頓原で藁馬をつくる#1

10月28日。午後より頓原交流センターでトロヘイの藁馬づくりを教わる。講師は、現在、張戸地区の小正月行事・トロヘイにおいて、藁馬づくりを子どもたちに教えておられる方だ。最初に公民館長の石川さんから当該地区トロヘイの概要を教えていただく。”生徒”は私含めて3人ほどのプライベートレッスン的なもの。

正直最初は、つくるほうより聞くほうに専念しようかと思っていたくらいだが、やってみていろいろ思うところあった。藁をしつける上手い下手ってあきらかに才能だなあとか。私は下手。だからわかるのだ。たぶん自分が持っている空間認識の欠陥があって、ふつうの人ならふつうにできる藁細工のあることが決定的にできないのだと思われる。

挨拶をしてセンターの玄関を出る際に、これ(藁馬)いいよねえ。かわいいよねえとは女性2人の言。藁草履のほうが実用性もあるしいいじゃないかという趣旨のことを言ってみたら、どうせ使わないのだから、こっちがいいのだと返されたのには、そうなんだと蒙を啓かれた。

私はむしろ、わら草履をつくってみたいと今回思った。そんな時間ができることを願って。

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こちら(上写真)が、講師の先生のお手本。きれいだねえ。私のような初心者は、藁たたきをより入念にしっかりやって水分もしっかりもたせてやること。手がおそいので、やりすぎぐらいにやわらかくないとうまくできないものだ。繊維が切断されてはもともこうもないけど。

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こちらが。いつのものかはわからないけれど、親馬で現存するもの。親馬に袋を結びつけて、子馬といっしょに縁側に置く。親馬は餅やおやつの入った袋といっしょに持ち帰り、子馬はその家に残す。残された子馬は神棚に。かつては厩の棚におかれていたという。

今回、久しぶりにトロヘイの世界にふれて、やっておくべきことを再認識。石見についてもふりかえりつつ、知らなかった山口のそれともくらべてみたい。

日原のといとい

日原聞書のp367 に、といといのことが記されており、そこでは草履と餅を交換する儀礼としてある。要素としてこちら(日原)にないのは「水かけ」と「馬」である。以下に引く。

 といとい

といといの晩(一月一四日)になると子供たちはといといといって餅をもらって廻りました。学校ではあんなことをしてはいけんと先生から止められたが、一四日の日には遊びに行くと今日はといといじゃけえというて、餅を紙に包んでくれる家もありました。餅はどこの家にもありましたが、もらうとこれはわしの餅というて子供はよろこびました。

「もらうとこれはわしの餅というて子供はよろこびました」
日本の餅の本質として、食は共有する慣習が支配的な中、正月の餅だけは個のものであったという柳田国男以来の見立てを証するものがここにもある。
また、その日は遊びに行くだけでも餅をもらったということから、「子どもへの贈与」ということがといといの本質であるともいえよう。これだけではなんともいえないが。

 といといは子供や若い者がしましたが難儀なものは大人でもしました。伊勢十さァは婆さァと二人でおりましたが、とても藁仕事が上手で、草履も上手につくると「伊勢十さァの草履のような」と人がいいよりました。伊勢十さァはといといの日にはおいのこをもって心易い家を廻りました。そしてこれを姉さんにあげてつかあされえなどといって置きました。そうすると米の一升もあげよりました。薄原(畑から一里半)の方からも来て、草履を二、三足も配って廻りました。これにも米の一合も出してやりました。

…つづく

One Reply to “頓原で藁馬をつくる#1”

  1. […] ◆頓原交流センターにて、小正月行事トロヘイの藁馬をつくる機会を得たことは、前回少し述べた通り。その時、講師の方から昔はどういうつくりをしていたのかはわからないと。 はてどこかに…あったよう……な、で、あった。勝部正郊の撮影したものを酒井董美が『中国の歳時習俗』(1976,明玄書房)中、島根編のなかに入れたもの。細部は微妙に違うけど、現存する一番古い親馬のつくりに近いのかなと思う。 […]

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