がおりてくる土地ですし。ご主人は森林組合で仕事をしておられたそうで、チェーンソーがない時代からやっていたというから、あぁ、機会があれば、そのお話を聞きたいと思う。

さて、続きは春焼き予定地での竹の移動。ざっと見てまわり、北西の端から積んである箇所からの移動に手をつけた。どれくらいかかるのか、どこまでやるのか、いつまでに仕上がるのか、早くても6月の第一週かな、どうだろう、考えながら投げたり、運んだり、切ったりを続ける。手脚が動きづらくなったところで、あがることにした。引き上げる途上、ポツポツと筍が土から顔をのぞかせているのを目にして、ひとつふたつ掘っていくか思い立ち、米袋に半分ほど大小あわせて6〜7本ほどを掘り上げた。

畑においたきりの消炭も袋にいれて持ち帰る。裏の畑、そして庭の改良資材とするもの。

ミツバチの待ち箱は来年の設置だろうなあと、山を降りるときに思う。準備はすすめる。きてみれば、あれもこれもと、山のようにすることしたいことはあるものだ。

出雲の山墾り〜2020sec.14;菜園で竹を焼く

竹を積み、焼き、消炭をつくる。竹は3年前の火入れのときからの燃え残りがほんの少々。竹は少々では燃えない。強く乾燥した状態であればよいのだが、そうした時分には延焼が心配だ。よって、いまの時分に、大量に集めて燃やし、消炭を得るのがよいのである。

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天気予報は曇りであったが、11時過ぎまで雨が降り続いた。SCWの予測画面では雨雲は12時くらいまでかかっていたので意外ではなく、ただときに豪雨となったのには驚いた。そうした雨は車中でしのぎつつ、準備にかかる。積みかけてあった竹をさらに積みましていく。

場所は今春火入予定の区画の端っこ。この消炭づくりは広義の防火帯形成でもあるわけだ。燃えやすい区画は燃材をできるだけとりのぞいておくこと。これで、いちばん厄介だとみていた東端の区画の整理が3分の1ほどは終わっただろうか。

13時30分ごろから点火して、14時半くらいからは2人のボランティアも入り、4名で燃やし方と消炭づくりを進めていく。エンジンポンプがあれば噴射してあっという間にできるのだが、水をバケツに汲んできては炭をスコップですくって中に入れ、また取り出しということの繰り返し。まあ、これくらいにしとこうという体力と時間で区切ってしまった。あとは灰を利用するということにして。火曜日あたりにはとっておかねば風で飛び散ってしまう。あぁ、そういえば、この区画は南側が山手であって日照はよくないのだが、風あたりは少ないのだった。

炭は山の水脈改善に使っていく。もっと大量に確保したいので、消炭のつくりかたは次回は大きな水桶を用意してのぞむことに。あるいは小型のエンジンポンプを導入か。鳥の捕獲小屋脇は4月に入っての仕事になると思う。

菜園に樹を植える

この日、オリゼ畑の金木犀の下で大きくなっていたおそらく金木犀の実生ーとはいえ2m近くまで背をのばしたものーを移植した。えいやと乱暴に扱ったので、うまく根付くかどうか。ほか、大津氏が持ち込んで植えているものを列記しおこう。

・ツバキ
・ビワ
ブラックベリー
・(失念)

菜園、今年の野菜と穀物

この日のこととして、パープルサルシファイの移植と、キクイモの掘り上げのことを少々。キクイモは思ったよりなかった。斜面に近い場所だったので、日照とぼしいことで、さほどできていなかったのかもしれない。5つくらいを北の端、裸麦のそばにおいて、残りはケタ地のところなりにもっていこうと思う。パープルサルシファイは花が咲いたらいいなあという程度のもので、種がとれれば上等、期待はせずに待つ。問題は掘り上げた際に根をいためているので、これから根をはれるかどうかで、春の草がどんなかをみながらの経過を見ていこう。
タマネギも裸麦も古代小麦もオリゼ畑とくらべると弱々しい。標高が200mほどあがっていること、土のこと、日照のこと、それらを考えると、こんなところかとも思うが、どうなのだろう。
トマト、カボチャを主として雑穀の保険地として位置づけるのがよいかなと考えている。

3月20日、春の彼岸に山焼きを

蒜山・鳩が原の山焼きに行ってきた。風が強く22日に延期となったのだが、火入地を見て回り、話もきけて、貴重な機会となった。ここに備忘として記しおく。

†. カシワの樹は燃え残る
カシワの群落をはじめてみた。おもしろい。樹皮が火に強いからだとおっしゃっておられた。風衝地特有の植生でもあるようだ。カシワの葉の利用は縄文時代からその痕跡がみられるものだが、この樹の特性とどうかかわっているのか興味はつきない。

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†. 畑にはすぐに外来植生が入ってくる
大根畑が転々と残っていたようで、その場所が放棄されるととたんに外来植生が入ってくるようだ。現在、火入による草原の維持は、生態系保全を目的の大きなひとつとして掲げるエリアが多いなか、こうした場所はあまりないだけに貴重な観点だろう。

†. 古い話だと、火入といっても、勝手に火を入れて燃えるがままにまかせるようなやり方だったとか。そう語る老人がいままだいるということで、これは貴重。

†. 火のコントロールがしやすい場所がいまやっているところ
国道にそって東西につらなる回廊のような谷間地形の北面にあたる。風の通り道でもあるが、風向が複雑に入り乱れるような地形ではなく、かつ一定の傾斜角が続いている。もっとも、そうでない地点もあって、そこが難所ともなっているのだが。
地元でやっているときに、延焼がとまらず防災ヘリが出動したのだと。いまでは人工林が周辺には多い。

†. 向こう側の斜面は鳥取農学部が火入をしている
佐野敦之先生の講演で拝見したのは、向かい側であったか。写真に撮ったが、10年前に火入をやめたところ、三十年前にやめたところ、その境界が目に見えるところがあって、これが野外博物館。このケースは意図的ではないのだろうが、こうすれば可視化できるよという見本を見せてもらった。

†. 火のコントロールがしやすい場所がいまやっているところ
国道にそって東西につらなる回廊のような谷間地形の北面にあたる。風の通り道でもあるが、風向が複雑に入り乱れるような地形ではなく、かつ一定の傾斜角が続いている。

†. 「山焼き隊」による火入れ
山焼きを行っている主体は「山焼き隊」と地元集落だが、みたところのメインは前者。「山焼き隊」は真庭市の「津黒生きものふれあいの里」と医療法人創和会「重井薬用植物園」が協力して運営している。この日集まったボランティアはざっと50人前後。鳥取大学から8名くらいだろうか、あとほとんどは岡山ナンバー、倉敷ナンバーの車だった。

†. フサヒゲルリカミキリ
草原性のカミキリで日本固有種。しかも、近年生息が確認されているのはここだけ。ということは、おそらく日本最後の生息地となるだろう場所なのだった。しかもしかも、確実に絶滅へ向かっているとのことで、保全から保護的処置をとりはじめているということで、幼虫・成虫ともに食するユウスゲを火入地へ植えるという。植えたあとで火を入れても問題なしということで、延期となったこの日、千株単位を植えるという話だった。

†. ハガリとダイコン
ガリと呼ばれていた小規模の焼畑。焼いたあとにはカブなどを植えて収穫時にはウサギと一緒に食べていたと。

出雲の山墾り〜sec.13

3月7日の記録。
・キクイモほり……看板をたてたほうがいいかもしれない。
・火入れ越冬地のスペルと小麦確認……だめかあ。食われてる。食い散らかし程度だが何回もきてかじっているようだ。糞、足跡などの痕跡は確認できず。イノシシではない。タヌキだろうか。
・同じく越冬地のさまざま……大きな伐倒コナラははキノコの子実体が切り口にできていた。ここから自然に腐朽していくのだろう。カブはひとつだけもう花をつけていた。引き抜いて下へ投げる。ただ、全体に茎立ちはどれも弱い。日照不足よりは違う要因だろう。もともと葉も実も虫害がひどかった。よくもちこたえたともいえようが、どれをとっても甘みは極度に少なく苦味がつよい。すべて引き抜いて、バランスを欠いた土の菌ごと焼却するのがいいだろう。土に残ってもいるだろうから、経過は要注意とする。ただ、焼くのは冬季でないと無理。
・午後からボランティア初参加の2名とともに春の火入れのための竹の運搬。竹林内の古竹の運び出しをした後、予定地西端の積載部を取り崩して、引き出し、投げ落としなど。3人いると、1人のときと比べてみるみる片づくので気持ちがいい。
「まだまだこれ大変ですね」と言われても、ピンとこないのはそのせいもある。
けれど、なにより、やったぶんだけは毎回かたづいていくのだからいい。身体を使ってものを動かす。この単純さがよいのだ。単純であることは確かであること。確かであることが貴重な世の中だ。ひたすら竹を持って運ぶ。
「機械でががっとできるではないか。ポンプとタンクを十分に準備して人を雇って、そのまま火をつければいいではないか」
いや、そうではない。そうではないというのは、それができればそうしている、かもしれないのだが、できないからというだけの理由でもない。
・道の整備…水切予定箇所にかんたんなマーキングをした。前回から1週間、牛が通ったようで、さらにぬかるんでいた。とりあえずでも丸太をおいておけば沈んで埋もれていくかもしれない。次回、竹林内の杉倒木からいくつか運んでみようと思う。
・来週の消炭づくりは、畑地でやろうかと思う。
・杉の小さな実生をいくつもみる。注意を向ければあるものだ。つぶしてしまいそうなものはいくつか掘り出して、竹ポットにでも入れておこうか、実験的に。杉と苔と
・キハダ…倒れたまま竹のところに積んであった木。チェーンソーを入れてみた。キハダ。腐ってない部分もあるかもしれないが、のぞみ薄か。皮はとっくに使えないだろう、たぶん。染料としては使えるかもしらん。一緒に燃やすかどうか。それにしても臭いがきつかった。
・ヒバリの地鳴きが竹林の中から。空高く舞い上がりさえずる日も近い。春です。

出雲の山墾り〜sec.8

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春よ、ちょっと待って。
それは2月15日のこと。気温は昼過ぎには18℃。ここから100mくだった木次の日当たりのよい斜面では、オオイヌノフグリが小さな青い花を一面に咲かせていました。
山仕事の日。うごきはじめれば、シャツ一枚でも汗がとまりませんが、1本でも多く竹をきっていきたいところ。竹の伐採は3月上旬までの予定ゆえ、どこを優先するかを、つねに入れ替えながら進めます。とはいえ、そうかっちりきっちり進まないのが山のこと。この日も、気になったところを処置しながら、ざっと林縁部をまわるつもりが、この場所を集中的にかたづけることとなりました。
写真の中央からやや左にホオノキが竹に囲まれながらすっくとのびているのがわかりますでしょうか。やや人間本位というか自分本位の身勝手願望ながら、ホオノキは食材を包んだりなんだりと使い勝手もよく、これは息を吹き返してもらって、葉っぱを取りたいなあと、前から思っていたのでした。
モクレン科らしく春先の白い花も鮮やかで美しいものです。
だから、「この子」のまわりだけでも、新芽が春とともにのびだす前に、きれいな状態にしておきたかったのです。
なにせ、太い孟宗竹が密集しており、上部でからみあっている。竹だけならまだしも、このホオノキやノグルミ、コナラなどが混在していて、伐倒の際に掛かってしまうのです。樹皮を傷つけますし、なにより、引っかかったらそうかんたんには抜けない。
難儀でしたが、目処がたつところまでは整理できたかなあと思います。
あと2日とりかかったら開けるかなあ。

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s-orochi.org

そうそう。追記。

タヌキの糞溜まりがありました。イノシシかもしれんなあとは思いつつ。けっこうな量。去年までのものかなあ。これまでいくつかを、この山のなかでみていますが、こういうところにつくるのかなと考えられるようになってきました。
・太い竹が密集しているところ。
・林縁からちょっとだけ入ったところ
・ひとやまの中では中くらいの高さのところ。裾でもなく尾根でもなく。
・風はとおるが、陽はささない
・竹葉の堆積がそれなりにある。
だいたいこんなところ。

タヌキでしょうが、イノシシかもしれない。あぁ、あるなあ程度でしたので、次回からはしっかり観察してみましょう。

小屋を建てる

「なぜ、男は小屋を建てたがるのか」
この見出しにしようとしてやめた。「たがる」という言葉に含まれる揶揄はことの次第を見えにくくするだろうと、そう思い直したから。

「小屋を建てる」
つぶやくような、控えめな発言であっても、この言葉を聞いた男たちは、敏感に反応する。心にさざ波がさあっとたつような。
軽い興奮が寡黙な男たちを上機嫌にしていく。。。みたいな。
家だとそうはいかない。小屋でないと。
自分で建てるものだし、そういうものとして認知しているのだから、観たり聞いたりするだけで、身体がうずうずと反応するのだ。

で、たいがいは掘っ建て式となる。掘り方も、深さも、地面も、柱も、他さまざまなれど……この動画のように樹皮で縛るのもいいかもしれんと……。ちょっとした構造物を葛で緊縛した経験から類推するに、乾燥するとよくしまって硬くなる。ただ、日本の湿潤にして寒暖差の激しい気候に耐えうるかはよくわからん。
物置小屋兼雑穀乾燥小屋くらいのものから少しずつ試してみたい。
さて、柱というと、最近ワタシは、怒った柳田国男の姿が脳内リピートされて困るんですけど、どうしたらよいのでしょう?

 
エピソード2はこれ
https://youtu.be/CddeK1BQA7c
 
エピソード3はこれか?

https://youtu.be/_6_D4BzAyGk

心について三題

まず、昨年7月くらいの投稿から。

心がわれわれに属するというよりも、われわれが心に属しているのである

昨晩の「本とスパイス」では、絵本『かさどろぼう』をとりあげましたが、トーク後のカフェ・タイムに「傘・能・心」ってなんですか?と、、、これ、端折ったけれど、まとめでもあるので、少しばかり蛇尾を重ねてみます。

拙者が心はなまらねど左言ふ貴殿の御胸中まことに以て心許なしーー「なまる」の江戸後期の用例で、決心がにぶる、貫徹しようとする意志が弱まるの意。もともとの「なまる」は、わざの冴えがにぶる、技量が落ちるの意をもって用いる言葉ですが、刀剣の切れ味を一義としながらその刀剣の用が頻ならざる時代において、人口に膾炙していったようで、それは「傘」が日用の具として普及していく過程と軌を一にしているのではと。
さて、心と傘の関係。これをとくのに「能」の世界をかいま見ていくのですが、その舞台となるのが「軒端」という場所、「雨が滴り落ちるその場所」なわけです。
そして、作業仮説なのですが、江戸時代を通して「決心」のあり方が大きく変わってしまったということを検じていくのに、ふたつの項をみます。
ひとつは「どろぼう」観。一銭でも盗めば死罪を常とする民の論理と、動機や金額による量刑化(合理化)をはかろうとするお上の論理のせめぎあい。
もうひとつは、記号論。パースを参照してみようと……。すなわち、
「決心とは閉じた個の作用ではなく、集合的集団的かつ公共的な現前である」
パースは心についてこう述べています。「われわれはその表面に浮いているものであり、心がわれわれに属するというよりも、われわれが心に属しているのである」
Thus, all knowledge comes to us by observation, part of it forced upon us from without from Nature’s mind and part coming from the depths of that inward aspect of mind, which we egotistically call ours; though in truth it is we who float upon its surface and belong to it more than it belongs to us.

……と、いうわけで、次回の「本とスパイス」は、日本人の「こころ」が大きな変わり目に直面していた元禄時代に記されたとある日記をとりあげます。

 ここまでの一文が本とスパイスの前口上でありました。パースの記号論については、補助線とみてもらえればと。

アリストテレスとダマシオについてはのちほど加筆の予定です。

アリストテレス

ダマシオ