竹の焼き畑2016-sec.2が終了

2回目が終了。おつかれ、おつかれ。暑かったです。最高気温が22℃だったのかな。風もそこそこ強かったです。そして、試し焼きは、想定以上にうまくいきました。はずみがつきますね。後半バテ気味で、チェーンソーの刃で石を削ってしまったり、燠火で焼いていた極旨のタケノコを乳牛に食われてしまうなどのアクシデントもありましたが、無事に楽しく作業を終えることができました。

次回のsec.3は5月7日(土)です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まとめ中ですが、記録は以下。

《概要》

時 間…9:30現地集合〜15:40現地解散
参加者…9名
主内容…春焼き試し焼き(燃焼テスト)。春焼き確定地の整備。意見交換、課題確認。

《確定事項》

1●試し焼き(燃焼テスト)の成功。大変よく燃えた。うまくいったことを踏まえて春焼きにのぞむ。
†.密着度(その場にいた人にわかるレベルの把握でよいが)を高めておく。最低限竹の幹の向きをきっちりそろえて重ねる。
†.高さは腰高程度を基準に。
†.燃えているものを崩してひろげる方法はできない。よく燃えるので近づけない。よってブロック単位で燃やしていく方法か。ある程度燃え切った後で、炭の厚いところを慣らしひろげる程度。
†.( m× m)区画での燃焼での時間経過を以下に記す。(面代の記憶で書いているので、参加者で気づいた人は、、補足と訂正を入れてみてください)

10分経過でほぼ全体に火がまわる
20分経過で嵩が落ちて、地が見える。燃焼はあらかた終わり、残り火と炭火。
40分経過でほぼ鎮火。炭火のみ。
1時間半経過で
3時間でほとんどが灰になっているが、炭も若干残る。

2●火入れ区画の拡張とマーキングし直し。

†.平面測定値と図は中村さんの方から

3●情報伝達共有メディアについて

†.3つ主として、他は従。

・ライン:参加者への活動参加呼びかけと集計
Evernote:計画・確定事項と課題の確認及び記録・内部情報共有
facebook:イベントページによる参加者募集

サブ
・メール、携帯電話:参加者と事務局内部重要事項伝達
・ウェブ・メルマガ:情報公開
・奥出雲ラボ内外の張り紙、ボード、地図など

4●春焼きの作物について

アマランサスを上段、アワを下段。量については2●の面積と3●の蒔き方をもとに算出、発注。

5●調製の道具について

唐箕は1台は確保(高嶋)。ただし動作確認は未。

6●次回は5月7日(土)

天候をみて変更可能性あり。

※あと4回で整備終了、火入れとなると。プランとしては以下。できればあと3回で整備終了としたい。
5/7(土)sec.3
5/14(土)sec.4
5/15(日)sec.5
5/21(土)sec.6
5/22(日)火入れ

7●ホースの長さは25m+7mで、32メートルまでが牧場のポンプの性能上のマックス

長さは問題なし。できればポンプがもう1台ほしい。すなわち、消火設備はタンク2台、ポンプ1台(できればもう1台)。軽トラ2台。

《次回作業日までの調整事項》

1●種子の量を決めて発注できる手前まで(春焼き用のアワとアマランサス)
2●火入れ申請手続きの進捗確認
3●参加者募集と松江からの便確保・調整
4●チェーンソーの歯調整
5●予備ポンプが大学から借りられるか確認
6●在来作物再発見プロジェクト関係で小林先生と連絡〔面代)

《その他》

1●民俗調査助手募集中…奥出雲ラボを拠点利用する。
2●眠っている粟の種子がどうやら見つかりそう。今年種取り用に栽培し、来歴が確かなものであれば、次年度から使う。ジーンバンクへの登録も考慮。
3●雑穀の食べ方、調理方法を調べる。どんな食べ方をしたいか火入れまでにイメージを描いておく。

竹の焼き畑2016のはじまり

 4月24日(日)、「竹の焼き畑2016(仮)」の最初の作業日が終了。

 概要と確定事項を箇条書きにて記しておきます。

《概要》

時 間…9:30現地集合〜15:15現地解散

参加者…8名+見学3名

主内容…春焼き・夏焼きの候補地最終下見と場所の確定。春焼き確定地の整備。意見交換、課題確認。

《確定事項》

1●春焼きはダムの見える牧場で今年2月に伐倒・ふせこんである北西部に決定→木次乳業に計画変更届けを焼く前に出しておくこと。

2●5月下旬に火入れ(梅雨が来る前)する。5月21日(土)または22日(日)を第1候補→あと2〜3回の整備で準備終了となる。

†.次回は4月29日(金)、30日(土)、5月1日(日)のうち晴れた日で試し焼きを行う。その状況をみて整備の仕方をきめこむ。

†.24日でマーキングした境界よりもひろげていく。

3●土地所有者でもある奥出雲町への事業説明(火入れ申請打診と計画説明)は来週4月26日(火)または27日(水)。

4●南東部平坦地は7月に少し焼いて、豆をうえる(土用豆の予定)

 →ダムの見える牧場へは昼食時説明しOKとのこと。1と同様、木次乳業へ計画変更の文書を届けておくこと。

山あがり雑感その1

山あがりについて。テーマを絞り込みたいのですが、どこにというところで、足踏みしています。4月12日の取材メモをと思っているのですが、そこですね、問題は。

4月2日にfacebookに書き記したことを再掲してみます。

ーーー

わたしは、その目の前の桜より、木次の山あがりが気になってしょうがなく、縁側の机に伏して、あれこれ文献をめくっておるのですが、そこらのお話を、ひとつ。

山あがり(のぼりではなく、あがりというのがみそ)あるいは大山まつりと呼ばれるものがあります。昭和40年代にはついえたものだとばかり思っておりましたら、つい先日、86歳の方から、いまでも毎年4月24日にやっているよと聞き、驚きました。「のやま」(野山=入会地)のいちばん髙いところに祀った大山さんの祭りであり、牛を連れてあがりごちそうをたべたといいます。春に山にのぼる習俗は日本各地にあばかんほどありますが、大山さん=地蔵信仰との習合で残存した古代の春の市の姿でしょう。場所を教えてもらいましたので、写真であげておきます。大山智明大権現とあります。

さてはて問題は、ここでフォーカスすべきは、祭祀でも民俗でもないということ。市の本質とは何か、来たるべき経済とはどんなものであるのか。わたしく、この春からそこらにせまっていきます。その先で熊子も竹も紙も亀カラも焼畑も待っているはずなので。あ、私こと、去る3月末日をもちまして特定非営利活動法人さくらおろち事務局長の職を卒業いたしました。ただ、ウェブ上でみるぶんには、やっていることはあまり変わらないと思います。来週頭には1日4時間以内で焼畑の事業申請書類をあげなくてはなりませんし。

さて、市とは。。。。。

《この語源説がのさばりすぎたために、市に対する私たちの認識に大きな曇りが生じた点さえあるように思う。不確かな語源から天下って考えるより、イチ(市)、ミチ(道)、マチ(町)等が語構成を同じうし、「チ」を共有している言語上の事実に注目することこそ肝心である。その「チ」はみな道に関連しているはずである》西郷信綱,1995『古代の声・増補』〔朝日新聞社

《中世の貴族などにの日記にしばしば見られる市と虹の関係を解くことにより一層明瞭となる。……虹の立つところには市を立てなければならないという強い考えをもち、この意識は平安時代から戦国時代まで一貫して継承された。……おそらくその源も古く原始社会にまでさかのぼるものであったことが予想される。またなぜ虹のたつところに市が立てられなくてはならないと考えられたかという問題も、一〇三〇年(長元三)七月、藤原頼道の家に虹が立った際、「世俗の説によりて売買のこと有り」(日本紀略)とあることから、虹の立つところでは人々は売買をおこなうべきで、そのために市が立てられなければならないという論理より成り立っていたことがわかる。そしてこの虹が立つところで交換が行われるべきであるという観念は、マリノフスキーが紹介したトロブリアンド諸島のクラとよばれる部族間の原始的交換儀式さい、呪術師により次のような虹を呼び出す呪詞が唱えられる事例からも、きわめて古いものであったことがわかる》勝俣鎮夫,1986 「売買・質入れと所有観念」『日本の社会史』第4巻(岩波書店

ここらあたりの知見を前提に、足下の木次、寺領、宇山を歩き、天が淵、三沢=三津を洗い直しつつ、古老の聞き書きにいそしみます。※「津」は「沢」の誤写ではない説(本居宣長等)と、をち水の線。さしずめ「ヤマタノオロチの経済学」(仮題)としておきますか。

ーーー

そうです。思い出しました。私がフォーカスしたかったのは「市」。

その前景のようなものとして2つ3つの要素が浮かび上がってこなくてはなりません。

A.山の神信仰……祖先崇拝あるいは超越存在への感受性

B.交易交流……若者たちが集う祭り

C.農耕の祭り……循環の節目としての

ま、要するに少し行き詰まっているので、ローカルから離れたところて、諸文献を渉猟しているのが現状。

白石昭臣『畑の民俗』を精読してまとめる作業をちょい集中して仕上げたいと思います。

筍の下ごしらえ2016

旬はやや過ぎつつあるものの、筍を掘ってやらねばなりません。食わねばなりません。お互いのために。そして、いかにうまく食べるかが、また掘ってこようという意欲につながるのですから、したごしらえは首尾よくやらねばなのです。
地面から青芽が出るか出ないかくらいのものがよいのですが、筍畑から採るわけではございませんので、そうそううまくはいきません。見つけられない人はいつまでたっても見つけられないようであり、これ、成功体験という経験こそが肝心でありまして、わかりにくくいえば、目と脳のパターン認識に「筍がいままさに生え出ようとしている姿」が3次元モデルで刻印されていれば、ぱぱぱっと見つかるものであります。
20160413-P113093302
さて、そうやって掘り起こした筍ですが、次には、一刻も早くあく抜きにとりかかることです。
料理いただく方からご指導いただいた方法は次のとおり。
1)上部は斜め切り、下部は水平に切り取る。
2)皮はついたまま、米ぬかをといた水で1〜3時間煮る
3)串がすーっと通るくらいになったら火をとめて放置し、さます
4)皮をむき、流水にひたしておく
3時間も煮続けるようなことになれば、ガス代がばかになりません。よって、私どもではロケットストーブ(コンロ)が、ここぞとばかりに大活躍するのです。果樹の剪定枝、切って乾燥させておいた竹を材に、コトコトと畑仕事や庭仕事をしながら。
20160413-P113093502
奥出雲山村塾で、ロケットストーブの制作教室とセットでやってみたい気もしますが、希望があればということにしておきましょう。
このロケットストーブもかれこれ3年も使っており、そろそろ耐用年数を過ぎようかというところでして、もう1台つくっておくべきであると、壊れてからでは苦労するよと、脳内小姑が突っついておりますし、つくれる時間はあるのですから、ここはエイヤッとやっておきましょうぞ。たぶん5月くらいに。梅雨が来る前にであり、竹取り活動が活発化する前にであり、最低でも8月の前に、ですね。

クマゴ、地カブ、キビ

 三成で所用をすませ、馬馳を通って、平田へ戻る道中のこと。うっすらと青い色が雲にすけてみえなくはないが、風は冷たい。なのに、納屋の前で、赤名さんが何かつくっているではないですか。こりゃ懸案のあれとこれを聞いてみなくてはと、軽トラを引き返して声をかけた。

 あれです。年取りカブと熊子とアワのこと。

●年取りカブ(正月カブ)

・聞かんなあ(何かひっかかる感じ)

・年取りという言葉は、年に3回だか4回だか使っていた。節分の前の日、旧正月の前の日、大晦日の日か。

・地カブなら、いまでもそこらにあるが、交配が進んでいて、どうだか。根は食べない。春先に茎たちしたものを食べる。苦みがあるが春はそれがいい。

●熊子

・聞かんなあ(まったくわからないニュアンス。年取りカブとは違ってまったくという感じ)

・カブとアワは一緒に汁にして食べた。

・アワもキビもたぶん、種はあるが、発芽しないだろう。最近はつくらんから。

・いやあ、そのへんのことを知っとるばあさんらがいなくなった。一世代前だ。

●そば

・今年つくるかどうかはわからんなあ。

・粉にすると劣化が早い

・うまいつくりかたいわれてもわからん(私たちの「わからない」というレベルよる数段上の「わからない」である。この人のつくる蕎麦より上手いものにはなかなか出会えない。挽き方・打ち方・ゆで方などあれど、「体験」などで素人がうっても旨み・香りが違う。あきらかに蕎麦そのものがいいのだ)

みざわの館前の「地カブ」

 雪かきのお手伝いと竹林整備研修の下見のために、奥出雲町の「みざわの館」までのぼってきた。「地カブ」のことを話題にあげたらば、Uさんは即座に「地カブなら、そこにあるがね」と。そう、「年取りカブ」ならぬ「地カブ」ならば、ずいぶんととおりがよいのだ。  「根」よりも春先に茎立ちしたものをよく食した(食す)ものらしい。調理法については、聞き損ねた。
 「くまご」「熊子」のこともきいてみたが、こちらはてんで聞いたこともないようだ。土間に腰掛けてお茶をしていた60〜70代男性3人が3人とも首をかしげておられた。Yさんもご存じなかったのだが、Uさんのお母さんはどうなんだろう。まあ、すぐには出てこないだろうが、丹念に丁寧に少しずつ、暇をみつけては聞き取りを続けていこうと思う。

20160118-P113033302

 上の写真は、10日ばかり前に撮影した、みざわの館前の「地カブ」の生息?地点。

20160118-P113033502

 そして、こちらはそこから抜き取った2つのものの写真。根の部分の大きさや形、それに葉の姿形ともに、Yさんのところのものとはちょーっと違うような。どこを見たらよいのかが、まだわからないのだが。さて、それより日曜日の竹林整備研修はいまだ参加者2名。せめてもう2人いるとなにかとやりやすいのだが。はてさて。

蕪コーセンのこうせんは香煎である

 野本寛一氏が、焼畑の蕪料理の中でも「蕪コーセン」はもっとも古いものを残している、と書かれている(「焼畑民俗文化論」)ので、蕪コーセンを調べてみるも、手がかりがなかった。
 しかし、1月19日の平田蕪の取材の折、門地区の吉川氏より、蕪の食し方として、「汁にするのだ。屑米を焼いて粉にして汁にまぜたものに蕪を入れた汁で、冬は毎日のようにそれだった」とおっしゃった。それは蕪コーセンですよ、まさに。その後再取材が出来ていないのだが、「こうせん」が『聞き書島根の食事』の中にあった。斐川の食の中である。
「こうせん」で辞書をひけば、これ、ふつうにある。 日本国語大辞典には、こうある。

1)麦や米をいって挽いて粉にしたこがしに、紫蘇(しそ)や蜜柑(みかん)の皮などの粉末を加えた香味を賞する香煎湯の原料をいう。こがし。

そうこうしてウェブをみていると、このようなページに遭遇。 香り高き香煎・郷愁のスローフード http://20century.blog2.fc2.com/blog-entry-783.html

現在も玄米香煎を製造しているのが、和菓子原料を製造する畠山製粉所。数十年前に需要が途絶えたため製造を中止するつもりだったが、県内に長年これを主食としているという人物がいて、それならば止めるわけにはいかないと、細々と造りつづけて現在に到ったとのこと。

秋田県であるが、「県内に長年これを主食としているという人物」に会ってみたい。

都賀村の地カブについて

『聞き書島根の食事』の中で、くまご飯、くまご、が出ているのは、都賀村のみであった。『聞き書広島の食事』にもない。その都賀村には「地カブ」の話がある。年とりカブと呼ばれていたかはわからない。

いくつかの抜粋を以下に。

p174(野菜〜利用のしくみ)

菜園畑(さえんばたけ;奥出雲ではさえもんばた)は、家のまわりにわずかしかない。山すその草原を焼いて焼畑もつくり、そこには地カブの種をばら播きにする。

春は、秋にとり残した地かぶが焼畑からとれ、菜園畑には、ひらぐきの茎立ちがまず元気に姿をみせる。ひらぐきは、冬の間青いものが不足した生活に活気を与えてくれる。人々は「青いものを食うと、いっぺんにまめになる(元気が出る)」と喜ぶ。つづいて、かきば(高菜)、ちちゃ(ちしゃ)が暖かな春の日差しをあびて見る間に伸びてくる。青菜の茎立ちの味噌あえ、ごまあえはたまらなくおいしい。

p181(漬物〜地かぶの切り漬)

菜園畑が少ないので、山すその草原を焼いて地かぶをつくる。地かぶの根は大きくならないので葉のみを利用する。葉を細かくきざんで、そうけいっぱい用意し、二合塩で漬ける。かぶと塩を交互に重ねるとき、とうがらしのきざんだものもふりかけ、二斗樽で二本漬けこむ。

家を離れて他地へ行った者が、村に帰ってきて一番おいしいと好んで食べのが、この切り漬である。

熊子(クマゴ)のこと〜その1

「熊子(くまご)」とは何かで、いろいろ調べておりましたが、あぁ意外な見落とし忘れ。

かつて調べてメモしておりました。

「竹の焼畑メモ」http://on.fb.me/1ZWpXlD

白石昭臣『竹の民俗誌』p26に飯南町の志津見の話として、竹の焼畑の作物として以下の記述あり。

「焼いたあとまだ灰の冷めやらぬうちにソバやカブを播く。2年目にクマゴ(アワ)、三年目にナタネなどを作る。そのあと放置し牛を放牧する。クマゴは1反(約10r)あたり6俵(約430リットル)の収穫をみたという。」

改めて『竹の民族誌』を読み返してみたものの、クマゴという名称が出てくるのはこの箇所のみでした。

そして、もうひとつが『聞き書島根の食事』(農文協)。

くまご飯が口絵に登場しております。

kumagomesi

邑智郡都賀村での聞き書きであって、基本食の成り立ちの項の中で、日常のごはんを3つあげています。「麦飯」「くまご飯」「茶がゆ」。

都賀村は広島県境に近い江の川両岸にせまる急傾斜地にある。水田、畑ともに少なく、米を食いのばすのに、麦、くまご(あわ)、豆、いも、山菜や野草を年間米にまぜて食べているとある。

以下、いくつかを抜粋引用してみる。

p169〜(雑穀の項)

米には税がかかるが、雑穀にはかからないので助かる。

山すその畑とか焼き畑につくり、自給自足でできただけを食べている。くまご、きび、そばなどを植える。なかでも一番利用するのが「くまご」と呼んでいるうるちあわで、くまご飯にして食べる。きびは、おもにきびもちにし、そばは粉にひいてつもごりそば(年越しそば)などにする。

(くまご飯)

くまごは秋に収穫し、麦を食べ終えるころから春まで食べる。

くまご七にただ米三を入れて炊く。くまごの割合が多いので、子どもが食べた膳のまわりは、ほうきで掃き寄せなければならにほどぽろぽろごはんがこぼれている。