天が淵の今

 斐伊川の八岐大蛇伝説は右岸(東側)に著しく偏っているようです。左岸は皆無にひとしい。また、「伝説」とはいいますが、ルーツは曖昧でかつその言説をたどってみれば近年、「観光推進」の文脈から発しているものであり、ふわふわと軽いものに思えます。
 ひとつひとつのルーツには興味をそそられるものもあります。パワースポット狂想曲や、ご縁の国などという言葉に惑わされることなく、足をはこんでみられたし。

 群書類従の神祇部におさめられた『雲州樋河上天淵記』に由来する天が淵周辺は、もう少し文字の記録などあってもよさそうです。これは宿題。

 また、天が淵の他に、オロチ伝承を表している地について、参照できるサイトをあげておきます。
    *1 追記改訂済み。初稿時から7年ほどが経過して、随分と充実している。

◆印瀬の壺神・八口神社

…現在壺神を祀る地は八口神社の境内となっているが、この神社と壺神との関係は明確ではない(壺神と神社とでは例大祭の日取りも全く異なるため関連性は薄いと考えられる)。旧6月晦日の夕刻には、壺神祭として8本の幣と8品の供物を献上する習わしが続けられている。

・出雲の伝承/印瀬の壺神・八口神社(島根・雲南市)

 …いま地元では、小中学校の生徒に地元に残る伝承などを教えているそうで、当地も伝承地の一つとして、道路・駐車場の整備などが行われている。*注)写真を前掲「日本伝承大鑑」が掲載しているものと比較してみると整備ぶりが明らか。

…壺に触れた途端、天はかき曇り、山は鳴動して止まず、八本の幣と八品の供物を献じて神に祈ったところ、ようやく鎮まった。それ以来再び壺に触れることが無いように、多くの石で壺を覆い、玉垣で囲み、しめ縄をめぐらした。

 

◆八本杉、斐伊神社

・出雲の伝承/八本杉

低い木柵に囲まれた中に8本の杉の木が聳え、その中央に「神代□(神か)蹟 八本杉」と刻した自然石の碑が立っている(大正6年建立)

 

 天が淵は雲南市の公園にもなっていて、訪問者もあるし、「行きたい」とおっしゃる方も多いのです。10月末に行ったときの写真がこちら。通勤路として毎日そばを通っておりますが、車をとめておりてみるのは久しぶりでした。

 

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 ずいぶんと漂着物が多いです。また流されていくべきものなのか、清掃すべきものなのか。目の前にあるものくらいは拾っておこうと思います。

 

関連記事

天が淵へ至る道 序 – 樟の森の研究室

 

*1 追記改訂…元記事を以下に残す。リンク切れ。

 ・印瀬の壺神、八口神社 ・八本杉、斐伊神社  どういう伝承地があるかについては、雲南市の観光情報サイトが複数あるのですがそのひとつを。

 ・ヤマタノオロチ伝説/うんなん旅ネット  そして、個人で地図におとされている方がこちら ・ヤマタノオロチ伝説伝承地 

居去神社

 奥出雲町上三所に座す。
 スガヒ山の北麓。スガヒ山の頂に祀られていた神霊が分祀され、ここにひとつ。あともう2つはいま失念。また調べて補足しよう。
 中世の国人領主、三沢氏が山城を設けるに際して、里へ下ろされたような記録が残っている。
 現在、その山は城山と呼ばれている。頂上には電波塔がたち、車で登れる道がついているらしい。秋晴れの日に行ってみようぞな、もし。

久多見神社のこと

 尾原ダムから松江へ向かう際には、忌部をいつも通るのですが、いかなる地なのかが気になっていました。松江の郊外にあたり、上水道の水源地でもあり、また一方で拡大した竹林や耕作放棄地が幹線道から垣間見えていてのこと。

 そんな折、久多見神社のことを知りました。玄小子のHPによれば、「式内社調査報告」に次の記述があるのです。

「明治四十四年悲劇の合祀後、大正十二年平口部落民十五世帯は、山林を拓き、残っていた社殿を地引し、奉斎した」

 悲劇の合祀です。

 あぁ、いったい何があったのでしょう。明治44年から大正12年の間、15世帯という小さな集落が共有した物語を知りたくて、県立図書館で忌部村史(復刻)を閲覧しましたが、斯様な記載はありません。雪のふるある日にそばまで行ってみました。

 春が来たら、参詣して、昔日を問うてみたいです。

 文献については、U氏に一度きいてみましょうかな。

 あわせて、概論としてこちらを閲読すべきかな。

「神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈」安西水丸著 岩波新書 1971年

水神

朝の散歩の途中で見つけた水神さま。裏山から引いてきた水を貯めている場所に祀られています。おそらくはここのお宅のものであろう。家や小さな集落の単位でしか、こういうものは残っていかないだろうし、小さな営みのなかで確かに継いでいかれるものが希望なのだ。そう思うと、このコンクリートの塊がとても大事なものに見えてくる。構造体としては何年もつのだろうか。これから長くて40年だろうか。
50年後にこの場所を確かめることは、私にはできない(可能性がなくはないが)だろうが、行く末を信じられるくらいには、この世の中を生きて進んでいきたいものだ。

天が淵へ至る道 序

 ここは私がつい1週間前まで住んでいたところから徒歩10分ばかりの地点です。斐伊川の上流域にあたり、天が淵と呼ばれる伝承地です。いまでも毎朝この景色を横目に通勤しています。

 

淵のあたりを撮ったのがこちらです。公園として整備されていて、水辺までちかよることもできます。

 

川沿いには国道314号線。この幹線道路建設について、調べてみたいと思っています。このルートを策定するにあたっての諸事を掘り起こしてみたい。この斐伊川中流域を街道が通ったのは明治に入ってからであり、長い間、街道筋からは外れていたようです。写真にみえる右手の集落は川手。和名抄には、川手郷との記載があります。

 さて、この天が淵、八岐大蛇が棲んでいた(いる)ところとして、ネット上にたくさんの記事があがっています。しかるに、ほとんどがコピー&ペーストされたもので、いったいオリジナルはどこにあるのかと、不審に思われる方も少なくないでしょう。

 通常、スサノオノミコトが龍の怪物を退治する神話は、古事記日本書紀で物語られています。戦前には国語の教科書への掲載から年配の方々にとって馴染み深い神話です。しかし、記紀から推し量れる地は、雲南市にはないのです。

 雲南をオロチ伝説の地として浮かびあがらせる文献は、いくつかあるようですが、「土地の古老が伝えるところによると」という取材記のようなものです。代表的なものとして「雲州樋河上天淵記(うんしゅうひのかわかみあまがふちき)」(「群書類従(ぐんじょるいじゅう)」神祇部巻28所収)があります。

 群書類従とは塙保己一はなわ ほきいち)が古書の散逸を危惧し、寺社・大名・公家に伝わる古書を蒐集編纂した一大資料で、寛政5年(1793年)から文政2年(1819年)にかけて刊行されているものです。そして、なんと!国会図書館でデータが公開され、ダウンロードできるようになっています。すごっ! 皆の衆、どんどん使いましょう。

 この書、ながらく、作者不詳であったのですが、数年前、松江市大垣町の内神社(高野宮。家原家)所蔵の「天淵八叉大蛇記」大永3年(1523年)が発見され、こちらが原典(のひとつ?)ではないかと言われています。こちらの作者ははっきりしていて、京都東福寺の僧で河内国出身の李庵光通です。奥出雲の古老に取材して記したものらしい。 (つづく)