焼畑はつくられた世界の中にはない

 「焼畑ってどういうことなんですか? 灰が肥料になるの? 毎年焼くの?」

 1日のうちに10回ほども、そんな問いを受けただろうか。

 いつもならやや飽きてくるのが、今日はそうはならなかった。客層が下の写真にみる会場から少しは伺いしれるのだが、変態的ともいえるほどに、おもしろかったのだ。別な言葉でいえば個性的。トラックに積んで帰ろうかという間際にアマランサスをみて(え、あれは何? 待って〜と)追っかけてきた親子はわかりやすい例だが、みなそんな異質性を心地よく発揮していらしたように思える。

 

 とはいえ、焼畑とは何かという答えの厄介さを感じた人はさすがにいないだろう。それはひとえに私の修行の至らなさでしかないのだが。このもどかしさを如何ともしがたいので、断片を箇条書きしてみよう。

1. 焼畑とは何かという問は、自ずとある完成された世界を前提にしている。時と状況がそのものの意味すらも変えてしまうというふうには「もの」や「こと」を捉えない。すなわち、問は知っている者や体系から知らない者へとおりてくる知識によって答えられる。

 焼畑のそうした関係性とは異なる世界にあって意味と価値をつくっているので、問いがあったとしても答えという形で応答することは「正しく」ない。

 「違う」のが通常であり、経験とは単一の知識をさすのではなく、固有性をさすものである。

 これがわかりはじめると、民俗や自然を知る古老がしばしば、こちらが問うたこととはまったく筋の違言葉を発する瞬間ときに、心踊るようになる。

2. 作物を栽培する、育てるということは、収穫のためになされるものであると我々は考える。つまり時間の経過の後のことが目的となる。よい栽培方法があって、よい収穫がある。原因があって結果がある。目的があって手段がある。

 ……そうした対とは異なるあり方や考え方、世界観が焼畑の中には宿っている。

 種のまき方、種のとり方ひとつひとつをとっても、そうだ。

 通説的説明では、焼畑の栽培が場所を移動する=Shiftingするのは、地力の衰えによる(あるいは除草の手間が増大するため)のだとされる。が、本当にそうなのだろうか。

 こう考えみよう。私が火を入れた後に種をまくことは「結果」ではないのか、成果ではないのか、と。そしてそこから、因果ではない種と私と自然と世界の関係性が開けてくる。

 つくられた世界ではない。脳化=硬化した世界とは異なる身体性がその基層といえるものにはあろう。

3. 我々が知る日本の焼畑像は、さかのぼっても江戸中期以降のものであると仮説づけて考えたほうがよい。少なくともそうすることで焼畑の可能性が大きく開けてくる。空間的にも時間的にも。

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