松江騒擾事件と切腹

松江騒擾事件の主犯、岡崎功が自害を試みた際、その法・手立てはいかなるものであったかを確かめたい。

《切腹の後、喉を切って突っ伏した》

概略はこれで間違いないかに思われる。猪瀬直樹は、事件から三十数年後に資料精読と当事者への取材をもって、「恩赦のいたずら―最後のクーデター」を発表した(『天皇の影法師』1983年,朝日新聞社刊・所収)。事件を包括的かつもっとも詳細に描いたものである。

しかしながら、一点の曇りもなく切腹を肯んずることには戸惑う。当時の県警警防課長で、顛末を「島根県町焼打事件懺悔覚書」として残した西村国次郎。そこに切腹の記載はない。西村は問題の瞬間を見ていない。

「ワァッ」「ウワァ」と号泣喧騒する大声がするので、驚いて現場へ飛んで行ってみると、剣道場の板場で首魁その人が打ち伏せとなって居り、其の傍らには日本刀が投げ出されてあり、又真っ赤な血潮が流れ出ている。(「島根県町焼打事件懺悔覚書」p.34)

現場にいた、特高課長と放送局長が棒立ちになっていたのを彼は見る。おそらく正気を保っていた西村が主導し、岡崎は日赤松江病院へ搬送。手当を受け一命をとりとめる。当時の位置関係を確かめてみたいが、車で5分とはかからないであろう。西村は「後で当時の模様を聞いて見ると」という言い方で顛末を次のように記す。留意すべきは、ことは警察の不祥事であり、何かを伏せようとする意思が常に働いている可能性である。

首魁その人は特高課長の尋問を受けた後
「自分の為に同士を誤らしめたから謝罪がしたい」
と懇願するので特高課長と放送局長が随伴して、同士二十余名が監視されている剣道武道場に入ると、彼は先ず道場に設けられた神棚に礼拝をしてから座につき、同士に対して陳謝の辞を述べて後突然所持の日本刀を抜き払って二度までも自己の咽喉を突き切って自殺を図ったと云うのである。(「島根県町焼打事件懺悔覚書」p.34)

令和6年(2024年)に生きる我らの過半は、この場面、喉を切っての自殺未遂と取るであろう。時は昭和20年(1945年)、遡ること80年ほど前になる。腹を切る、切腹だけで自殺を遂げることが難しいことが未だ常識としてあった時代である。また戦時下、敵の辱めを受けぬための自害、その法についての理解は今より深かったと思われるが、今はふれない。すなわち切腹による自害には、致命傷とするための何かが必要であり、それは介錯による頭部切断か、咽喉を自ら突き刺す、あるいは心臓に向けて刃を突き刺すことで達せられるという「常識」である。

岡崎に随行し、みすみすその自害に至る行為を許してしまった特高課長と放送局長にとって、その不祥事への引け目がことの隠蔽まではいかずとも、なにがしかの力を持っていたと思われる。すなわち、いきなり咽喉を突かれたのであれば、止めようもなかろうが、切腹ののち、咽喉を突くまでを許した自らを認めたくはなかろうということ。

しかしながら、別な可能性もある。切腹の詳細を記している猪瀬は、岡崎の「回想録」はじめ、首謀者側からの言・文をもとにしている。彼ら彼女らにとっては、単なる自害であるより、神を拝し腹を切ったという儀礼が完遂されたことは、自らがなしたことの誇りの擁護たりうる。切腹がなかったのにあったように記す可能性はある。が、しかし、岡崎の思想・信条・行動の履歴から考えて、それは極めて考えにくい。ただいまは、岡崎らの中にある虚偽―影の存在に留意しておくにとd岡崎が記録として残した歌集からひく。(岡崎功『火雲』)

白鳥の如く清けく今死なむ
國の生命(いのち)の終るこの日に

 

古(いにしえ)の 武士(もののふ)のごと 腹切りて
死出の旅路を 手をとり往かむ

 

介錯を頼めど 友は立たざりき
傷つきし吾を 助けむとして

 

現し世に別れむとして君が代を
唱ひ終れば残るものなし

介錯を頼んだ友とは、直接には、県庁焼討を遂行した森脇昭吉か大野火薬店を襲撃した波多野安彦。岡崎が所持し自らを切るのに使ったのは「鎧通し」である。猪瀬の記述をみてみる。

岡崎ら「皇国義勇軍」がNHK放送局立て籠もりから投降する際の条件は、岡崎以外のメンバーの罪を問わないということであった。しかし、手錠もかけられず武器も所持されたままの投降後、松江署での話し合いでこの約束は撤回される。岡崎は「同志に相談させて欲しい」といい、みながいる剣道場にいく。投降が午前9時過ぎ。同志は車座になって昼食を終えた後であっただろうか。緊張がほぐれた18歳から20歳ぐらいの少年たちの顔をみながら、ことにいたる。先の西村の記載とあわせると、岡崎はまず神棚に礼拝し、二十数名が車座となっているところに腰をおろす。

「取り調べを堂々と受けてくれ。釈放されたあかつきには日本の再建のために頑張って欲しい。こういう結果を招いて済まなかった」
というと懐中から、よろい通しを素早く取り出し腹に刺した。腹を切るとき、バリバリと紙を裂くような音がして一度ヘソの上で浮き上がった。岡崎は同じ傷口にもう一度、よろい通しを刺した。特高課長と放送局長はあわてて駆けよろうとしたが、日本刀をつかんだ波多野が目を血走らせて立ち向かう。真っ赤な血が床の上に飛び散っている。岡崎は波多野を制しながら「天皇陛下万歳」と叫び、よろい通しを今度は首筋に突き立ててその場に伏した。(猪瀬直樹「恩赦のいたずら―最後のクーデター」;『天皇の影法師』中公文庫,2012 )

切腹はなく咽喉への突き刺しを「二度までも」と表する西村の記述。腹に立てた刃が浮いたため「二度目」の刃を刺し、その後「天皇陛下万歳」を叫び、喉を切ったとする猪瀬の記述。いずれも「二度」の「刺し」があったことが共通し、さらに重要なのは岡崎本人が所持していた刀でことが行われたことに双方齟齬はない。

猪瀬の実質的には処女作となる「恩赦のいたずら」が『天皇の影法師』に収められ朝日新聞社から刊行されたのは1983年。その数年前から、何か封印が解かれたかのように、続々とこの事件を一項目として記した書が世に出始める。

それ以前。昭和43年(1968年)に元県知事であった山田武雄の回想録には、NHK放送局に立て籠もった岡崎らは「軍と警察で強制武装解除した」と記されている。山田は武装解除なしに署での取り調べならぬ「話し合い」がなされていたことを隠蔽したかったのか?
そうでもあろうし、そうでもないように思える。

戦前の知事は現在の知事とは似て非なる官である。言行とその心理・原理推し量るのは容易ではないことに留意しつつ、山田(元)知事は、事実を知っていた上でと考える。昭和20年の8月24日未明。終戦から10日という日に、NHK松江放送局という場で起こった事実とは《武装警官50名が放送局を包囲し、松江聯隊からもトラックで兵隊がかけつけたために、ついに岡崎ら皇国義勇軍は放送を断念し、県知事に直訴するということで警察に同道することを決定した。武装したままで警察練習所に護送されたのであった》(内藤正中『島根県の百年』1982,山川出版社)

山田にとっては想像の範疇を越える事態、相通ずることのない心情がそこにはあったのではないか。先に引用した内藤の記事は次の文で終わっている。

この事件の特徴は、海軍航空隊や松江聯隊の抗戦派軍人と連絡をとりあい、松江憲兵隊長の了承もとりつけたうえで、皇国義勇軍だけで実行されたものであり、事前に配布したビラや檄文で警察当局もじゅうぶん承知していたはずの『武装決起』が実行されたことにある。そのかぎりからすれば、終戦時において、軍隊や警察が内部にもっていた”感情”が、表明された事件といわなければならない。

つづく