おいしい雑穀づくりと小屋づくりと山畑の手入れetc.〜10月21日

作業日報。

10月21日(金)。天候は晴れの予報だったのに、終日曇りで肌寒かったです。昨日よりは風が強く箕をふるにはよかったかという程度。昨日に引き続き三所の古民家でアマランサスの調製。本日は実働1時間半かな。購入予定の軽トラ整備の打合せ(商談)などが入ったため。

参加者1名+軽トラ1台。曇り。気温19℃(12時)。

◉経過

12時15分〜12時40分 三所の古民家前にて昼食

12時40分~13時10分 草刈り

13時10分~14時40分 アマランサス調製、撤収 片付け

14時40分~15時30分 軽トラ商談・移動

15時30分~17時10分 ダムの見える牧場:カブ地の柵補強、小屋候補地草刈り

◉調査活動

午前の出発前に平田蕪取材のための地形図と1976年の航空写真を抜き出し印刷。佐白地区についても同様の作業。軽トラ商談中に大山さんのことを聞いてみたら、ほら、ここからその山を越えた上布施の山のあたり全体を大山さんと呼んでいるのだと。祠や石碑のようなものはあるかと聞くと、石はこのへんの山の中にはゴロゴロしていいるよと。上布施の城のまわりは合戦場であり、死んだ侍の碑が荒神さんやらなにやらでたくさんあるとか。おもしろい。

◉雑穀調製

もうひとつ違う目のものをホームセンターで探してみるも見つからず。

本日の改良点は、手で擦るよりもやはり叩くのが一番だと。板を大きな桶の中において叩くことはやっていたが、細かくなったものをさらに箕の上に板を置いて叩くとよいのだ。

明日は、そうしてつくったものの量を増やして、トーミにかけてみよう。

◉その他

明日はカブ地の柵づくりとアマランラス集中、そして平田蕪の取材を短時間でもとれればいれる。

夕方にはあがって、大東図書館で『志津見の民俗』を借り、松江へ向かう。県立図書館で本の返却と資料閲覧。19時までしか開いてないのが惜しい。閉架の閲覧だけでも開館してもらえないのかな。

大学の図書館が土日は17時30分閉館というのが信じられない。

脱穀と選別道具一式。これにトーミが加わる。

▲小屋候補地。草刈りしました。

 壁は廃材となった板とトタンなどを組み合わせてはりつける。この3分の1スペース(ドアがあるところを入れて)をとりあえず冬までに突貫で組むとしてです。屋根は波板と簡単な板材の組み合わせでその3分の1を処理。

 晩秋に茅を刈って春までどこかで保管(保管できなければ折れないように工夫して野外におく)。実験的茅葺きをやってみようか。軒下をつくって来年、雑穀を干す場としても利用したい。

 パイプは追加も含めて組み直す必要あり。

 まずは網をはずして簡単な実測図とひつような部品リストを作成のこと。

 ほんとにやることもりもりだねえ。

おいしい雑穀づくりと小屋づくりと山畑の手入れetc.〜10月20日

作業日報。

10月20日(木)の活動は三所の古民家でアマランサスの調製を中心にする予定。。だったのですが、実働2時間かな。参加者1名+軽トラ1台。曇り時々晴れ。気温23℃(12時)。

◉経過

11時00分〜 軽トラ修理(マフラーが外れるなど限界状態)

12時00分〜13時00分 布勢公民館図書室

13時00分〜13時10分 昼食休憩

13時10分〜14時00分 草刈り

14時00分〜15時30分 アマランサス調製

15時30分〜16時10分 トーミを借りに三沢のIさん宅へ

16時10分〜16時40分 アマランサス調製 片付け 撤収

◉調査活動

布勢公民館で「尾原の民俗」閲覧と書写。調べたかった布勢村誌は教育委員会が持っていっているので横田に行けば閲覧できると説明を受けての処置。それでいいのか奥出雲町教育委員会! しかし、収穫ありの「尾原の民俗」。見逃しているのではと思い見直してみたらば、でるわでるわ。

またIさんから鞍掛の大山さんの場所を教えてもらいました。幼少の頃でもあがって祭事をした記憶はないという。下にあるナワクリさんで祭りをやるだけだったというが、なんと祭日は4月3日! これまで大山さんの祭日は4月23日をはじめとして地蔵権現にまつわる日が大半で、秋葉さんの祭日と同化して8月や9月となる場合もありだったでした。そもそもナワクリさんが4月3日なのか。詳細は別途ブログなりで。

◉雑穀調製

日に日に効率はあがってきています。篩の目の大きさが鍵。もうひとつ違う目のものを明日早朝のホームセンターで探してみることにした。トーミを借りてきました。アマランサスは粒が小さすぎて選別はしにくいとはいえ、一定の役割は果たしてくれることを試運転で確認。

ともかく乾燥ありきであることをさらに痛感。乾燥してない鞘がまじるとそれだけでブレーキとなる。ミの数を増やして、ブレーキ起こしたものはそのまま放置して乾燥させるのがいいのかも。

最後のツメがうまくない。決め手を欠いたままである。どうしてもゴミや粒がより分けられない。ピンセットでひとつひとつやりたいくらいだ。

アワを試しにトーミ通してみようかと思いつつ思いとどまる。早くアマランサスをかたすべし。

◉その他

明日はカブの間引きと小屋候補まわりの草刈り。そしてできれば取材を1件いれたい。

畑と茅と森と近況報告〜2016年10月17日

つれづれなるままに、奥出雲山村塾の近況報告です。
アワ、ヒエ、タカキビ、アマランサス。この4つの乾燥は十分。脱穀調製に入っています。あぁ、もちろんすべて手作業でして、気が遠くなりつつありますが、その度に気を取り直しつつ試行錯誤が続いています。
ここ数日は根を詰めてやりましたので、指や手の平の痛みがかなり来ており、揉むよりは叩くほうにシフト中です。まな板状のものにアマランサスを載せて棒で叩く。これが基本ですが、殻が取れずに残ったものは、手箕をなんどもふり、篩に幾度とかけ、団扇であおぐ、息を吹く、と何をやってもうまくいかず、最終手段として指で揉んで実を取り出した後、また同じことの繰り返しとなります。 半日やると指先がヒリヒリしてきますので、何か別な方法を編み出さねば。。。。この調子だと一冬以上かかってしまいかねない。


アワは来年の春蒔き用の種とするものを優先する予定です。が、予定は未定でもあり、料理用にまわして、タネは再度入手でも悪くはない。在来で手に入ればそれがよいでしょう。今年播いたのは岩手のモチアワでしたので、西日本のモチアワで入手できるものがあればそれを優先したい。
そうそう、東北のアワは島根にもかなり入ってきているようです。少量とはいえ、県産の雑穀栽培は需要があるのではないでしょうか。少し調べて、、というより、こういうときに、さくっと聞けるとよいのですが。基本メールでしか質問は受け付けていないようで、アワの発芽についての質問メールを送ったのが6月だったか。いまだ返信なしです。
閑話休題。来年のアワはかなりの量の播種を目ざし、面積拡大するぞ。圃場確保にこれから走らなければ!! もちろん普通の畑では無理です。誰も手をつけない遊休地か放棄地。世間の外れをひたすら歩むのみ。


上の写真は右からモチアワ(岩手の種から)、タカキビ(これも岩手種だったかな。ただし林原在来も収穫しています)、アマランサス(脱穀したもの、岩手産の種と長野の種が混じっているはず)。ちなみに、アワは見たことのない老人も多いほど、出雲地方では早くから姿を消しているようです。出雲地域で、アワ、ヒエ、キビなどの雑穀で最後まで栽培が続き、今でもまれにつくっておられるのはタカキビです。なぜなのか。聞き取りを進めたい。
さて、道具や物置の場所をつくるために、小屋をつくります。場所は提供いただけます。感謝。骨格は使ってない建設資材など。壁はこれも板などを拾ってくる。屋根は竹を組み、茅で葺きます。仮設でトタンを縛れるとよいのですが、これも拾えるかなあ。
雨がたまらぬよう排水もとらねばなりません。あくまで小屋なので、仮設性も担保せねばならぬし、なかなか頭も手も足も使いますが、修行ですなあ。
山あがり取材調査は遅々としていますが進行中ではあります。牛だよねえ。牛。志津見の村々には猿の頭を厩に祀った話も調査記録に残っています。

中野の豆腐とこんにゃく

木次線開通100周年。式典はこっそりと一瞬除いて、写真だけじっくりと眺めていました。そうそう、別な機会に阿井村から中野村に嫁にきて、木次線を使って里帰りしていた90歳のお婆ちゃんに話を聞くことがありました。中野は新しく普請した家が多く、古いものは残っていないのだと。しょーけ小屋(塩気小屋)は、小さい頃に見た。姑さんがつくっていたが自分はやっていないのだと。今でも豆腐とこんにゃくは年に何度か、朝4時からつくるのだと。
また、同じ婆さんと近所の茶飲み友達とのお話の中で土用豆のこと。ここら(中野)では、土用豆ではなく七夕豆と呼ばれているようです。だらず豆とも呼ぶそう。青い時分には塩ゆでにもして食べるというのは初耳でした。阿井のご出身ならば、ホトホトのことをたずねればよかったなあ。次回。
あ、中野での麻づくり、共同作業(蒸したりといった)の体験を語れる人と出会いました。79歳。戦前のことです。忘れておられるでしょうから今度写真と手土産持参で行ってきます。茅葺きの軒はに麻を使ったそうですが、首をかしげながらだったので、そこらは再度確かめましょう。

温海カブの状況〜2016年10月16日

 温海カブは生育はまあまあ順調。しかーし。10月16日に間引きに行ったところ、牛の侵入痕跡があ。5分の1程度(?)食われていました。味をしめてしまったのかも、というかそうでしょう。雨が降り始めましたが、急遽、竹柵を増強。来週の間引きで再度増強します。
 関係各位にお詫び申し上げます。管理不行き届きでありました。申し訳ありません。
●10月16日
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●10月11日
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●9月25日
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●9月9日
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●9月3日
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奥出雲の蕎麦栽培はたたら製鉄の興隆とともにひろまった?(わけではない)

焼畑の蕎麦の様子は明日確認してくるとして、作業用メモ。

16/09/10の山陰中央新報の記事にひっかかった。

http://www.sanin-chuo.co.jp/health/modules/news/article.php?storyid=561119179

→リンク切れ(2019/08/28確認)

問題の箇所を引用する。

”同町のソバは、たたら製鉄の原料となる砂鉄を採った跡を田畑に変えたり、木炭生産のために切り出した山林の跡を焼き畑にしたりしながら栽培が広がった。”

新聞記事にしては大胆な書き方であって、通常は「○○によれば」という上で書かれそうなものであるが、大丈夫なのだろうか。

「木炭生産のために切り出した山林の跡を焼畑にする」。可能性はあるにしても、いつの時代のことなのだろう。そもそも奥出雲での蕎麦栽培が「広がった」のは、そこではないだろう。

………

†. 焼畑・切替畑とたたら山内・製鉄の関係については未見未聞。断片的な史料しかないのだろうが、まずは史料と文献をそろえてみよう。そもそも蕎麦についても出雲蕎麦について流布しているものがかなり怪しいのだから。

†. 奥出雲で蕎麦栽培が”広がった”のはむしろ近年でしょう。農林水産統計をしらみつぶしにあたってみることに。他の産品にも注目。大根、柿、椎茸、などなど。耕地面積もわかれば。

……

原傳の著作など読み直すところからか、、、と思って検索かけたら、なんと。国会図書館アーカイブで公開されていた。原傳,1934『松江藩経済史の研究』(日本評論社)

 丹念に読んでみよう。

◆2019年8月28日追記

 「奥出雲で蕎麦栽培が”広がった”のはむしろ近年」の記事を追加する予定ゆえ、その下書き的に。

◉原傳の『松江藩経済史の研究』がわかりやすいのだが、管見の及ぶ限り、奥出雲地方における山野利用の歴史・地理分野の資料から推測されるのは、鉄山経営が保護されていた藩政期において、山林の焼畑で蕎麦を栽培するのは困難であったろうということ。

 少なくとも奥出雲の蕎麦栽培は、たたら製鉄とは別脈の流れからよってきたるものだろう。

1)原傳の『松江藩経済史の研究』からみてみる。

2)太田直行著,昭和13年刊『出雲新風土記 味覚の巻』から、八川におけるソバ栽培について。

3)統計資料、農水省等のデータから

4)矢富熊一郎 著,昭和40年刊『石見匹見町史』から第2編・歴史編〜江戸時代〜そばの栽培

第13回日本オオサンショウウオの会邑南大会

全国から(邑南町をのぞく県内参加者はおそらく10人未満)約150名が集まった”第13回日本オオサンショウウオの会邑南大会”のレポートは今週末に〜。
10月2日の昼間の部のみ参加して奥出雲町布勢・八代川のオオサンショウウオのことも片隅でアピールしてきました(A1ポスター2枚手作り)。噂にたがわず報告会は大変エキサイティングでして大満足、いや、ホントおすすめしたい、来年は鳥取県南部町で開催です。みなさん是非!

さて、以下は自分用・関心のポイントです。
◉出雲地域の関心の低さは根深い。形成されてきた自然観の違いと社会集団のスケールが関与しているんだろう。
◉中高生と研究者が同じ舞台で発表するなんて「学会」はそうそうないです、素晴らしい! 「大人」の態度もそれぞれでこれまたおもしろいし、いい!
例えば……中学生の発表に対して質問が3つの姿勢でなされました
・大人A)言葉が不適切ではないか。おかしい。説明して。
・大人B)○○だったんだよね。その時こういうところが大事なんです。どうでした? 教えて。
厳しく大人げなくもあるけれど、同じ研究者として対等に接しているAさん。中学生の理解度を考えながら、教育的にやさしく接しつつも、ポイントを引き出そうとしているBさん。
どちらもありでしょうし、両者とも探究心・好奇心・研究心が感じられて、大会への好感度がさらにヒートアップしました。
◉人がバカにならないための環境・頭がまわる、頭を使う環境設定がある。
人口密度と人口の違いがどうやらわからなくなっている人がいて、何度も自分の耳を疑ったのだが、どうやら頭を働かせることを全力で回避するような環境にいると、そうなるのかなと思い。
◉近い将来オオサンショウウオは奥出雲からはいなくなることが見えたので、なけなしの保全活動&調査だけじゃあかんのだろう。
◉江戸期の博物誌などをみると、サンショウウオオオサンショウウオが混同同一視されている。サンショウウオをのぞくと紙に残っている地方名も思いの外少ない。ハンザキ、ハンザケ、アンコウ、ハダカス。食す、飼うなど。食べた人の記憶が残っている間にもうちょいひろっておくべし。
◉タニグクはヒキガエルではなくオオサンショウウオであるとの見解を碩学から頂戴した。土壌の神=スクナヒコナ=農業神とのかかわりの中であたってみたい。

9月27日の焼畑レポートより

9月27日焼畑レポート。 アマランサスの収穫を終えました。アワ、ヒエ、タカキビとともに、木次と三所にわけて干してます。

さて、アマランサスの運搬途中に布勢のポプラで三沢のIさんとばったり。雑穀を分別する手箕のふるい方を誰かに教わりたいんですけど〜という話のなかで、「うちのトーミを貸すよ」と申し出いただきました。ありがとうございます! 温海カブは順調なるも間引き必須。蕎麦は雨による倒伏もあってあまりかんばしくないです。もっと秋らしく晴れてくれ〜。

9月も終わります。おいしい雑穀スイーツ開発へ向けてダッシュです。

山の口あけ

9月は山の口あけ。失われた記憶と記録を求めてのろのろじたばたしている。民俗としての記録が現存するトチノミ採取文化の西の果て「柿木村黒淵のIさん大正11年生まれかあ」※1とつぶやくと、「あぁ○○さんね」と妻曰く。すげー。山村の文化凝縮度は基本的には都市をはるかにしのぐということか。黒淵は数回通り過ぎただけの記憶しかないが、椛谷のさらに奥にある。妻の同級生だった黒淵の子は小学校から寮に入っていたという。

「山村といわれるものの多くは、実は奥まった農村にすぎない」(千葉徳爾,1950)のであるが、数十年前まで農村とは異なる数少ない本当の山村が日本のあちらこちらにはあって、柿木には確かにあったのだろう。

トチノキを1本切り出すと1年分の収入があったので、どんどんと切り出されたというような文字の記録をあちらこちらでみた。多いところで年間10俵もとれる生物資源は家族数年ぶんの現金収入と交換されえた。同時に白米が山村に入ってくる、麦飯が主だった平地よりむしろ早く。

いや、しかし、それでさえ「山村」の残映のようなもので、椎茸の栽培が全国に広まる時代に、時代の結節点があるという仮説を抱いて匍匐している。焼畑もそう。時代でいえば元禄より前の時代。どこからたどれば糸がつかめるのか。

匹見(広見)に椎茸栽培を伝えたという三平さんの墓参に行ってみようか。何かわかるかもしれないと思ったり。

柿木村下須の西にかつてあった広大な笹地の謎も糸のひとつだろうが、参照必須の千葉徳爾の「はげ山の研究」「はげ山の文化」は県内に蔵書がない※2。『西石見の民俗』1962に千葉が「土地利用の展開」を稿している。今日は県立図書館でこれも見てみる。

大山あがり調査も半年放置していたものを再開する。山と牛と竹(笹地)とを結ぶ謎と未来を見出すべく。

雨で倒伏したであろうアマランサスの収穫後の干し場も探さねばだし、ヒエをどうしよう。古来の手法で調製したいし(いやそれしかないし)。アワはまあなんとかなるでしょ。そうこうしているうちに蕎麦もできちゃうよ。やれやれ。

※1)辻稜三「中国山地におけるトチノミ食とその地域差について」1993,人文地理第45巻第2号:調査の概要表に記された取材地一覧を眺めていたら柿木村の文字を見つけてつぶやいた。

※2)勘違いでして、島根大学付属図書館にありました。また、この後、『西石見の民俗』は古書にて購入した。

雨で倒れるアマランサス

 秋の長雨と台風は収獲前の穀物にとってはダメージなので、ほんとに毎日気をもみます。この三連休も稲刈りの予定だった田んぼも多かったろうに。昨年ほどではないですが、すでに倒伏した稲田もちょくちょく見かけて、やばいよなあ、芽がでちゃうだろうに〜と。いや人ごとではありません。  アマランサスはなんと、立ったままでも熟したのち雨にさらされれば芽が出てしまうというしろもの。そもそも9月は残暑が続く長期予報が8月下旬にあって期待していたのですが、見事にはずれており、収穫のタイミングは後ろにずれていってます。  雨がつづけば頭がもたくなり、地面がゆるみ、どさっと倒れる。少しの雨でも。こんなふうに。

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 さて、写真でみるとなかなかアマランサスの大きさがわからないようです。ものにもよりますが、およそ2m〜3mですね。

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 モデルさんが右手にもっているのはアワで、左手がアマランサス。これがほぼ平均的な高さのものです。

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 収穫後、どうやって干したらいいのかを思案してます。稲であれば濡れることで乾きがよくなったりするものですが、アマランサスの場合それより芽が出る可能性が高まる。よって完熟した後に、雨にあたらないところで乾燥させて脱穀するのがよいのです(確か)。  農家の軒先を借りるしかないのですが。果たして見つかるのか!?  

牛の山登りと竹林の役割

 アワとヒエの収穫のために山に向かう日が続いた。毎日数時間。放置し過ぎた焼畑地ゆえ草刈りが半分以上の労力と時間を占める。火入れしなかった防火帯が通り道となるのだが、藪に近づきつつあって、かき分けるのと刈るのとで半日を要したほど。その時の勢いで漆を巻き付けたのか、顔と首がかぶれてしまった。これはまあ軽傷。傷と怪我がいつも絶えない。

 さて、収獲の振り返りはまた別記事にまとめるとして、昨日の発見を。

 この写真である。

 牧場の乳牛があがったあとである。若い牛だ。たぶんあいつだろうと個体も見当がつく。昨年まで、ここの牛たち(といっても恐らく好奇心旺盛な1頭のみ)この写真の手前まではきていた。火入れをこの上のところまでにした理由のひとつでもある。

 なにせ急な斜面だ。何を思って登ったのかをしばし想像してしまった。ずり落ちる速度より早く脚を前へ動かし、転倒のリスクを回避しながら一段上へ身体を移動させる。何度か失敗した跡がみられる。それでもなぜ上へあがろうとしたのだろう。

 好奇心。

 なんだろうな。

 あがった先には一面の蕎麦畑が広がっている。牛の目にはどう映ったのだろう。

 そこで満足したのか、さらに登る意味を感じなかったのか、蕎麦畑に入った形跡は見られなかった。ただ、1週間前にはなかったイノシシの遊び跡が少々。牛が頻繁にくるようになればイノシシも出てこなくなろうし、それが狙いでもある。

 どうやら確かなのは、花が出始めた蕎麦は牛も猪も口をつけないということである。忌避する物質が含有されているのかもしらん。

 ここの乳牛はホルスタイン種である。向かいの山には山岳牛のブラウンスイスが育牛放牧されている。牛舎につながれて育てられたホルスタインは外に出たがらないものだ。その仔牛は外で遊ぶようになり、その仔牛の仔牛になってようやく放牧に慣れる。最低でも3代かかるということに加え、難題はほかにもある。冷涼な気候に適した種であることと平原に適応した身体であること。北海道が適した地であるのだが、それをこの奥出雲の山間地でどう適応させていくか。

 木陰の有無は重要だと思う。落葉広葉樹であれがなおよいが、竹林は夏のいちばんきつい時期、まとまってあると、蒸散効果は高いはずなので、1〜2℃ほど気温をさげてくれるのではと思う。平地であればそう。山の場合、風の通り方にもよる。放牧地は(おそらくかんな流しで)山を削って谷間となった地形である。念頭においておきたいのは、生物多様性を高めるモザイク植生の単位面積がどのくらいだったか。原理と事例をもって確認すべし。

 全体の生態系をどこまで見切っていくか。参照項をあげてみる。

・自然利用の履歴

・周辺の歴史と信仰

・民俗と自然利用の記録

・気温降水量などの記録

・林間放牧研究論文の参照

・竹林の効果について論文参照

・モザイク植生について

 用語など適当すぎるところは後ほど訂正することにして今日はここまで。