神在祭りを調べるきっかけなどのメモ

facebookのノートにまとめていたのだが、編集のしづらさにしびれをきらし、移転することにした。

 

・きっかけ1)「6年続けて同じお客さんを案内していて、もう行くところがない。どこかない?」と聞かれたが、こたえる間がなかった。→例)神名火山(野)をめぐればどうでしょう。万九千神社の古地である斐伊川河川の中から仏教山を仰ぎみつつ、山麓の古社を訪れるということか。雲南市であれば神原神社。松江であれば大庭の神魂神社、雑賀の売豆神社紀神社、朝酌の多賀神社。それぞれ本殿ではなく、その周辺をあたるのがよろしいかと。出雲大社でも佐田神社でも神迎祭りの斎場は本殿ではない。むしろ関係を絶っているとでもみたほうが、おもしろくなります。

 

・きっかけ2)「江戸時代に大社の御師がひろめたデマだろうに」という方がいらしたが、これも、ちょっと一言はさむ間もなかった。→気持はわかりますけどね。江戸のベストセラー「広益俗説弁」にも「地元出雲では神有月なんてだれも言ってませんよ」と一刀両断ですものね。とはいえ、ほつれた糸をほぐすのは骨が折れます。まずは基本をおさらい。

 

1.神無月の語源

藤原清輔『奥義抄』〔1135〜44頃〕上「十月 神無月 天の下のもろもろの神、出雲国にゆきてこの国に神なき故に、かみなし月といふをあやまれり」

…………これを第一にとる場合が多いのであるが、ほかに以下あり。大日本国語辞典より

(2)諸社に祭のない月であるからか〔徒然草・白石先生紳書〕。

(3)陰神崩御の月であるから〔世諺問答・類聚名物考〕。

(4)カミナヅキ(雷無月)の意〔語意考・類聚名物考・年山紀聞〕。

(5)カミナヅキ(上無月)の義〔和爾雅・類聚名物考・滑稽雑談・北窓瑣談・古今要覧稿〕。

(6)カミナヅキ(神甞月)の義〔南留別志・黄昏随筆・和訓栞・日本古語大辞典=松岡静雄〕。

(7)新穀で酒を醸すことから、カミナシヅキ(醸成月)の義〔嚶々筆語・大言海〕。

(8)カリネヅキ(刈稲月)の義〔兎園小説外集〕。

(9)カはキハ(黄葉)の反。ミナは皆の意。黄葉皆月の義〔名語記〕。

(10)ナにはナ(無)の意はない。神ノ月の意〔万葉集類林・東雅〕。

(11)一年を二つに分ける考え方があり、ミナヅキ(六月)に対していま一度のミナヅキ、すなわち年末に近いミナヅキ、カミ(上)のミナヅキという意からカミナヅキと称された〔霜及び霜月=折口信夫〕。

「陰神崩御の月」というのは、なかなかにおもしろく、クリスマスのルーツともかかわってくるところか。古事類苑の中では、もっとも字数をさいている説である。

 

◉1,056ページ冒頭部。ここをきちんとふまえておかないといけない。すなわち、

他国でも「神が村を出て行く」ということはいつの頃からかあったことだが、「出雲へ行く」ということになったのは、文献上では鎌倉時代以降のこと。地元出雲で「おいでになる」となったのは、昭和に入ってからか?

平安時代後期〜鎌倉時代……藤原清輔『奥義抄』の時代がほぼ初出といえるようだが、時代とともにふえる。出雲大社へ行くとはまったく出てこない。「出雲へ」である。

南北朝の中頃から……はじめて具体的な社名が出てくる。出雲大社ではなく佐太神社

 

・戦国時代に突如、「出雲大社へ行く」となる。。

参照『日本紀 神代抄』

 

・以降、佐太神社より出雲大社へという記述が多くなる。が、しかし、地元伝承は別。

さて、他国でどうであったかであるけれど、餅つきや村境での葬送儀礼があった。これについては、また改めて。

 

 

◉参考資料……大日本国語辞典【解説・用例】より

〔名〕(「な」は「の」の意で、「神の月」すなわち、神祭りの月の意か。俗説には、全国の神々が出雲大社に集まって、諸国が「神無しになる月」だからという)

陰暦一〇月のこと。かんなづき。かみなしづき。かみなかりづき。《季・冬》

万葉集〔8C後〕八・一五九〇「十月(かみなづき)しぐれにあへる黄葉(もみちば)の吹かば散りなむ風のまにまに〈大伴池主〉」

古今和歌集〔905〜914〕雑体・一〇一〇「きみがさすみかさの山のもみぢばのいろ かみな月しぐれの雨のそめるなりけり〈紀貫之〉」

蜻蛉日記〔974頃〕下・天祿三年「かみな月、例の年よりもしぐれがちなる心なり」

*曾丹集〔11C初か〕「なにごともゆきていのらんと思ひしを社(やしろ)はありてかみな月かな」

*色葉字類抄〔1177〜81〕「十月 カミナツキ」

*名語記〔1275〕一〇「十月をかみな月となづく、如何。これは、日本国の諸神たち、御まつりごとのために、出雲のいつきの宮へあつまり給て、都城には、かみいませずとて、公家にも御神事を、をこなはれざれば、神無月といふと、ふるく尺しをける也。この説、勿論歟」

徒然草〔1331頃〕二〇二「十月を神無月と云ひて、神事に憚るべきよしは、記したる物なし」

*日葡辞書〔1603〜04〕「Caminazzuqi (カミナヅキ)。歌語。ジュウガチ」

 

 

ーー以上

秋の終わりの風景

 午後3時半をまわった頃だろうか。焼き畑のカブをとりに牧場の山まで向かう。北原大橋を渡ると、オレンジ色の光が蕎麦の終わった畑の奥を照らしていた。軽トラックを道の端に寄せて、空と太陽と山の木樹を眺めていた。
 外の寒さと内にある暖かさと。
20151214-P113026702-2
20151214-P113026502

 賢者!? とある牛の横顔。


 
板垣 貴志『牛と農村の近代史: 家畜預託慣行の研究 』(思文閣;2014)を読んでいたり、木次町のことづて?で、貸牛の話を読んだりしたので、Hさんに聞いてみた。よくよくご存知であった。
「いま、役牛で飼っておられる方はおられるんでしょうか?」
「いやあ、ないね」
 うん。はい。やってみましょうか。実際、田植え行事の中で使われていたりするのではなかろうか。そんな夢を、この牛の目をみながら、思った。

 さて、この文集の中にも牛の話はよくでてくる。50年ほども前のことか。100年前の尋常小学校の文集があればみてみたい。

その水はどこからくるのか

 蛇口をひねれば水が出る。ありがたいことだ。感謝の気持ちを忘れようが粗末にしようがそのことの価値は変わらない。水を汲むという大仕事にかかわる時間をほかのことに振り向けることで、いまのわたしたちは、生と社会を営んでいるのだから。

 だが、どうだろう。「蛇口から注ぎ出る水、その水はどこからくるのか」という問いに、はっと立ち止まり、いずまいをたださねばと思う大人の数のへりようは、見えないだけに、そらおろしいものがある。

 ことは水にかぎらない。みずからを、家族を、地域を、国を、飢餓や差別や汚職やありとあらゆる不合理で理不尽なものにまみれながらも、成り立たせているものごとに対する「理解」が、徹底的にかけている人たちがまとめて出現するようになっていると、感じるのである。

 どこかのステージで、それが常識であり正当であるとなったときに、戻ったり、修正したりはできない。。。。わけではない。それができる、ほとんど唯一の手段が活字メディア、「本」であり「雑誌」であるところの「出版」なのである。

 さて、そうした抽象の水ではなく、具象の水たる、この水路の水。島根県雲南市木次町にある尾原農村公園の水路の水である。ときは天平の時代。この水を汲み、なにがしかの容れ物に大事にかかえて、この地から都におわす天皇のもとに、行かんとする男がいた。

 その姿をどう想像したものか。そのときの風景はいかなものであったか。思い描くために、もう少し、書をめぐってみる。

美郷町君畑の焼き畑

 白石昭臣『竹の民族誌』(2005;大河書房)。竹の焼き畑は、この書がなければやろうとは思わなかっただろう。実証とは遠く、実験というほどの体もなしえないようなもので、白石氏が究明しようとしていた「ブッシュフォロー」タイプの焼き畑がもっていた意味や技術への思いも足りないものではあったので、引き合いに出すのは心苦しくもある。しかし、辛さも乗り越えがんばったとは思うし、うまくカブが育ってくれれば、”竹の根や地下茎があるから、焼き畑は不可能では”という疑念にさらされた白石氏の面目を晴らす一石くらいにはなろう。

 しかるに、私、まだ、きちんと読んでおらんのです。その大事な本を。これから、おそまきながら、というのが昨日、今日のこと。そして、いくつかの誤りが目についたりしたので、気をつけて読む必要を感じはじめてもいたそのときのこと(出雲国風土記のひとつめの鬼のことを意宇郡のこととしている→大原郡が正しい)。いや、私こそが、「見落としていた!」という節がありまして、ここに記します。

【事例3】島根県邑智郡邑智町君谷 この地区でも竹藪を主とするヤキヤマ(焼山)ともいう焼畑がみられた。このヤブ焼きは周辺の山をハンゲ過ぎに焼くもので、春にはじめに焼くこともある。数人の仲間で伐る。女竹や笹薮ばかりでなくクロコなどの竹林も焼く。飛火に注意しつつ竹を焼いたあとは灰が堆積する。そのなかにアワ、小豆、ナタネなどをローテーションを組んで播く。ソバをつくる人もいる。ソバを撒いた周辺に別の種を播くこともある。アワは春と秋に播く。ここでの作物は手をかけないが、美味である。3〜4年ののちに放置するが、その7年間、紙の原料であるミツマタを作るところもある(このヤブ焼きの伝承者は大正14年生まれで、現在も復原を試みることが可能と語る)。

 この括弧内を見落としていたのです。復原の意思というか可能性を記すというのは、なにかがある。伝承者は大正14年生まれ。存命であれば90歳か。こりゃ、美郷町へ確かめにいく必要があります。志津見の件もあわせて、どこかで時間をとりましょう。

七輪よりもロケットコンロ

 竹麻を煮熟するのに、当初、七輪を想定していた。なにせ10時間は煮るのである。炭火でコトコトと夜通しおいても大丈夫なもの。炭のもちはそこまで長くなくても、まあ、数時間はいけるだろうから、鍋をおいて他のこともできる。そう考えたのだ。ところが、である。炭は1時間ももたない。いやへたをすると30分ももたない。業務用の備長炭ならともかく、さわったらぽろぽろ崩れるような安い炭だったのが悪かったのか。さあ、困った。炭の質の問題は炭の価格でもって解決するしかないのだよ、目下のところ。高価な炭を買い求めるほど潤沢な予算はない。

 ならば、というので、ロケットコンロの出番となった。七輪で安い炭を使うよりはよほどいい。し始終、火を見ておらねばならぬのだが、まあ10分15分はおいておける。庭仕事や物置の整理(いやあ、きちんとまたやらねば、続きを)をやりながら、なんだかんだで4時間は煮熟できたと思う。

 今回は乾燥させた竹を主燃料とした。あやしげな記憶にもとづくアバウトな計算であるが、中くらいの太さの孟宗竹1.5メートルぶんほどでないかと思う。思うにこれは燃費としてはとてもよいぞ。

 そして竹灰がとれる。アルカリ度の高い「上等の」灰だ。

 そうそう。意東窯でワークショップをやった際に、安部先生から竹灰のことを伺った。”漉したりするより、水をいれた容器のうわずみを掬う”だけで使っていたみたいだと。これならすぐにでも使える。さっそく試してみようぞ。

 ロケットストーブの活躍の機会がふえることになりそうで、こうなると、作り方を復習する意味でも、もう1台ほしいなあと思う今日このごろである。

旧白山村で

自然はさびしい。しかし人の手が加わるとあたたかくなる。そのあたたかなものを求めてあるいてみよう

福井県というところへはじめて行った。
低いけれど奥行きのある山々に囲まれた小さな盆地の小宇宙の中へ。
今度くるときはゆっくり歩いてみたい。
20151006-P112022602
20151007-P112030202
20151006-P112024602

竹の樽あけ

 ドキドキしながらふたをそーとあけると、赤く染まった液体。臭いはきついですが、いやではないかなあ。なれると平気。悪臭とは違うと思います。さてさて、7月初旬ごろにつけた真竹ですが、取り出してみました。水にさらすまえからさらさらとほぐれています。まだ若すぎかなあというものだったので、これは想定内。 image

image

 そして、こちら孟宗竹です。トラックの荷台に積んで運び出し、民家裏の小さな竹林に、樽をおいて漬け込んだのは約100日前。今日、樽をあけて、軽く水で洗いました。よくほどけます。流水だけでバラバラになります。よしよし。合格。(鍋に入っていると、ほんと素麺にみえてしょうがない) さて、これから、網に入れて、山水にさらしておきたいのですが、いまに至るも、そんな奇特な場所は見つからず。なくはないのですが、小屋でもいいので、作業ができる屋根のあるところがベター。探しています。
◎水について……今回つくづく思うのは、竹などの材料はいささか遠くにあってもよいが、水(流れる水、きれいな山水)はそばにないと無理。
◎漬けた樽の置き場について……匂いはそれほどじゃありませんので、柿の木でもなんでも日陰ができる木、もしくは庇の下でもOK。