ナバニコ考#1

日原民俗資料館で見たナバニコ。
ナバは茸、ニコは荷子だろうか。日本の山ではあまねく見られたであろう民具であり、現代にあっては背負子(背負子)と呼ばれることが多い。子は梯子の子と同根と推定。民具の一般名としては「木負子」になるのだろう。

さて、ナバニコ。大庭良美,1986『日原の民俗資料』日原町教育委員会にある写真と若干違うような気がして、図書館で確かめてみようと思う。ナバニコについている札には「名称:ニコ」とあるのだ。また、ナバニコの分布について、少しおってみたい。

下のニコと比較して、上部がスリムであること、脚が長めであること、背がゆるやかに弧状であることなどが特徴的。背負ってみればわかるだろうが、荷重の重心がより腰や背に近くなるだろう。背当ての丸い藁編み(緩衝具)も含めてのものなのかどうかは不明である。
明治に入る以前から豊後の茸師が持ち込み、日原の人が見て背負ってみたのだと思う。仕事に雇われて使ってみて良さを実感した。そして肝心なのはその次だ。大庭1986によれば、茸師に「頼んでつくってもらった」ものだという。

まず、この展示一点だけなのか、他にいくつもあったのか。後者であればどの程度あったのか。少なくとも「なばにこ」という名で呼ばれ、少ない数が存在したのだと考えるのが自然だ。せめてもう一点現存していれば特徴を定めやすいのだが。

これら民具の収集にもっとも協力的であったのは左鐙地区の老人会であったと聞く*1。かの地は天保11年頃には豊後の茸師・徳蔵が入って営業をはじめている地である。(徳蔵は文久4年に山小屋で喀血死。天保5年〜天保10年まで三平、徳蔵、嘉吉の3名は深葉の官営事業所で椎茸栽培に従事した仲間として、嘉吉が西郷武十に語ったものが典拠であるが、資料は現在入手折衝中。西郷武十『日本特殊産業椎茸栽培沿革史』昭和30年,津久見椎茸顕彰会刊)

3つ目に、匹見の美濃路屋敷(歴史民俗資料館)にあっただろうかということ。あれば撮っているだろうから、たぶんないのだろうが。数年前に一度駆け足で訪れた際には豊後ヨキの写真を撮っている。豊後由来で名称がついたものを集めてみる必要もあろう。

ちょっと横にそれた。
ナバニコであるが、名称表示はなくとも、同じような形態のニコをどこかでみたぞとたどってみれば、芸北 高原の自然館の隣にある山麓庵にあったのだ。下の写真右上のがそれらしい。その下にある「にこ」とは形態が異なることがみてとれるが、どうだろう。

 

*1
博物館で聞いたのかパネル説明にあったのか。大庭1986のあとがきにもあったので以下記す。
《特に《左鐙にあった資料は大きなものだけでもトラックに八台、運ぶのに一日半かかりました》