羽田から出雲へ発つときに撮影。
死ぬまであと何回、この景色を見ることができるのだろう。20歳の時に見るのと、50歳の時に見るのとでは、それは違うということには、誰も少なからず同意するであろう。
いや、それは同じだとあえて言うのだとすれば、その視線の源はこの窓に対して座しているひとりの人間の存在を景色から取り去る必要がある。
そう、この写真は、窓を通して、とりわけ航空機の窓であることをもって、夕暮れの街の光ではなく、それを観ている個の魂を映しているのだと、そう言いたくなってくる。

村のはじまり〜1
日本の村はいつごろから村となったのか? わかったようなわからないような問いではあるが、およそ14世紀頃だとされている。応仁の乱前後のことである。
さて、島根県仁多郡の北端に位置する三澤郷(現奥出雲町三沢地区、阿井地区の一部、雲南市木次町温泉地区)の成立について、「沢=豊富な水=水源」というものを問いを切り開く先鋒として使ってみたい。
さするに、三澤における水汲みの場のなかでも、をち水として出雲国国造が朝廷に献上したその水はどこから汲んでいたのか問題の重要ポイントがこの地図の場所である。
時代は先の村の創生期たる応仁の乱から一時代をさかのぼった奈良・平安の頃になるのだが。
いやはやさてはて。

村の始原への問いは常に頭の片隅にじっとうずくまっている。村を開く、村をはじめる、群れでその土地を占有し、定住することである。むらの語源としてむれ(群れ)があることはどの辞典にも記されていることがらである。移動をつづける狩猟採集あるいは遊牧主体の群れから、ひとつ土地にとどまってそこで命をつないでいくということの始原において、むらは生まれたのだ。
さするに、それは、私の頭の奥底で、物心つく頃から座しつづける問いへとつながる。
「人は群れとして生きるのか、個として生きるのか」
村の始原を問うことは、人が群れとして生きるというのはどういうことなのかを問うことなのだ。
村が人間集団のあり方のなかでも、その基底に位置する形態であるのだから、村は日本だけのものではない。平凡社『世界大百科事典』は「村」の項をこうはじめていてわかりやすい。
〈むら〉とは農林水産業,すなわち第1次産業を主たる生業とするものの集落単位の総称であり,商工業者を主とする〈まち〉に対応する概念である。したがってそれは人類の歴史とともに古く,地球上どこにでも存在する普遍的かつ基本的な社会集団であるといえるが,〈むら〉のしくみや経済的機能は,民族により,また同じ民族であっても地域により,時代によって,きわめてまちまちである。
一般に<村>という場合、それは<町>に対置される存在であることを挙げたのちに、地球上どこにでも存在する普遍的かつ基本的な「社会集団」のことであると定義する。しかし村の内実、すなわち村を村たらしめるものの時代・地域による多様なあり方を見よと、筆は読み手をいざなおうとする。
その誘いにのるのは、次の機会にしよう、すぐに訪れる。
ヨーロッパ、中東、インド、中国、朝鮮……と、きて、日本のところから抜粋しよう。
中世
広域の地域区分ないし所領単位である郷や荘の内部に形成された,比較的小さな地域単位ないしそれに対応する共同体を指す語として村が現れる。その時期は地域差があり,中世初頭から始まって,中世後期には一般化する。
このような郷=村は支配の単位であるとともに,百姓相互の地縁的な共同体,いわゆる村落であった。これが発展して自治的な政治組織をもつようになったのが惣村である。草分け的な百姓である住人が集団で開発したことが契機となって村が形成された場合は惣村に発展しやすい。領主側の開発が大きな比重を占めた場合,あるいは領主が村落領主の公文層を支配権力の中に組織した場合など,領主支配が強いと自治的な惣村に発展しにくいが,その場合も,中世後期に百姓による共同体の形成が進む。
近世
(1)成立と特質 人の集住する小地域を村と呼ぶことは古代からあったが,〈村〉という行政単位が出現するのは太閤検地以降の検地によってである。また近世の村はこの時代における最も重要な社会的構成単位でもあった。近世の村の特質は石高制と村請(むらうけ)制である。
今日の断片〜『焼畑及切替畑に関する調査』など
拾い読みの3冊。
◉小泉武夫『食と日本人の知恵』2002(岩波書店)
小泉は、寿司は、江戸前由来の「早ずし」と「熟鮨(なれずし)」とに大別できるとしたうえで、熟鮨について語る。発酵について、納豆・鰹節・オリゼーなどについて語る章においてである。
◉安丸良夫『安丸良夫集1』(岩波書店)
繰り返し断片的に読み重ねている。民衆道徳=規範訓練が日本の近代化の根底部分を駆動していたと。
若者組のこと。明治30年代には青年団へと変わっていったこと。
◉農林省山林局『焼畑及切替畑に関する調査』


農作の種類でもっとも多いのが蕎麦であるというのが意外であった。量的なものではなく何をつくっているかということへの回答数のカウントなのかな。面積でみると高知県が図抜けて多い。
横田の焼畑といえば蕎麦だという人
そうそう。ダムの見える牧場での一昨日の活動のこと。
搾乳したミルク(原乳?)をタンクでピックアップしにきたおじさんが尋ねてきた。この間焼いたところは蕎麦をまいたんかい?と。
いえいえ、アワやキビですよ。これから夏に焼くところを伐りますけれど、そこにはカブと蕎麦を播く予定です。
対しておじさん曰く。
横田の焼畑といえば、蕎麦だと思っとった。焼いた後の一杯がたまらんのだろうな〜とうれしそうな笑顔で。
そうだろうなああ。苦労して準備して無事に火入れが終わって種を蒔いて、そして乾杯するという中での「宴」がね、落ちているのですよ。まず場所がない。なにより泊まるところがない。煎じ詰めればお金がない。どうしたもんじゃろなあ。
竹の焼き畑2016-sec.7 が終了
5月29日(日)。島根大から4名、木次町から1名、計5名で取り組みました。
朝方曇りで11時過ぎから雨が落ち始めたため、大豆の種蒔きは次回へ持ち越しです。
温海カブの種取りと地ごしらえ(大豆播きのための)、匍匐性トマト10苗を春焼き地へ定植、同地へアマランサスとタカキビの播種、といったところです。
火入れ後にまいたアワもアマランサスも芽は確認できず。雨も降ったことですし、来週水曜日あたりに見にこようかと。焼けた杉も倒さねばなりませんし。
さて、種取りはシートにめぼしいものを取り込んで、奥出雲ラボでちょぼちょぼやりました。
次週はいよいよ夏山へ向けての初伐りです!!!




気がついたことを書き留めておきます。
†.三沢の年取りカブの種を取らせてもらったときに、山田さんから「鳥にずいぶん食われてしまったんだけど」と言われて、へええ、カブの種を鳥が食べるんだ〜と思っておりました、人ごとのように。そして、まあ、里ではなく山だから、鳥もそんなにいないし、食わんでしょ、食われていないみたいだね〜と言っていた矢先のこと。4〜8羽くらいの小鳥がカブの種の枝をつついておりました。あ〜れ〜。
†.大豆は芽が出て双葉のときに、鳩や鳥に食われるのだといいます。さて、どうしましょう。食われない場合も多いといいますし、ネットをかぶせようにもネットを買ってこなければないし。ポット苗で育てて定植というのも手間といえば手間です。この日は半分ほどを植えてみようということになって、そのままです。来週のどこかでやりますか。
【資料編】
●予定していた内容
◆カブの種取りと豆播き作業を5月29日(日)に実施します。
9:30 ダムの見える牧場牛舎前集合
作業手順確認。チーム分け。スタート。
9:40 スタート
・春焼き火入れ地検証
・カブの種取り
10:50 小休憩
11:00 再スタート
・カブの種取り
・地ごしらえ
12:15 午前の部終了。昼食休憩&今後の打合せ。
13:15 午後の部スタート。
・大豆播き、ツルアズキ播き
・その他
15:00 解散
●参考サイト
☆まとめ 自家採種をしてみよう-命をつなぐこと-|ゼロからの60坪自然菜園
自家採種 みやま小かぶ|ゼロからの60坪自然菜園
生育状況 あわ|健康雑穀
http://www.marusun.com/sab50-13-3.html
●告知ページ等
facebookイベント
しまねいきいき広場
奥出雲山村塾活動掲示版
斐伊川を結ぶ会の田植え
お手伝いしました。手植え。お酒になります。

昼食のあと、田中初恵さんに「茅葺きの家」の茅のことを尋ねました。夫の利夫さんがとても苦労されたとだけ、以前に聞いていたので。
茅をどうやって集められたのか。その答えは、「見つける度に(車を)駆け下りては取る」ことでした。取った茅は上へあげていぶしておくと。あぁ、そうした積み重ねであるのだろう、ものごとというものは。
北側(裏手)の屋根がかなり傷んできているので、差し茅をしたらどうかと、お手伝いしますよとお話しました。そう。そちらもつないでいくことに取り組むのです、ほんの少しでも、前へ。
横路さんから聞いた小学校の話も気になる。こちらも近々にl。
江津の森のレストラン
昨日の午後から石見に1泊2日で出かけてきた。吉賀町を離れて3年ぶりかの訪問であった。なんの感慨もなかった、というよりも、まだ続いているのかもしれない。終わったり離れたりというのではないあり方でもって。
「もし、〜〜だったら、ここにいたかもしれないし、そうだったら、ずいぶんと〜〜の状況もいまのようにはなってはいなかったでしょうに」
助手席でそう語る声に、「そうだね」と小さく深く同意した。
さて、吉賀で目に見えるもの。山の姿は出雲のそれとは違うなあ。何度でも思う。急峻さや大きさや。そして繁茂する竹の姿が見られない。3年前よりは少し増えた気もするし、そういう声も聞くのだが、山ひとつが竹に覆われてしまうようなところは皆無だ。
江津市にある森のレストラン。イタリア料理を供するいわみ福祉会のお店だ。ブログのプロフィール欄にはこうある。
「森のレストランのコンセプトは、人びと・物・情報・サービスなどを1本の木に例え、それらが自然と集い、繋がり、大きくなっていく、そんな場所でありたいという願いにあります。」
美味しいです。めっぽう感心するほどではないものの。でも、石見でどこのお店を勧めるかという意味では一押しといっていい。なにがいいかというと、とても気持ちがいいのです。料理をつくる人、出す人、用意する人、誰もがていねいで心がそこにある感じとでもいいますか。
そこにいる人、訪れる人は、誰もがひとりの人として、その空間に居合わせることができます。
障害者がごく自然にそこで働いている、働けている空間だから、なのでしょう。もちろん、多くの工夫や配慮がなされています。妻が観察したところによると。。。
・無駄な動きがない。手があいたら次に何をやるかが決まっている。誰が何をやるかが明確になっている。
・ふつうの飲食店より働いている人が多い。厨房の設備にいいものが揃っている。空間が広い。
・置いてある本雑誌がきちんとセレクトされている。
このレストランのよさをわかってくれる人、そう、内田樹だったら、「いいね」と言うんじゃないかなと。そう思います。すぐれた武道家。芸道に秀でた人。
あぁ、もっと何か伝える術と中身がある気がするのですが、次回(また訪問したとき)の宿題とします。
雑穀断章その1
増田昭子『雑穀の社会史』2001を拾い読みしながら、つらつらと考えたり、思ったり、している。
アワ、ヒエ、キビ、雑穀はなぜつくられなくなっていったのか。
山村の主食として米にかわられていったのか。
こたえは容易ではなく単純ではない。
まずい、貧しい、みじめ……雑穀はそう見られてきたのだと、思い込んでいるだけで、本当にそうだったのか。私も、実際、つい最近でも米が食べられずアワを食べていた時代の話を聞かされてもいる。
集落の中でも貧しい家があった。年に一度、正月の前にはその家でも米が炊かれた。
「ご飯が炊けたよ〜」
外で遊んでいる子どもを呼ぶその家の母の声の、晴れがましさ、うれしさが、子ども心に染みて、とても可哀想であったと、ある古老から聞かされた。
戦後間もない頃の木次(現雲南市)の話である。
それは真実であったろうが、時代をもう少しさかのぼれたどうであったか。明治の終わり。幕末。江戸中期。安土桃山。
というのも、この本には雑穀のよさを伝える口伝が数多く記されているのである。
米と比較しての優位性すらある。
もう少し丁寧に見てみたい。そこには何かがある。その何かをもう少し確かなものにするために「思想」という観点を持ち込んでみたい。
……つづく。
左が野口の種で買った岩手のタカキビ。右が島根県仁多郡奥出雲町林原で種取りされてきたタカキビ。





