美郷町君畑の焼き畑

 白石昭臣『竹の民族誌』(2005;大河書房)。竹の焼き畑は、この書がなければやろうとは思わなかっただろう。実証とは遠く、実験というほどの体もなしえないようなもので、白石氏が究明しようとしていた「ブッシュフォロー」タイプの焼き畑がもっていた意味や技術への思いも足りないものではあったので、引き合いに出すのは心苦しくもある。しかし、辛さも乗り越えがんばったとは思うし、うまくカブが育ってくれれば、”竹の根や地下茎があるから、焼き畑は不可能では”という疑念にさらされた白石氏の面目を晴らす一石くらいにはなろう。

 しかるに、私、まだ、きちんと読んでおらんのです。その大事な本を。これから、おそまきながら、というのが昨日、今日のこと。そして、いくつかの誤りが目についたりしたので、気をつけて読む必要を感じはじめてもいたそのときのこと(出雲国風土記のひとつめの鬼のことを意宇郡のこととしている→大原郡が正しい)。いや、私こそが、「見落としていた!」という節がありまして、ここに記します。

【事例3】島根県邑智郡邑智町君谷 この地区でも竹藪を主とするヤキヤマ(焼山)ともいう焼畑がみられた。このヤブ焼きは周辺の山をハンゲ過ぎに焼くもので、春にはじめに焼くこともある。数人の仲間で伐る。女竹や笹薮ばかりでなくクロコなどの竹林も焼く。飛火に注意しつつ竹を焼いたあとは灰が堆積する。そのなかにアワ、小豆、ナタネなどをローテーションを組んで播く。ソバをつくる人もいる。ソバを撒いた周辺に別の種を播くこともある。アワは春と秋に播く。ここでの作物は手をかけないが、美味である。3〜4年ののちに放置するが、その7年間、紙の原料であるミツマタを作るところもある(このヤブ焼きの伝承者は大正14年生まれで、現在も復原を試みることが可能と語る)。

 この括弧内を見落としていたのです。復原の意思というか可能性を記すというのは、なにかがある。伝承者は大正14年生まれ。存命であれば90歳か。こりゃ、美郷町へ確かめにいく必要があります。志津見の件もあわせて、どこかで時間をとりましょう。

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