椎茸の栽培法〜鉈目法について

 備忘として記すものなり。

 それは「タヌギなどの原木に鉈で傷をつけ(鉈目という)、自然界に浮遊しているしいたけ胞子が鉈目に付着するのを待つという極めて原始的な方法です」とある。

 私にとって、鉈目法についての関心は、いま、できる人はいるのか、が真ん中にある。

 映画「千年の一滴」の中では、宮崎県椎葉村の椎葉クニ子さんをあげていた。

 山の谷ごとに異なるような微細気候(マイクロクライメット)の読み方という点で、いま取り組んでいる竹の焼畑の可能性ともつながる。

 web辞書どまりの記述では、傷をつけて待つという、のんびりしたものだが、私が聞いたことがあるのは、胞子が飛んで付着する時期を長期で読みながら準備し、短期でよむその数日の間に、一気に原木を運ぶ(水から出す? 鉈目をいれる? それら全部?)のだというようなこと。

 文献レベルでもう少し知る必要がある。

大分がその発祥の地とされる証左はこちら。
http://hamadayori.com/hass-col/agri/SiitakeSaibai.htm
なくなるといけないので、複写しておく。

 

日本特殊産業椎茸栽培業者発祥地

大分県津久見市上宮本町

JR日豊本線津久見駅から 500mほど南西に 浄土宗の寺・長泉寺がある。

寺の土塀外側の道路脇に,古い苔の生えた大きな石碑と「由来記」と書かれた副碑が建っている。

大分県は 椎茸の大生産地で,乾椎茸では 全国で第一位,30%のシェアを有する。栽培の歴史も古く, 江戸時代初期(17世紀前半)に豊後の国で炭焼きをしていた源兵衛という人物が, 原木の残材に椎茸が生えるのを観察して 初歩的な人工栽培を始めていたという。

これは“鉈目法”と呼ばれる方法で,クヌギなどの原木に鉈で傷をつけて野外に放置し,自然に椎茸菌が 付着して繁殖するのを待つという原始的な方法であった。

江戸時代末期になると,自然に菌が付着するのを待つのでなく,積極的に種菌を植えつける方法が開発され, 椎茸栽培は大分県内に広まり,明治以降は椎茸輸出の増加に伴い 生産量も急増した。

大正時代になると,種菌を原木に打ち込む“埋ほだ法”が開発され, さらに昭和になるとくさび型の木片に椎茸菌を培養した“こま菌”を原木に打ち込む方式がが開発されて, 簡便な接種方法のため広く受け入れられ全国に普及した。

この発祥碑は,江戸時代末期に種菌を人為的に植えつける方法が行われるようになったことを記念・顕彰したもので,昭和30年に建碑された。

また,内陸の豊後大野市には「しいたけ発祥の地」という碑が建っている。

現在国内で栽培されている椎茸のうち上記のような“原木”を用いる方法を採っているのは少なくなり, 多くは“菌床法”と呼ばれる,おが屑に栄養分を混ぜ込んで固めた“菌床”で種菌を培養したもので 栽培されるようになっている。 しかし大分県での椎茸栽培は,現在もほとんどが原木を用いているのが特徴である。

なお,この発祥碑については 若干の疑問点がある。

§ 発祥碑の表面に刻まれている文字は「日本特殊産椎茸栽培業者発祥地」と読み取れ, 「産業」の「業」の文字が抜け落ちているように思われる。

「特殊産」では意味が通じないし,副碑(由来記)には 「日本特殊産業椎茸栽培業発祥之地」と書かれていることから,「特殊産」というのは誤記ではないかと想像される。

 

§ 標題の「日本特殊産業」とは何を意味するのだろうか? 椎茸栽培は林業に分類されているので,その中の“特殊”な業態という意味であろうか。

§ 椎茸栽培の発祥地は “静岡県伊豆半島”説がある。

伊豆は17世紀末~17世紀にかけての話であるのに対して,大分県は 17世紀前半なので, 大分の方が若干早かったが,いずれも不確かな伝承に基づくので断定は難しい。

 

日本特殊産椎茸栽培業者発祥地

(副碑)

    由来記

往昔天保の頃津久見の先覚者彦之内区三平西之内区徳蔵嘉吉平九郎

久吉等の椎茸栽培業研修に端を発し三平徳蔵は石見へ出向椎茸栽培

業を経営す是中国に於ける専門事業者の始祖なり嘉吉平九郎久吉は

九州奥地に於て創業した是九州地方の専門的事業者の始祖にて郷土

の子弟に是を継続して連綿百二十余年伝統を保つ而て本業の推移は

時恰も幕末期にて営業上幾多の支障あり従て労多く得少く継続困難

の状態なりしが明治初年日支貿易開港以来輸出椎茸旺盛となり価格

の躍進につれ本格的に事業化し此頃より業者の数も著く増加せしは

歴史が明示する九州地方百九十四名中国四国済州島地方七十余名の

専門事業者を算す斯くて日本特殊生産品として輸出市場に名声を高

揚し神戸港及長崎港を経由輸出椎茸は年々巨額に達せり其大部分は

津久見人の出先経営地の生産品である実に開港以来七十余年間何等

名聞も求めず深山に籠り孜々黙々として外貨獲得の一役を果し其余

沢は郷土の経済安定に寄与し一面着々未墾地の開拓を励行し風土に

最も適応した柑橘園の基礎を構築したのも現実が証する此先輩の貴

い伝統を子弟は能く継承し出ては貿易品増産に勤め入りては郷土の

産業を振興した其業績の偉大さは全国的に総合し椎茸栽培専門業者

として抜群的特技の存在にて是業界再興の権威日本特殊産業椎茸栽

培業者発祥之地を穣成す此国家的大産業の振興は津久見市の大なる

誇なり茲に碑を建設し過去と現時を通じ斯業に精進せる郷土人士の

敢闘精神と其業績を讃へ以て永遠不朽の記念とす

  昭和三十年五月二十一日

        一介茸山子  西郷武十 (八三翁)

  そして、大分から中国地方へこの技術が伝わる拠点となったのが、匹見町広見であるという。それについては今度。

田舎の風景が美しいのはなぜだろう

3週間ほど前に撮影したものだと思う。この1週間後から寒波到来となり、雪の季節がはじまった。それにしても、この配置のバランスの妙といったらない。ただただ美しい。

山方の晩秋風景

こうして干された大根は漬けられるのだろう。小さな小さな小屋の軒先につるされ、ほのかに夕陽をあびている白い白い大根。

大根干し

ここは木次町平田の山方。なぜこんなところに集落がと驚くような、急な山の坂道をのぼったところに数軒が集まっている。わずかに開けた田と小さな畑があるのみ。冬の労苦を思わずにはいられないが、春の喜び・夏の夜空・秋の稔りもまた、想像するにあまるものがある。
そんな思いがなぜ生じるのかといえば、だんだんと目の前から消えていき、やがてなくなってしまうかのような風景であるからなのだと、思う。
また、そんな感傷に沈むのではなく、もう少し、これを残す、継ぐための、記録と分析の方法を考えてみたい。ランドスケープ。概念として、そこから。

柳田民俗学における自然観を、今、島根で問う!

 あれこれ逡巡した挙げ句、このように告知を打ちました。
いらっしゃれない方々へも、これだけは知っておいていただきたいということを2つ。ごまめの歯ぎしりとして。
民俗学がもっている切実さに向き合う態度
民俗学は、常に、それぞれの時点で、人々の生き方に向かい合おうとしてきた学問です。いや学問というよりは、態度であったといえましょう。意外と思われるかもしれません。古いしきたりや使わなくなった鎌を集めたり民話を集めたりする「趣味」のようなものだという認識が世の大半でしょう。イメージは一言では覆らないでしょうが、それ自体が目的ではないのです。柳田や宮本の「態度」にそって、別な言い方をすれば、その時代時点で、人々が切実な課題とすることをテーマとしてきたのです。
・素朴な言い方をすれば、「生活」を重視するということですが、昨今の人々にとって「生活」といえば「お金」のことに思えます。が、この「生活で困っていることといえばお金(が足りない)ということ」という視点こそが、民俗学が敗北した相手の視点なのです。……ここから先は本番で。レヴィストロースの「サンタクロースの秘密」の構造的見方との対比でみていこうと思っています。
●村を美しくする計画などない。良い村が自然と美しくなる
 のちほど加筆(18日夜)します。
●canpanトピックス
http://fields.canpan.info/topic/detail/12775
●ボランティアプラットフォーム
http://b.volunteer-platform.org/event/4602/
●島根いきいき広場
http://www.shimane-ikiiki.jp/events/3175
●ヤフーボランティア
http://volunteer.yahoo.co.jp/detail/3/4602/
●朝日新聞デジタル
http://www.asahi.com/area/event/detail/10148737.html

さくらおろち湖のサンクチュアリ

 人の波に洗われる桜並木もあれば、人が足を踏み入れることのない場所にあって、春の風に、薫る大地に祝福されるかのように、淡い花を咲かせる桜もある。

 しかし、この場所は人の手が入りかねていて、植樹された楓が葛に埋もれてしまっている。からまった葛のかたまりをみると、何かを思い出す。そう宮崎駿風の谷のナウシカ」(書籍のほうね)で描かれるところの「闇」のイメージ。いやなもの、きたないもの、からみあったもの、要すれば人が嫌悪感をもつもの、である。

 「闇」との対話については、宿題とするとして、ここで、その手前にあるもの、腐海や蟲といった「攻撃してくるもの、おそってくるもの」への理解である。

 「怯えていただけなんだよね。こわかっただけなんだよね」

 とナウシカはいう。

 攻撃してくるものは、怯えているものである。

 怒っているものは、傷ついているものである。

 そして、人は傷つき怯えているものを理解し、共感することができる。

 ”自然はさびしい。しかし人の手が加わるとあたたかくなる。 そのあたたかなものを求めてあるいてみよう”

 そう言って、日本の村を歩いた宮本常一なら、この山野をみて、どう思うだろうか。

 理屈はともかく、まず、目の前に落ちているゴミを拾うことから始めるべきだとは思っているし、これまでそうしてきたのですが、いま少し立ち止まって考え続けてみたいと思います。