道の記憶、つれづれに

残る道、消える道

誰も通らなくなった往古の山道を、また人が歩きはじめる時が来るのだと思う。その手がかりくらいは残しておけたらいいのになあと、過日訪れた無住地の地図を見ながら考えた。昭和につくられた塗装道は力づくで通っているものが多く。維持を放棄した瞬間から危険な道になる。崩れやすく埋もれやすい。

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木次の平田で、古い道のことを何度か聞いた。その記憶も、草に覆われていく家の跡のように埋もれていきそうだ。とはいえ、感傷ではない、いやそれもなくはないのだけれど、埋もれる前にメモでもなんでも書いとけという気持ちで書くのだ。雑だろうがなんだろうが構わないではないか、まずは自分宛てということでいいのだ。視界のきかない原野に分け入る際、帰路の印にと、点々と何かを置いたり結んだりしておくようにして。だから、いま、これをお読みいただいている諸氏には、そういうものとして、ご寛恕願いたい。

山方・里方という地名あるいは呼称
さて、国内どこでもそうなのかどうかはわからない。ここ奥出雲(地域・あるいは雲南地方)には、山方(やまがた)、里方(さとがた)という呼称がそこここにある。いま住んでいるところが里方であるし、となりあって山方もある。以前通っていた尾原ダムのあたりには山方はふたつあった。地名として残っているところもそうでないところもあり、両方ともに残っている場合もあれば片方だけ残っている場合もある。
試みに、「日本歴史地名体系」をJKで検索してみれば、菅山方村、南山方村など頭についたものなどをあわせても、20に満たない。意外であった。山方村、山方町であげられているのは以下の4つのみ。
山方村(やまがたむら)…島根県大原郡木次町
山方村(やまがたむら)…佐賀県伊万里市
山方村(やまがたむら)…茨城県那珂郡山方町(のち山方町)
山方村(やまかたむら)大分県大野郡三重町

なぜなのかについては、思いつきがないわけではないが、それらはまた次回。

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木次線の終電に想う

飲んで終電で帰るなんて何年ぶりだろう。しかもこれが人生最後、かもしれないなと思い記念に撮影。f:id:omojiro:20200712201649j:plain あと30分ばかりは残っていたビアガーデンの宴席を辞し、急ぎ足で橋を渡り、歩道を横切って無人の駅の改札を抜ける。ちょうど一両編成のディーゼル車がホームに入ってきた。ドアが開き、整理券を抜き取って席につく。ほかの乗客はいない。その木次線出雲三成駅から終着である木次駅まで所要35分。

乗車してから、人が乗り込むことも降りることもなく、窓の外は深い闇。意識はさえてきて酔いが遠のいていく。下久野から日登の区間は時折、窓ガラスに木の枝がこすれていく「ざざーっ」という音が、現実の安心感すら与えてくれる。20時50分、終着であった駅につくと、車掌が運転席から出てきた。あぁ人はいたのだ。運賃をその場で渡して、ホームに出ると、そこにも駅にも人影はない。駅前には一台のタクシーのなかで運転手がなにやら見ている姿が見えたが、ほかに人の姿はない。下りの最終便を待っているのだろうか。そこから歩いて家に帰ってきたのだった。

さて、闇の中を通り抜けた帰路と違って行路は夕刻であり、車両も2両編成で、数名の乗客があった。そして車窓からはいつもと違う風景がのぞめて新鮮であった。気づいたことなどいくつか記しておきたい。

下久野に2軒ほどかぶせものをしていない「生の」茅葺き民家が見えた。驚いた。どちらもよい状態には見えなかったが、あぁ、すぐでにも降りて訪ねてみたい衝動にかられる。訪ねてどうなるというものでもことでもないのだが。

夕刻ということもあるのか、線路脇の道にたつ親子が、楽しげに列車を眺めている姿をみた。なんと言っているのだろう、母の口が動くのが見える。そして列車に、すなわちこちらに向かって笑顔で手を振っている。

鉄道というものの本質がその向こうに見えるような気がしてならない。車が走る道路とは違うなにか、なのだ。その何かについて、また思いついたことを記していきたい。

道をめぐる雑想#1

お米をいただいている奥湯谷の農家から、昨秋収穫ぶん最後の一俵をいただいての帰路でした。おそらく江戸の昔から道幅の変わっていない上阿井の八幡神社の前の通りをすぎて、国道に入る少し手前。路傍に小さな石、といっても一抱えはあるやや丸みをおびたその表に文字が見えました。「右云々、左云々」とあり、車を停めて確かめようと思いながら、薄暮のなか小雨でもあり、ゆるめたアクセルを再び戻し、後ろ髪をするりと梳かしたつもりでした。
それからというもの、道というものが気にかかって仕方がありません。

あの、古い道しるべは、なぜ、あそこに残り続けているのだろう。道路工事にあえば、たちまちにどかせられ、文化財でも神仏でもないために、その石が残ることもないのでしょう。同じように、ひとびとの記憶というものも失せてしまうのでしょうが、ただ、ひとつ言えることがあります。私たちの時代にも道しるべはあって、その多くは国家あるいはその中央集権機構の出先機関としての各自治体の管理下にあり、規格統一化されたそれとして、あるのです。そして考えてみれば興味深いことに、それはすべて車のためにある標識なのです。

私がその日みた道しるべは、日本全国どこでも同じような形態をしていたのでしょうが、それらは幕府や各藩が管理して整えたものだとは考えにくいのです。彼らは領土を点でおさえることにその本義があるようで、関所、宿場、一里塚など、動かない点を動かぬように置くことがそれら機構が共有する思考空間の特質でしょう。少なくとも近世以降の権力機構はそうでしょうし、動きまわるものを自家に抱えていたそれ以前のマイナーな力とは性質を異にするものです。動くものは山のものです。山は動きませんが、山の線はつねに変化し続ける。中世山城が「山」に展開したのに対し、近世は平地に降りてくる、と同時に山を敵視し排除することで成立したものでもある以上、動かぬもの、均質フラットで不動のもの、すなわち点こそが重要であって、線はあくまで点の集合に過ぎないのです。

話は飛びますし、わかりにくいのですが、道しるべ、石に記されたそれは、点ではなく線なのです。分岐をあらわしているから。そして、道の上でもなく、だれかが所有管理する地面の上にあるのでもない、境界上に置かれている、ように見えるから。また、それを「よむ」のは旅の人間であり、「役人」ではあり得ない。なにより、迷い・不安に対する安堵あるいは信頼の気持ちが、その石にいまだ念としてこもっているようで、そこに心ひかれる私の気持ちがあるのです。

それは妄想だろうと。妄想が願望や不安をその生成動因とするのならば、そうしたものはあまり認められないようにも思うのです。ざっと二百年ばかり前の、旅の人間となりかわって、その石の前に立つ自分を仮想してみるための材料を史実その他から集めてみたいものです。

話をもとに戻します。その道しるべ、だれが置いたものでしょう?
これまでいくつか見たそれは寺社の近くにあるものでしたから、その関係ではないかと思います。

今回は、平凡社世界大百科事典の「道しるべ」の項に胡桃沢 勘司が述べたものをひいて、ひとまずしめます。

《日本における道しるべの起源は明確ではないが,現存する遺物の大半は近世,さらには近代以降に設けられたものである。石製のものが多いが,木製のものもある。石製の場合,道しるべとして造られたもののほかに,庚申(こうしん)塔,道祖神,石地蔵,石灯籠,常夜灯等,石神・石仏などの石造物にこれを兼ねさせたものも見られる。前者の設置には為政者が関与することがあるが,後者は民衆が自らの意志で設けたものがほとんどである。旅の安全を願う庶民の素朴な信仰心が,これら石造物のなかにこめられていると言ってよい》

茸師と飢饉

【雨の日の地図旅行、その備忘】
五年ごし?の宿題を少々。

◉茸師 三平
大分県津久見市長泉寺境内にある椎茸碑の中に、次の一文がある。
「往昔、天保の頃、津久見の先覚者彦之内区三平、西之内区徳蔵、嘉吉、平九郎、久吉等の椎茸栽培業研修に端を発し、三平、徳蔵は石見へ出向、椎茸栽培業を経営す。是中国に於ける専門事業者の始祖なり」
 三平は、豊後から隠岐島にわたり後継者も続く石堂長吉とくらべて一世代ちょい前の享和三年(1803)の生まれ。
 徳蔵は津和野藩領であった横道村に、三平は浜田藩領の広見河内村に入って茸山(ナバヤマ)をする。

 嘉永5年12月、三平は茸山を下って里に出た。その帰路、平泊(二軒家)にあった知人の家に立ち寄り、知人は泊まっていくようすすめるが、三平は山へ帰っていった。雪が溶けた頃、三平は雪に埋もれて冷たくなっていた。三平は平泊の人にねんごろに葬られた。その春、三平の茸山には凄まじいばかりの春子ができ、村人は驚嘆し、その遺徳をたたえ、供養塔をたて三平祭りを営んでいる。
……というのが要旨なのだが、平泊がどこなのかがわからないし、疑問は多々。
たとえば。
「茸山を下って里へ出た」とあるこの里とはどこなのか。平泊(二軒家)の地名がさすところがはっきりすればと思うのだが……。いちばん近い里は東村(下の石見国図)。しかし、東村から広見のどこかに存在した三平の茸山(をのぞむ三平の住処)に帰るにしては距離がかえって近すぎるのではなかろうか。平泊が東村と広見の中間的位置にあるとして、どうだろう、遠くても3km程度か。が冬山で吹雪にあえば距離の問題ではない。
石見ではなく現在の北広島にあたるところだということも考えられる。里とは、横川または戸河内。冬でも半日から一日ほどもかけず行けるところではありそうだ。
ただ、平泊で調べるからわからないのであって、平溜なら、匹見の小原集落の奥にある。しかも、三平の墓はかつてそこにあったという渡辺友千代さんの証言もある。そちらがどうかということはまた別途。(2020/09/26追記…)
匹見に残る三平の墓石には、茸師市兵之墓と刻まれている。三平ではなく市平。これもわからない。

三段峡〜広見

 三平が匹見にやってきた(と思われる)天保11年あたりの年について、石見国図を眺めながら、あれこれ渉猟してみたが、天保8年に広見河内村で17戸中6〜7戸が逃散の記事からの前進はなし。逃散後、空いたままの民家に三平が住まいしたかもしれない。この年は大阪で大塩平八郎が蜂起する事件が起こっている。前年の天保7年は、「申年の飢饉」と呼ばれる大飢饉がこのあたり一帯を襲った、そんな時代である。

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石見國図〜国会図書館デジタル

◉向峠のウダオレ
 三平は、豊後から匹見へわたってくるその道で、多くの窮状を目にしたであろうことを想像しながら。
三平が没した広見河内から一日あれば行けるところでは一村全滅に近いこともあった。昭和11年には百回忌の法要があったという。

《この土地で困ったことと言えば飢饉であった。飢饉はじつに多かった。食べるものがなくなると、座に敷いてある筵をさいて食べたという話もある。すると子供の小便がしみていてうまかったという話さえ残っている。
 向峠から宇佐へ下るところに墓があるが、これはウダオレとて餓死したものを埋めたところだという。さびしいところで木がよく茂っていて、若いものが夜宇佐へあそびに行って、ここまでかえると狼が頭の上をとび越して行ったという。その藪の中に何人も死んだ人がいた。坂がのぼりきれなかったのであろう。
 銭をくわえて死んでいたという話もある。一番ひどかったのは申年(天保七年)の飢饉で、村のものはおおかた死にたえかけたという。その百回忌が昭和一一年にあった。》
 宮本常一著作集23「中国山地民俗採訪録」未来社より。
 現在の山口県玖珂郡高根村向峠のこと。昭和14年の記録。

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△昭和4年〜7年に修正測量された5万分の1地形図を張り合わせたもの。

◉美しい村
 昭和11年、向峠で申年の飢饉の百回忌が行われた五年後の昭和16年牛尾三千夫は、現在の金城町波佐から匹見、河津、向峠までを歩いている。いくつかのルートが(道なき道のため)不明なのだが、次の地点を確かめたく、あれこれ見た。
《河津越の頂に立って細長い谷間に点在している河津の部落を見下ろした時、非常に古風な感じがした。恐らくこの小さい部落は最初に木地屋等が来て住みついた処であらう。このあたり一望見渡す限りのナバヤマである。あれだけの栗の木を倒して椎茸を生やすのであるが、これが栗の木を切らずにゐた場合の栗の花盛りに、たまたまゆきあふとしたら、さぞかし花の匂いにむせかへるだらう。そして秋は何石何十石といふ栗の実を拾うことも可能であらう。大庭良美君の話によると、日原村の左鐙の横道では、十何俵といふ栗の俵が軒に吊ってあったのを見たと云ってゐた。そして此処では栗一升に米一合の割で日々食べてゐる。即ち栗が主食物であるといふ事を知ったと云ってゐた。》
 牛尾三千夫「美しい村ー民俗採訪記」昭和52,石見郷土研究懇話会

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△河津越の頂とはどこであったか。現在、山道は埋もれているが、昭和50年代撮影の航空写真でみると、推測しやすい。おそらく囲ったあたりから図外に至るところ。

森と畑と牛と いま・そして

 奥出雲の小さな山村は、水を蓄え、資源を育み、食やエネルギーをまちへ送る役を果たしてきた。山村とまちとの連なりが、都市を育み、世界と繋がり、今日の生活経済文化圏がある。
村を破らず川を荒らさず山を荒らさず真の文明を築き上げてきた先人の労苦には万感横溢するを禁じ得ない。
しかるにここ数十年来、圏域をめぐる循環を生み出す源流、山村における森の荒廃と産業の凋落には底が見えない。人的資本は減耗の一方である。
くわえて現在、地域固有の在来作物や採集草木利用ならびにそれと連なる民俗文化はまさに消滅しようとしている。
しかし……。
生命現象における死は再生と同じ地平にある。より存在する為に複雑多様化しつつ、時にはそれを捨てる。私たちは、ひとつの文明の滅びのなかから、創出の道を歩もうと思う。森は、殺したり殺されたり食べたり食べられたりしながら、複雑精妙な共存共生の場をつくる力をもっている。人は、牛を飼い畑をつくることを通して森の生命場とつながってきたのだ。
世界が向かう先は闇ではあるが、この森に集うひとりひとりが、小さくとも強く、暖かな灯りとなって、美しい野山と人の世界をつくりだす希望となろう。

森と畑と牛と 設立趣旨より
「森と畑と牛とβ」発刊を機に、巻末に掲載した一文をここにあげてみた。

申年ノ飢饉ー天保7年飢饉ヲ思フ

「この人は、お金がなくても、食えるように、いろいろやってるよ(笑)」

自分のことをそう言われてなるほどなとは思った。そんなつもりはないのだけれど、山を焼き雑穀を育て、野草の食べ方をいろいろと試し……、などなど。研究なのか趣味なのか事業※なのかは判然としないが、実践を積み重ねているのは確かだ。※森と畑と牛と

今日は松江市立中央図書館で、享保の諸国産物帳のうち隠岐、出雲、備前備後のものを草木を中心に通覧して必要箇所を複写し、ほか開架で目についたものをめくっていたら、あっというまの3時間だった。こうした書や資料を読んでいると、飢饉、救荒のことは必ず出てくる。

滅びゆく、用の済んだ、時代に取り残されたものばかりを集めていることは、冷笑されることもしばしばだが、いやそれはそのとおりであると自覚しているが、役に立つことがあるとしたらば、消え行く「食べるための」智慧を集めているということなのかもしらん。

飢饉は多く農村で生じる(てきた)。江戸時代以降、都市での餓死は少ない。食糧は都市に集積されるものだが、現代においてはどうなのだろう。そもそも食糧がどこでストックされ流通し消費されるのかというそのめぐり方において、現代日本の農村と都市の対比は意味が薄い。

農村から作物をつくる知恵や技術が少しずつ失われていくはじまりは江戸時代に入ってからだと推察する。中期・享保年間あたりから、農書や救荒の書が次々と刊行されることがその傍証である。およそ300年も前から、「山に入れば生き延びられる」ことは稀になっていったのだ。あえて悪し様にいえば「ただ言われたままにつくるだけ」の農民は江戸時代に誕生し今日までその栄華をきわめているのだ。とはいえ、山野の知=野生の思考の断片は生きていて、再生も復興も可能な時代に我々はいるのだということを希望としよう。

宮本常一著作集23「中国山地民俗採訪録」は昭和14年に宮本が見聞したものが中心で、金山谷や戸河内や匹見のことでへぇー、ほぉー、なんでだろう、とおもしろく読めるところ多出する。

なかでも、山口県玖珂郡高根村向峠(むかたお)のことは、何度か通ったり眺めてきた土地であることと、2〜3の書き留めておくべき項目があったので以下に記す。ひとつは、そう、飢饉のことである。

《この土地で困ったことと言えば飢饉であった。飢饉はじつに多かった。食べるものがなくなると、座に敷いてある筵をさいて食べたという話もある。すると子供の小便がしみていてうまかったという話さえ残っている。

向峠から宇佐へ下るところに墓があるが、これはウダオレとて餓死したものを埋めたところだという。さびしいところで木がよく茂っていて、若いものが夜宇佐へあそびに行って、ここまでかえると狼が頭の上をとび越して行ったという。その藪の中に何人も死んだ人がいた。坂がのぼりきれなかったのであろう。

銭をくわえて死んでいたという話もある。一番ひどかったのは申年(天保七年)の飢饉で、村のものはおおかた死にたえかけたという。その百回忌が昭和一一年にあった。》

申年の飢饉という言葉は鳥取藩で語り継がれたものとしてよく出てくる。

(以下加筆予定)ホトホトのことなど。

雲州一国の者他国へ出る事甚禁じてあり

 温泉津の蔵元、若林酒造の開春、これ美酒なり。日日楽しむ。

 ほの暗い樽中の発酵を垣間見、肌寒い蔵中で糀の香りに慰撫されてより、またその味わいもひとしおというもの。さするに数日前のこと、佐賀錦から生酛づくりでものされた無濾過生原酒をちびりちびりと飲みながら、そういえば種村季弘氏が温泉津のことで筆を走らせておられたはずで、あの本はどこにあるのだろうと、思い起こしていた。

 あっけなくも昨日発見。実家の棚にあるのを持ち帰ってきた。

 ふむふむ。これであったか。

 書名は『種村季弘のネオ・ラビリントス7巻 温泉徘徊記』。河出書房新社から全8巻で刊行され、手元にある第7巻は1999年の初版。現在、需要は満たしての絶版である。種村季弘の古書はそもそも市場に出ること少なくして、値崩れしないことで知られる。しかるに6巻の食物読本がほしいなあと思いアマゾンでみるに、2000円の根づけが!? どれどれと思ってクリックしてみれば、タバコ臭ありますと。なるほど。他の出品をみれば9000円〜12000円となっている。

 納得。

 いい値段である。ほいほいとは買えぬ。諦念の向こうにあって手の届かぬものでもない。まっとうな本の適正価格というのはこのあたりなのだろうなと思う。

 さて標題に記した本題のこと。

 野田泉光院の『日本九峰修行日記』から、種村がひいたものである。

 泉光院野田成亮(しげすけ)は日向国佐土原の安宮寺の住職をつとめた修験宗の山伏であり、多くの行を積んだ大先達であった。文化9年(1812)9月から文政元年(1816)11月までの6年2ヶ月を諸国修行にまわり「西の芭蕉」とも呼ばれた。宮本常一『野田泉光院ー旅人たちの歴史1』として、石川英輔が『大江戸泉光院旅日記』として一冊にまとめている。

 つまりはたいへん著名であり、文化・文政年間の旅の記録とあれば、”観光資源”として”活用”されていそうであるが、これが島根県内では一切みたことがない。理由はあれこれ思いつくのだが。

 件の一文は、山伏の野田泉光院が出雲国に入ると、泊まるところがなく大変苦慮したすえにでてくるものらしい。今の時代も変わってないなあと思った次第。

 さっそくその記を県立図書館の地下書庫より出してきてもらい閲覧。『日本庶民生活史料集成』の第2集におさめられている。

《雲州一国の者他国へ出る事甚禁じてあり、因って旅ということを知らざる者多き故、人の情も慈悲も知らざる者多し》

 もっとも平田ではよくしてもらった人もいて、出雲に格段に悪い印象をもったわけでもなさそうだ。長州から芸州そして石州をへて出雲に入るその日記をつらつらと眺め読むに、他国に比して神仏をのことを語り合うことがきわめて少なかったように思える。それがゆえか、出雲路をしめくくるに痛切なひとことを残している。

《且又雲州は神国と他国よりは称すれども、雲州の人は神威も知らず、神国にして神国に非ず、人気宜しからざる国なり》

国家機構は交通形態から生まれる

「国家機構は交通形態から生まれる。つまり中央と地方を結ぶ「道」から生まれたということになるだろう。」

保立道久の研究雑記〜2017年4月21日 (金);基本の30冊、平川南『律令国郡里制の実像』

至言。現代の政治においても、道路や新幹線の誘致・建設というものが、なぜあれほど熱をおびてしまうのかというそのワケを、このあたりから丁寧に読み解いてみることでその是非とともに、別な可能性を開くことができるのではなかろうか。

道は必要。高速鉄道も必要。鉄道だって、橋だって、トンネルだって……。けれど、それじゃないし、なんか違うんじゃないか、という論がそこから生まれるかもしれない。

それは、歴史をみる、その見方の問題であることがひとつ。そしてもうひとつ。民俗学のアプローチが有効であるような「道」と「交通」の問題である。

目下の関心事としては、現大東の阿用、現在の日登(木次)へ通じる道、佐白(奥出雲)へ通じる道…など、日常通っている道からみていくべきであろう。

※別件ではあるが、湯町八川往還は、古代の道(ルート)に近いのではないかな。http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/ja/recordID/1001575725

山の口あけ

9月は山の口あけ。失われた記憶と記録を求めてのろのろじたばたしている。民俗としての記録が現存するトチノミ採取文化の西の果て「柿木村黒淵のIさん大正11年生まれかあ」※1とつぶやくと、「あぁ○○さんね」と妻曰く。すげー。山村の文化凝縮度は基本的には都市をはるかにしのぐということか。黒淵は数回通り過ぎただけの記憶しかないが、椛谷のさらに奥にある。妻の同級生だった黒淵の子は小学校から寮に入っていたという。

「山村といわれるものの多くは、実は奥まった農村にすぎない」(千葉徳爾,1950)のであるが、数十年前まで農村とは異なる数少ない本当の山村が日本のあちらこちらにはあって、柿木には確かにあったのだろう。

トチノキを1本切り出すと1年分の収入があったので、どんどんと切り出されたというような文字の記録をあちらこちらでみた。多いところで年間10俵もとれる生物資源は家族数年ぶんの現金収入と交換されえた。同時に白米が山村に入ってくる、麦飯が主だった平地よりむしろ早く。

いや、しかし、それでさえ「山村」の残映のようなもので、椎茸の栽培が全国に広まる時代に、時代の結節点があるという仮説を抱いて匍匐している。焼畑もそう。時代でいえば元禄より前の時代。どこからたどれば糸がつかめるのか。

匹見(広見)に椎茸栽培を伝えたという三平さんの墓参に行ってみようか。何かわかるかもしれないと思ったり。

柿木村下須の西にかつてあった広大な笹地の謎も糸のひとつだろうが、参照必須の千葉徳爾の「はげ山の研究」「はげ山の文化」は県内に蔵書がない※2。『西石見の民俗』1962に千葉が「土地利用の展開」を稿している。今日は県立図書館でこれも見てみる。

大山あがり調査も半年放置していたものを再開する。山と牛と竹(笹地)とを結ぶ謎と未来を見出すべく。

雨で倒伏したであろうアマランサスの収穫後の干し場も探さねばだし、ヒエをどうしよう。古来の手法で調製したいし(いやそれしかないし)。アワはまあなんとかなるでしょ。そうこうしているうちに蕎麦もできちゃうよ。やれやれ。

※1)辻稜三「中国山地におけるトチノミ食とその地域差について」1993,人文地理第45巻第2号:調査の概要表に記された取材地一覧を眺めていたら柿木村の文字を見つけてつぶやいた。

※2)勘違いでして、島根大学付属図書館にありました。また、この後、『西石見の民俗』は古書にて購入した。

地方創生に必要なのは経済循環の向こうにあるインプロビゼーション

 藻谷浩介氏がPRESIDENT Online(2016年09月09日)でこう記しておられる。

そもそも地方創生の政策のイノベーティブなところは、交通インフラ整備に工場誘致、という旧来の発想は通じないことを直視し、「地域内の経済循環の拡大」が必要だと明確に掲げたことにある。

 http://lite.blogos.com/article/189813/?axis&p=4

 論旨はだいたい以下である。

・だというのに、地方創生は補助金で箱物つくることだと、未だに考えている議員が大半である。経済循環が何かさえまったく理解できていない。

・そんな中、地方に無駄な補助金を投入するくらいなら、東京一局集中を加速することに注力して、都市間競争を勝ち抜かねばならないという論陣が力を増してきた。

・地方でも成功しているケースは多くあり、大都市こそが学ぶべきである。人材や市場が過少な中でのビジネスは、まさに東京でこそ求められている。

 藻谷氏の論は大筋ではおかしくないのだが、ミスリードを起こしがちだと思う。経済循環がわからない議員を嘆くのはわかるのだが、産業連関表が読める(たとえば自営業者や中小企業が自社の経営に利用するという意味で)人がどれだけ地方にいるのだろうか。私も解説つきで読めるレベルであって、理解しているとは言いがたいのだが。(中国地方、島根県岡山大学の中山良平教授の貢献もあって、大変めぐまれているのに。中山氏の著書『まちづくり構造改革―地域経済構造をデザインする』2014(日本加除出版)は、わかりやすく有益です)

 《地域内の経済循環の拡大》を、どう理解し創生につなげるかについては、その欠点があまりに経済学(均衡理論)らしいことによるのだと思う。経済学は分析のツールであって、ツールでしかない。創生は分析ではないのだから、そこを勘違いしないことだ。

 いや、いや、それ? もちっとヒントを、と誰でも思うだろう。私もそう思う。

 ここからが本題なのだが、ジェインジェイコブズの勉強会をやろうと検討中なのだ。

 ジェインジェイコブズ(以下JJ)は今年2016年が生誕100周年にあたるし。なにより経済学プロパーからは非難囂々、経済学をわかっていない素人が何をいうか爆弾が多数投下されている。

 そんな中、塩沢良典氏がどこかでこんなコメントをしていて、ハッとしたわけだ(あとで出所いれます)。

《ジェインジェイコブズは経済は散逸構造であると言いたかったのではないか。生態学と経済学をつなごうとしたのだ》

 そして、触発されて、手元にある『発展する地域、衰退する地域』を改めて手に取りました。JJの著書は理解するのではなく、道を示そうとしている灯りなのだと、そうひらめいた。

 その道は読者ひとりひとりが見つけ歩むべきもの。対話や討議が必要。できればひとりでなく。ん〜、でも誰もいないし、と思いながら文庫解説をみると、なんと片山善博氏が寄せているではないですか。そのなかで、鳥取県知事時代の事例をあげていたので、それをほじってみました。

 JJはインプロビゼーション(improvisation:ジャズの即興のような)という用語で示しているが、地方創生の「創生」にあたるし、その創生を駆動するのはイノベーション創発)であり、創発の本質はこのインプロビゼーションであろう。すなわち、「要素間の局所的な相互作用が複雑にからみあいながら新たな秩序を形成していく場の力」である。

 さて、事例をみてみよう。→のついた仕組と心情は私の想定である。

【学校給食の地産地消インプロビゼーションをおこすか】

ステージ1)【政策】学校給食の地産地消を促す

      →仕組:栄養士の献立表にもとづいて食材を調達するには地元調達が困難。

      →心情:反発を受けて進まない。

ステージ2)【修正試行】ある栄養士が地元の作付けを調査。

       野菜の収穫量に基づいて献立を作成。

       結果:地産地消率がアップ。

      →仕組:ロジスティクスを担うJA等の組織が動く

       ※ロジスティクスの要諦:必要なものを・必要な時に・必要な量を・必要な場所に

      →心情:コミットメントしている個人が「うれしい」。昂揚感の醸成。

ステージ3)【創発インプロビゼーション

       地元農家が(献立表をみて)、地域外調達をしている食材のなかで、

       地元で調達・作付が可能な野菜類の作付けに着手。

       結果:地産地消率がさらにアップ。

      →仕組:ステージ2より高度なロジスティクスとなる。

          新たな作付が農家にとってプラスとなるかどうかは不透明。

          市場原理とは違う価値観が駆動しながらも、市場とも連動する

          必要がある。

      →心情:地域のため+長期的信頼関係に資する意志決定が農村では結果とし

          て利得が高い。

 場をつくるためには、プレイヤーがステージ3の心情(あるいは規範)を共有しているかどうかが鍵となるのではと思う。農村であれコミュニティであれ大規模システムに抗して経済をまわすためにはこれがアドバンテージとなる。従来、非合理性や因習性あるいは障壁障害として捉えられていたことである。マイナス評価をプラスに捉えるための概念を与えてみたいと思うが、現状、材料不足であり、「宿題」としたい。