ホトホトと餅とダイシコの関係〜その2

 年の瀬に畑もちを搗くことと、正月のもちを考えることは、並行している。

 なぜ人は正月に餅を食べるのかということだ。

 つい数日前に、ホトホトと餅とダイシコの関係といってみているものの、関係を説いてはいない。関係とはほどとおく連想のかけらみたいなものしかない。さて、どうしたものか。

 きょうは年賀状に添える短文をのせつつ、雑想として記したい。

【クマゴ雑想】

 失われた穀物、クマゴを追いかけて二年。どこかで散見した資料に、熊子(クマゴ)とは広く雑穀でアワの代わりに用いたものを呼んだとあったのだが、典拠を失念し思い出せない。供物としての粟、その代理たる穀物の総称ということだ。邑智では神に供える米を「くましろ」といい、和名類聚抄には「神稲 久末之呂」とある。

 年取りの餅を搗く前に、乞食の古態を思った。食を乞うものへ正月、餅を差し出す民俗には、クマゴに通じるものがある。食べることをわかちあうことの尊さを、せめて小さなところから確かなものとしていきたい。

 柳田國男『食物と心臓』を百回読めば、もう少しうまく記せると思う。

 そう自分にいいわけしつつ、いくつかの引用をお許しいただきたい。

「モノモラヒの話」〜

《只の憫みを乞う窮民以外に、正月の始めにどこからとも知れず、春田打ちなどの祝言を唱えて、米や餅を受けてあるく者も貰い人であった。(中略)此点は美作備中等の正月のコトコト、奥州仙台付近のチャセンゴ等、全国にわたって例の多い風習であって、(中略) 出雲能義郡でも旧十月の亥子の夜、むこ神さまという神を祭るのに、米を多家から貰ってあるき、それで小豆飯を炊いて供え、又自分たちも食べる(広瀬町誌)》

「身の上餅のことなど」〜

《餅の私有が他の多くの食物とちがって、現実消費の時よりも可なり久しい前から、開始せられ得たということが、是をめでたいものとした原因の一つではなかったろうか。少なくとも今日もなほ活きて行われているモツという二つの動詞が、この餅という日本語と関連のあることだけは想像してもよくはないか。単なる祝いの日の共同の食物としてでなく、是が神様先祖様は申すに及ばず、二親  を初め、特に敬意を捧ぐべき人々の前にそえられ、正月になると囲炉裏の鈎、臼鉈苧桶鍬鎌その他の農具から、牛馬犬猫鼠にまでそれぞれの餅を供え、大小精粗の差こそあれ、門に来て立つ物もらいにまで、与うべき餅が用意せられてあったといふことは、大げさな語でいえば、人格の承認、即ち彼らもまた活き且つ養われなければならぬといふ法則の徹底だと云いうる》

畑もちを搗く〜その1

 働きに出ているお豆腐やさんで、28日にモチをつく。仕事で使っている餅つき機を使って、みんなでそれぞれの家のぶんをつくのだが、私はせっかくなので、畑餅(畑でとれる雑穀のもち)をついてみようと思う。

 畑もちという言葉を最初に目にしたのは、『聞き書山口の食事』の中であり。雑穀の餅のつき方

で引用した箇所にあたる。今度県立図書館に行く機会に索引でひいてみようと思うのだが、山口のこの山代地方だけである可能性は高い。

「畑もちは、あわ、きび、たかきびが主で、もち米に余裕のある家は一割くらいのもち米を入れ」とあるように、もち米を混ぜる場合もあるが、主役は雑穀。

 購入するにはもち米のほうが入手しやすいため、今年の年越しはもち米を8割、2割を雑穀でと、あらかたの筋をたてている。そして、来年は陸稲(おかぼ)を8割としたものを導入しようかと目論んでいるのでその予行でもある。すなわち来年春焼きをやるのであれば、陸稲に挑戦ということだ。

 さて、もち米と雑穀とをあわせたヒントとしたいのは、『聞き書山口の食事』にある北浦海岸(萩市)の食の中にある。

あわもち せいろに、水に十分浸したもち米七合を平らに入れ、その上に同様に一晩水に浸したもちあわ二升三合を平らに入れて、蒸して搗く。搗くときはあわがぱらぱら飛ぶので、先に手でもち米とよくこねてから搗きあげる。

 香ばしく、野菜と一緒に味噌雑炊にしたり、焼いたりして食べる。》

きびもち もち米七合、きび二升三合の割合で搗く。きびは皮をとって一週間ぐらい水にかしたものを使う。渋をとるために、水をときどきかえる。

 せいろに、水に浸しておいた米を入れ、上にきびをのせて蒸す。蒸しあがったら杵で搗くが、このとききびが飛びちらないように、杵を静かに押しながら米と混ぜるようにする》

 ここのあわはモチアワ。もちあわの場合、文字どおり糯性なので、もち米との比率はあまり気にせずともよいだろうと思われる。水に浸す時間はこの箇所ではもち米と同様一晩としているが、たしか他の箇所で2日という記述もあった。いずれにしても、キビのように1週間近くつけるのではない。

 ただ、重要なのは蒸すのは一緒にするということ。

 もち米の上にキビなりアワなりを「平らに入れて」蒸すのだ。

 

 第一仮定で以下の配合を考えてみた。

・もち米7合

・もちアワ2合

・タカキビ2合

・アマランサス1合

・ヒエ1合

合計1升4合

どうだろう。ヒエとアマランサスは今回パスしようか、どうか。とりわけヒエが一手間かかりそうなので。ともかくも準備をすすめよう。というより、タカキビはもう水に浸さねば!なのである。

冬至当夜の日に〜豆腐をつくる・食べる文化の奥にあるもの

「いまでもあそこでは草刈りの後の直会ではひとり豆腐一丁は必ず出すんだそうよ」

「あー、うちもつい最近まではそうだったみたいだよ。さすがに夏の暑い時期に、豆腐一丁はようたべんということでやめになったらしいけど」

 今日の茶飲話より。

 豆腐はハレの日の食であったことを知らない人もふえてきました。私自身、小さな頃から豆腐は日常の食事でありました。ここ島根県雲南地域に越してきてから、ハレの日の食として豆腐があったことを知ったのです、遅ればせながら。そして、とりわけこの地域では豆腐をよく食べるし、木綿豆腐の割合が大変に高い。かつてそれぞれの家でつくっていた豆腐の名残が、そういうことをしなくなってからも色濃く残っているからなのでしょう。

 そういえばこんな話も80歳を超えたおばあちゃんから聞いたのでした。

「味噌も醤油もつくらんし、こんにゃくもつくらん。豆腐くらいは今でもつくるけど」

 全国的にみれば……、どうだろう、味噌をつくる家庭よりははるかに少ないと思いますが。こんにゃくとはいい勝負なくらいでしょうか。一度、可能であれば、悉皆調査をしてみたいものです。漬物や梅干しなどとあわせて。

 

 そして、冒頭にあげた話がでたときに、漂っていた疑問にひとつにちょっとした仮説を出してみたので、今日、はなはだ不備不完全ながら備忘的にあげてみるのです。

《木次ではなぜ豆腐をハレの食とする文化が今に至るまで残存しているのか》

  豆腐づくり必要なものを3つあげてみます。

・大豆
・にがり
・石臼(碾き臼)

 大豆は日本の食にとってなくてはならないものですし、どこでも栽培できるものですが、牛を飼っていたこの地域では、かなりの量を生産していたのではないかと思います。そう。ここで第1仮説です。

牛の放牧地で栽培するものとして、最後まで残っていたのが大豆なのではないか仮説

 わかりますでしょうか?ひとつの長い引用をもって、つづきは、またあらためて加筆します。(なんと、今日は冬至だった! 出雲から伯耆にかけて冬至当夜(トージトヤ)と呼ぶ習俗があります)

 石田寛1960,「放牧と垣内」(人文地理12巻2号)より

仁多郡鳥上地区では垣内すなわち放牧場内に畑(牧畑)があり、夏まや期間中のみに大小豆をつくり、それ以外のときは放牧場となる。

(中略)

 「藩政時代には、この一帯の奥山山地を鉄山と呼び、人家に近い山野を腰林といって、2つを区分して利用していたのである。鉄山は鉄山師の支配する山であり、腰林は農民の私的支配下に置かれた柴草山であった。田付山による採草、薪炭諸資材の採取などが自由になされていたのだる。この口鉄山では鉄師の支配権と農民の支配権とが重畳していた。

(中略)

鉄山は林間放牧地であり、それゆえにそれ(畑)は口鉄山でのみ行われるのである。牧野の中にある畑は1年1作であるわけであるが、作物は大豆または小豆に限られる。作付期間は放牧牛のこない時期に限られている。地盤所有者は自己の畑に耕作しながら、その所有権行使は放牧権を侵害しない限りでのみ許されるにすぎない》

(つづく)

 詳細ははぶきますが、大豆をつくる山(の畑)だけはたくさんあったということです。

 なぜ大豆・小豆に限られるか。

 それは牛が夏の暑い間、まや(小屋)にひきあげられるとき(約2ヶ月)をのぞいて栽培できるという条件にみあうものです。それが大豆であったということです。

 いや、大豆は60日じゃ無理だろうと。そうなのですが、それなるがゆえに仮説なのですが、牛は大豆が実をつければ口をつけないのです、おそらく。

 下の写真は冬至をむかえた我が家の夕食メイン。揚げ出し豆腐でござる。

 

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雑穀の餅のつき方

 農文協から刊行されている『聞き書き山口の食事』を購入した。これで中国地方五県ぶんが手元にそろったことになる。全国47都道府県のシリーズ「日本の食生活全集」の中の5冊ぶんである。残り42冊、全巻そろえてみたい誘惑にかられる。と同時に、日本は広いなあと改めて思う。中国五県、すなわち、広島、岡山、山口、鳥取、そして私が住んでいる島根も含めて、ずいぶん広く大きなエリアだとふだんは感じているが、日本のなかでは小さな一地方に過ぎないのだ。索引等の別巻も含めて全50巻というその大きさをにわかには捉えがたい気にもなる。ただ物理空間的に占めるものはそれほどでもない。図書館でそろえているところも多いので、一冊一冊はいつでも読もう思えば読める。ただ、私が全巻そろえたいと欲するのは、他の文献を参照しながら、ときには料理をつくったりしてみながら、何度も繰り返し読むものだから、手元においておきたいという事情による。一方でそれは、このシリーズの不完全さ、というよりは、食文化を書にまとめるというときにつきまとってしまう欠落に由来するもののためである。

 なにはともあれ、まずは中国五県分について、そらんじれるほどには読み込んでいくつもり。

 さて、本題。

 「日本の食生活全集」において、餅は必ずどの地域にも出てくるのだが、山間部において、餅をつく量が尋常ではないのだ。「冬の間はきらさないようにする」だとか……。ここで言及されちる餅とは、我々、平成の時代に暮らすものが想定する餅とは異なるものが入っているのだろうが、明確に言及している地域は、これまで読んだものの中にはなかった。

 山口県山代地方(錦町府谷)の聞き書きでは、他(の中国地方)では記録されていない、その、餅の異同について、記されている。しかも、つきかたまで書かれているので、これを参考に、我が家の年取りの餅をついてみようと、身を乗り出したほどである。

 少々長いが、そのまま引用する。

《田が少ないので、もち米は二、三畝くらいしかつくれない。もち米は祝いのごとのためにのけておく(しまっておく)。ふだん食べもちはほとんど畑もち(雑穀もち)である。

 白もちは、正月の鏡もちと雑煮用の丸もち少々と春のお彼岸に少し、秋祭りに二、三升搗くだけである。

 畑もちは、あわ、きび、たかきびが主で、もち米に余裕のある家は一割くらいのもち米を入れ、正月前に白もちを搗くときに一緒に搗いて、水もちにして保存する。》

 そして、畑もちの雑穀であるあわ、きび、たかきびについて、「寒もちを搗く」のが調理のほとんどであり、とがんにまぜて炊くことは「麦の備えがないとき以外、ほとんどない」としている。まことに興味深い。そして、餅としてつく際にこうして仕込むだという。

《たかきびは、五日から一週間水にかして、大ぞうけに上げて水を切り、だいがらで搗いて粉にする。たかきび粉を水でこね、湯気の通りをよくするために大きなだんごにして蒸す。よくうみたら(蒸し上がったら)、もう一度だいがらで搗いてもちにする》

 ここで、もう少し掘り下げてみたいことがある。ホウコ餅のこと。

 中国地方の他の山間地域の餅では、ホウコ餅がとりあげられてる。ホウコは山ぼうこにしろ田ぼうこにしろ、もちのつなぎとしての役割が大であった(と思われる)。しかるに、ここ山代において雑穀の餅は果たしてつなぎなしでいけたのかどうか。ホウコ以外でつなぎとなる草木があり、それを使っていたのかもしれないし。

 この件については記事を改めて。

金継ぎ、はじめます(かな)

一昨日、全6回の金継ワークショップ受講を終えました。
金継ぎ師guu.仲秋の金継教室」として雲南市木次町のカフェ・オリゼで開かれていたもの。9月の残暑きびしい日から寒さで凍えるような年の瀬まで、終わってしまえばあっという間でした。漆がかたまるのをまって次の工程にはいるので、3〜4ヶ月はかかるのですね。段ボールを使った簡易な室で「お世話」することも、手間だなあ面倒だなあという気持ちとは裏腹に、手をかけることに漆がこたえてくれているようで、楽しい時間でした。湿度と気温をみながら、霧吹きで段ボールの中をしめらせておくのですが、季節のうつろいとともにかわきかたもなにもかわっていきます。漆は生きている。そう思わずにはいられません。それやこれやもふくめて、昨今ぱぱっと終えるワークショップが隆盛するなかでは息の長い教室だといえましょう。
1回のワークショップは2時間程度なのですが、筆やへらの使い方やら練り方やら、ひとつひとつが「微妙」な加減を会得するのが骨折りでした。いや骨折りというのは言葉が違う。ほんの一瞬なので、つかまえようがありませんし、なんとなくわかった気になっているだけです毎回。よって次回にはすっかりといっていいほど忘れている。メモをとっていてもさして役に立ちません(が、メモがないと完全に忘却)。そういう具合だったので、6回の受講をおえてまず思い立ったのは、忘れぬうちに実践せねば!ということ。これから、自家(カフェ含む)の器を少しずつ手入れしていきます。
下の写真は最終回の様子。ガラス板にのっているのは絵漆です。

最終回を終えてのguu.さんの言葉から。

《金継ぎをやっていると、どの工程もすごく大切なのがよくわかります。 (きっと生徒さんたちにもわかっていただけたはず!) 粉蒔きを美しく仕上げるには、中塗りや下塗りから美しくしておかないといけなくて、中塗りや下塗りを美しくするには、錆漆等の下地から美しくしておかないといけなくて… 「丁寧な仕事」の積み重ねが最後の仕上げに全て表れるのと同時に、「まあいっか」の積み重ねも最後の仕上げに全て表れます。 「ものを直す」ということを、少しでも身近に、気軽に考えていただきたいのとともに、職人さんや作家さんの漆器が、いかに「丁寧な仕事」の積み重ねであるか、感じていただけたら嬉しいです。》

丁寧な仕事の積み重ね。工芸にはそれが出るものですし、伝わる、ときには数千年をへだてても。景観にもあるのではないかと思う、あるいは思いたくなっている、今日このごろ。美しい風景には、人が手をかけただけの積み重ねがあるのだと。ね。

雲南地域におけるダイシコ(大師講)の断片

「ホトホトと餅とダイシコの関係」のつづきとして記します。

 今日、島根県立図書館で、『仁多町民俗調査 昭和55年度報告書』なるものが書棚にあるのを見つけて驚きました。どこから出てきたのか、もとからそこにあったのか……。なんどもその棚には目を通していたはずなのに、この日に限って背丁が目に飛び込んできたのだから、なんというか、contingency(本来的偶有性)とはこういうことなのかと、ちょっとした衝撃と喜びでありました。
 その報告書は北九州大学民俗研究会が、昭和55年7月下旬の10日間、30人あまりで行った本調査と、先行調査、文献調査をもとに編纂されたものです。町史などの中に北九州大学の調査に基づくものであることの表記を散見したことはありましたが、こうしてまとまったものとして存するとは思いませんでした。岩伏山の由緒について、これまで耳目にすることのなかった異説※1が採取されているなど、大変貴重な資料であるといえましょう。
 さて、しかしながら、大師講(太子講)について、正面切った報告はありません。それがまた不思議でもあり、興味深いのです。まず、見出し項目としては、私が現在追究している大師講ではなく、亀嵩の算盤職人が「講」として聖徳太子をまつるという太子講をあげています。まぎらわしいのですが、大師講(ダイシコ)と太子講(タイシコ)、ふたつの違いは事典の類をひけばはっきりとしています。たとえば、小学館の国語大辞典では、太子講をタイシコウとして、聖徳太子と結んだ「講」として解説しています。
聖徳太子を祖として奉讚する大工の講中。また、太子の忌日二月二二日にその講中で行なう法要と宴会》
 一方の大師講はダイシコウと読ませ、天台宗の開祖、中国の智者大師の命日を11月24日(旧暦)としてその法会を第一義としていますが、伝教大師最澄弘法大師空海、それぞれにちなんだ法会を第二、第三の義としています。そして、問題は第四義。
《旧暦一一月二三日から二四日にかけての年中行事。家々で粥や団子汁などを作って食べる。智者大師・弘法大師聖徳太子などにまつわる伝説を各地に伝えているが、お大師様は、すりこ木のような一本足の神様だとする地方が多く、また多くの子どもをもつ貧しい神で、盗みに来るその足跡をかくすために当夜必ず雪を降らせると伝えるところも多い。この二三日の雪を「すりこぎかくし」「あとかくしゆき」などという。講とはいうものの、講は作らず各家々でまつる。この夜お大師様が身なりをかえて、こっそり訪れるので、家に迎え入れ歓待するのだともいわれている》
 私が追いかけているのはこちらの「ダイシコ」であり、雲南地域で広く行われていた(らしき)ものです。その断片は、『仁多町民俗調査 昭和55年報告書』の中にもあります。これまで雲南地域の地誌では見ることのなかったものですが、おそらく見落としているのでしょう。地誌のリストに印をつけての閲覧を要します。
 さて、問題のダイシコの断片は、前布施で取材されたもの。前布施は、竹の焼畑実践地の水源の峰たる岩内山から南へ下り、八代川をはさんだ谷向こうの集落にあたる地です。
 手早く筆写したので、字句は異なるかもしれませんが、以下の記述がありました。
《前布施に弘法大師がこられた時、あるあばあさんがエンドウ豆をむいていた。大師がエンドウをくれるように頼んだが、おばあさんは与えなかったので、エンドウに虫がつくようになった》
 また、この同型パターンでトウモロコシがあり。「先の曲がったトウモロコシができるようになった」というもの。調査班は下阿井にも入っていて、他の事項ではよく出てくるのですが、下阿井で私が聞いたタイシコウのことは、出てこなかったのでしょう。おそらくやっていた家とそうでない家があったからではないかと思う。
 ここで3つの引用をもって、のちほど加筆する際の材としておきます。
 1972年刊の『木次町誌』、温泉村の項から(p.268) 《十一月二十四日 大師講・太子講 大師講は前夜大師講だんごをつくる。大判形で、平年は一二個、閏年は十三個を仏壇に供え、それをあずきで煮ていただく》
→課題:餅をつくという事象、神が家を来訪するという事象を他で見つけること。
 野本寛一,2005『栃と餅』にはこうあります。(少々長くなるが)

《一一月二三日は新嘗祭、じつは、民間ではこの日を大師講と呼んでいるのだが、その大師講は収穫祭なのである。この夜は、ダイシサマ、デシコガミサマ、オデシコサマなどと呼ばれる神がイエイエを訪うとされる。元三大師、智者大師といった大師だとする地もあるが弘法大師を想定する地が多い。しかし、青森県秋田県などには、デシコガミサマは女で子だくさんの神様だとする、山の神に近い神を伝承する地も少なくない。この日こうした神が来訪するという伝承を持つ地は、東北・関東北部・北陸・中部・中国山地、鹿児島県大隅地方と広域に及ぶ。そして、この日、大師粥と称して小豆粥を煮る地が多い。小豆粥のほかに小豆のボタモチ・しるこを作る地もある。さらに、大根にこだわる地もある。(中略)冬期に入る直前に、その年の収穫の様子をたしかめにくる、大師に収斂されたマレビトに、その年収穫した米と小豆で作った小豆粥やボタモチ、一部には冬期に重要な大根を加え、それらを供え、家族も食べて収穫を祝ったのである。》

 そして、また、以下にある「スリコギの先につけた餅米」を板戸に塗りつけるという所作と意味は、「大」という文字によって示されているメッセージとして表象されているようですが、雲南のカラサデ餅との対比で考えるとどうなるのか。この探求課題にとってヒントのひとつです。

静岡県遠州地方から駿河西部にかけてはこの日、小豆のボタモチを作って家族で食べる。そしてボタモチを作ったスリコギの先にボタモチのモチ米を塗りつけ、それで玄関の大戸(板戸)の目通りの位置に「大」という文字を書いた。戦前、板戸のある家はどこの家の板戸にも「大」の字の跡があった。私は育った家にもそれがあった。これは大師講の神に対するボタモチの手向けであり、この家は、お蔭で、秋の収穫を終え、収穫祭を終えることができましたというメッセージを大師講の神様に伝える表示なのである》

 野本があげる大師講の神の特性のなかで、来訪神と正月(小正月)の関係をとらえる鍵となりそうなふたつの事項があります。
・不可視であること……「足が悪い」「足跡を隠す」
・小豆の赤色……「生命の色、血の色、太陽の色とみてさしつかえなかろう」(野本)

 後者については、冬至当夜における豆腐・大根の「白」、大黒をまつる一二月九日前後の大根=白と黒豆=黒との対照考察を要すると考えます。

 最後に『尾原の民俗』 p.272の民俗行事から。ダイシコさん、さんづけになっているところに着目です。隣接する23項のカラサデは、さんがついていない。

《11月24日 ダイシコ(大師講)さん
「お大師の跡隠しの雪」といって雪が降ることが多かった(山方1)。
前夜、米粉で小判状(長径15cm×短径約8cm)のダイシコ団子を作った。閏年には13個、普通は12個作った(大原・尾白・山方1・林原1・2・前布施1)。
作ったままの団子を枡の中に井げたに組んで入れ、床の間か神棚に一晩供える(尾白・林原1・前布施1)。
この団子が寒くて凍みているほどよい(大原)、来年は豊作になる(林原1・前布施1)といった。
団子は翌朝、小豆で煮て食べた。ダイシコ団子は岩船山にある大山さんにも牛の神様だから、といって供えた(尾白)。》

「お大師の跡隠しの雪」がどう語られていたかは、ここからはわかりません。これを機会に、民話採録からたどってみようと思います。 一般に、というより柳田のまとめにより、跡隠しの雪とは、こういうものとして語られています。

《旧暦では十一月末の頃は、もうかなり寒くなります。信州や越後ではそろそろ雪が降りますが、この二十三日の晩はたとえ少しでも必ず降るものだといって、それをでんぼ隠しの雪といいます。そうしてこれにもやはりお婆さんの話がついておりました。信州などの方言では、でんぼとは足の指なしのことであります。昔信心深くて貧乏な老女が、何かお大師様に差し上げたい一心から、人の畠にはいって芋や大根を盗んで来た。その婆さんがでんぼであって、足跡を残せば誰にでも見つかるので、あんまりかわいそうだといって、大師が雪を降らせて隠して下さった。その雪が今でも降るのだという者があります(南安曇郡誌その他)》

(「日本の伝説」より) 柳田はこの話がのちに「間違った」という言い方をしていますが、方便であって、跡隠しの雪は山の神の示現であると、そう見ていたのではないかと、言いたげです。同じ「日本の伝説」にこうああります。

《それからこの晩雪が降ると跡隠しの雪といって、大師が里から里へあるかれる御足の跡を、人に見せぬように隠すのだといい伝えておりました。(越後風俗問状答) そうするとだんだんに大師が、弘法大師でも智者大師でもなかったことがわかって来ます。今でも山の神様は片足神であるように、思っていた人は日本には多いのであります。それで大きな草履を片方だけ造って、山の神様に上げる風習などもありました。冬のま中に山から里へ、おりおりは下りて来られることもあるといって、雪は却ってその足跡を見せたものでありました。後に仏教がはいってからこれを信ずる者が少くなり、ただ子供たちのおそろしがる神になった末に、だんだんにおちぶれてお化けの中に算えられるようになりましたが、もとはギリシャやスカンジナビヤの、古い尊い神々も同じように、われわれの山の神も足一つで、また眼一つであったのであります。》

 なお、『志津見の民俗』には大師講さんとして12月21日に、「この日はオハギを作る」とだけ記載されています。

※1)素戔嗚尊が船にのって天下ったという類ではない。採取地は尾白で、素戔嗚尊に紐付けるパターンをbとして、aの項に以下の説をあてている。《昔津波があって、岩伏山の頂上に流れ着いた舟が岩になってしまったという。そこでこの山を舟山、または岩舟山というようになった》。

【雑感と備忘】2017年12月10日〜山を生かす竹林整備研修

2017年12月10日(日)曇りのち雨/10時の気温5℃ 一般1名、学生3名の参加でした。講師は響繁則さん。

◉伐倒講習について
●チェーンソーの目立て

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今回あくまで1時間強ほどの簡易なものです。通常の講習ならば午前いっぱいはかかるといいますから、3時間ほどは要するということ。参加人数が少ないこともあり、私自分少し受けてみて、修正の仕方をひとつ覚えられたかと思います。もう使えないだろうなあと見ていたチェーンも、「まだまだ使えるよ」と言われて直す気になりました。ただ、「1時間はかかるんじゃないか」ということ。こんど、じっくり向き合って直します。今週日曜に柵をつくるときにでも。
このような実習を人が出入りするところでやっていると、のぞきにくる人がいます。大変よいことです。チェーンソーを使ったことがある人、使いたい人がのぞきにくるわけです。
1〜2分ほどでも、「ここをこうするんですよ」「昔はこう斜めにと言われていたけど、いまは水平で」「〜〜になっているから」。  こうしたやりとりがあるのはなによりです。

●伐倒実習

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チェーンソーもノコギリも基本は同じです。
とくに、斜面では受け口、追い口をつくり、倒す方向を斜面に対して斜めにもっていくこと。そうすることで、危険を回避することと、もうひとつ。その後の作業、すなわち玉切りや移動にかける手数が少なくなります。
やってみてわかるのは、口をつくるときに、重力に対して水平にもっていくことは、ノコギリの場合、とくに難しいということ。この日は用意していませんでしたが、チョークなりで線をひくのがいいということです。こりゃ早速導入です。
口をつくる方向と同時に、つるの幅を左右で変えることでさらに向きをコントロールすることも教わりました。これも加減であって、差がつきすぎると裂けを生じてしまう。

●ロープを使った伐倒
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ロープワークはあくまで補助であり、保険であって、ロープの力だけで向きを変えるのではないということが肝要です。

◉雑話について
むしろ、ここのところが、時間をさいて足を運ぶ最大の価値があるところなのですよ、みなさん。
モチキビの話をしたらば、響さんが、いまでもつくっている人を知っていると。  な、な、なんと!
今度おしえてくださいとお願いしました。

野山と山あがり雑感

コモンズというものの向かうべき方向について、70年ほど前を振り返ることの大切さを思い知る。

「森林整備、地方へ数百億円 新税に先行、19年度から」https://t.co/9oBIHVt82なる新聞記事を見ながら鬱々とする気を払いのけるために、まとまらない断片を記す。

昨日の取材で聞いたいくつもの言葉が頭の中をめぐっているが、とりわけこのふたつ。

《「野山(のやま)」※1には、町からも芝木を拾いに来た人がいたが、だれもそれをとがめはしなかった。おおらかというか、そういうものというか……》

《山あがり(大山さん)には、牛をもっていない人、それは農家じゃない人もおられたから、そういう人もみんな家族であがった。祭りの場所の木は切らないものだった。大きな木があるものだった。まわりの草はきれいに刈ったが。草といっても木みたいなもの※2》

山とはなんであったのか。

かつて「野山」と呼ばれていた山林には不法投棄禁止の看板、さもなくば、山菜採取禁止の看板かを見ることができる。

いま、山はどうなっていくのか。

思いは千々に乱れる。

※1)野山:出雲地方、旧松江藩領では共有地を野山(ヤサン、ノヤマ)と称していた。出雲地方では早くから消失していったが、残るところには残っていて、このお話を聞いたところでは、戦後まで存在し、小学⑤年生の時に終戦を迎えたこの話者(役人でも学者でもないごくふつうの市井のひとり)から、あたりまえのように「ノヤマ」という言葉を耳にしたときには、驚いた。父の記憶がほとんどないままに戦争で失い、明治4年生まれの祖父に育てられた経歴によるのかもしれない。

※2)草という言葉のなかには、鎌・鉈でとれるような低木・灌木も含まれるのだということは、今後気をつけて検分していきたい。

●追記

田中淳夫氏のblogに「東京新聞に森林環境税のコメント」なる記事。

二重課税も無駄遣いもいい、無駄遣いと言い切れるものは実はそれほど多くはないのだし。

森林をどう管理・保全していくかの定見もなにもないままに、お金だけつっこめばどうなるか。自明であろうと誰しも思うだろうに。山も森も川も海も、関心のうすい分野になってしまった。いまにしておもえばもとからそうだったのかもしれない。

あぁ。

カラサデさんがくるよ〜カラサデさんの「実際の言い伝え」その2

「カラサデさんがくるぞ」という子供への脅しが効果的であるのは、カラサデさんが「さん」づけで呼ばれる「神的」存在であること、そして子供を連れ去る場所(異界)があることが想像の中であれ、具体的な地であれ、生きてあることが前提としてある。

平成29年の冬。昭和20年代に生まれた現在60代の世代にとって、カラサデさんがなんであったかという記憶はすでにない。しかしその母や父、すなわち大正から昭和にかけて生まれた世代は、「カラサデさんがくるぞ」という言葉を発していた。それが届く(効果を有した)か、届かないかは、境界線上にあり、カラサデさんという存在のアイデンティティは失われていも、異界の存在する空間はまだいきていた時代である。時期も旧暦10月末とは限らない。年中いつでも「カラサデさん」は来るべきものとして想像の中にあった。

一方で、浮遊するカラサデさんのアイデンティティは、婆さん・爺さんと結合することで時代の流れに多少なりとも抗ってみせた。神であるカラサデさんはカラサデ婆さんという妖怪へと身をやつしてしまっている。吉賀町のごんごんじー※2)と同様、幼児・児童に対する世界でのみ生きるものとして。そして、おもしろいのは、かような妖怪の話は、世代をひとつまたいで伝えられるものであったということだ。「カラサデさんがくるよ」と戒めの言葉を発するのは、親であるよりは祖父や祖母であることが多かった。

子どもにとって、カラサデさんは怖いものではあったが、それは旧暦10月の末にあるカラサデ餅をつく日に限定されていることであった。実は、家でカラサデ餅をついたことの記憶をもつ人に、今日はじめて話をきけたので、それを記すためにこれを書いているのである。

その方は昭和9年生まれである。カラサデ餅をついて、杵についた餅で戸をふさぐようにしたものだという。戸を叩くのだという民俗記録を読むことはあるが、意味としてはふさぐものであったのだろう。この日の夜だけは、便所に行くのがこわく、祖父についてきてもらったということをきいた。また、子どもがうたうようなものがあったというが、どうしても節回しも思い出せないということだった。

(カラサデ餅の話へつづく)

※1)大黒さん、恵比寿さん、お伊勢さん、などの用例に連なるものとしての「カラサデさん」。この用例のなかでの「さん」がそうであるように、対象そのものの明示をさける婉曲的な使い方でもある。

※2)吉賀町のごんごんじーは行政のゆるキャラとしてマスコット化している。出身者(40代)に聞いたところでも、それがなんなのかはわからないが、ごんごんじーがくるといわれると、なにかおそろしいものであるやに感じられたという。

ごんごんじーのルーツは、奈良の元興寺である。世界遺産ともなっている奈良の元興寺を訪れれば、そこかしこに小さな鬼の石像を見ることができる。かつてこの寺の鐘楼に鬼が住んでいたという伝説から、がんごうじを縮めた「がごじ」が室町時代後期以降全国に流布するなかで、さまざまなバリアントを生み、現在にまで至っている。

方言辞典などをみると、西日本に多いようだが、北陸や北関東にもある。東北では確認できないが、これは他に代わる存在があったからなのかどうか。

島根県では、隠岐で両目の大きな化物として「ががまじ」、簸川郡で「ががも」となる。

これが石見では「ごんごんじ」となり、山口県玖珂郡では「がんごー」、広島県高田郡では「ごんごじー」、同じ石見でも那賀郡では「こんごんじー」「こんとんじー」となる。

注目すべきは、益田市(美濃郡)の用例であり、こじきをあらわした「ごんごーじー」「こんこんじー」である。乞食がかつて聖性をおびたもの、来訪する神の一形態であったこととともに、妖怪・化物となった「ごんごんじー」がなぜここまで広く分布しているのかということのこたえをしてしているようだ。

また、出雲地方では頭髪がもじゃもじゃとしていて汚いことを「ががま」と呼ぶことから、吉賀のゆるキャラの像はつくられているのではと思われる。

竹の焼畑2017-sec.36

12月3日(日)晴れのち曇り 最低気温0℃ 最高気温10℃  竹の焼畑2017も、なんと、今日で36回目の活動日です。島大里山理研究会から3名、教員1名+OB1名(午後より)、そして地元の私1名(11時30分〜15時)、計6名での作業でした。
これくらいの気温がいちばん動きやすいので、夏にやるよりははるかにはかどります。今年は雨の日が多い11月でしたが、それでも雨天で中止にする日はありませんでした(小雨の中、やや強行という日はあったにせよ)。それもこれも12月までか。1月に入ると雪で動けなくなる日が出てきますのでね。
◉次年度火入れ地の伐開作業  伐採は進んでいますが、竹の置き方(倒し方・進め方)に難ありで、やはりこの後苦労しそうです。今日の作業ではその点徹底して、成り行きで斜面下に倒すのではなく、横に倒して並べていくという方法で進めています。

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この日ははじめてくる3回生が2名いました。来年に向けての希望です。
◉中山の状況その1  さて、私の方では中山の柵づくりと脱穀などを進めました。伐倒した竹を木にかけたりしたために、ひっぱりだすのに息切れ。。。3本ほどを倒して、整理するので1時間ほどかかってしまい、柵の杭をたてるところまでもいたらず。あがった息を整えながら、1月いっぱいにはひとつめの囲いをしあげておきたいなあと、斜面を眺めていました。
温海カブのほうですが、この時期はほんとに日があたらない場所です。とはいえ、2〜3時間ほどは光が入るのではないかと。昨年までの成長ぶりとは趣がことなります。12月に入ったくらいには大きなものができていたのにと。要因は多々ありますが、発芽の悪さが大きい。この場所のカブは火入れ直後にまいていません。蕎麦のために火入れして蕎麦をまいたあと、まったく発芽しなかったところにカブの種をまいているところです。
発芽が悪かったので、なんどか追いまきしています。
くわえて、発芽したものは、かなり虫に葉をくわれています。それも発育の遅さにつながっているでしょう。虫については、9月に火入れしてカブをまいたところでは、さほどみられなかったため、火入れによるなんらかの防虫効果があったのかもしれません。この写真の箇所も火入れをしてはいますが、播種の時期が火入れから数週間たっている。今年のものでいま写真にみえているところは、12月下旬に間引き的にぬいたあとは、すべて種取り用に残す予定です。1年目、2年目がたまたまうまくいったので、気を抜いていましたが、ゆるめてはいかんですね。

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◉中山の状況その2  草刈りが入りました。みつけた(復活した)茶の木がばっさり切られていたのは少し残念ですが、下部は残っていて、蕾を新しくつけていました。来年以降、残してふやし、茶摘みをしてみたいものです。冬イチゴもかなり刈り取られましたが、まだ残っており、とっては食べとっては食べして、昼食がわりにしました。
◉蕎麦の脱穀  残りをようやく終えました。結局収量はいくらだっけ? メモが紛失したようで不確かな記憶ですが、1.4kgほどになるのではないかな。1kgはこえているはずで、2kgはありません。さて、蒔いたのはいくらだったのか。量だけでみると蕎麦をつくる意欲をそがれます。
なぜ、焼畑には蕎麦なのか。曖昧なものとはいえ、明治以降の日本の焼畑における作物として、蕎麦はその筆頭にあったことはほぼ確実。出雲地方にあってもそうでありましょうし、出雲蕎麦のルーツにかかわることでもあるので、ここは意欲を駆り立てるものを見つけていきたいものです。