午後の3時前から小一時間ほど入って、竹を5本ほどであろうか、整理した。青竹は2、3であったと思う。孟宗竹の密集地であり、伐ればどこかに引っかかる。よって、かかった稈を幾度か元伐りしながら伏せ込むことになる。立ったものを寝かせていく作業ともいえる。木を伐り倒すことを伐倒とはいうが、この場合、倒れはせずにかかるのだ。開放面があれば、倒れる方向をそこへ向けて「伐れ」ば、地面に「倒れる」。当たり前のことを難しく書いている。しかたがない。その場でこそ当たり前のことが、離れてしまうとまるでわからない。山とはそういう場なのである。
元に戻ろう。方向をずらす牽引力と管理できる器具があれば、開放面に接した場所から作業をはじめ、順に「倒す」のがよいのかもしれない。
そうしないのは、器具が手元にないということもあるのだが、山ではできる限り身軽でいたいという心持ちが大きく働いているからだろう。それを今日、思った。ただでさえ、チェーンソーという動力機械で山と接することは、「学び」としての損失を大きくみたほうがよい。かといって、ノコとナタでひとり山に挑むのは、趣味に過ぎる。それに、ちょっと筋とは逆のことを言うようだが、チェーンソーは、粗暴なようでいて繊細を人に求める機械である。
先ほど、繊細という言葉を使った。使ったのは、単純で強いものに対置する語として呼び出したのだが、それだけにとどまらないことに、気付いたのだ。
パスカルが『パンセ』の冒頭で用いた繊細の精神(esprit de finesse)、幾何学の精神(esprit de géométrie)。
「幾何学の精神」は、定義が明瞭で原理が日常から離れているため、力強いが適応できる世界は(実は)狭い。対して「繊細の精神」は、原理が日常のなかにあり、誰もが目にしているが、あまりに微細であるため、全人格的ともいえるな「よい目」を持たなければ捉えられない、あるいは原理が多すぎることで遺漏なく捉えることが、極めて困難だという。ひとつでも見過ごせば誤るとも。
チェーンソーによる「作業」を、「繊細を人に求める」としたのは、繊細の精神(esprit de finesse)を求めると言い換えられる。パスカルとの接続が可能だということである。
チェーンソーという機械は、外見上は力まかせの道具に見える。しかし実際には、その機械の動力学、慣性、刃が対象—木質への入り方にそった操作者の応答を要求する。それは機械が「場」を持っているということでもある。操作者が意図を押しつけるのではなく、機械と場の動きに応じて、操作者は判断に基づいた動きをなすことで意図—目的を達成しようとする。
ここで誤解を生みやすい概念として、繊細(finesse)を捉え直しておこう。finesseを繊細と訳したのは前田が最初であったろうか。それはともかく。finesseについてふれている次のテキストを参照されたい。Firadis WINE CLUBが掲載しているコラム、「ワインボキャブラ天国【第48回】「フィネス」英:finesse 仏:finesse」より。
ということで今回ご紹介する言葉は…… 「フィネス」 英:finesse 仏:finesse(女性名詞:発音は「フィネッス」)
「エレガンス」などと同様に、使い方がなかなか厄介な言葉です。
プロのテイスターだと例えば「このワインにはフィネスがある、フィネスを感じる」なんていう風に使う訳なのですが、「分かりにくい言葉でなんとなく煙に巻いている」といううさん臭さが漂ってしまいがち。
だから僕自身は殆どこの言葉は使いませんが、海外のワイン専門誌・評論等では非常に頻繁に出て来る用語です。 英語仏語共に同じスペルで使う言葉「finesse=フィネス」。 辞書で調べるとその意味には「技巧」「腕のさえ」「精妙さ」等の言葉が並びます。 そこから考えればフィネスのあるワインとはつまり、職人的な造り手の「技」や「腕」を感じさせる非常によく出来た高品質なワイン、と考えて良いのだと思います。
「技」「腕」を感じさせるワイン、なんて言っても、曖昧にしか感じられないかもしれません。 ですが「技」を感じさせるワインと言うのは概して絶妙な香り・味わいのバランスを実現しているもの。
物凄くパワフルなのに、又は非常に酸が強いのに全く飲み疲れない、飲み飽きない。 様々の要素が理想の調和を見せてくれて、そこに造り手の精緻な目論見を見つけた時に「フィネスがある」と感じます(口には出しませんが)。 ワインの「フィネス」には明確な定義はありません。
だ飲み手が自分なりの評価基準を持ち、自発的に感じ取りにいけば良いもの、なのかもしれません。 ボンヤリした結論で申し訳ないのですが…でもそのくらい曖昧な言葉なんです、実際。
ここでは、finesseを繊細などの単一の語句であらわすことが、できないものであるとだけ認識しておけばよい。まずパスカルだ。
重要なのは、パスカルが問題にしているesprit de géométrieとesprit de finesseに共通するesprit (精神)とは、能力の区分ではないということ。それは原理(principes)への到達の仕方の違いだ。
パスカルこう述べている(ラフュマ版断章512前後、ブランシュヴィック版1–4付近):
幾何学の精神は、原理がはっきりしており、しかもそれが感覚から遠い場合に、うまく働く。
繊細の精神は、原理が数多く、微妙で、ほとんど感じられるが定義できない場合に働く。
ここでの対置は「論理 vs 直観」ではない。むしろ、
- 幾何学の精神:原理が明確で、数が少なく、抽象的で、遠くにある。→ それらを定義し、順序立て、演繹できる。
- 繊細の精神:原理が多数あり、日常のただ中にあり、あまりに近すぎて定義できない。→ それらを「一目で」把握する。
違いは認識能力の優劣ではなく、対象領域の構造の違いに応じた精神の働き方の違いなのだ。
「繊細」は感覚主義ではない
多くの要約では「感覚」「直観」と説明されているのだが、おかしい。パスカルの finesse は、感情的理解ではない。
- 無数の微細な前提
- 暗黙の了解
- 言語化不能な原理
これらを瞬時に総合する能力である。
それはむしろ社会的・道徳的・政治的判断のための知性である。恋愛や名誉、礼儀、権威、信仰といった領域では、原理は数式のように提示できない。しかしそれでも判断は必要だ。
つまり、finesse は「論理以前」ではなく、論理を適用できないほど複雑な原理の場における理性の形式なのだ。
対立ではなく、互いに盲目
パスカルは「両立が必要」と穏当に調停しているわけではない。むしろこう言っている。
- 幾何学者は繊細さに鈍い。
- 繊細な人は幾何学に耐えられない。
これは単なる性格論ではなく、精神の構えが変わらない限り、互いの領域は理解不能であるという断絶の指摘だ。幾何学者はすべてを定義しようとする。しかし finesse の領域では、定義しようとした瞬間に本質が逃げる。だからパスカルにとって問題なのは「バランス」ではなく、「人間精神は、なぜそのように分裂しているのか」という問いである。
神学的文脈
パスカルの「パンセ」は全体を通じて、近代的知性が神とどう向き合うかという問題に挑んだものだともいえる。つまり、繊細/幾何学の区別は単なる認識論にとどまらない。それはパスカルの人間論・罪の教義・恩寵論と結びついているものだ。
人間は理性を持つが、堕落している。理性は真理を証明できるが、救いには至らない。幾何学の精神は証明を求める。しかし信仰の原理は「証明」できない。だからこそ彼は言う:
心には、理性の知らない理由がある。(Le cœur a ses raisons que la raison ne connaît point)
この有名な断章は finesse の文脈に属する。しかしそれは反理性ではない。むしろ理性の限界の内部での理性批判である。
(つづく)