昨年、年取りカブの存在を語ってくれたのは三沢の山田さんであった。『尾原の民俗』の中に「年取りカブ」「正月カブ」という名称はみられないが、「地カブ」という名で幾度か出てくる。地カブがあるからには地でない(地元のものでない)カブもあるはずだが、それがなんだったのかはわからない。江戸中期に名称採集された諸国産物帳をみると、出雲地内の《一菜類 蕪》の項目には14ほどがある。
・近江蕪
・白かぶ
・空穂蕪(うつぼかぶ)
・壺蕪(つぼかぶ)
・夏菜
・地蕪
・京菜
・三月菜
・高菜
・青蕪
・水蕪
・芥菜(からしな)
・赤蕪
はて、林原でつくられていたのは、どんな蕪だったのか。白石昭臣氏が担当した『尾原の民俗』の項よりひいておく。
《この林原ではトシトリの晩(大晦日)のオセチは女性がつくるが、この中にサイナマスという大根を小さく切って煮たものと、大根なますは欠かせない。また、正月には二又大根と地カブをするめやジンバ(海藻)などともにぶらさげて床マエの上に飾る(稲穂はない)。》
《この地区ではカリヤマという焼畑が近年までみられ、そこでは1年目に大根、2年目に小豆などをつくり、山の畑には小麦などの麦類も多く栽培していた》
《山方、前布施や下布施地区でもカリヤマで大根やかぶをつくり、床マエには林原と同じ様に大根やカブを下げる》
林原の正月に二又大根やジンバとともに床前に供えたのは「地カブ」である。これを年とりカブと呼んだのかどうかはわからないが、地カブが年とりの行事になくてはならないものであったのは確かだろう。
なぜカブかということについては、次年度の夏焼で大根を試してみればなにかわかるかもしれない。焼畑でなくとも、春植えの大根を竹の根が残る場所に植えてみたい。
どこまでなにができるのか。自問をつづけながら冬が深まる霜月の日。
そうそう。平田蕪の取材、おそらく篠竹の薮を焼いてつくっていたそれについて、また聞きにいかねば。旧平田村にひとり住むその方は蕪香煎にして食べていたという。香煎という言葉が生きた人の口から発せられてるのをはじめて聞いたそのお宅へ。