麦が発芽、里芋来る

10月29日、麦が発芽していた。写真は裸大麦のイチバンボシ。スペルト小麦も同様発芽している。双方とも1〜2日たっているようだから、10月28日としておこう。播種は10月24日だったか。昨年より2日ほど早い播種で、発芽もやや早いはず、である。もう1週間早いほうがよいのだ。とくに小麦は梅雨にかかってしまうから。今年、そうするのをやや躊躇したのは、気温の高い日が続いたから。ま、よしとして、来年の5月、6月まで、順調なることを祈る。カメムシ防除を木酢液でやってみることにする(日本木酢液協会)。冬の準備から。

里芋来る。Iさんと畑の様子などお話する。この里芋はこし、ねばり、甘みがあり、三刀屋在来と呼んでいるが、特産でもなんでもなくて、昔からつくっているからということを聞いて、そうつけている。

出雲の山墾り〜 R6-sec.23

令和6年10月18日。晴れのち曇り。最高気温は30℃にまで達したようだ。暑い。東の山の端から、積雲かと見紛うような雲が湧き上がるのを見た。車で葡萄園からオリゼに帰る途次、まだきれいな花をつけている萩をところどころに見つける。ブレーキを踏んで、ものの30秒もあれば、手折ることもできたのだがそうはせず。記憶とともにここに記しおくこととする。長く暑かった夏は、人の畑に不作をもたらし秋の実りをそぎはしたが、野の草木は秋を忘れることなく淡々と、咲くべきときに咲いている。強さ、逞しさ、というものではなく、美しさをこそ、認めたい。端整であることを表す「美」であるより、可憐と形容すべきだろうが、よりふさわしい和語を見つけられず。

さて、この日、目にし、感じたことの断片を散りばめておく。

オリゼの庭と裏の畑と

†. 金木犀の花がいっせいに散りはじめた
一瞬なにかと思うほどに、樹下の足元をオレンジに染めていた。香りはまだかすかに漂う。昨年、樹高をおさえるべく強剪定を施しており、樹勢は変わらずとも弱ってはいると思う。その割には花がつきすぎかとも思う。カボチャを丸い樹冠全体に這わせるようにして強い陽射しを当てないことが、あるいはよい作用をもたらしているのかもしらん。谷間にあるような裏庭の環境にあっては、夏は日照に恵まれた点のような場所だから、カボチャにとっては当然の所行で、金木犀を思ってのことではない。お互いの加減がよいようにみえる。

†. ケールの発芽を確認、九条ネギはまだ
5〜6日前に播種したセルにおいて。冬の間に雪をかぶりながらも成長生存できるだろうか。春に花がつけば種子をとれるだろうか。

†. シュウメイギクの白が昨日開花
オリゼの庭のシュウメイギク。一輪のみだが。明日は雨が降るというのに。

山の畑にて

火入れ後、4回めくらいの草刈りか。これが最後かもしれないくらいの秋の草。急傾斜斜面については来週再来週にできるとよいのだがと思う。

†. セイタカアワダチソウ
鮮やかな黄の色が、まだ枯れるのには間がありそうな鈍い草色の中に目立つようになった。目についたものは、どうであれまず刈り取る。また花をつけるだろうが、勢いをそぐために。ツルアズキの群生が見られた場所で急繁殖をはじめたようだが、遠目からの視認したのみ。後日確かめることとする。

†. 牛の侵入
なぜこんなところに糞が。一頭のみ。小柄なやつだ。のびた草がないでいるところをたどりながら推するに、蕪栽培跡地の急斜面から入ったようだ。クサギを数本切り倒して崖に投げ込むように置いた。数日内に様子をみて、補強する。蕪が無傷だったのがなにより。

†. 焼畑の蕪
前回移植したものは、大きなものは活着(というのだろうが)したようだ。1週間以内には間引かねばならぬ箇所が目についた。日曜には少しばかり抜こう。形状のよいもの、すなわち種をとりたいものについては移植、そうでないものは持ち帰ることとする。

†. 焼畑の大根
前回播種したものの半分ほどが発芽か。

†. 焼畑のコリアンダーとディルとケール
雨が続いたなか、一月遅れくらいでの発芽と成長。どこまで大きくなれるだろうか。

†. タカキビ
小さくともよい種子がついている、ばら撒き地のものを2本刈り取る。タカキビは日照大事。

†. 大豆
一粒種はとれそうだ。種子をつけることすら無理かとみていたので、胸をなでおろしたい。焼畑・山畑大豆の血である。

†. コナラとシラカシ
なんと、シラカシを刈払機で切ってしまった。地面10センチほどから上。下部に葉を残してはいるので、生き残ってください。コナラは背をずいぶんとのばした。170センチくらいか。今年の春、牛にほぼすべて食われたところからの回復である。

†. キバナアキギリ
夏焼地の東斜面脇に花をつけて群生。はじめて見た、はずはないのだが、20mあまりにわたって群生している様ははじめてである。焼畑をしたことの何らかの影響によると思う。きれいだ。北西に面した1〜2mほどの切立ちの下でゆるやかな坂路である。火入れ前に何度か草刈りをしたことで、他の競合植物が劣勢となり、地下茎をもつアキギリの株立がふえたのだろう。

山野の谷間に広くはえる多年草です。秋のキノコ狩りで、よく目にする花のひとつです。山で秋を告げる花です。

《飯南町の植物ガイドブック,H25,飯南町森の案内人会》に記されているが、キノコも今年の秋は多く目にする。まとまった降雨がつづき、土がつねに湿っているからという要因も、キバナアキギリの群生をひろげたと思われる。

シソ科アキギリ属。学名はSalvia nipponica。日本のサルビアである。茶花として琴柱草(コトジソウ)の名としても知られる。《宮本巌,摘み草手帳,S53,山陰中央新報社》に、宮本はこう記す。

キバナアキギリは雪深い中国山地はいうまでもなく、雪の降る海岸山地でも十分見ることができる。仁摩町、大田市の後背を走る邇安山地、あるいは島根半島を縦走する島根山脈がそうである。かつて、約200万年も前、日本海ができたといわれるが、それ以来日本海がもたらす多量の積雪は新しい種の分化をうながし、かつそれに適応する数々の種を生み出した。地史的な要因によって作出される植物は他にもいろいろな要素があるが、こうした日本海の積雪が作り出した要素を特に日本海要素と呼ぶ。キバナアキギリはその日本海要素の一つである。春、残雪の消えやらぬころ、伸びた若芽を摘み、ゆでた後(塩)、ゴマあえ、辛子あえ、または油いためとする。

 

クサギの香りと茶、そして生薬として

石鎚黒茶を喫しながら閃いた。この発酵臭、香り、クサギナ(写真右端)と似ているではないかと。美作番茶(写真上)にも通じるものがある。私が知るクサギナは、煮沸アク抜きして天日干ししたものだ。雲南・奥出雲には知る人なく、主として芸北・備北に残る幾多の記録から模したものだが、参照したものの中に茶としての用は記されていなかった。リョウブと同様、飢饉に備えた糧でもあり、ハレの日の振る舞いにも用いられたことは確かだろう(野本寛一『採集民俗論』昭和堂,2020など)。なぜに救荒食であり御馳走でもあるという存在になりうるのか。それはこの香り(への嗜好)にあるのではないかという閃きが、石鎚黒茶の香りに導かれてあった。単なる浮いて消えゆく思いつきとは違う証をたてるためにも、茶とはなにか、茶粥とはなにか。たどりなおしてみようと思う。この香りを標として。

■クサギ、その香りの魅力

クサギノ葉ハ、少シ苦味ノアル、甚香ノ高キモノデアル」と書き残した田中梅治は、島根県邑南町鱒渕の人であった。

葉が臭いから臭木というのだ、という記述をあちらこちらで見る。copy&pasteの容易なウェブ上であれ書誌であれ。思うに、実際さわったことも嗅いだこともない人が記しているのが大半ではなかろうか。なかには、生葉はアーモンドのような香りがして好きだ、などという言説も散見されはするが、少数にとどまる。

そのクサギ、出雲の山墾りをしているところでは、意図的に残していることと、放牧乳牛がまったく口をつけないために、ここ3〜4年来、大いに繁殖している。訪ね来る人にその臭いについて聞いてみるのだが、確かに臭いですね、などと言った人は皆無である、いまのところ。

臭いそのものは強い部類であるが、誰もがよい香りとする山椒ほどではない。そして、生えているその場で、あるいは触れたりして漂う悪臭ではない。車の中で強く臭って捨てたという人の話を読んだことがあるが、おそらくクサギカメムシがついていた可能性もある。クサギによくつくカメムシの臭いとの混同が起こりがちである。

異臭とされる強い臭いは、腺毛から分泌されているらしいので、採取してしばらく放置するだけで消えるだろうし、これまで嫌な臭いとして感じたことはない。クサギのよい香りは、悪臭が薄まったものとはまた違うのである。

■名の由来、別称

クサギという名の由来についてはよくわからない。俳句では常山木と書いてクサギと発するが、漢名の海州常山からか。

地方名(方言)では、単にナを語尾につけたクサギナが中四国・近畿では多い。九州・沖縄地方でどうだったか。トーバイではなかったか。静岡、富山の山間部ではトイッパと称されるようだ。

生薬にもなる。葉・茎・根が利用され、臭梧桐の名で知られるものだ。桐とつくのは葉の形状というより同じくパイオニアプランツであることからか。ヤマギリの名があることを辞書的なものではみるが、いまだ聞くことはない。

広島北部ではいまでも道の駅で販売されている。私が見たのは高野であったが、説明も何もなく、乾燥したものが、ただクサギナとして袋に入って販売されていた。以前クサギ雑録で記載したとおり。

茶として用いる場合には、生薬のそれと利用法が近いと思われる。すると、採取時期も異なるようだ。菜として用いる場合、先の田中翁が記している採取時期は5月の下旬。生薬なら7月上旬で茎も用いるようだ。

このあたりいまだ不詳。だが、菜として用いる場合にも、多少の異同がある。煮たあと、流水で数日さらすとしているのは日原町史にある記載。

■発酵と保存

これはますます不詳。発酵といっても、微発酵と思われる。後日加筆することとしたいが、保存という観点から、少しあげておく。

山口県玖珂郡における保存料としてのクサギ

「玖珂郡の山間部では、山に自生するクサギナという木の若芽を四月に刈り取って陰干しにしかぼちゃや馬鈴薯に入れて煮こむと、朝炊いたものが晩まで腐らないといって利用している。このクサギナをジョロウノヘ(女郎の屁)という地方もある」

宮本常一,財前司一『日本の民俗 山口』昭和49年,第一法規

 

ヘミツルアズキとアリとカメムシ

数日前のこと。ヘミツルアズキの鞘に群がる黒いものが目に入った。
クロオオアリか。いいぞ、こいつがいるとカメムシが寄ってこないというし、よしよし。
その3日後、すなわち今日。
ん、アリにしては、じっとしてる(しすぎ)。大きさもまちまちすぎる。…これ、吸ってるんじゃないか!豆を!
カメムシじゃないか!なんてこった。
どうやらホソヘリカメムシの幼虫である。成虫がそばにたくさんいた。
アリに擬態するカメムシ。偽アリだった。天敵をあざむくためというが、私だって騙された。本物のクロオオアリもうろついているので、まぎらわしい。
えーいこのっと邪魔者扱いだが、こうなると俄然かわいく見えてくる。にっくきはカメムシ、これだけまとまっていると、この鞘どころか群落全滅かもしれない。
気になって、離れたほかの地点をみてみると、とりつかれてはいない。発生地点はちょうどアワを育てている場所に隣接しているし、隣では晩春まで小麦を育てていた。少しずつカメムシがふえる環境にしていたのかもしれない、私自身が。ある必然の中での発生か。にくむとすれば、手前勝手なヒトの無思慮だろうと、頭を冷やした。
冷静になると思い当たる節はあれこれある。この場所は春先に真砂土を入れたところだ。砂は庭の松周辺。かつて池があったところらしく、松の衰弱(病気)の一因となっているのではと、かねて疑っていた。とくにある一角に植えるものことごとく虫がついて枯れていく。庭師(樹木医)との協議で、まず掘ってみたところ、池の残骸と思しき瓦礫がいくつか出てきたのみで、土質全体は水はけのよい真砂土であった。念のため、点穴を打ってもらったが、それらを施す際に出た真砂土である。
その土が豆にはあったのか、他の条件もあったのか、ハタササゲはおどろくほどよく育ち、たくさんの花と実をつけつづけていたものであった。なにかカメムシ大量とりつきの一因かもしれない。
さて、下の写真がカメムシに吸われてしまった鞘。
10mほど離れた別の場所(庭)にあるものは、カメムシもついているのを見たことがないし、アリさえいない。収量はかなり落ちるが、こういうときに「強い」のだと考える。

ヘミツルアズキ雑想

「これ、おいしいね」と妻が言った。暑い暑い8月のことであった。白米にまぜて炊いた豆、ヘミツルアズキを指して言ったのだが、過去幾度かは食しているものだ。5〜6年ほどにはなるだろうか。玄米おにぎりに雑穀を入れておにぎりにするときもある。ただ、「おいしいね」と口にしたのは初めてのことであった。機会は多かったとはいえ、7月終わりから9月頭にかけて収穫し、食するのは冬から春にかけてということが多い。今回のものがとれたてであったことが要因のひとつかもしれない。そこでいえることがある。収穫のあとすみやかに脱穀し、冷蔵保管しておくことが、美味の秘訣だろうということ。従来、夏の暑いさかりに、暑い場所に放置したままであることが多かったのだ。豆であるから大丈夫とタカをくくりすぎていたのだ。数日もあれば乾燥には十分なのだから、1〜2週間を単位として冷蔵保管へ移行することを次年からの慣例としたい。

ヘミツルアズキでgoogle他のウェブ検索、国会図書館検索をかけてみても、前者で私自身が書いたウェブ記事がヒットするのみ。あらためて出自を記しておこう。東北の焼畑残存地帯で、焼畑の最終年、すなわち耕作放棄へとすすむ年に作つけするという。8年前であろうか、わけていただいた。草の繁殖が強くなるが、このヘミツルアズキはそれらを凌駕するのだという。幾度か試しているが、ふつうにそうはならない。育てているのは山陰地方の300mほどの標高の場所ゆえ、諸条件が異なるのだろうから、最適なところをさぐっている。

アズキと名乗っているが、つる性のハタササゲである。鞘は褐色。花は朝早くに咲いて、昼までには閉じる一日花。日本では九州・沖縄地方はじめ各地で自生種として残っていますが、黒鞘が多いよう。日本での栽培種はあまり聞きませんが、タイ・ミャンマーあたりの焼畑少数民の間ではメジャーな存在で、写真や報告ではよく目にする。

 

下の写真は2017年秋に撮影したもの。

そして、下のものは同じく2017年の9月27日。まだ花が咲いていたのか。春焼地で撒いたものか、どうかが不明。

出雲の山墾り〜 R6-sec.23

令和6年8月18日。火入れは無事終了。よく燃えた。火―燃焼は天然自然の現象に属するものと通常理解もされ、常識とも齟齬のないものである。しかるに、目下この世の生物では、人だけがその操作を行える。このことに異議を唱える論を想像するのは難しい。この事がまた不思議な気にさせる。「火」はヒトが数万年をへて築き上げてきた文明の象徴ともなっている。火を操ることが、いわば、ヒトと自然とを分かつものでもあるからだ。

野でも山でも、火を放ち、燃やすことはそこにある生命圏(生態系)に大きな撹乱をもたらす。それはあくまで撹乱であり、破壊ではない、と、私は自覚意識しているのだが、今世に生きるヒトの大部分はそれを破壊とみるし考えるだろう。自然の撹乱なるものが何を指し示しているのかが、常識的な理解想像の範疇にないのだから、当然である。自然の撹乱は、自らがそこによってたつ生態系に火を放つということの経験あっての理解得心となる。

「野山に火を放つ」と、ここまでのところ述べてきた。焼畑と呼ばれる行為がそこには含まれる。焼くだけでなく畑をつくるということを示している熟語であるのだが、今世のヒトにとって理解想像を超えるがゆえに破壊としかとれない「焼」と、十分に理解想像の範疇に入る「畑」との組み合わせであることが、誤解の温床であろう。私もかつては「畑」の方に引っ張られていた。特殊で乏しい経験であるにもかかわらず、10シーズンをへていくにつれ、焼畑は畑という概念でくくられる行為とはずいぶん違うと感じ考えるし、それは他の地域、人、文化の焼畑でも同じようなことではないかと思われるのだ。

さて、このつづきは次回へ持ち越し、火入れの様子をあげていく。

まずは動画と写真をいくつかあげつつ、加筆をしていきたい。

 

 

出雲の山墾り〜 R6-sec.18-2

7月21日。大豆、なにものかに食われる。畑には2日前の7月19日に入って以来であるから、20日の夕暮れから晩にかけての出来事であったろうか。
タカキビは小ぶりな一株のみ根本から10センチのところまで食われている。いちばん大きなタカキビは踏み倒され、茎が一箇所折られるのみで、口をつけたあとはなかった。踏み散らかしたようなあとはみられず、牛、猪でないことはほぼ確実。消去法的に可能性のある獣は以下。鹿、狸、狐、穴熊、ヌートリア、猿。

わからない。仮に狸としておこう。刈払機で草刈りに入るのがあと2日早ければとは悔やんだ、正直。外周に竹の枝を差し込みつつ続きは次回。

*追記:この4日〜6日後、再度食われているのだ。

出雲の山墾り〜 R6.sec.18-1

7月18日の山墾り。夏がきたのだと知った。山に入ったのは夕方遅く。空と空気にはオレンジの色味がかかっていた。日陰の斜面でもあった。なのに。動けば汗が滝のように流れ出てくる。目に染みいって視界をさえぎるほど。2年畑のまわりでは、草がここ2週間ばかりで30センチはのびたのではなかろうか。
大豆のあるところだけ、黒い土がのぞいている。草たちが取り囲み、今にも押しいってやろうかという勢いである。周囲30センチほどを根の成長点からノコ鎌で刈り取る。その背後というか向こう側も軽く刈っておく。次回は刈払機でいっせいに始末しておかねば、獣が入ってこようぞ。
あぁ、それにしても単子葉植物の驚くべき成長力の凄まじさかな。美しさといってもいい。畑のこぼれダネから大きくなったタカキビも単子葉植物である。春先にダメ元でばら撒いていたタカキビの種子のうち、木綿のところのものがいくつか大きくなっていた。ちょうど牛が入った道で、踏耕ともいうべき土の掘り返しがあったところだ。草もそこだけ繁殖を控えているようで、5m先からも土の色が見えていた。イネ科雑草に取り囲まれたところにも何株かは負けじと成長していたが、茎が細く、踏耕の場所のそれと比べると弱々しい。周囲の草を刈って様子をみることにする。

そうそう、大豆・タカキビ畑の周囲を草刈りしているときに、トマトの匂いがした。もしやと丁寧にすすめていくと、果たしてトマトの株が3つほど。ブラックチェリーである。昨年はその種しか植えていないので間違いはない。うまくすれば9月の半ばに美味しい実が食べられるかもしれない。

さて、春焼畑。繰り返すがタカキビは単子葉。驚くべき成長である。前回7月12日のものと比べてみても。

出雲の山墾り〜 R6.sec.17-7

7月12日の山墾り。豪雨や東京行で、行けない日が続いた。この日は時間の隙間を縫い、様子見だけでもと春焼きの畑に入った。牛は入っておらず、ほっとしたが、そろそろ猪・狸らにも注意せねば。端的には周辺部の夏草を伸ばし放題にしないことである。柵の補修補強は次回でよしと。6月8日の火入れから一ヶ月が過ぎた。タカキビの成育はよろしくない。こんな状況。

場所によって生育にばらつきがかなりある。笹の地下茎が多いところはまあよくないのだが、そればかりが要因というほどでもない。もともと土壌がやせているがゆえに藪化していく傾向がみられた所なので首を傾げるほどではないのだが。ところで、藪を焼く焼畑については、「竹の焼畑」の名で白石昭臣氏が書籍にも残しておられる。ソバ・アワ・ヒエを初作とすること、夏焼きが多いこと、竹・笹を焼くこと、この3点が特徴ではなかったか(要確認)。だとすると、タカキビはやや不適であること、春焼きであること、竹・笹は混じっているが主な燃焼材ではないこと(もともとの植生には少なく、低灌木主体)、この3点が出雲・石見地方で見られた「竹の焼畑」の特徴からはややそれそうだ。民俗誌を再度参照して確かめること、タカキビの特性を確かめること、備忘としてここに記しおく。

さて、笹の新芽と葛の新生をよく取り除いた。ヨウシュヤマゴボウもよく育っていたので、除去。ヨウシュヤマゴボウが出ているところは黒ボク土である、この斜面では。昨年春に焼いたところほどではないものの。そこに、ハグラウリと地這キュウリを播種した。

斜面を一段さがったところには、大津くんたちが木綿を播種していたが、見当たらなかった(この日あとで、聞いたら、発芽はして育っているとのこと。踏まないように気を付けるべし)。斜面にまいたアマランサスは密にまきすぎたのだが、よく育っている。間引きしたほうがよいのかもしれないが、密植したことが笹の侵食と拮抗しうるとも思われる。いましばらく様子をみてみる。

 

みんな長生きしてほしいよね

「みんな長生きしてほしいよね」
と妻が言った。大雨の翌日であった。車で野菜を仕入れに隣町へ行く際、峠を越えるのだが、その降り道の急カーブが続くところで、唐突な、呟きというものよりははっきりとした口ぶりで。

ふたりは2日前、東京の高円寺にいた。暑い一日をほうぼう歩き回った夕方で、その日の最後の目的地まで百メートルもないところで、休みたいな休んでもいいのかもという気持ちに応えるように、目の前に現れた喫茶店。「喫茶 DENKEN」という店名と「OPEN」という看板だけがかかった、古い建物に蔦が絡まっていた。

妻の一言は、そこに入り受けた印象と感慨とを振り返ってもいたので、文脈としてはそこに連なるものであろう。
DENKENは創業が昭和30年ごろで、営業は70年におよぶ。創業以来その場所で働き続けている女性は90歳前後の白髪の老嬢であった。白いブラウスに黒のスカート、パンプスを履く姿もまた70年になんなんとしたものであろう。古典派ロマン派の曲が大きな良い音で鳴っていた。

あんなふうになりたい。なれたらいいな。どうしたらなれるのかな。どうするかな。
具体な話もあれこれする中で、自分自身のあり方である以上に、関わりあるみんなのあり方によるのだということが、ふと思われたのだろう。「みんな」とはそういうことだ。