竹の焼畑についての断片

竹の焼畑について、まず、出雲そば.comで記述を見つけたので引っ張っておきます。

白石昭臣氏のコメントの中に出現します。

①学者の中には竹の焼畑などできはしないだろうと否定する人もいますが、今でも経験者がおられます。東日本のような大がかりな焼畑ではなく竹薮を焼くとか、雑木や草むらを焼くというブッシュフォロー型のやり方です。

ちょっと、4者の会談の中での脈絡が読めないところがあるのですが、竹の焼畑も含めた島根での焼畑についての言葉だろうなあというのが次。

②昭和25年の記録で、島根県では106町歩の焼畑をやっています。石見地方が中心です。その焼畑で作ったのはそばですね。

この後、荒木英之氏、中田敬三氏とのやり取りがなされる。

荒木 孟宗竹はどっちかというと沿岸部が多いのです。それと竹と木とでは地下茎が違います。竹はほとんど表面だけだから焼いて畑にするのは楽です。木の生えている林だったら根が深くてそういうわけにはいきません。

白石 土用の後に切って盆明けに燃やすとよく乾燥して油がありばちばちと非常によく燃えて、類焼を気遣うくらいです。そこで作ったそばは貢納の義務がありません。

焼く時は数人で焼きます。そしてとれたものは、「もやい」といって皆で分配します。これは記録に残りません。だから記録に残らないそばの文化がずい分あるのではないかと思います。

中田 もやいですか、「ゆい」から来ていますね。

白石 雑木や竹の山に道切りをして火を入れます。多くて四、五人、家族だけという所もあります。私の知っている方で今68才の経験者がおられます。隠岐では焼畑のことを「あらけ」、あるいは「あらあけ」と言います。ここではそばも作っていました。しかし牧畑では麦が中心です。この牧畑は「あらけ」から生まれたものです。牧畑は、ほんの形だけですが隠に残っています。これは貴重だと思います。隠岐だけでなく中国山地のいたる所でやっていた栽培形式です。輪転式で、中心は粟山、麦山です。ローテーションがありまして、土地を分けて栽培するとか、組み合わせてやっています。かっては共有地だったのでしょう。

白石昭臣氏には大河書房から2005年に刊行された「竹の民俗誌 」もあって、一読はしたものの、まとまりに欠けた印象が強い。資料として確保しておきたいのですが、絶版ゆえなにぶん高値です。島根立図書館で読めるので、再読して確かめます。

つらつらと調べる中で、竹の焼畑については、川野和昭氏のいくつかの論攷を確かめるべきと認識しました。竹の焼畑の再現と記録を企画・実行しているのです。それが『竹の焼畑-十島村悪石島のアワヤマ』(2001年/50分/民族文化映像研究所/鹿児島県歴史資料センター黎明館)。このドキュメンタリーの撮影に携わったのが、知人であり、「タケヤネの里」を上映したいと話していた広島在住の青原さとし氏なのですよ。なんと。

さて、川野氏の小論ですが、ウェブに転がっているものですと、<竹の焼畑〜森を食べ森を育てる持続可能な農耕〜>があります。
要点を整理してみます。

1)焼き畑地として、木だけの山よりも竹の山を意識的に選択する「竹の焼き畑」を伝承する地域がある。九州山地を北限、高知県の椿山にわずかな痕跡が確認。

具体的には鹿児島県のトカラ列島、三島村、大隅半島東海岸、さらに熊本県五木村泉村(五家荘)、宮崎県の米良地域、椎葉村……である。

…とあるのですが、白石昭臣氏によれば山陰でも「竹の焼き畑」があったといいます。出雲の蕎麦栽培とも関連している。

これは、確かめる価値があります。県立図書館へ赴く前に、川野氏の小論の整理を続けます。

2)東南アジアにも「竹の焼き畑」はある。

3)日本でもアジアでも「竹の焼き畑」の共通点は、竹の再生力の強さと「半栽培的」な採集畑としての利用である。

竹の再生力の強さというのは、焼いた翌年にはタケノコがとれ、10年たてば元の竹の山に戻り、火入れが可能となるという点。日本の雑木の焼き畑が20〜30年で元の森に戻り、また焼くというサイクルよりも循環が短い。

次の「半栽培的」というのは、ちょっとわかりにくい。

畑としての利用は1年から2年で終えて、あとは山菜や筍を採取する「里山」的利用が続くということだろうか。

3)鹿児島県十島村悪石島では、タケ(琉球寒山竹)の山を伐って焼いて、粳粟を栽培するアワヤマ(粟山)と呼ぶ竹の焼畑を、昭和30年代まで行っていた。

1年目はアワヤマ

1年経てば竹の子畑

3年経てば元の(竹)山

10年すればまたアワヤマ

と語るように、粟は1年だけ作る。

その跡地では翌年からタケノコが取れるようになり、10年経ったら山が再生するので再び伐る。

4)九州山地の「竹の焼き畑」では、木の山の焼畑との比較がさらに際立つ。

・「タカヤボ」、「タカコバ」、「スズコバ」、「タッコーラ」という呼称。

・稗、粟、蕎麦などを栽培。特に稗は「タッコーラビエ」と呼び、一番美味しい稗であると語られる。

・伐る作業が木よりも簡便

・木の山の2倍深く焼けて雑草が出にくい

・竹の灰が天然の肥料となる

・根が張り表土が流れにくい

・出来た作物が美味しい

・地力の復元(森の再生)は10年ぐらいで木の山よりはるかに早い

5)九州山地でも悪石島同様に、アラシ(焼跡地)に出てくるタケノコを食料として利用する。それ以外にも、茶、ドジン(ヤマウド)、タラノメ、ゼンマイ、ワラビ、サド(イタドリ)など豊かな採集場となる。特に、干し竹の子とお茶は重要な換金作物となる。

写真は2〜3枚ほどしかウェブでは見ることかないませんが、刈った竹は斜面に対して水平に並べて置き、火を上から入れています。……もっと詳しく見たいものです。目指せ「焼き畑倶楽部」。

■追記2022/10/01

・出雲そば.comはリンクが切れてしまった。ただ記事の内容そのものは冊子になっているが書名失念。島根県立図書館で蔵していると思う。

・竹の再生力の強さに関して。焼いた翌年にはタケノコがとれるのは、全面皆伐しなければの場合であろう。

竹の家……Bamboo House

 竹の建築について、いくつか調べてみた。ネットで漁る程度であるので、ほんの備忘であり、近いうちにもうちょい突っ込んでみたい。たとえば、その強度・耐久性と、コスト(主として労力)について。
 まずひとつめは、陶器浩一氏(滋賀県立大)の一連の建築。2012年度の日本建築大賞を受賞した「竹の会所」。(写真は、わわプロジェクトから)

 2013年度は滋賀県でプロジェクトを進めていらっしゃって(菩提寺まちづくり協議会)、今度は第5回建築コンクール大賞を受賞された。滋賀、京都、名竹林にブランド筍の産地復興を目指す地でもあって、見学してみたい。

 意匠の魅力は誘惑し人を行動へと駆り立てる大きな力だとは思うのだけど、実用的で無骨な感のある「首都大学東京+青木茂建築工房」によるBamboo Houseは、サイズや仕様を洗練させて汎用性を高めていけそうだ。
 竹による屋外テント、農業用ビニールハウス、可能性は高い。
 そして、完成度という点ではやはり、こちら。
 竹でつくられた世界最大の建造物がインドネシア・バリ島にある。

 グリーンヴィレッジと名付けられたその「場所」は、シュタイナー教育に基づいた学習コミュニティであり、「自然と人との共生」を柱とし、「会社」「学校」「図書館」「食堂」「寄宿舎」「ゲストハウス」からなるらしいです。
 ONE PROJECTの記事(写真もONE PROJECTより)で知ったのですが、これはやはり一度は行かねばなのでしょうか、バリ島。

 開放的な南方建築とは、とても相性がよいのだなあ。
 

冬の竹もきれいだよ

ここのところ、「竹林整備活用事業」について学習会などを実施している関係上、竹をみるとつい近づいて観察してしまう。今日は、奥出雲のとある山にちょっとわけいってみた。

雑木林に竹が侵入しているのだが、ある程度は間伐してあって、きれいだ。特に雪の白に青い竹は映える。

昨今、繁茂する竹を目の敵にしたような口ぶりを、とくに環境教育に携わる方々が多くするものだから、「竹やぶ=悪=駆除すべきもの」という洗脳が進行しているようで、憂慮している。今日もある環境アンケートをまとめていて、そう思った。しかし、10人に0.5人か1人は、空気に惑わされない人がいるものかもしれない。竹が侵入しはじめているとある場所への景観アンケートがある。その地点で案内者が、件のように竹を困った存在として説明したものだから、アンケートは「刈ってしまえ」のオンパレード。その中にあって、「竹は部分的には残してもよい。風にそよぐ感じがよいので、バランスがとれればよい」という一文があって、涼風が吹き抜ける爽やかさを感じた。

「困った」「大変」という立場でなく、竹の声を聴き、どう付き合っていくのかという、そんな立ち方、振る舞い方、ものの言い方を、ひろげていきたいものだ。

天が淵へ至る道 序

ここは私がつい1週間前まで住んでいたところから徒歩10分ばかりの地点です。斐伊川の上流域にあたり、天が淵と呼ばれる伝承地です。いまでも毎朝この景色を横目に通勤しています。

淵のあたりを撮ったのがこちらです。公園として整備されていて、水辺までちかよることもできます。

川沿いには国道314号線。この幹線道路建設について、調べてみたいと思っています。このルートを策定するにあたっての諸事を掘り起こしてみたい。この斐伊川中流域を街道が通ったのは明治に入ってからであり、長い間、街道筋からは外れていたようです。写真にみえる右手の集落は川手。和名抄には、川手郷との記載があります。

さて、この天が淵、八岐大蛇が棲んでいた(いる)ところとして、ネット上にたくさんの記事があがっています。しかるに、ほとんどがコピー&ペーストされたもので、いったいオリジナルはどこにあるのかと、不審に思われる方も少なくないでしょう。

通常、スサノオノミコトが龍の怪物を退治する神話は、古事記日本書紀で物語られています。戦前には国語の教科書への掲載から年配の方々にとって馴染み深い神話です。しかし、記紀から推し量れる地は、雲南市にはないのです。

雲南をオロチ伝説の地として浮かびあがらせる文献は、いくつかあるようですが、「土地の古老が伝えるところによると」という取材記のようなものです。代表的なものとして「雲州樋河上天淵記(うんしゅうひのかわかみあまがふちき)」(「群書類従(ぐんじょるいじゅう)」神祇部巻28所収)があります。

群書類従とは塙保己一はなわ ほきいち)が古書の散逸を危惧し、寺社・大名・公家に伝わる古書を蒐集編纂した一大資料で、寛政5年(1793年)から文政2年(1819年)にかけて刊行されているものです。そして、なんと!国会図書館でデータが公開され、ダウンロードできるようになっています。すごっ! 皆の衆、どんどん使いましょう。

この書、ながらく、作者不詳であったのですが、数年前、松江市大垣町の内神社(高野宮。家原家)所蔵の「天淵八叉大蛇記」大永3年(1523年)が発見され、こちらが原典(のひとつ?)ではないかと言われています。こちらの作者ははっきりしていて、京都東福寺の僧で河内国出身の李庵光通です。奥出雲の古老に取材して記したものらしい。 (つづく)

道の過去と未来

2013年12月7日にこの記事をテストとして記した。

川の道、山の道、鉄の道。

これら、すべて、今、人が省みなくなっている「道」なのである。

鉄の道については、とくにここ奥出雲の歴史にかかわるところ大ではあるが、他の日本の村においても見落としがちな道である。

ホースセラピー

上の記事から7年後の2017年12月18日に追記する。

このときに抱いた思いはいまでも変わらない。

忘れられた道の痕跡はいまでも、手をのばせば届く過去を生きた人の記憶に残っている。

牛の道、峠、塞ノ神、馬頭観音……。

あと少し。あと少し。