聞書細片〜お弁当もって美容院へ

聞いたそのとき、いきいきとした像を結んだ話を、記しておく。断片はしだいに朽ちていく。1年以上まえの聞きかじりもある。

◉お弁当をもって美容院へ
木次のまちにある美容院へ、お弁当をもって一日がかりで行った記憶。いまでは車で15分ほどの距離だろうか。その記憶を語る人は、いま90歳をこえている。
よその町にすみ、ときおり訪ねてくる、木次のまち。その人のなかでは生き生きとまぶしいものとしてあるのではないか。よみがえるのではない、いまもあって、その人が語るたびに、現像されるものをおもう。

2012年、山の暮らしを取材していた

2011年(平成23)の秋から2012年(平成24)の春にかけて、写真や記録をサルベージしていたところ。

映画「森聞き」上映について、いくつかをひろう。現在作成中の「森と畑と牛と」1号にも「記録」としてアップしていく予定。

 「森聞き」上映会

●Kさんの山にて〜2012年1月3日、facebookへの投稿

1月7日、映画「森聞き」益田上映会では、「森の縁側」というスペースをホワイエにつくります。今日はその下準備のために、小雪舞う柿木の山へ入りました。

写真に見える斜面の上の方では、約50年ほど前まで焼き畑を行っていたそうです。
白菜、大根、など葉物が中心で、「そりゃあ、ようとれた」と語る73歳のKさん。
高校生の頃、父を手伝っていたのだとか。
Kさんには今回の上映にもご協力いただいていて、試写会にも来ていただいています。
「あの、焼き畑のばあさんはなんちゅったっけ。ああ、椎葉さんか。あそこの焼き畑は1町歩もあろうが、うちらのは1反ほどのちいちゃい焼き畑じゃ。それでも火はこわいけん、防火帯は10メートルほどもつくっておった。あぶないときは土をかぶせるのがいちばんええ。すぐ消える」。
などなど、興味深いお話をいくつも聞くことができました。

いま、桧が植林されている石垣の箇所はかつては棚田。
水稲と焼き畑農耕が混在していたというのも、ここ柿木ならではという気もします。
この石垣がいつ頃つくられたのかはまったく不明。
里からは、どうだろう200メートルばかりは急斜面をあがった山中です。
ほかにも沢水の流れにそって数軒の家が昭和40年頃まであったといいいます。
三八豪雪を機に、皆、里へ下りたのでしょうか。
聞けば、山中には由来も縁もわからぬ墓石が点在しているとか。碑銘があるものも転がっていると聞いて、ちょいと調べてみたい気をそそられてしまいました。
まあ、そういう意味でも春は待ち遠しい。

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●補遺

この場所へは車であがるのだが、林道含め公道はなく私道=作業道であって、数箇所ほどの難所がある。自分の車であがったのか誰かの軽トラに乗せてもらってあがったのかは記憶が不確かである。新聞記者がどなたか小さな軽乗用車であがってこられて、みなで歓心と笑いで迎えたような記憶が残っている。

小さな小屋があって、寝泊まりできる。囲炉裏を囲んで4人ほどで脚を縮めながら冬の一夜を過ごしたこともかすかに覚えている。翌日は私をのぞく3人が激しい悪寒に襲われ寝込んだのだ。

Kさんから学んだひとつの教えは、いまもときどき思い出し、はじめて山の仕事をする学生らに必ず話す。「自分はずっと林業の仕事をやってきた。怪我で腕をなくしたもの、車椅子生活になったもの、そして亡くなったもの、たくさんの同僚友人知人をみてきた。自分はひとつの怪我もなくこうやって元気にやり続けている。気をつけるのはひとつだけ。山は平地とは違う。山では(わざと)ゆっくり動くこと。

足の指を骨折したくらいの怪我ですんでいるのも、この教えのおかげかもしれない。ゆっくり動けない質ゆえに、ゆっくり動くことの意味がよくわかる。ゆっくり動くと物の見え方や感じ方が違ってくるのだ。山が平地と違うことは理屈でなく身体でわかる、もっともよいやり方が「ゆっくり動くこと」なのだ。

 ●上映会当日、会場の様子などをかんたんに残してあるブログ。

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畑と茅と森と近況報告〜2016年10月17日

つれづれなるままに、奥出雲山村塾の近況報告です。
アワ、ヒエ、タカキビ、アマランサス。この4つの乾燥は十分。脱穀調製に入っています。あぁ、もちろんすべて手作業でして、気が遠くなりつつありますが、その度に気を取り直しつつ試行錯誤が続いています。
ここ数日は根を詰めてやりましたので、指や手の平の痛みがかなり来ており、揉むよりは叩くほうにシフト中です。まな板状のものにアマランサスを載せて棒で叩く。これが基本ですが、殻が取れずに残ったものは、手箕をなんどもふり、篩に幾度とかけ、団扇であおぐ、息を吹く、と何をやってもうまくいかず、最終手段として指で揉んで実を取り出した後、また同じことの繰り返しとなります。 半日やると指先がヒリヒリしてきますので、何か別な方法を編み出さねば。。。。この調子だと一冬以上かかってしまいかねない。


アワは来年の春蒔き用の種とするものを優先する予定です。が、予定は未定でもあり、料理用にまわして、タネは再度入手でも悪くはない。在来で手に入ればそれがよいでしょう。今年播いたのは岩手のモチアワでしたので、西日本のモチアワで入手できるものがあればそれを優先したい。
そうそう、東北のアワは島根にもかなり入ってきているようです。少量とはいえ、県産の雑穀栽培は需要があるのではないでしょうか。少し調べて、、というより、こういうときに、さくっと聞けるとよいのですが。基本メールでしか質問は受け付けていないようで、アワの発芽についての質問メールを送ったのが6月だったか。いまだ返信なしです。
閑話休題。来年のアワはかなりの量の播種を目ざし、面積拡大するぞ。圃場確保にこれから走らなければ!! もちろん普通の畑では無理です。誰も手をつけない遊休地か放棄地。世間の外れをひたすら歩むのみ。


上の写真は右からモチアワ(岩手の種から)、タカキビ(これも岩手種だったかな。ただし林原在来も収穫しています)、アマランサス(脱穀したもの、岩手産の種と長野の種が混じっているはず)。ちなみに、アワは見たことのない老人も多いほど、出雲地方では早くから姿を消しているようです。出雲地域で、アワ、ヒエ、キビなどの雑穀で最後まで栽培が続き、今でもまれにつくっておられるのはタカキビです。なぜなのか。聞き取りを進めたい。
さて、道具や物置の場所をつくるために、小屋をつくります。場所は提供いただけます。感謝。骨格は使ってない建設資材など。壁はこれも板などを拾ってくる。屋根は竹を組み、茅で葺きます。仮設でトタンを縛れるとよいのですが、これも拾えるかなあ。
雨がたまらぬよう排水もとらねばなりません。あくまで小屋なので、仮設性も担保せねばならぬし、なかなか頭も手も足も使いますが、修行ですなあ。
山あがり取材調査は遅々としていますが進行中ではあります。牛だよねえ。牛。志津見の村々には猿の頭を厩に祀った話も調査記録に残っています。

中野の豆腐とこんにゃく

木次線開通100周年。式典はこっそりと一瞬除いて、写真だけじっくりと眺めていました。そうそう、別な機会に阿井村から中野村に嫁にきて、木次線を使って里帰りしていた90歳のお婆ちゃんに話を聞くことがありました。中野は新しく普請した家が多く、古いものは残っていないのだと。しょーけ小屋(塩気小屋)は、小さい頃に見た。姑さんがつくっていたが自分はやっていないのだと。今でも豆腐とこんにゃくは年に何度か、朝4時からつくるのだと。
また、同じ婆さんと近所の茶飲み友達とのお話の中で土用豆のこと。ここら(中野)では、土用豆ではなく七夕豆と呼ばれているようです。だらず豆とも呼ぶそう。青い時分には塩ゆでにもして食べるというのは初耳でした。阿井のご出身ならば、ホトホトのことをたずねればよかったなあ。次回。
あ、中野での麻づくり、共同作業(蒸したりといった)の体験を語れる人と出会いました。79歳。戦前のことです。忘れておられるでしょうから今度写真と手土産持参で行ってきます。茅葺きの軒はに麻を使ったそうですが、首をかしげながらだったので、そこらは再度確かめましょう。