万延元年夏、そして万延2年春、匹見で起きた椎茸山騒動

中村克哉は、著書『シイタケ栽培の史的研究』(1983,東宣出版)の中で、天保12年(1841)に起きた人吉藩の茸山一揆を取り上げている。一揆研究の中ではよくとりげられるものであるとして。

その諸研究も史実が語る一揆、主として政治-藩政史が主題であって、当時にあっての「椎茸」をめぐる諸関係が詳細に検討されているわけではなさそうだ。もちろん個々の研究にあたっての考量ではない。あて推量である

人吉藩における椎茸山は、天保年間からはじまったものであろうか、早い段階から専買制がしかれていたというが、初源については精査を要する。ここでは一揆の要因としてみる。制度たるものの宿痾として、時がたつにつれ整合性—秩序形成力—諸主体の均衡を欠いていく。制度は硬直していなければ制度足り得ず、硬直は内的矛盾—不均衡を拡大していく。制度は外部と内部を作り出すことで安定した(硬直でもある)運動をはじめることができるのだが、安定した運動がスケールの拡大を容易にし制度として機能を発揮すればするほどに、内的矛盾の拡大は進む。矛盾の抑制あるいは調整に失敗すれば、均衡は崩れはじめ、制度そのものの崩壊をもたらす。

崩壊—最初の襲撃(打ち崩し)は、椎茸問屋横田辰右衛門の邸であった。専買制にかかわる不正疑惑と過剰な搾取を容易に物語るようではあるが、そうそう簡単なものではあるまい。まず、その背景に天保年間前後より全国各地で進展していたインフレがあることをおさえておかねばなるまい。幕府各藩とともに経済統制をもってこれに対処しようとして失敗する。幕府によるものは問屋組合・仲間の解散によりインフレをおさえようとしたが、元来問屋が担っていた市場調整機能を単に破壊しただけとなり、逆に大きな混乱を招いた。そうした考察は多々なされている。

さて、私がそうした背景も踏まえつつ注目したいのは、農民の心理であり、山稼ぎあるいは山の民との間で生じている摩擦・葛藤である。

一揆の主体は稲作農民であり、その訴えのなかには、出稼ぎにきている茸作(ナバツクリ)が、雨をもたらし、不作を生じさせるということがあったと、文書に記録されている。

以下は中村克哉『シイタケ栽培の史的研究』よりそのままひくが、この箇所について中村は複数の史料からひいたものと思われる。詳細は追々確かめていきたい。

《人吉藩の茸山は球磨郡の鹿蔵山でかなりの規模で行われ、乾燥小屋なども各地に散在していた。茸山では秋になるとほだ木を浸水して、水から出す時に「ナバよでろ、でろ。稲はナバになれ。豆もナバになれ」といったような意味の歌をはやしながらほだ木をたたいて作業をしたものだ。シイタケの発生には雨が多いほうがよい。(中略)「茸山では盛んに雨乞いをする。そのためによく雨が降る。夏の気温が上がらない。人吉藩内の凶作は藩の茸山が元だ」という妄想が生じはじめた。水に浸けたほだ木を出す時に「米の精よナバになれ」「ソバの精もナバになれ」などと景気をつけていたことも一般農民の反感をあおり、一揆の原因をなした》

ここで着目したいことがふたつある。

ひとつは、「不作の原因は茸山で雨乞いをするからだ」というような妄想が、他の地でも見られたかどうか。全国各地であたってみたい。中村によれば、豊後にひとつあったようだが、一揆研究でとりあげられることはないという。

そして、匹見(現島根県益田市匹見町)にも、安政年間から幕末にかけてそうした事態が生じているのである。一揆には至らない不穏として記録されているものだ。矢富熊一郎『石見匹見町史』から。

万延元年の夏、西村の農民一同が椎茸の製造は、湿気を必要とするため、雨天を祈って栽培をするのであるから、農作に支障を起こすものである、との見解から、その栽培者を放逐しようと企て、大勢が集会し一揆徒党がましい振舞いに出たが事は平和に落着した》

しかしことはこれで収まらなかった。西村の農民が敵視していた豊後の茸師(ナバツクリ)集団は小原のハビ山、七村、三葛一帯の山に入っていたものと思われる。西村の南方にあたる山々だ。この頃、匹見の山に入り込んでいた茸師(ナバツクリ)集団は、多数にのぼり、農民の不安・不満は暴発寸前だったのだ。豊後の茸師は晩秋に小屋番を残して一旦帰郷する。そして春ふたたびやってくる。

その春は万延二年のこと。浜田藩の詰所(代官出張所)のあった澄川村の農民が他の村を巻き込みながら、道谷村へ押し寄せた。二月五日(新暦で3月中旬か)のこと。席旗・竹槍を携え、山に点在する小屋を焼き討ちに入ろうとしていた。その理は、近来組内の奥筋(匹見の山々に)へ、他国人が多数入りこみ、椎茸山や伐木の駄賃等に従事しておるので「穀類高直ニ相成、及難儀」、このままでは村一同飢餓に陥ると。これに驚いた東村庄屋斎藤六左衛門と、西村庄屋本多万右衛門の両人は、早速飛脚を組内の各庄屋へ走らる一方、各村々から集まりつつあった一同を道谷村に集合させ、懇懇と慰撫に努め事なき不穏として収まったという。※1)該当箇所

残っている記録は断片的であるのみならず、何か大事なものが欠けているようだ。

・安政年間中に、匹見町広瀬で豊後の茸師が椎茸栽培を開始(大谷道太,藤谷一夢「広瀬物語」1984)

・浜田藩、河鮨景岡、42歳で御用人になる。藩の財政改革に着手。シイタケについては、横道での成功を知り、茸師を招き、栽培を奨励し、藩政たてなおしにつとめた(メモにつき出所確認中)※2

一次史料を欠くものではあるが、問題は「茸師を招き」にある。藩が雇うわけではない。財政改革中にそれはしないであろうし、同時代の他藩の例をみても、いわば委託方式である。いずれにせよ本当に「招いた」のだとしたら、農民にとっての山の用益権・既得権を無視した暴挙となったであろうことは想像に難くない。つまり、農民たちの矛先が向かっていたのは藩政に対してのものであったろうということだ。

この時代の匹見における御立山(官林)の所在は不明である。旧広見河内の西部に位置する赤岩がそうであることは知られるが、ほか数カ所あったはずである。御立山の用益ではなく、村の共有林をめぐるものであれば、当然村がよしとしない限りは、その借上はできない理屈である。が、藩からの指示でそれが無理にでも動いたのであれば、大きな摩擦が起きたであろう。もちろん相応以上の対価は払われたであろう。が、その対価ではいかんともしがたい。幕末のインフレが襲ってきた。共有林では焼畑での雑穀栽培が地域の貴重な糧であった。その資源を奪われ、対価は受取ったものの、それでは口に糊できないとなれば、「穀類高直ニ相成、及難儀」となる。以上はあくまで作業仮説である。これからさらに詰めていく。

そして、もうひとつの着目点。

《ナバよでろ、でろ。稲はナバになれ。豆もナバになれ」といったような意味の歌》が、記録されている史料である。中村は人吉藩の一揆の史料で見ているようなので、そちらの確認とあわせ、各地をみていく必要がある。

引き続き探索は続けるが、別なアプローチも試す。

段上達雄「海辺の山人・豊後なば山師」(『山と民具』1988,雄山閣)にあるのが、以下の一文である。

《なば山師たちはセコ(山あがりした河童)の話をよくする。なかなか姿を見せないが、子供くらいの大きさだという。夜になるとホーホーと鳴いたり、母屋の棟を揺らしたりした。いたずらはするが、人には危害を加えない。セコは春の彼岸から秋の彼岸までは川に入って河童になるともいわれている。》

この《セコ(山あがりした河童)》とはそもそも何か。柳田国男が早くから着目していた山童と同一とみてよいのか、どうか。

また、同書で段上はこうも言う。

《お茶を沸かしたり、シケウチ(秋子を出す時、よきで小口をたたく)の時に焚き火をたく際、火つけをすることを「お明かりを上げる」といい、神棚の灯明にたとえるほど神聖視した。(改行)。仕事から戻って暇があると、相撲をとって遊んだ。漬け木をする堤を築いたときにも、相撲をとって池底を固めることもあった》

シケウチの際に唱えたものが、先の一揆で例として出た唱え言である。 以上のなかで、関連する事項がいくつか出てきた。 灯明、堤ー水、お茶の湯をわかす—灯明、相撲ー河童ー水。 それぞれに興味ふかいが、とりわけ水ー火(明かり)ー沸かすーシケうち、の関係である。

※1)「澄川村の農民が他の村を巻き込みながら、道谷村へ押し寄せた」とするのは地理的にも状況としても違和感がある。澄川村にあった浜田藩の詰所へ向かい、村民が連れ立って書状を持ち込まんとしたところ、道谷村付近で庄屋の説得にあったのではないか。

※2)

天然スギの来し方、茸師の来し道、私たちの行く末

3年前になる。日原の山奥の一軒屋、軒先に吊るしてあるのを見つけた私に、お婆さんは「持っていってくれ」と。亡くなった爺さんのだからと。そして、今も手元にあるナバニコ。直して使うつもりでまだ物置にある。
ナバニコは茸作が豊後から西石見に持ち込んだ背負子であり、大正ごろから地元でもつくり使うようになったものだ。

ナバニコは、山陰の西端から東端の智頭町へと飛ぶ。鳥取県智頭町の芦生地区は、ブナと混交した天然スギが残る地である。活字では多く触れ知る機会はあるものの、いまだ訪れる機を得ていない。

島根大学農学部(林学)を1974年に退官された遠山富太郎氏は、芦津と森林生態も似た「芦演(京都大学芦生演習林)」で過ごされ、「芦生のスギのために墓碑銘を書くことにした」と、『杉のきた道』を退官2年後、中公新書から出された。(芦津と芦生を混同していました。初稿訂正)
天然杉の口碑を追った書ともいえるのだが、匹見・日原は天然杉の大森林が、全国でも残存した地であるのにもかかわらず、「地元の人にも、営林署の人にも当時のことを教えてくれる人がほとんどいない」とあとがきに記されている。

それはそうであろう。日原での伐木搬出は明治の半ばから終わりにかけてであったが、施業は多く紀州、木曽、土佐、安芸のほうから入ってきた人たちであった。日原に残った人もいたであろうが、多くは他の地に転じている。

幕藩時代、里に近い共有林はほとんどが焼山・草山であり、御立山と呼ばれた藩有林は、維新後に国有林となったもので、土地の人間には縁のうすいものであった。なにより奥山の天然木は神のすむ異界でもあったのだ。そこに古くから入っていたのは木地屋、たたら集団、そして江戸後期に入って茸作(シイタケ栽培者)である。津和野藩領では木地屋、たたら師は保護(管理でもある)したが、茸作の事情が不明である。

茸つくりたちは、古くは寛政年間から断続的に、天保、嘉永、そして幕末の文久、元治、慶応にには陸続として、豊後からわたってきた。木地師、たたら集団の解体離散と同期である。

1974年刊の大庭良美『石見日原村聞書』を、遠山は目にすることがなかったようだ。そこには、ありし日のスギ伐採のあり様が、わずかとはいえ描かれてもいる。

スギに限らず、樹木は「いかい」(どでかい)のが、ごろごろあったというが、スギであれば、切株に寝転んでも足が出ない。というから直径170センチクラスである。天然であること、気候地形などからして、樹齢300~500年だろうか。

さて、本題はそこではなく、日原聞書をあたっている中で、奥殿という土地がわからなかったということ。奥殿。周辺の土地には詳しい妻に聞いてみるが、聞いたことないという。

『石見日原村聞書』に奥殿にくらす老夫婦の話が出てくる。

《奥殿の水津宗太という人はもう八〇を過ぎておりますが、年寄りの二人ぐらしでとても仲がよい。あんな仲のよい夫婦は見たことがありません。一年中かかって作った籾を一年中にちちっとずつ二人でかるうて日原へ出て、農協で挽いて白にしてもろうて、それをいるだけ売って金にして、店屋へ入って酒を飲んで、酒を買うて、残った米を二人でかるうて、小一里(4km弱)もある山道を帰って行く。実に仲のよいものです。この間老齢年金のさがった時も二人で出て来て、爺さァが郵便局で受取って、婆さァ、こんなにもろうたでやというて渡しなはったら、婆さァは、そうかいなあというてふところへしまいなはった》(河村の野口 沖田栄吉77歳 昭和38年3月採話)

 奥殿から日原へ、山から里へ、3~4kmの道のりを、老夫婦が30~60kgほどの籾を、背負って降りてくる。その光景は幻にしては、ありありと目に浮かびくる。なんだろう。

 その道をざっくりと、地図におとしてみた。間違いも勘違いもこうしてみると、やがてわかってくるものだ。人が指摘してくれもする。

奥殿(おくとん)は、添谷(そえだに)にある奥殿川の最上流部にあったであろう集落である。現在、集落はなく、道も通ってはいない。昭和50年代の航空写真をみると、一軒の民家と水田が見える。右に写真、左に国土地理院5万分の1地形図という図であるが、竹林を示すそばには民家なりその跡らしきものが写真から伺える。

比較

 

参謀本部明治32年測量、昭和7年要部修正測量の五万分の1をみると、水田はさらに広範囲に見られる。周辺の山々は造林も始まっているが、草山・焼山であった履歴を残していて興味深い。

奥殿

上記ふたつを参照しながら、現在の地理院地図に昭和38年ごろ、仲のよいふたり暮らしの年寄りが歩いたであろう道を黄線でとってみた。

その家の納屋の軒には、ふたつのナバニコが並んでかかっていたであろう。
「切株に寝ても足が出ないほど」の大杉が林立していた山は、そこから5kmほど東に進んだところにあった。

 

 

伊勢、熊野、龍神、茸作りの道

1300km以上を車で駆け抜けた4日間。その断片を備忘として記しおく。
龍神村の宮代にあると伝わる、とある墓を探し訪ねた。
墓石があるらしい寺は全国文化財総覧には◯◯寺跡となっており、墓所はそこにないであろうことは予期された。一部の地図には寺名と位置が記されていること、国土地理院地図にのみ、なぜか寺名が地名として記載があること、行けば何かがあるという信のみ。
 6月16日、真夏のような陽射しが照りつける中、いくつかの記載を頼りに、狭く急な坂道を汗をかきながらのぼっていくと、楠の樹冠とその下に石垣がみえた。あぁ、あった。だが、目にできたのは、薬師堂と謹告として記された由緒のみ。屋根と幕を施された宝篋印塔は銘文により応永4年(1397)の建立と知られる。お堂のまわりだけは人の手が行き届いているものの、かつて、山門、宿坊を擁した寺院はやはり寺跡と呼ぶにふさわしいものであった。
 墓石などもまったくみられず、きれいに移動されているようであった。これまでと諦めた。妻は水の張られた田んぼに泳ぐオタマジャクシに「島根から来たんだよ、わかる?」と話しかけ、気分を軽やかにしてくれた。帰りの長い坂を下りはじめると、畑の草取りをしておられた男性がおられた。声をかけ、斯々然々とわけをお話すると、思わぬお返事が! 「あぁ、椎茸の常蔵さんの墓ですか、うちの墓の隣にありますよ」と。
 常蔵さんのことは、祖父から聞いていた。墓参りのたびに花を手向けたりしている。うちだけでなく、何軒かも同じく。
 祖父は山仕事していて、島根に林業指導の仕事で行っていたこともある。島根との技術交流もあったようで、島根と言われて、いろいろ思い出す、、と。墓の場所をお教えいただいた。
 墓所は寺跡から谷を挟んだ裏側ともいえる場所、共同墓地のはずれにあった。こちらも急な坂をのぼった杉林の中である。戒名を記した側面に、「文化元年七月二十二日没」「俗名スルガ国常蔵 施主五味右左衛門」と。
 文化元年は1804年、遡ること230年ほども前になるが、暑さのせいか、ついこの前、数十年前のことのような気に襲われる。
 常蔵は、古老が伝えるところによれば(日高郡誌など)、享和元年ごろ「山向こうの村」である寒川村(現美山村)へきて、椎茸栽培をする一方で多くの人に技術を教えもしたらしい。白髪童顔の姿態は駿河爺(するがじい)と呼ばれ愛されたようである。広井原村で山稼ぎをする中で風邪をこじらせ、戸板にのせらせふたつ向こうの村の医師のもとへ運ばれる途中、かの墓石がある村でなくなるのである。埋葬などの際に関係者間で交わされた文書も残る。原本の所在は未確認だが、翻刻されたものは美山村史資料編に所収。
 椎茸栽培黎明史(仮)の中では、寛政〜享和〜文化〜文政のおよそ40年ほどが業としての立ち上がりの時期にあたる。藩営あるいは商人による資本投下が各地方で盛んになる。浜田藩内での国東治兵衛によるものも同時期であるが、こちらはおそらく失敗に終わっている。
 常蔵は単身ではなく、複数人の集団である。常蔵がそうであったかは不明であるが、当時日高川上流域の寒川、山路には数百人もの木地師集団が、遠州、駿州、信州、日向、筑紫など全国から集まっていた。多くは木地師から農民化しつつあった人々であることに特徴がある。彼ら彼女らは木地づくりと椎茸栽培を同時に行っていた。
 木地師がもっとも早く山渡をやめて定住化していった地方として伊勢がある。その「解体」は織豊時代からはじまり、幕藩体制の下、少しずつ進行していく。その様は堀田吉雄の著書に詳しい。
 伊勢をトポス的仲立ちのようにして、東は遠州、駿州から伊豆に至り、西は紀州から阿波へとに至る道。その中で今も生きる共通項として、サンマ寿司を節目に食する文化がある。古くは熟れ鮨。そのサンマのなれずしを新宮の東宝茶屋で食した。「魚ではなくチーズだと思って食べてみてください」と言われた通り、まさにチーズである。ワインともよくあいそうであった。
 木地師と椎茸栽培。伊勢にある(元)木地師集落で祖父に代から今も椎茸栽培を営む方を訪ねた。木地師の末裔ではないと断られてはいたが、家のつくりや、使う山仕事の言葉にそれらしい片鱗がみられる。椎茸栽培は(栽培とはいうが)、職人の工芸みたいなものだと言われたとき、あぁその向き合い方こそが、木地師が椎茸栽培の先駆者たりえたエートスではなかったかと。
 伊勢と熊野を結ぶ山間にある寺では、文化年間に、椎茸屋(椎茸を扱う商人)が大般若経500巻のうち五巻を寄付した記を拝観することができた。ご厚意に謝しつつ縁を感じ入った。やってくれと背中を押されているのだと、いや本当に。
 海の博物館はすばらしい。ゲーター祭りと、太陽の魚、サンマ(あるいはサバ)を結びながら、展示から海人たちの来た道、私たちが向かう道を考えながら、見入った。
 さて、椎茸栽培が天然採取から栽培へ至る技術開発のなかで行われた技術の「発展」を科学哲学として捉えることが課題なのであるが、無理は承知で行けるところまで行ければよいと思うようになった。勝手なお願いを聞き入れいただき、応対いただいた多くの方々に手をあわせつつ、七月は豊後・日向へ向かう。

茸師と飢饉

【雨の日の地図旅行、その備忘】
五年ごし?の宿題を少々。

◉茸師 三平
大分県津久見市長泉寺境内にある椎茸碑の中に、次の一文がある。
「往昔、天保の頃、津久見の先覚者彦之内区三平、西之内区徳蔵、嘉吉、平九郎、久吉等の椎茸栽培業研修に端を発し、三平、徳蔵は石見へ出向、椎茸栽培業を経営す。是中国に於ける専門事業者の始祖なり」
 三平は、豊後から隠岐島にわたり後継者も続く石堂長吉とくらべて一世代ちょい前の享和三年(1803)の生まれ。
 徳蔵は津和野藩領であった横道村に、三平は浜田藩領の広見河内村に入って茸山(ナバヤマ)をする。

 嘉永5年12月、三平は茸山を下って里に出た。その帰路、平泊(二軒家)にあった知人の家に立ち寄り、知人は泊まっていくようすすめるが、三平は山へ帰っていった。雪が溶けた頃、三平は雪に埋もれて冷たくなっていた。三平は平泊の人にねんごろに葬られた。その春、三平の茸山には凄まじいばかりの春子ができ、村人は驚嘆し、その遺徳をたたえ、供養塔をたて三平祭りを営んでいる。
……というのが要旨なのだが、平泊がどこなのかがわからないし、疑問は多々。
たとえば。
「茸山を下って里へ出た」とあるこの里とはどこなのか。平泊(二軒家)の地名がさすところがはっきりすればと思うのだが……。いちばん近い里は東村(下の石見国図)。しかし、東村から広見のどこかに存在した三平の茸山(をのぞむ三平の住処)に帰るにしては距離がかえって近すぎるのではなかろうか。平泊が東村と広見の中間的位置にあるとして、どうだろう、遠くても3km程度か。が冬山で吹雪にあえば距離の問題ではない。
石見ではなく現在の北広島にあたるところだということも考えられる。里とは、横川または戸河内。冬でも半日から一日ほどもかけず行けるところではありそうだ。
ただ、平泊で調べるからわからないのであって、平溜なら、匹見の小原集落の奥にある。しかも、三平の墓はかつてそこにあったという渡辺友千代さんの証言もある。そちらがどうかということはまた別途。(2020/09/26追記…)
匹見に残る三平の墓石には、茸師市兵之墓と刻まれている。三平ではなく市平。これもわからない。

三段峡〜広見

 三平が匹見にやってきた(と思われる)天保11年あたりの年について、石見国図を眺めながら、あれこれ渉猟してみたが、天保8年に広見河内村で17戸中6〜7戸が逃散の記事からの前進はなし。逃散後、空いたままの民家に三平が住まいしたかもしれない。この年は大阪で大塩平八郎が蜂起する事件が起こっている。前年の天保7年は、「申年の飢饉」と呼ばれる大飢饉がこのあたり一帯を襲った、そんな時代である。

f:id:omojiro:20200516183540j:plain
石見國図〜国会図書館デジタル

◉向峠のウダオレ
 三平は、豊後から匹見へわたってくるその道で、多くの窮状を目にしたであろうことを想像しながら。
三平が没した広見河内から一日あれば行けるところでは一村全滅に近いこともあった。昭和11年には百回忌の法要があったという。

《この土地で困ったことと言えば飢饉であった。飢饉はじつに多かった。食べるものがなくなると、座に敷いてある筵をさいて食べたという話もある。すると子供の小便がしみていてうまかったという話さえ残っている。
 向峠から宇佐へ下るところに墓があるが、これはウダオレとて餓死したものを埋めたところだという。さびしいところで木がよく茂っていて、若いものが夜宇佐へあそびに行って、ここまでかえると狼が頭の上をとび越して行ったという。その藪の中に何人も死んだ人がいた。坂がのぼりきれなかったのであろう。
 銭をくわえて死んでいたという話もある。一番ひどかったのは申年(天保七年)の飢饉で、村のものはおおかた死にたえかけたという。その百回忌が昭和一一年にあった。》
 宮本常一著作集23「中国山地民俗採訪録」未来社より。
 現在の山口県玖珂郡高根村向峠のこと。昭和14年の記録。

f:id:omojiro:20200516173838j:plain

△昭和4年〜7年に修正測量された5万分の1地形図を張り合わせたもの。

◉美しい村
 昭和11年、向峠で申年の飢饉の百回忌が行われた五年後の昭和16年牛尾三千夫は、現在の金城町波佐から匹見、河津、向峠までを歩いている。いくつかのルートが(道なき道のため)不明なのだが、次の地点を確かめたく、あれこれ見た。
《河津越の頂に立って細長い谷間に点在している河津の部落を見下ろした時、非常に古風な感じがした。恐らくこの小さい部落は最初に木地屋等が来て住みついた処であらう。このあたり一望見渡す限りのナバヤマである。あれだけの栗の木を倒して椎茸を生やすのであるが、これが栗の木を切らずにゐた場合の栗の花盛りに、たまたまゆきあふとしたら、さぞかし花の匂いにむせかへるだらう。そして秋は何石何十石といふ栗の実を拾うことも可能であらう。大庭良美君の話によると、日原村の左鐙の横道では、十何俵といふ栗の俵が軒に吊ってあったのを見たと云ってゐた。そして此処では栗一升に米一合の割で日々食べてゐる。即ち栗が主食物であるといふ事を知ったと云ってゐた。》
 牛尾三千夫「美しい村ー民俗採訪記」昭和52,石見郷土研究懇話会

f:id:omojiro:20200516174405j:plain

△河津越の頂とはどこであったか。現在、山道は埋もれているが、昭和50年代撮影の航空写真でみると、推測しやすい。おそらく囲ったあたりから図外に至るところ。

茸作 豊後國市平墓〜#4_Book 7 days

本の顔の7日間、その4。
◉茸作 豊後國市平墓

f:id:omojiro:20150213124302j:plain

匹見の紙祖にある茸作・豊後國市平の墓。市平(三平)は、天保11年に豊後國から石見國の疋見組にやってきます。嘉永5年まで椎茸の栽培を行います。どこの山かはわかりません、ひとりだったのか、何人かで手掛けていたのか、それもわかりません。ただ、嘉永5年の11月、ある雪の日に亡くなったということ。僅かな伝承と盆踊りの歌詞に残るほかには、この墓石が残るのみ。
私にとっては、本のカヴァーのひとつということで。本そのものはすべて、すでに死んでいるのであって、表紙は墓石のようなものです。
ただ、こう書くと、なんだか奇を衒っているようで、そんなつもりはさらさらなく、言い訳がましくも、二冊のカバーと一枚の写真を添えて。

◉大庭良美著『石見日原村聞書』

f:id:omojiro:20200507140853j:plain

明治九年に大分の豊後に生まれ、ナバつくりを覚えて、18歳のときには「柿木の椛谷のしもの地蔵さんのおんなはるえき(大きな谷からわかれた支谷)」にいた老人の聞き書きがあります。
「ナバつくりは十一月三日の天長節のうらひら(前後)に水を見る」のだというところからはじまる一連の流れを、何度読み直したことか。「水を」「見る」のです。この見るは「占う」に近いのですが、私たちが考えている占いとはかなり異なるものです、たぶん。

◉昭和三十年代のとある写真

f:id:omojiro:20200512231232j:plain

先の聞書で、老人が大庭氏へ語って聞かせたのは昭和39年。昭和30年代の一葉として。妻の実家の前なのですが、石見日原村聞書に現れる方言を、妻に問いながら読めることは、この写真ともあわせて、時間の扉を開ける手助けをしてくれます。
「いかいナバ」
「ボヤボヤすればすわく」
言葉とは意味内容だけではわからない、そして翻訳不能なものを含んでこそ。

テッド・チャン『息吹』

f:id:omojiro:20200516094327j:plain

墓石からはじまってベストセラーで締めるのはいかがなものかとも思いますが、カバーといえばこれを。
コロナの件で観に行けなくなった映画「つつんで、ひらいて」を観に行くぞという意とともに。(どこで?いつ?)

www.magichour.co.jp

装丁家・水戸部功のカバーです。
さて、巻頭におさめられたテッド・チャンの「商人と錬金術師の門」は、これまで紹介してきた前の3冊、そしてこの後の3冊をつなぐものでもあるのです。
「過去と未来はおなじものであり,わたしたちにはどちらも変えられず,ただ,もっとよく知ることができるだけ」

◉茸作 豊後國市平墓補遺

†1. 田代信行さんに調べていただき、実在を確認のうえ、写真まで送ってもらいながら、まだ参れていないのですが、今年の夏までに。→2020年9月27日に墓参。2023年10月2日、墓がもともとあった場所で知る人への取材も行う。そのときの概要すらまだつくっていないことに、2025年8月12日にきづく

†2. 2018年11月9日のメモより
青木繁,1966『豊後の茸師』(富民協会出版部)…匹見に茸づくりを伝えた三平について、この文献を参照とした資料をいくつか見てきた。国会図書館にもなく、大学図書館で蔵するところも少ないのだが、なぜか島根大学附属図書館にはある。2年越しの宿題をかなえるべく、のはずだが、やや拍子抜け。そこまで詳細なものではなかった。とはいえ、生年や経歴などがはっきり記されているのは、ほかに参照している資料があるのだろう、、ということは伺える。

*2025/08/12上記加筆

・茸師三平
享和3年(1803)、現在の大分県津久見市彦之内に生まれる。天保5年から同10年まで深場官山の藩営事業場で”シイタケ栽培の講習を受け”、同11年から嘉永5年まで、現在の島根県津和野町匹見に居住しシイタケづくりに励んだ。

†3. 天保8年の広見河内
角川の地名辞典からの
*2025/08/12加筆
中途で切れてしまっている。角川地名辞典・島根県から何か抜粋しようとしたようだ。要は、天保8年前後の広見河内について記そうとしている。