昭和12年の民具研究

ナバニコ考#3、いま読むとずいぶんイキっているものだと、我ながら失笑を禁じ得ないところもあるが、当時(といっても3年前)の民具資料を収集した施設に対する波は、あらゆるものを押し流してしまいそうで、耐えられぬものがあったのだ。いま、状況はさらに進み、社会ニュースで存続そのものに疑問を呈する報道も少なくない。益田の民俗資料館はリニューアルにともない民具の展示はなくなった。保管はされているとのことだが、誰も知らぬ間に、手続き上は問題なく、廃棄となることをおそれる。

こうなることを、大庭良美はわかっていたのではないか。予期はあったであろう。NDLのデジタルコレクションで閲覧できる大庭の著、『日原の民俗資料』1986,日原町教育委員会刊。そのあとがきにも、現れていると私は思う。

日本における民具研究は、戦前、戦中、戦後にかけて、理念的基盤をかたちづくったと考えるのだが、当時の人脈‐学脈ともいえるものから、それは生まれている。これはまた、知らず複雑な問題を孕んでいる。あの戦争をめぐって構造づけられた社会の中で、当時の人がどう生きたか、学問はそれにどうこたえようとしていたか、ということと民具研究あるいは民俗学は、深い関係を持っている。このことは、本題からはそれるが、自分に対して一言しておくものである。

さて、《大庭が東京のアチック・ミューゼアムへ野尻抱影の紹介で訪問したのは昭和12年1月21日。この時、磯貝勇から『民具蒐集調査要目』『山村語彙採集帳』を出してこられ、民具名彙や農村語彙を採集してみたらとすすめられている。》と、以前ナバニコ考#3に書いたのだが、出所を記しておらず、かつ、思い出せない。

重要なことだと思うので、見つけ出したい。探しものをたぐりよせる糸はおそらく3つ。野尻抱影の糸、民具研究の糸、磯貝勇の糸。この3つのうち、民具研究の糸をたぐろうとしている。

昭和12年、大庭が東京のアチック・ミューゼアムを訪ねる前年、昭和11年には、アチック・ミューゼアムが大正12年から取り組んでいた足中研究の成果が『所謂足半に就いて』としてまとめられた。民具研究のひとつ画期といっていいものであるが、「足中なんぞを研究している変わり者たち」という視線にもさらされることになる昭和12年である。少なくないテキストがあるのだが、宮本常一が著者となっている『日本民俗文化大系 3 澁澤敬三』1978,講談社からひく。

(渋沢は)学問の方法は一人一人の中にあるものでその方法は一人一人が自己の体験を通して開発していかなければならぬものであるとしていた。もとより研究方法の手ほどきは、その初めには誰かに学ぶことが大切であるだろうが、注意深く、しかも見落としのないようにこまかに物を見て行こうとするとき、おのずから自分なりの見方が生まれて来るのではないかというのが澁澤の考え方であった。

宮本はアチックマンスリー19号(昭和11年12月刊)に澁澤が書いたものをひき、「これがアチックという学問社会の理念であったと言っていい」と記している。すなわち以下の4点である。

◯アチック同人は美しき鹿であってほしい。しかしそれは山野を駆ける美しき鹿たることが肝要で、檻に入れられた鹿であってはならない。
◯アチックにうぬぼれは禁物だ。独善と自尊、妥協と協調、謙遜と卑屈、これらの混同はアチック社会には見出せないはずである。
◯『学とは精密なる知識の系統的全部なり』と。簡明説き得て妙である。が、これは形態的定義である。およそ高貴な人格の上に成り立ってとは公理である。
◯アチック同人はアチック社会を各自が生態学的見地に於て批判するを要する。自己反省は正しき成長の決定的ホルモンである」

参照

岩井宏実,1993『民具が語る日本文化』(河出書房新社)-p19

宮本常一,1972「民具学の提唱 民具試論四」,日本常民文化研究所編『民具論集4』(常民文化叢書9,慶友社)

この時代を「感じる」ことを、宮本の足取りから少しひろってみよう。昭和14年の秋、教員を辞してアチック・ミューゼアムの研究所員となった宮本は出雲、石見の旅に出る。所員として最初の旅は邑智郡田所の田中梅治を訪ね、稲作についての農村語彙集ともいえる「粒々辛苦」の原稿を出版へと進めるべく話をつめることであった。田中梅治を訪ねたときのことは、宮本のもっとも知られた著作である岩波文庫の『忘れられた日本人』にくわしい。

一連の旅は、昭和18年に三國書房から刊行された『村里を行く』に「土と共に」として収められた。

翌昭和15年の夏、宮本は大田植の調査で邑智郡日貫(田所のふたつ隣の村)を訪れ、田中梅治と再開する。この時、同席していたのは、澁澤敬三、石田春昭、森脇太一、牛尾三千夫、そして、大庭良美。大庭は澁澤、み「石見日原村聞書」の原稿をその場で見てもらい、出版への道が開けた。『石見日原村聞書』の未来社版前編のあとがきにそれは記されている。また、1961年に未来社から刊行された『新編村里を行く』には昭和30年に日原を訪れたときのことが「大庭さんの日原聞書」として収められている。

このときの、澁澤と宮本のやり取りからひこう。

さて宿屋の座敷にくつろぐと、翁はあらためて渋沢先生のまえで挨拶した。私はうっかりして気がつかなかったが、翁が階下へおりてから、
「田中さんは実に古風な人だね」と言われた。
「どうしてですか」ときくと、
「あの人はね、今挨拶するのに―普通の人なら手のひらを畳につけて挨拶するだろう―手をかるくにぎって、手のひらの方を内側に向けて手をついていたよ。律儀で古風な人の証拠だよ。あの人の頭の中には古い知識が正確にしかもギッシリつまっているよ。引き出して記録しておきたいものだ。大した人だよ」私はまた私の師匠の眼のするどいのにおどろいた。
「あの人はね、えらい人だよ。自分の学問をちっとも鼻にかけていないだろう。田舎をあるくと、多少とも学問のあるものはそれを鼻にかけて尊大ぶるものだがあの人にはすこしもそれがない。ボスではないね、ほんとうの百姓だよ」

昭和14年の「村里を行く」に戻る。

現吉賀町の金山谷でのことで、隠居した老人が椎茸栽培で生活費はまかなえるのだというところ。

子供たちに金山谷の様子を一通ききとって、私は村の下のはづれに一人の老人をたづねた。もう隠居して部屋住みの身である。腰を下して、丁度乾燥してゐる椎茸の事からききはじめると、之だけで隠居の生活費は出るとの事であった。村の様子からすると河津とはかなり差があるらしい。

つづく。

天然スギの来し方、茸師の来し道、私たちの行く末

3年前になる。日原の山奥の一軒屋、軒先に吊るしてあるのを見つけた私に、お婆さんは「持っていってくれ」と。亡くなった爺さんのだからと。そして、今も手元にあるナバニコ。直して使うつもりでまだ物置にある。
ナバニコは茸作が豊後から西石見に持ち込んだ背負子であり、大正ごろから地元でもつくり使うようになったものだ。

ナバニコは、山陰の西端から東端の智頭町へと飛ぶ。鳥取県智頭町の芦生地区は、ブナと混交した天然スギが残る地である。活字では多く触れ知る機会はあるものの、いまだ訪れる機を得ていない。

島根大学農学部(林学)を1974年に退官された遠山富太郎氏は、芦津と森林生態も似た「芦演(京都大学芦生演習林)」で過ごされ、「芦生のスギのために墓碑銘を書くことにした」と、『杉のきた道』を退官2年後、中公新書から出された。(芦津と芦生を混同していました。初稿訂正)
天然杉の口碑を追った書ともいえるのだが、匹見・日原は天然杉の大森林が、全国でも残存した地であるのにもかかわらず、「地元の人にも、営林署の人にも当時のことを教えてくれる人がほとんどいない」とあとがきに記されている。

それはそうであろう。日原での伐木搬出は明治の半ばから終わりにかけてであったが、施業は多く紀州、木曽、土佐、安芸のほうから入ってきた人たちであった。日原に残った人もいたであろうが、多くは他の地に転じている。

幕藩時代、里に近い共有林はほとんどが焼山・草山であり、御立山と呼ばれた藩有林は、維新後に国有林となったもので、土地の人間には縁のうすいものであった。なにより奥山の天然木は神のすむ異界でもあったのだ。そこに古くから入っていたのは木地屋、たたら集団、そして江戸後期に入って茸作(シイタケ栽培者)である。津和野藩領では木地屋、たたら師は保護(管理でもある)したが、茸作の事情が不明である。

茸つくりたちは、古くは寛政年間から断続的に、天保、嘉永、そして幕末の文久、元治、慶応にには陸続として、豊後からわたってきた。木地師、たたら集団の解体離散と同期である。

1974年刊の大庭良美『石見日原村聞書』を、遠山は目にすることがなかったようだ。そこには、ありし日のスギ伐採のあり様が、わずかとはいえ描かれてもいる。

スギに限らず、樹木は「いかい」(どでかい)のが、ごろごろあったというが、スギであれば、切株に寝転んでも足が出ない。というから直径170センチクラスである。天然であること、気候地形などからして、樹齢300~500年だろうか。

さて、本題はそこではなく、日原聞書をあたっている中で、奥殿という土地がわからなかったということ。奥殿。周辺の土地には詳しい妻に聞いてみるが、聞いたことないという。

『石見日原村聞書』に奥殿にくらす老夫婦の話が出てくる。

《奥殿の水津宗太という人はもう八〇を過ぎておりますが、年寄りの二人ぐらしでとても仲がよい。あんな仲のよい夫婦は見たことがありません。一年中かかって作った籾を一年中にちちっとずつ二人でかるうて日原へ出て、農協で挽いて白にしてもろうて、それをいるだけ売って金にして、店屋へ入って酒を飲んで、酒を買うて、残った米を二人でかるうて、小一里(4km弱)もある山道を帰って行く。実に仲のよいものです。この間老齢年金のさがった時も二人で出て来て、爺さァが郵便局で受取って、婆さァ、こんなにもろうたでやというて渡しなはったら、婆さァは、そうかいなあというてふところへしまいなはった》(河村の野口 沖田栄吉77歳 昭和38年3月採話)

 奥殿から日原へ、山から里へ、3~4kmの道のりを、老夫婦が30~60kgほどの籾を、背負って降りてくる。その光景は幻にしては、ありありと目に浮かびくる。なんだろう。

 その道をざっくりと、地図におとしてみた。間違いも勘違いもこうしてみると、やがてわかってくるものだ。人が指摘してくれもする。

奥殿(おくとん)は、添谷(そえだに)にある奥殿川の最上流部にあったであろう集落である。現在、集落はなく、道も通ってはいない。昭和50年代の航空写真をみると、一軒の民家と水田が見える。右に写真、左に国土地理院5万分の1地形図という図であるが、竹林を示すそばには民家なりその跡らしきものが写真から伺える。

 

参謀本部明治32年測量、昭和7年要部修正測量の五万分の1をみると、水田はさらに広範囲に見られる。周辺の山々は造林も始まっているが、草山・焼山であった履歴を残していて興味深い。

上記ふたつを参照しながら、現在の地理院地図に昭和38年ごろ、仲のよいふたり暮らしの年寄りが歩いたであろう道を黄線でとってみた。

その家の納屋の軒には、ふたつのナバニコが並んでかかっていたであろう。
「切株に寝ても足が出ないほど」の大杉が林立していた山は、そこから5kmほど東に進んだところにあった。

 

 

令和7年7月30日の備忘

7月30日。最高気温は36℃ほど。連日35〜38℃となっており、庭も畑も乾き方が一線を超えつつある。散水を相当ていねいにやらねば水が浸透せず、流れてしまう。そんな日々の中で見たこと、聞いたこと、考えたこと、気付いたことを記しておく。

◆ダムの見える牧場のクサギの花がようやく咲き始めた。一週間前にはまだ白いままであった蕾は、遠くからもピンク色になっているのが見えた。例年より遅いとはいえ、4〜6日程度であろう。花の周囲の葉はしぼんだようになっている。気温が下がる夜になれば生気を戻すのかもしれない。葛の葉も昼間はしおれているくらいなのだから。

◆牛も相当ばてていて、生乳が酸化気味であると聞く。

◆セミの鳴き始めも遅かった。夏の花の開花、クサギがそうであるが、遅れ気味なのは、暑さゆえであろうが、わずかでも気温の下がる徴候を見逃さずに開花に踏み切ったのか、そもそも許容の限度を超えて仕方なくも咲き始めたのか。他のさまざまな事象との関係を見ながら、じっくり考えてみたいことである。

◆今年の火入れは8月31日を第一候補として進めている。昨年は8月18日だったが、猛暑と少雨で発芽が絶不調であったことをふまえてのこと。火入れ地の日照条件は昨年より悪い。ベストへ向けて頭と身体を動かしていく。

断簡を連ね考える#1

机上におかれ書棚と行き来するものの収拾をはかる。

野生の思考を中沢新一『精霊の王』のなかに検する

野生の思考(La Pensee sauvage)―世俗にまみれつつある概念である、と言ってみる。

否定的な観点を示しながら、中立から肯定へ傾きうるまでの「振り幅」を用意したいからである。自身が把持している印象の相対化でもあろう。それは対象化(異化)する地点からはじめられる。発すること、言葉として表出すること。主体の内なるものとして、主体の一部を形成している心象―印象であるものが、内なるものから外にあるものでもあることの自覚を促すこと。さらに、いかなる心象であれ、言語として表出が可能である以上、一主体一個体の心象であるものから、集合体の共有概念とでもいうべきものであることが明らかとなる。

その明示性の自覚へ向けての表出こそが、冒頭に示した言表である。

庵野秀明監督の『シンウルトラマン』(2022年公開)、その劇中において、外星人と呼ばれる地球外生命体が地球・人類を理解しようとする行動のひとつとしてクロード・レヴィ゠ストロースの『野生の思考』、そのみすず書房翻訳版を読むシーンがある。みすず書房の翻訳刊行は1976年。爾来50年も経とうかという書籍であり版を重ねている。

あまりに多くの人に読まれていることの弊を言いたい。読書の真髄。テキストを読むという行為の核心。その一片として、エクリチュールと個が一対一で対峙していることを挙げよう。

その唯一無二といっていい出会いの奇跡のような時空に他者性(他者ではなく)が入り込むことは厄介だ(面倒?邪魔?)。いや、これはなんといっていいかわからぬ。多くの人が読んでいるのだという意識がそこにはないほうがいい。この読みは私という個にだけ開かれているのだという意識こそが、読書の真髄なのだ。

しかも、そうであることによってはじめて、その読みは普遍に、他者に開かれたものになる可能性を帯びてくるのだ。

たとえば、松岡正剛の記述はそうした読みにあたると思う。

https://1000ya.isis.ne.jp/0317.html

あらかじめ全体の設計図がないのに(あるいは仮にあったとしても)、その計画が変容していったとき、きっと何かの役に立つとおもって集めておいた断片を、その計画の変容のときどきの目的に応じて組みこんでいける職人のことだ。
そのためブリコラージュにおいては、貯めていた断片だけをその場に並べ、それを動かしているうちに、相互に異様な異質性を発揮する。のみならず、しばらくして「構造」ができあがっていくうちに、しだいに嵌め絵のように収まっていきもする。本来、神話というものはそういうものではないか、構造が生まれるとはそういうことではないか、そこにはブリコラージュという方法が生きているのではないかと、レヴィ゠ストロースは見たわけである。

レヴィ゠ストロースは神話をブリコラージュ的に観察しているうちに、もうひとつ新たな仕組みがあることを発見している。それは、雑多に集めておいた材料や道具の「断片」や「部分」たちが、一応は想定していた「全体」とのあいだであれこれ対話を交わすのではないかと見たことだ。

先に全体があるのが「生命」である。松岡が言う「全体」とは何か。

つづく。。

 

伊勢、熊野、龍神、茸作りの道

1300km以上を車で駆け抜けた4日間。その断片を備忘として記しおく。
龍神村の宮代にあると伝わる、とある墓を探し訪ねた。
墓石があるらしい寺は全国文化財総覧には◯◯寺跡となっており、墓所はそこにないであろうことは予期された。一部の地図には寺名と位置が記されていること、国土地理院地図にのみ、なぜか寺名が地名として記載があること、行けば何かがあるという信のみ。
 6月16日、真夏のような陽射しが照りつける中、いくつかの記載を頼りに、狭く急な坂道を汗をかきながらのぼっていくと、楠の樹冠とその下に石垣がみえた。あぁ、あった。だが、目にできたのは、薬師堂と謹告として記された由緒のみ。屋根と幕を施された宝篋印塔は銘文により応永4年(1397)の建立と知られる。お堂のまわりだけは人の手が行き届いているものの、かつて、山門、宿坊を擁した寺院はやはり寺跡と呼ぶにふさわしいものであった。
 墓石などもまったくみられず、きれいに移動されているようであった。これまでと諦めた。妻は水の張られた田んぼに泳ぐオタマジャクシに「島根から来たんだよ、わかる?」と話しかけ、気分を軽やかにしてくれた。帰りの長い坂を下りはじめると、畑の草取りをしておられた男性がおられた。声をかけ、斯々然々とわけをお話すると、思わぬお返事が! 「あぁ、椎茸の常蔵さんの墓ですか、うちの墓の隣にありますよ」と。
 常蔵さんのことは、祖父から聞いていた。墓参りのたびに花を手向けたりしている。うちだけでなく、何軒かも同じく。
 祖父は山仕事していて、島根に林業指導の仕事で行っていたこともある。島根との技術交流もあったようで、島根と言われて、いろいろ思い出す、、と。墓の場所をお教えいただいた。
 墓所は寺跡から谷を挟んだ裏側ともいえる場所、共同墓地のはずれにあった。こちらも急な坂をのぼった杉林の中である。戒名を記した側面に、「文化元年七月二十二日没」「俗名スルガ国常蔵 施主五味右左衛門」と。
 文化元年は1804年、遡ること230年ほども前になるが、暑さのせいか、ついこの前、数十年前のことのような気に襲われる。
 常蔵は、古老が伝えるところによれば(日高郡誌など)、享和元年ごろ「山向こうの村」である寒川村(現美山村)へきて、椎茸栽培をする一方で多くの人に技術を教えもしたらしい。白髪童顔の姿態は駿河爺(するがじい)と呼ばれ愛されたようである。広井原村で山稼ぎをする中で風邪をこじらせ、戸板にのせらせふたつ向こうの村の医師のもとへ運ばれる途中、かの墓石がある村でなくなるのである。埋葬などの際に関係者間で交わされた文書も残る。原本の所在は未確認だが、翻刻されたものは美山村史資料編に所収。
 椎茸栽培黎明史(仮)の中では、寛政〜享和〜文化〜文政のおよそ40年ほどが業としての立ち上がりの時期にあたる。藩営あるいは商人による資本投下が各地方で盛んになる。浜田藩内での国東治兵衛によるものも同時期であるが、こちらはおそらく失敗に終わっている。
 常蔵は単身ではなく、複数人の集団である。常蔵がそうであったかは不明であるが、当時日高川上流域の寒川、山路には数百人もの木地師集団が、遠州、駿州、信州、日向、筑紫など全国から集まっていた。多くは木地師から農民化しつつあった人々であることに特徴がある。彼ら彼女らは木地づくりと椎茸栽培を同時に行っていた。
 木地師がもっとも早く山渡をやめて定住化していった地方として伊勢がある。その「解体」は織豊時代からはじまり、幕藩体制の下、少しずつ進行していく。その様は堀田吉雄の著書に詳しい。
 伊勢をトポス的仲立ちのようにして、東は遠州、駿州から伊豆に至り、西は紀州から阿波へとに至る道。その中で今も生きる共通項として、サンマ寿司を節目に食する文化がある。古くは熟れ鮨。そのサンマのなれずしを新宮の東宝茶屋で食した。「魚ではなくチーズだと思って食べてみてください」と言われた通り、まさにチーズである。ワインともよくあいそうであった。
 木地師と椎茸栽培。伊勢にある(元)木地師集落で祖父に代から今も椎茸栽培を営む方を訪ねた。木地師の末裔ではないと断られてはいたが、家のつくりや、使う山仕事の言葉にそれらしい片鱗がみられる。椎茸栽培は(栽培とはいうが)、職人の工芸みたいなものだと言われたとき、あぁその向き合い方こそが、木地師が椎茸栽培の先駆者たりえたエートスではなかったかと。
 伊勢と熊野を結ぶ山間にある寺では、文化年間に、椎茸屋(椎茸を扱う商人)が大般若経500巻のうち五巻を寄付した記を拝観することができた。ご厚意に謝しつつ縁を感じ入った。やってくれと背中を押されているのだと、いや本当に。
 海の博物館はすばらしい。ゲーター祭りと、太陽の魚、サンマ(あるいはサバ)を結びながら、展示から海人たちの来た道、私たちが向かう道を考えながら、見入った。
 さて、椎茸栽培が天然採取から栽培へ至る技術開発のなかで行われた技術の「発展」を科学哲学として捉えることが課題なのであるが、無理は承知で行けるところまで行ければよいと思うようになった。勝手なお願いを聞き入れいただき、応対いただいた多くの方々に手をあわせつつ、七月は豊後・日向へ向かう。

小さな畑の隅の肥やし山

令和7年2月17日。先週7日の金曜日から10日たったことになる。あの日の前後に積もった雪が、ようやく前庭からも消えた。裏の畑に面した軒下にはまだ屋根から落ちた雪が残ってはいる。明日からまた雪が降る天気となるようだが、それは予報が知らせてくれるだけであって、予兆を感じることはない。小鳥らがなにか教えてくれてもよさそうなものなのだが。

さて、裏の畑の隅には畑の穀物残滓や野菜や果物の屑やときには牛乳やら何やらをおいたり流したりしている「肥やし山」がある。いつごろからそうしてきたかはわからないが、年に一度ほりおこして下にできた土を畑へ移している。年々よくできるようになっている気がする。なぜか量が増えているのではないか。草が増えているわけではなかろうに。すると、それは野菜残渣の類の増加なのかもしれない。

この日はその肥やし山を整理した。例年と違うところは、昨年畑で株だけはたくさんできたタカキビの稈がたくさん残っており、それを下にひいてみたということ。考えていたわけではない。よく肥えているように見える最下層の土を掘り上げて、畑にほおるのだが、その畑に稈がたくさんほおったままであったのが目に入り、そうか、使ってみようと思い立ったに過ぎない。土の中に通気層ができるのは肥やしづくりにはよいと思われる。好気性発酵に寄与するであろうからだ。

嫌気性菌類での分解を促しているボックスの中の野菜残渣は比較的上のほうへ。分解はボックスの下部では進んでいたが、上部はかんばしくない。時々撹拌すればよいのだろうが、詰まることで水分調整が難しくなることをおそれている。容器が小さいこともあるが、今年はともかく違うやり方を試してみよう。

夕方5時少し前から畑に出て、一時間ばかりいただろうか。ずいぶんと日が長くなったものだ。気温は4℃くらい。けっこう動いても汗はかかないし、寒くもない。土を動かす仕事をするにはちょうどよい季節なのだ。

そして、畑のこと。今年はいろいろ動かしてみるのだ。山の畑に柵をと思う。大豆を作つける場所がなく、山にと思うのだ。獣との交渉をはかってきたが、話し合いは不調に終わり、昨年は種子さえとれないというこれまでにない事態となったことにもよる。

焼畑の次なるシーンを試すときでもある。つづく。

雪に思う

雪は人類史を遡るはるか古代より、地上にあったものだ。そう書きつけてみると奇妙な気がてくる。人がいない昔から天も星もあると言われることに違和はないが、こと雪についてはちがうのだ。

天空も星も手を伸ばしてもふれることすらできない。雪は手にふれることはもちろん、深いそれに身を沈めることもできる。手に取りかたくにぎってたまのようにして誰かに投げつける。転がしてたまをつくり雪だるまをつくる。それだけではない。大量に降り積もる豪雪地帯であれば、これから積もり始めるであろうという日には、明るいうちに、日暮れの前に、かけるものはかいてしまうべく、たんたんと除雪にいそしむものだ。

いろいろと書き連ねてみたいが、頭のなかに結論めいたものがあるうちに、唐突ではあるが、簡潔に終わりたい。雪が積もるところに住み続けたいと思うのだ。そこでは人がやさしい。斐川の人たちも私の母もそう言っていた。

石見から出雲に越してくる際、100センチを超えるような奥出雲の豪雪地帯にそれと知らず住むことを検討していたときもある。いまから思えば無理無理と、妻と話すのは冬の決まり文句のようなものになった。それでも雪のないところで暮らしたいとは、思いはするものの、やめておこうと考え直す。

その理由をひとつ。雪は不合理な存在だから。どんな奥地の田舎でもいまや都市の論理が深く入り込んでいる。そんなところでも、雪に対することだけは「しかたがない」とあきらめて、それに向かわざるを得ない。道路が使えなければ、勤務先からは「今日は休んでください」となる。これから雪もひどくなるからと早退という線もある。だが、災害・非常時というものとはニュアンスが違うのだ。

ヴィスワヴァ・シンボルスカの詩にあるなにか。なのだろうと思いつつ、詩集をひもとくのは、いずれまた。森の思想ともつながることだ。

「雪は天から送られた手紙であるということができる」

戦前の日本で、世界で初となる雪の結晶を

出雲の山墾り〜 R7-sec.2-6

朝から雪、そして雨。降っても小雨程度とみていたが、さにあらず。中止にするかとも考えたが、雨が降れば林内で焼けるな、それもよしと。あれた未整備の一角がある。あそこで。

そう、写真がその「あそこ」。燃えるかどうか若干の不安はあったが、そこそこ火力は出た。よい演習であった。

織火となったところにおいた竹筒ふたつには、鶏汁セット。今回はじめて、筒の側部から火がみえはじめ、途中はずすということになった。生煮えであったので、持ち帰って鍋で再加熱。竹の香りはまあまあ出ていた。

翌日の午後、灰をとりに入った。まだ炭が燃えているところも。突っ込んだ手をアッチッチと引っ込めることになった。

令和6年焼畑の蕪

温海かぶの種子が尽きそうなのは、昨年にほぼ収穫がなかったことによる。かろうじて種子だけを三株ばかりの残存から採った。夏の旱とコオロギらの異常な繁殖、加えて火入れ地のなにか(土質なのかなんなのか)、いくつかの要因のからみあいというか相乗というか。10株もなかったのではなかろうか。実ができたのは。花を咲かせ実をつけてはいたが、小鳥らが食べ尽くさんばかりであったので、未熟なものを里にひきあげ、ビニールか網をかぶせたものから採ったわずかな種子であった。

その種子とかなり以前に採取していたものを播種した。以下はその備忘である。

8月18日:火入れ

8月19日:播種(温海カブ1)
8月24日:播種(天王寺カブ、コリアンダー、ディル)
8月28日:播種(温海カブ2、コリアンダー)
9月7日:追播(天王寺カブ、コリアンダー)
9月15日:追播(天王寺カブ)と大根播種

下の発芽は8月28日。ごくわずかだった。写真はないが、記憶によれば、9月上旬にようやく周辺部に発芽がみられた。

9月下旬から、焼きすぎによるものかどうかの検証も兼ねて、移植を11月くらいまで断続的にやった。

写真は9月29日の様子。驚くほど虫(コオロギなど)に食われていない。夏の暑さの影響だろうと考えた。虫も繁殖できなかったのだ、あの猛暑の日々で。

同じく9月29日の、これはダイコンの発芽(だと思う)。

10月20日。収穫をはじめた。

12月末。それなりの量がとれはした。

熊子ノ記憶探訪#羽須美

10月26日、邑南町の旧羽須美村へ。

昭和32年に、口羽村と阿須那村の合併により成った行政区であるが、素性を知るには明治22年の合併に遡らねばならない。この日まわった土地は旧口羽村にあたる。出羽川が江の川に注ぐ位置(口)にあり、口羽村と称するようになったようだ。古くは神稲郷(くましろごう)の一角※1。上田村、上口羽村、下口羽村、上田村からなった区域である。

口羽・羽須美双方とも、広島県の三次市(作木町)・安芸高田市(高宮町)と接し、島根県では辺境と目されている。昨年そちらに暮らすひとり住まいの父を亡くされた、近所の知る人は「島根のチベットだから」とおっしゃられる。古い、良いものが、残っているのになあ、とも。中国山地脊梁にあって、峠ではなく江の川を通じて山陽側に通じる土地であることが、地図からもみてとれる。

未踏の地でもあったので、町立図書館の羽須美分館で開架資料をみてたずねごとのあと、上田を歩き、下口羽で何人かに話を伺った。以下、簡単なメモを先に記し、のちに、聞き取りの概要を加筆することとする。

 

◆大上田(上田)、平佐、藤社、谷河内、松木を、ところどころ車をとめ、歩き見。地カブは見当たらずも、道端にツルマメ、ツルアズキあり。

 

◆藤社集落石碑(昭和57年建立)のそばにツリフネソウ。このあたりの集落全般に新しい墓石が(一方古いものは奥に隠れているのか整理されたのか)目に入り、暮らしの変貌を物語る。

◆一帯は名だたる鉄穴場だったところで、砂鉄神=竜尾神をまつった堂宇も残る。平佐、大上田、谷河内、それぞれ石積の石材、積み方が異なるところは年代等にもよるのだろうが、大変興味深い。多くが真砂を流した跡に残る岩塊(花崗閃緑岩?)を砕いたものだと伝わる。先の石碑はおそらく、亡き集落中にあって砕きがたく残っていたものではなかったかと想像する。

◆旧上田村の上田(大上田)の集落をまわってみたが、家族住まいが多いように感じられた。ひとり暮らしらしき家は小さく畑をしておられる風が軒先に垣間見える。蔵の多くはおそらく灰屋のあとに建てられているのだろう。礎石の上にたつ柱材がなんであるかが気になった。同様の柱は他の地区でもところどころに見られる。(下の写真左端、下部にそりの見られる柱)

 

◆熊子を知る人が、ふつうにまだあちこちにいらっしゃる稀有な地である。「日本中どこにでもある(あった)ものだと思ってた」という言葉が聞けるとは。。とはいえ、食べた記憶のある人も80代から90代で、記憶も戦前から戦後間もないころまでというのは動かない。

 

◆帰路、熊子を育てた記憶のある方のところへ行くと、刈払機のチップソーを研いでおられた。刃物の手入れが万端であるところ、身をただして習うべし。道端にヤマボクチらしいものを見かけたがアザミだろう。隣には鮮やかな花房を垂れるアザミに、マルハナバチが出入りしていた。

※1)神稲についてはまた別に。平凡社「歴史地名体系」でひけば、和名抄でここ口羽を含む邑南町域の地名として記載。比定地は島根県史によって「現瑞穂町上田所・下田所・上亀谷・下亀谷・鱒淵・出羽・三日市・山田・淀原・和田・原村・高見・上原・久喜・大林、現羽須美村雪田・阿須那・上口羽・下口羽・上田・戸河内」としている。和名抄が神稲として記載するのはほかに兵庫県は淡路の三原郷。