小麦はいつ種をまき、カメンガラの実はいつとるか

カメンガラの赤い実が、葉を落とし始めた木々の間で鮮やかさを増してきた。もう少しさきだろうか、とれるのは。そう思いながら、何年か前に撮影したこの写真の日付を確かめると、12月の半ばであった。やや遅めの収穫だったと記憶する。うん、もう少しまとう。確かに紅葉の過ぎたあとくらいだった気がする。

昨年は結局取らずじまいだったので、記憶がぼけているのだ。

同様に、小麦の播種時期も曖昧だ。11月初旬に播種したこともあるが、10月中旬から下旬だったはず。早すぎて春の霜にあたったのが一昨年だった。今年は遅すぎて早い梅雨入りにやきもきもし、生育もよくなかった。さて、今年はどうするか。どうあれ11月では遅いだろう。そして、今日は10月22日である。月曜夜には浸水をして、水、木曜には播種できるようにしておこうと思う。

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アマランサスの脱穀は来週か。秋の始末と冬の準備と、あれやこれやが満載である。

令和3年10月22日備忘記

午後から取材撮影。事務所と除伐地、植林地の3箇所。植林は檜、たしか1年前の施業と聞いた。ちょうど今は地ごしらえの時期で、植林は早くて11月に入ってからだと。幼樹の緑と陽光映えるカットを撮りたいのだった。快晴の日を狙って日の出時刻から行くのがよいだろう。除伐地(間伐地)は佐白だったので、山村塾の合間をぬって行けるだろう。どんぐりの実が道に散乱していた。
案内してくださった方が、ハチの抗原検査のことを話されたので、毎年するのですかと聞くと、私は毎年ですけど陽性が出てる人は毎年じゃないかなあとの返。現場作業班ではなく事務方の人であったが、それでも毎年刺されるものだという。今時分、10月はまだまだ活動期だという。夏の暑い時期よりもやや涼しくなった秋が危ないというのは俗に言われる通り。先の植林地でも、「あの尾根を越えて谷に向かうと、ハチが多いのでよしたほうがいいですよ」と助言いただいた。ハチのテリトリーというのはおよそどれくらいの範囲なのだろうとは思うが、尾根を越えない谷単位であることは、これまでの経験からも伺いしれよう。おもしろいことだ。自然農のT氏が「夢は谷まるごと買い取って農地にすること」とおっしゃっておられたことを思い出す。

時間があったので、山の草刈り。雨が降る直前までセイタカアワダチソウが群落形成しているところを中心に40分程度ほど。刈払い機の刃はもう変えないといかん。

カメンガラ追記

カメンガラとよく似た樹と実があり、違いはどうなっているのだろうと。ざっと調べてみたところ、「森と水の郷あきた」の樹木シリーズ45に詳しくあった。また、ガマズミについて全体にわかりやすく丁寧に整理してあって、ことに果実については要を得ていて得心したので、引いておく。

果実・・・核果で、9~10月に赤く熟し、霜が降りる頃になると、白い粉をふいて甘くなり、食べられる。クエン酸が豊富で酸味が強く、レモン果汁に似ている。食べごろに熟すと、甘味も増して味のバランスが良くなる。果実が黄色に熟す品種をキミノガマズミという。》

そうなのだ。白い粉をふいた頃がとりごろだった。それは「霜が降りる頃」である。忘れぬよう覚えておこう。

ほか、このサイトの記述で得心したのが「鳥がよく食べる」ということの指摘。あぁ、そうだったのかと。挿し木にして育てたものを庭に定植して2年目。たくさんついていた実がすっかり少なくなっていて、落ちたのか鳥が食べたのか、気になっていたのだ。食べる鳥については、ヒヨドリツグミジョウビタキ、キジ、キジバトコジュケイメジロオナガアオゲラ、ヤマドリなど」とあげている。ここまであげているのなら、うちの場合、スズメではなかろうかと思う。メジロオナガヒヨドリも考えられるが。

肝心のガマズミの見分け方だが、ミヤマガマズミとガマズミについては鋸歯の有無がわかりやすそうだ。

†.ガマズミの葉・・・円形で側脈が目立ち、表裏とも全面に毛が生え、特に葉脈は長い毛に覆われ、フサフサした手触り。葉柄に粗い毛が多い。 

†.ミヤマガマズミの葉・・葉先は急に細くなって尖り、縁に浅い三角形の鋸歯がある。葉柄は赤みを帯びることが多く、長い毛が散生する。

クサギ雑録

火入れの計画が流れてしまい、ひたすら草刈りを続けるなか、とても目につき気になる木がある。ひとつはホオノキ。高木になるものであるし、葉が目立つので、できるだけ切らないようにしてきた。それでも切ってしまうものだが、ここ2年で生き残ったものはぐんと背を伸ばした。そしてもうひとつがクサギ。とくに夏を過ぎてから目立つようになった。こちらは低木であるし、伐採地が森になっていけば消えていくものだろし、かなりの数にのぼるので、あまりに気にはとめていなかったものの、背丈をこえるものが出てきて、こんなにあったんだと驚くほど。

臭木と書くように、臭いというが意識したことはない。花の香りはジャスミンにも似てよい香りである。葉をとろうとすると臭いのだろう。
さて、以下は書きかけではあるが、公開してのち加筆していきたい。

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■広島県北にあったクサギナの食慣行

クサギナの食べ方についてもっとも詳しく書かれているものは、手元の資料では、『聞き書広島の食事』1967,農文協。神石郡油木町の聞き取りに「季節素材の利用法」のひとつとして出てくるほか、救荒食として県全域に見られた食慣行としてあげられている。前者の抜粋は以下。

くさぎな(くさぎ) とって帰ると、すぐに大釜でさっとゆでて水にとり、固くしぼってむしろに広げて干す。二日くらい日に干すとからからに乾く。これを缶や袋に入れて保存しておき、味噌汁の実やだんご汁の具、混ぜ飯の具にして、年中食べる。炒め煮も喜ばれる》

後者についてだが、明治までの救荒食として、くずだんご、ひえだんご、じょうぼ飯(りょうぶ)、たんばもち(ヤマコウバシ:クロモジ属)、笹の実だんご、どんぐりのだんご、以上6つをあげた次に、昭和初期の食の知恵のなかに出るのだ。
いずれも救荒食というよりは、主食を補う日常の食としてである。クサギナとリョウブはならべて挙げられることが他の地域では多いのだが、クサギナはより新しい食材ということだろうか。山の植生変化などとも関わりがありそうで興味深い。

くさぎな汁 くさぎなの若芽を摘み、ゆでてあく抜きしたものをそのまま汁に入れるか、乾燥保存して使う。一年たったものがおいしいといわれる。粃やくず米の粉でつくっただんご汁に入れたり、白あえにして食べる。》

くさぎな汁のほかに挙げられているものは、大根葉のぞうすい、あずりこ、かんころ、うけじゃ、かもち、である。これだけではなんのことかわからないだろう。そう、大事なものはそういうものだ。思い切ってすべてあげておく。

あずりこ 白菜や大根を切りこんで、味噌または醤油味の汁をつくり、これにそば粉をふりこんだ料理である。「あずる」というのは、神石郡で「補給」という意味に使われる。》

そば粉のふりこみ方が気になる。そばがきとは違うし、つぶ食でもない。が、粒で粥のように食していたかたちの残存か、などと。

かんころ さつまいもは、そのまま蒸したり焼いたりして食べるほか、かんころにして保存しておき年中食べる。かんころは、さつまいもをそのままか、皮をむいてごく薄い輪切りにし、天日で乾燥したものである。さつまいもの堀りだち(堀りたて)につくるよりは、年が明けてつくったほうがうまい。このかんころは、春先から新しいいものとれる九月いっぱい、夏の暑い時期を中心に食べる。》

晩冬に天日乾燥する(できる)のは、山間部とはいえ山陽の気候がなせるものか。

うけじゃ かんころは、そのまま食べてもよいが「うけじゃ」にして食べることもある。ささげまたは小豆一合に対してかんころを五合くらい使い、ひたひたの水でやわらかく煮てきんとんのように仕上げる。塩で味をつける。暑いときは、冷たい水かお茶をかけて食べる。》

かもち 「いかわもち」がなまってこう呼ぶ。さつまいもの皮をとり、かぶるほどの水を入れてやわらかく煮る。水が少し残っているときにだんご麦(もち麦)の粉をふり入れ、すり棒(すりこぎ)でつぶす。ふたをしてとろ火で一〇分くらい蒸す。これをもちにするときには、よもぎを入れることもある。また、さつまいもにもち米やもち米の粉と小麦粉を混ぜてつくる人もいる。

かんころ、うけじゃ、かもち、すべてサツマイモの料理である。この芋の普及が、いかに救荒食として他に抜きん出ていたかを物語ってもいると思う。

さて、同書には薬効のあるものがあげられてもいるが、そこでもクサギナは出てくる。梅、青松葉、にんにく、はみ、などとともに。やや記述がくわしくなり、採取時期が初夏であったり、保存がゆでてから乾燥させることであったり。また、冬から春のふだんのおかずとして使うものだが、薬としても使用するとのことで、その際には「くさぎな汁」だという。苦味が腹によいとされ、食べすぎの際の整腸剤、虫下し、そして疲労回復にきくのだと。つくり方の一例もくわしいので、ひいておく。

《くさぎな汁のつくり方の一例は、まず乾燥したくさぎなを一日くらい水につけてもどし、しぼって一にぎりくらいを小さく切っておく。また、水につけた大豆を茶わん一杯用意して切りきざみ、くさぎなと一緒になべに入れ、大豆がやわらかくなるまで煮て、味噌仕立ての汁とする。》

農文協の聞書きシリーズは中国五県は手元にあるが、クサギナの記載があるのは広島県のみである。かといって、他県にないか、なかったかといえばそんなことはない。古い記録や調査などから大ざっぱにみるに、吉備高原をはじめ中国地方いたるところで多く見られた食である。ほか記録は四国、鹿児島、宮崎、奈良、静岡、で確認できる。

記録のみならず、特産として売り出しているのは、宮崎県椎葉村、岡山ではJAつやま、広島では庄原市比和町といったところ。レシピも豊富で、かつての救荒食を思わせるものから、豪華な晴れの食事でもあったことがわかる。おもしろい。
岡山県吉備中央町吉川の郷土料理、くさぎなのかけ飯。KBSの取材。

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■日原と横田のクサギナ

島根県内でわかる資料は限られるので、現在手元にある4つをすべてあげておく。

†. あえものとして食べるという「摘み草手帖」
宮本巌著、山陰中央新報のふるさと文庫で出ている標題の書籍は昭和53年の刊行。山陰地方の摘み草をまとめた名著である。そのクサギの項。
浜田市沖合にある馬島はかつて兎が離され、多くの草木が手当たりしだいに食されるなか、兎が口をつけない植物があることがわかった。それがクサギだという紹介のあとに、短く食し方がのっている。

《これほど臭いクサギの葉も、ゆでて(重)、水さらしにすると匂いがとれることを人は知っている。あえ物として食べる。》

†. 「日原町史・下巻」
 まず、村の生活ー救荒食の中に一行のみで簡略にこうある。

《クサギナの葉はいがいて川にさらして飯にまぜる。》

リョウボウの芽はいがいてさらし、干して俵に入れて保存しておくとあるが、クサギナではその記述はない。ただ、先にあげた『聞書き・広島の食事』と同様、おかずとしても食すのだから、利用意識は高いと思われるし、乾燥保存を旨としたことは変わらない。
採取は春。《待っていたように、芹、すい葉、こうがらせ、くさぎな等の若菜を採って汁の実・ひたしものにし、やがて蕗・蕨・ぜんまい・筍類が煮しめに出来ると共に、これを干して貯蔵した》。

†. 横田のクサギナ
 1968年刊の『横田町誌』。第七章教育と文化と生活のなかに山菜・野草・果実の簡略な一覧があってその中にクサギナがある。俗称クサギナ、本名クサギ、料理法としては油いためである。
1976年刊の『郷土料理 姫の食』は横田町食生活改善評議会が発行したものだが、提供部落:亀ヶ市として「くさぎの葉の油いため」があげられている。
作り方
1 くさぎの芽が四〜五cmくらいにのびた時にとってきてゆがく。
2 天火で乾かして保存しておく。
3 水にもどして、適当に切り、油でいためて好みの味でたべる。
勘どころ
乾燥したものを保存する場合、缶などに入れ湿気に充分注意する。

†. 飯南町のクサギナ
 2013年刊行の飯南町の植物ガイドブック』は、飯南町森の案内人会(教育委員会内)発行。この会は解散されたと聞くが、要確認。クサギはここでもクサギナと呼ばれていることがわかる。里山から山地の日当たりのよい所に広くはえる落葉低木。この特徴もどこにでも

1968年刊の『

……さて、つづきはまた。
資料として以下などをあげながら、乾燥商品が入手できればそれらの調理試食などもとりあげていきたい。
野本寛一「採集民俗文化論」

※2021年10月24日、備忘的加筆。

樹木シリーズ71 クサギ | あきた森づくり活動サポートセンターでクサギの項をみて、長野県や静岡県では「採り菜」と呼ばれたとあり、野本寛一が「採集民俗文化論」であげていた「といっぱ」とはそこからきているのかと。よってここに記しおく。

若葉は山菜・・・クサギは若葉を山菜として食用にしている。6月頃、採取した葉を熱湯で塩茹でして流水にさらしてアクを抜き(灰や重曹でもOK)、油炒めや佃煮にして食べる。茹でてから乾燥すると保存もできる。西日本では「臭木菜」、長野県や静岡県では「採り菜」と呼ぶ。禅寺の労働修行でクサギが利用されたことから「ボウズクサイ」、「オボックサイ」と、お坊さんに結びつけた別名もあったという。

笹巻き

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いい笹がとれるところは知っている。
笹巻きは毎年、どこかからいただいて、食してきた。
しかるに、ここ2年ばかり、巡り合せがなく、口にする機会がなかった。
これは、つくるしかないのではないか。
そう夫婦で話していた矢先、「笹があるなら、一緒につくりましょう」という申し出が!
かたや笹がないけれど、年間100本はつくるという笹巻き好き。
かたや笹はあるけれど、つくったことはない笹巻き食べたい人。

来年もつくるぞ〜。
忘れないために復習、復習。

そして、笹とりに入ったときに、ヒメコウゾの実を発見。はじめて食べたのですが、美味しいおいしい。これも忘れぬように(切らぬように)、保全保全

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令和2年、ホウコ雑記

冷蔵庫の片隅に冷凍したままのホウコが眠っている。たしか2年前のものだと思う。搗く機会を頭のなかであれこれと浮かべながら、いくつかの記録を整理しておきたい。
思いつくままの箇条書きをまず。
1. 阿井の山野で食べたものの中でのホウコ
2. ホウコの方言分布
3. ホウコの記憶を語る木次のばあさんら
4. ホウコモチをつくる
5. ヤマボウコをまだ見たことがない
6. ホウコはなぜ木次で見なくなったのか
7. ジュンさんの歌、ハハコグサを聴いてみたい
8. ハハコグサ、ホウコについて言及しているもの
9.  農文協の食生活シリーズにおけるホウコ
10.  「モチ」と「ホウコ」
これらのついては、簡単に加筆しながら、資料のリンク先などを追記していきたい。いずれもかつて一度はブログなどに書いたことがあるものだ。

そして、かようなことを思い立ったのは、篠原徹の昭和48年の論文の中にホウコについてふれたところがあったため、それを引っ張っておくためでもある。
「Ethnobotanyから見た山村生活」より

中国山地のどんな谷に行っても、そこには30戸前後の小さな部落が必ずある》
論文はこの一文からはじまる。昭和48年9月30日受理というからかれこれ47年前。いま、令和2年の西暦2020年、中国山地の片隅に生きる身にとっては切ないような美しさを湛えている一文だ。「必ず」という言葉からは、なにか意思のようなもの、確かなもの、尊いもの、そういったものが受け取られる。いまの私たちは、必ずという言葉を使うべくもないどころか、いまにもなくなりそうな集落をあそこにもここにも抱えている。すでになくなった谷の姿などいくつでもあげられそうだ。
つい一月ほど前に訪れた匹見の小原集落。その奥の谷にあった十数戸は、篠原が「必ずある」と記した五年後には消滅し、いまその跡形がまさに山に戻ろうとしている。それをどんな感慨と未来へのどんな意思をもって、私たちは後世に継いでいったらいいのだろう。

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篠原を読むということは、単に一論文からパーツとして「利用」可能なものを取り出すという処し方に終わるものではない。そう断りつつ、ここでは、ホウコについての一節をとりだしておく。調査取材した岡山県湯原町粟谷(旧二川村)七人家族、そして広島県東城町帝釈の二人家族の例として、家族が利用する植物があげられ、「粟谷の家族の例について、以下具体的に述べてみたい」と説明が入るところである。

《ただ、この家族には現在82歳になる媼がいて、ケンザキホウコウ(ヤマボクチ)・ヨモギ・チチボウコウ(ホウコグサ)を春先採取して乾燥保存している。これは<シロミテ>(田植後の祝事)の餅搗に湯にもどして米と一緒に搗込み、餅の粘性を高めるのに使われるもので、でき上った餅は<ホウコウモチ>と称され、<カブウチ>(血縁集団)に配られる。しかし粟谷40戸のうちで<ホウコウモチ>を作るのはわずか2〜3戸で、もはやこれも消滅するのは時間の問題であろう。》

篠原がここで「消滅するのも時間の問題であろう」と述べているのは、ホウコモチに限らず、この50年ばかり前の山村で、山野から草木を採取し多種多様に活かす生活の衰退と、利用する植物の利用と植生、双方の減少を前提にしたものである。
とはいえ、まだまだここであげられた82歳の媼は、村々にひとりはいらっしゃった時代であり、「そういうことを知っとるばあさんらはみんないなくなった」という言葉を古老からきく現代とは明らかな線がひかれている。
現実のものとして目の前にあるものとはちがい、私たちが見聞するのは彼岸のものだ。そのことを忘れずにことにあたりたい。ことにいま、こうしてやっているような断片を抜き出しつつ並べることに対して。そう自らを戒めたうえで、ホウコから離れて、いくつかの断片を拾っておく。忘れてはいけないが、忘れぬように。備忘という。
篠原が昭和48年9月に行った調査、すなわち、粟谷を構成している40戸の家から年代別に13人を選び、調査したものの解説中から得たものだ。調査は「実用価値を既に失った野生植物の利用実態」について、調査表を用いて行っている。その数だけはあげておこう。食物関係121種、民間薬73種、農具・繊維・結束・籠・建材36種、神社・寺・祭用9種、炭・薪19種、その他56種である。下に図を掲げるが、およそ半分が利用しなくなったもので、おそらく今同様の調査をすれば、数%となるのではないか(やってみたいなと思う※)。

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閑話休題。山村で実用価値をほぼ失っている野生植物について、である。

《食物関係の植物でB・C項に属するものが非常に多いことは、山村の食生活が以前と大幅に変化したことを明瞭に示して居る。特にC項(名称、使用法は聞いたことがある)に属する野生植物は、いわゆる飢饉の備荒食として知られている植物が多く、30代から60代では料理法・処理法を全く知らない人が多い。クズボウラ(クズ)、シズラ(ワラビ)の根を掘って澱粉をとった人は既におらず、わずかに70代の人がヤーヤー(ウバユリ)の根から澱粉を採ったことを記憶しているにすぎない。》
《ヤーヤーは、五月頃葉のまだあまり出ていない鱗茎のよく発達したオンナヤーヤーと呼ぶものを採取し、唐臼で搗くか、石の上で叩いた後、桶の中に入れて漉す。その水を何回もとり変えて、上澄を捨て、最後に沈殿したものを乾燥することにより、カタクリを採った。》

ウバユリについては、椎葉村の話、日原の話、そして阿井の山野にあったかなかったか。大事なことは、ウバユリの根がおいしく、ふえてくれれば自家で食したいということによる。どうやって山野でふやしていくか、ということだ。これは奥出雲山村塾、森と畑と牛と、で行うことでもある。

ウバユリが、澱粉を採取する植物として、クズやワラビから採らなくなった後にも利用されていたのは、採取時期の違いとそこにかける労力の大きさの違いによるだろう。ウバユリは量を採るのが大変とはいえ、クズやワラビに比べれば素手でも掘れなくはないのだから。

さて、次にひとつ、年取りのことで例があるので、ひいておく。

《今は忘れられている年中行事にも、ずいぶん多く野生植物が利用されていた。正月前の12月13日を<キシクサン>と呼び、どの家でもシラハシ(ウリハダカエデ)→「松江の花図鑑」参照で正月用の箸を作る行事があったし、<オオドシ>(大晦日)にはミノサイジョウやフクナリという品種の柿を<年取柿>と称して必ず食べたものである。11月の初め頃、この柿を採り蔵に自然状態で放置しておくと<オオドシ>には渋がとれて食べられるようになっており、これを<ムシ柿>と呼んでいた。……中略……また正月の期間中、竈で燃す薪はヌリダ(ヌルデ)でなければならないとされ、正月前にこの木が大量に準備された。》

ヌルデ→「松江の花図鑑」参照は負い木でもあって、美保神社の祭礼に用いられたのであったか(要確認)。正月に子供の玩具としてアワボッター、ヒエボッター(アワやヒエに似せて、ヌルデの木でつくったもの)があるのは、あれはどうだったろうか、など記憶の曖昧なものを改めて確かめておきたい。

ほか、蓑の材料となった植物のこと、キノコのことなど、書き留めておくべきことが多いが、それらはまたのちの機会に。とくに蓑については書きかけのものもあるので、近々に。

奥出雲における「わに」の刺身について

それは先週、8月8日のことでした。立ち寄った隣町奥出雲町のスーパーで、目的の品をかごに入れ、そそくさとレジに向かう途中、どどんとばかりに「わに」肉が陳列されているのを見つけてしまったのです。刺身用の新鮮なものです。「わに」ことサメの刺身は、これまでも何回か目にしたことはありましたが、棚の一角を大きく占める光景は、はじめて遭遇するものでした。買ったことも食べたことも一度もなく、今がそのときとばかりに一番安く小さなものを入手したのです。
サメのことをワニと呼ぶ地域圏がどの程度ひろがっているのかは定かではありませんが、少なくとも関東、東海、近畿地方では通用しないと思われます。乏しい経験からの臆見ではありますが。
わにの肉は、島根県から広島県にかかる江の川の上流域では郷土料理、とりわけ正月には欠かせないものでした(過去形)。その名残は今でもあって、食べることはなくとも、ワニといえばサメということで、この地域のほとんどの人に通じます。
江の川流域とは少しずれますが、隣接する現飯南町、現奥出雲町でもワニはそういうもの、すなわち正月、そしてお盆の行事の食べ物として、そして日常的にも食卓に並んでおかしくはないものです。
それにしても、安いなあとこの時には思ったわけですが、本日すなわち8月14日、またも思わぬところで同じわに肉に出会ってしまいました。
現場はわにの刺身を、行事はおろか日常的にも食することはない斐川町のスーパーです。実家の墓参りの帰路立ち寄ったのですが、山陰沖でとれたものであることは先の奥出雲と同様。
そして、実家の墓参りに行った際に「今年は(COVID-19のこともあり)お盆は皆さん控えるということにうちもした」と聞いたことを思い出したのです。
そう。お盆になれば売れるはずのものが、今年は売れない。だからたたき売りと、ワニを食べないところでもダメ元で並べてみようと。そういうことなのでしょうか。
私が見た斐川のスーパーでの売値は奥出雲のおよそ半額でした。
また、それらに加えてとれすぎたということもありえます。今後、注視していきたいと思ってます。
味のほうはといえば、昔と違って新鮮な刺身ですから、くせもなく食べやすいものでしょう。サメといっても幾種類かあって、部位などによっても味わいは異なると聞きますが、私が食べたこのサメ肉はさっぱりとした、しかしこれといった癖がなさすぎて、またほしいかといわれれば微妙です。
一方で、うまいうまいと行って昔の人が食べていた、とろけるようないい意味での臭みの強いものを、一度食してみたいとは思うのです。今日もふとその衝動にかられはしたものの、夏だし、やるんなら冬のほうが、と、思いとどまったのでした。

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さて、もうひとつ、気になっていることがあります。
このワニを年取り魚として食するようになったのはいつ頃からかということ。
いくつか論文・論説もありますので、ファイルを引きずりだせばある程度はっきりするはず。たしかそう古くはないはずなのです。江戸後期ではなかったか。どなただったか研究者の方が、宿帳を調べて指摘しておられた最初の頃の年代がそうではなかったかと。曖昧ですので、これは宿題。
や、そもそも年取魚そのものが新しいはずで、奥出雲、掛合、飯南あたりだと、やはり鰤の記述が多く、塩鱒、鯨も出てくるのですが、和邇のことは史誌では見た記憶がありません。
このあたり、年取り蕪とも関わることなので、注視すべきこととして備忘とします。

スペルト小麦と夏野菜のマリネ

カフェ・オリゼの裏にある「オリゼ畑」で育てているスペルト小麦。
夏野菜のマリネとしてランチにお出ししています。
玄麦。
スペルト小麦は、古来つくりつづけている地域では粒で食することが多いという論説をみたことがあります。そうでなくても、粒でとれるのなら粒でとったほうが歩留まりはいいものです。粒食・粉食の違いと変遷についてはもろもろあるものの、いま、ここでは技術的にも経済的にも粉にはできないので、選択の余地なく粒食なわけです。
なにより大事なことは、これ、うまいということ。くせになりそうです。
来年は作付けをふやそうかと思います。土地はないのですけれど。なので畑以外でどう育てるか、それをいろいろ模索しています。

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野老を見つけた日に

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おそらく鬼野老だと思う。一昨日やっと見つけた。探しているときには見つからず、忘れた頃に、こんなところにあったのかと驚くのはいつものこと。そして、7月下旬の今頃が目立つということでもあろう。花をつけるのもこれからだ。トコロを食べる会として、蔓延って困っているというところからは根こそぎ持ち去りますので、ご一報ください。
令和2年現在、ウェブで散見するに、数年前の記事では青森、山形では、道の駅でも売られているとか。山陰ではまず見ないし、聞くこともない。山陰での地方名については不明。出雲国産物帳にもそれらしい記載はない。
トコロと名のつくものはいくつかある。
・アマドコロ(甘野老)
・ヤマアマドコロ(山甘野老)
・ウチワドコロ(団扇野老)
・カエデドコロ(楓野老)
・キクバドコロ(菊葉野老)
・ヒメドコロ(姫野老)
・タチドコロ(立野老)
が、通常、トコロといえば、オニドコロ(鬼野老)、すなわちヤマノイモ科のDioscorea tokoro Makinoをさす。いつのころからなのか。仮に江戸時代中期以降と見立て、その嚆矢を元禄時代とみてみよう。『本朝食艦』を著した人見必大とて、トコロという呼称の由来については不詳としている。漢名は山萆薢、生薬名は「萆薢(ヒカイ)」というのは誤用のようだが、よくあることで、気をつけたい。また、必大は野老の栽培も多いということにふれ、栽培したものの毒性についてふれている。言及こそないものの、山野の自生したものが用いやすいということか。さらに、栽培は食用ではなく、生薬にするためのものであったであろうと。さらに進めて、元禄の頃よりトコロを日常に食することが減っていったのだろうと、今は見ておこう。元禄の『本朝食艦』から五十年ほど時代をくだって弘化の『重訂本草綱目啓蒙』になると「味ニガク食フベカラズ」と記され、干して春盤の具(正月の供物)とすることや奥州、阿州では上巳の節句に用いるのだ等、文字の知識と儀礼に残るだけのものとなっていく。
僅かな文を手がかりに、時代を室町、鎌倉、平安にまで遡れば、いま少し違う風景も見えてくるようで、そうしたことからの臆見に過ぎないが、トコロを食べてみようという向きにはそれでも有用なのだ。
蛇足ながらの付言をふたつ。
日常の食とはいっても、嗜好食である(あった)ことは、野本寛一が『栃と餅』2005,岩波書店で記していることからも推し量れる。野本氏が口にしたその食味とあわせて平成15年3月2日に新潟県岩船郡山北町山熊田での出来事をその書からひいておこう。

《こうして仲間が集って手仕事をする時や、家族がイロリやストーブの回りに集まって団欒する時、煮あげて笊に盛ってあるトコロの皮を小刀や果物ナイフでむいて楽しみながら食べるのだという。ーーキヨ子さん(大正12年生まれ)は包丁で手際よく皮をむき、食べてみろと勧めてくれた。
色は薄い飴色に鬱金色を混ぜたような色である。口もとへ運んだ瞬間、微かな芳香が鼻孔を刺激した。口に入れて噛む。ねっちりとした歯応えがあってホロ苦い。苦いけれども口が涼しい。歯応え、舌ざわりは山芋を輪切りにして煮たものに近いがそれよりも弾力性がある。爽やかな香気がある。苦いが抵抗感は湧いてこない。》

山北町村上市)は山形県鶴岡市と接し、新潟よりむしろ山形と言っていい土地であると、住まわれている方から聞いたことがある。山北町焼畑でつくられる赤カブは鶴岡市温海の温海カブと名称こそ違え、ものは同じであるようだ。そうしたこともこの話の糸のひとつ。食べてみるといえば、島根県内で毎年、口にしているところもある。美保神社の青柴垣神事。神事の供物の中でも野老は重要なもので、當屋が供物であるトコロいもを海中で洗う「野老洗い」は欠かせない儀礼となっている。今現在どう調理されているか、野老はどこから取ってくるのか等、確かめるべきことも多い。山形地方から贖っているということを論文で見た記憶があるがすぐに取り出せないので勘違いかもしれない。
この話の糸は山形と島根との縁を赤カブと野老を食す慣習から手繰り寄せようとするものだ。山陰は元来白カブを地カブとする地域なのだが、津田蕪をはじめ、米子蕪、飯島蕪と赤カブが沿岸地域に存在する(してきた)。そして、その北の縁と、里芋・生姜・茗荷とつながる南の縁をつなげることに、意味はある。

もうひとつは、舞狂言の「野老」である。
幽霊となってさまよう鬼野老の霊を僧が供養するのだが、野老の精が延々とその身の上を語るところが主話となる。
法政大学能楽研究所が蔵しウェブ公開されている「天正狂言本」からその冒頭をひく。画像に朱で示したところ。

f:id:omojiro:20200719131555j:plain《そもそも山深きところを
鋤鍬にて掘り起こされて、
三途の川にて振り濯がれて、
地獄の釜に投げ入れられて、
くらくらと煮ゆらかしていませるところを
慈悲深き釈尊(杓子) に救い(掬い)あげられ……》

続きも笑いをこらえるところなのだろうが、目をこらすべきは「山深きところ」。野老は山深いところだけにあるわけではない。これは舞狂言がそうであるように、この夢幻のなかで野老を食していたのも、それを供養しているのも、当時のいわゆる農民や僧ではなく網野善彦いうところの「道々のもの」であることを示している。漂泊するもの、だれにもどこにも属することなく、諸芸職工を懐に道の上に生を全うし歴史から消えていったもの。そうしたものの霊こそが慰められている。
野老は道々のものが、楽味とし、滋養としたのだろう。合歓木の花咲く夏の日、鮮やかに静かに葉を茂らせるその姿に夢想した。
さて、どこまでか、たどれるところまでそれを追い、食べてみよう、というのが、トコロを食べる会の趣意である。

一月四日、そういえば稗を食べていない

日がな一日、読んだり、整理したり、用意したり。
棚のファイルを整理するまでもなく、立直す程度に整えた際、大庭良美『家郷七十年』の複写ファイルが出てきた。ほんの十数ページぶんほどではある。用向きとしては食生活の項を中心に記録を集めていたときのことで、シコクビエの記載を探していた。石見部ではほぼみられないのだと、たしか、そう仮の結論を出していた。ただ、匹見では藩政時代に持ち込んだが、栽培には失敗したことが記録に残っている(町史記載)。日原町史にもみられない。それら渉猟の際、栽培雑穀について詳しいのはこの『家郷七十年』であって、残していたのだ。忘れていたのでこの際、列挙しておく。

雑穀について

・「粟はたくさんつくった。餅粟と只粟とあって只粟は飯に炊く」……精白に苦心した旨が記してあり、「粟ばかりではつるつるして搗いてもはげないから、米へ混ぜて搗いたり藁を切って入れて搗いたりした」とある。こういうところ、うまくいかないなりにやっていることだから、「そうそう、あのつるりとしたやつはなかなかむけないんだ。無理すると歩留まりがおそろしく悪くなる」という同情共感が湧き出る。と同時に、そうか藁なりをまぜるといいのかもしれないと思ったりもする。「糠が多く三通りくらいあって」というところはすぐにはわからない。二通りならわかる。糠というのも正確ではないだろうが。籾と糠と皮のようなものか。確かめておこう。

・「黍もつくった。これは水を入れて搗いたが七割くらいは残った」というこの黍はタカキビのことだと思う。いわゆる黍のことは「小黍」と言っているようだ。「餅にするには挽き割ってついたりするがそのままで餅にするとつぶれないのがあって荒しいが味はわりによい。焼いて食べると香ばしい」。この正月の餅は、餅米8割に対して、タカキビ1割5分、モチアワ5分で、「タカキビ餅」をついたのだが、昨年と比べて挽き割りの量が少なく、かなりつぶれないのがあって、少しばかり食しがたい感じがあった。

・(粟で)主に作ったのは、赤粟と猫の手。猫の手は人足だましといって米の餅とまちがえたという。赤粟は早生でそのあとへそばをまいた。

・「左鐙や須川谷の方では稗を作っていた。稗はがしの飯米といって四〇年にもなる稗を俵へ入れて軒へあげて貯蔵している家があった」「鬼稗と坊主稗というのがあった」…興味深いのは、粉にして食していたことだろうか。粒食ではない。「稗は粉に挽いて篩って、水に入れて小さなからを浮かせる。他の物は粉を水に入れると浮くが稗は粉が沈む。飯にも炊いたが粉にして入れるので、はじめから入れると焦げるから煮え立ってから振る」

そうなのだ。稗を入れたパックが整理のときに出てきて、あぁ、これどうしようかと。挽いて粉にして食べてみようか。『家郷七十年』には、鬼稗はひげが多いからイノシシが食わないとあるが、どうなのだろう。少なくとも佐白の焼畑では、穀物でイノシシにやられたのはタカキビのみ。粟の鳥害のほうがおそろしいのだが。稗がうまく調製できて食せるのであれば、稗の栽培をふやしてみたいものだが。

家の神について

「どこの家でも床の間と神棚に神さまを祀っている。わたしの家では床の間に祀ってあるのは八幡宮と大元さまらしい。すなわち氏神様と鎮守である。神棚に祀ってあるのは大神宮と金毘羅さまと水神さまとお竈さまのようにきいている。大社もあったかもしれない」

大庭氏は明治42年生まれ。この書が刊行されたのは1985年。いま、大庭家の神棚がどうなっているかはわからないが、つい3日ほど前、年始の新年会に訪問したお宅で、何年もそのままになって黒くなった神棚の榊を思い出したのだ。あのとき、いやな気がしなかったのはなぜだろうと、その気持ちをといてみたいと思う気がこの文章にはある。

「大体朔日十五日に榊をあげ、お神酒をあげることになっていたが、近頃は正月とか節分、節句、祭りといった時にあげるほかは、何か思いついた時にあげるくらいで、はなはだ失礼なことをしている」

そう。ワタシとてそうであってというにはあまりに粗略であるのだが、そうか、朔日十五日に水をかえるくらいのことは、ことしはと、そう思った。

お日待ちについても、端的にまとめられていてその本質がわかりやすい。

「年に一回、年のはじめ頃にお日待ちをする。家に祀ってある神さまのお祭りである。それでこの日は宅神祭などといっているが本来お日待ちである」。そう年取りカブの山田さんが「あれはなんと言ったっけ」と言葉を探しておられたが、また違う名称もあったのかもしれない。

お日待ちでは家の中の神を祭り、(家の中とも外ともいえないが、場としては多く外にある)荒神を祀るのであるが、分家した家の家族も呼ばれるもののようだ。「むかしはお日待ちには神主は夕方にきて、夜どおしお祭りをして夜の明けるのを待つのであった。それでお日待ちというのである」という古態の記憶が語られている。

日=太陽として、日の出を待つからお日待ちと呼んだという呼称の由来が果たしてそうであったかどうかはわからない。確かなのは、大庭氏あるいは家郷のものたちがそう信じていたこと、その時空へもう少し歩をつめてみたい。推し量るにふたつある。ひとつ。「家の神」のことはよくわからなくなっている。お日待ちについてもそうであるし、ほかの祭事についてもそうなのだが、そのなかで夜を徹して行うことが守られ続けてきたのがお日待ちである。ひとつ。宅神祭とも言われたとおり、「家の神」をまつるものであるが、そこに集う人らは家族であり分家の一同であること、荒神の祭りに軸がおかれている様から祖先祭祀との結びつきがつよいこと、また正月の頃に行われることから、「年取り」の「年」に含まれる何かがここでは大きかったのではないか。

小学館の国語大辞典では、お日待をこう辞している。

《集落の者が集まって信仰的な集会を開き、一夜を眠らないで籠り明かすこと。「まち」は「まつり(祭)」と同語源であるが、のちに「待ち」と解したため、日の出を待ち拝む意にした。期日は正月の例が多い。転じて、単に仲間の飲食する機会をいうところがあり、休日の意とするところもある。》

『家郷七十年』では、集会にも講にも日待ちという語をあててはいなかったはずだから(のちほど確認。この際購入しようか)、日原という地の履歴もあわせてみればよりことの元に近づけるかもしれない。また、国語大辞典の「待ち」が「祭り」から転化したものであるとの釈は少々短絡であろう。桜井徳太郎が執筆している国史大辞典の「日待ち」の項はこう解している。他の事典と比してももっとも要を得ていると思うので、全文をあげる。

《集落の人々や一族があらかじめ定めた宿(やど)に集まり、前の夜から忌み籠りをしながら日の出を待つ民俗行事。マチは神の降臨を迎える信仰表出の一形態を示す語で、月待・庚申待・子(ね)待など、その用例は多い。神社の例祭をお日待と称する所が少なくないので、マツリの転訛とする説(『桂林漫録』)もあるが、定かでない。その起源は、天照大神の天岩屋の故事に由縁するとしたり、嵯峨天皇のとき天照大神の神託をうけて卜部氏の祖が始めた(『古今神学類編』)などと説くけれど、いずれも確証はない。この種の待行事は、庚申待が『入唐求法巡礼行記』に記載されるところから、中国道教の伝来によって起ったとされる。しかし古風を守る神社や民間の日待講に、精進潔斎して夜を明かし、太陽の来迎を仰いで解散する方式を執っているのをうかがうと、古代の祭式の面影を目のあたりにみる思いがする。日待に宴遊や娯楽、賭けごとが盛んになったのは後世の変化である。》

令和元年、年取りのタカキビ餅とタカキビと

昨年同様の塩梅でタカキビ餅をついた。昨年のほうが美味しかったという印象を持っている。硬い粒が残っているのと風味がいまひとつ。主に3つの要因があると思う。

1. 昨年よりもしっかり熟したものを使っていること
2. その割には水につける期間が短かったこと
3. ひき割りにした量がかなり少なかったこと

それから、昨年は入れていないモチアワを1合〜2合ぶんほどではあるが入れている。しかも半分弱は薄皮をかぶったままのものであって、あるいはこれが風味を損ねたかもしれない。

来年への引き継ぎ事項としては、水につける期間を長めにとることと、ひき割りの量をふやすこと、そして挽き割る際に出た粉も追加して加えること。

昨年、仕込みのときに感じた「この感じ」は忘れてしまっていた。そう、すりこぎでは埒が明かないとみて、家庭用精米機で殻をとっていたのだ、このときは。

年取りのタカキビ餅

タカキビ餅の仕込み〜平成30年12月

暦日雑想

(下書き中にて支離滅裂な点、多々あり、御免)
数日前のこと。年末の餅つきを一緒にする会の、打ち合わせの席でした。
冒頭、世話役の方から、今年は12月28日でいかがでしょうか、土曜日ではあるのですが、との発言。みなさん異論なく、しばし沈黙の後、それぞれに都合の摺合せや、餅米は何升用意するのかやら、わやわやと場は賑わったのですが、28日となったワケが興味深かった。
「29日はついちゃいけない日ということなので(29日の日曜日がみなさん都合がつけやすいのでしょうけれど)

そうだったかもしれないな、と思うと同時に、これ、迷信ではなくどこまで現在進行形の禁忌なのだろうかと思ったわけで、問題意識の備忘を含めて少し記しておくことにしました。
備忘…29日につく場所や家はあるのか。とりわけ加工場はこの日つくのかいなか。

まず、いくつかの脇道から。

聖性をおびた道具としての杵と臼

その席にいたほとんどの家には柿の木があります。つまりは、およそ8割が農家か元農家なのですが、いまでも、年末に家庭単位で餅をついている家はありませんでした。餅つき機はあるが、おばあちゃんがしなくなってからは買っているなどの理由によるものです。少なくとも杵と臼はどこかにしまってあるがはてどこだろうかという案配かすでに廃棄されたかであって、しばらく使われたことはないようです。
杵と臼について機会があればあちこちで改めて聞いてみたいこと。残っているのか捨てたのか。廃棄するとなるとそれなりにやっかいなものだということと、神聖な道具でもあり、そう簡単にゴミにはできないものだろうと思うからです。
飯島吉晴平凡社,世界大百科事典の臼の項でこうまとめています。

《臼はくぼみをもち,食物調製具として穀霊とも深い関係があるため,神霊を宿し生み出す道具として神聖視されてきた。新築の際には臼を最初に家に入れ,火災の時にはまずはじめに持ち出すこととされ,古臼の処分には近隣7軒に分けてたいてもらったり,石臼の破片は屋根に投げ上げて火事除けとした。年末には〈臼寝せ〉といって,臼に餅を入れて箕で覆っておき,正月の仕事始めにその臼の箕を取り除き杵で軽くたたいて〈臼起し〉を行う所もある。小正月には石臼に餅花の木を結わいつけたり,8月の十五夜には臼に箕をのせて供物を供えるなど神の祭壇とされ,また神のお旅所を選定するのに臼を川に流して決めるなど,卜占にも用いられた。農神は餅搗きの臼の音で春秋に去来するといわれ,ふだん空臼を搗くことは忌まれている。臼は年神や田の神の神座のほか,神輿の休息台にもされ,また人生儀礼にも多く登場する。初宮参りの帰りに生児を臼に入れて搗くまねをしたり,また難産の際には産婦に臼を抱かせたり,夫が臼を背負って家の周囲を3回まわったりする風もみられた。穀物が臼で食物に調製されるように,生児が社会的に誕生したり,子どもがこの世に生まれる上でも,臼は象徴的に同じ役割を果たすのである。》

餅つき機につかせることでも餅つきと呼ぶ私たちのなかには、杵と臼でつく餅つきのイメージと記憶がたしかにあります。いつの時代か後世、杵と臼での餅つきも遠いものとなっていくのかもしれませんが、餅つきという言葉そのものはしばらく消えることはありますまい。そして、令和元年の私たちの共通了解としての杵は、横杵です。が、将来残存するとしたら儀礼で多く用いられる縦杵を使ったものではなかろうか。横杵とはなにか。

《竪というのは、丸太の中ほどを手で握れるくらいの太さに削り、ここを持って上下に動かして臼の中のものを搗く。この型のは銅鐸に描かれたり、奈良県唐古(からこ)遺跡、静岡県登呂遺跡からも出土しており、横より古いものである。竪は、のちに横にかわり、使用が少なくなったが、みそ豆搗きや焼米搗き、餅の搗き始めには、最近まで丸棒状の竪が使われた。》(小学館,日本大百科事典:小川直之

  臼と杵から聖性が次第に薄れていく過程で、竪杵から横杵への転換が起こったのではないかと想像します。ここには複数の流れがあるのです。変化というものは、つねに複数の力動から、あるベクトルが生じるときに、流れとして方向性をもつものです。

さて。

大雑把には、それが便利だからとか忙しいからだとかいう理由がこうした変化には添えられるものでしょうが、渦中にある身としては、いやそれは第一の理由ではないだろうと、最近とくに強く思います。あるいは、効率性は単一の要因として変化を生じさせるものではありえない、とも。

結論めいたものを言ってみれば、これは、一人ひとりの内的感覚の変化なのです。味覚嗜好の変化であり、時の感覚の変化。
一人ひとりにその理由を問えば、こうした理由は出てきません。
なぜならそれは「個人」の感覚からくるものだから。
そうしたものは理由理屈をもって語られる言葉には出てこないのです。
しいて出るとしたら、「そのほうがうまいから」という理由です。
はで干し米をつくりつづけて、今年からはやめたという人から聞いたことがあります。「じいさんが、頼むから家で食べるぶんははで干しでと言われてきたが、もう勘弁してくれと、納得してもらった」と、そういうのです。あわせて「(自家用の)野菜もたくさんつくっているが、家を出た息子夫婦たちもよう受け取らん。つくる時間がないそうだ」。
スーパーは惣菜売り場が充実しているほうへ人は流れ、冷凍食品はスーパーよりもドラッグストアで買う時代であり、外食産業はそのほとんどがセントラルキッチンでつくられたものを使っているような時代。
なにが変わったのでしょう。
便利だから?
時間がないから?
いや、それは違うのではなかろうかと思うのです。

さて、下の写真は2017年12月30日に、とある農家へ伺っての餅つき風景。

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20171230-P127064302

ついた餅を大根をおろした汁につけていただきました。なぜ大根なのかとたずねたところ、特に由来があるわけでもないとおっしゃいましたが、昔からこうしてきたものだと。大根に含まれるジアスターゼなどの酵素の働きで消化が促進されることをもって、理にかなった習いだといえましょうが、それだけではないように思いました。
さて、このような機会は地方山間部においてもまれになったとはいえ、残っている家には自然な形で残っているものです。

閑話休題
話は、年末の餅つきの日取りのことです。
「29日はついちゃいけない日ということなので」というやつ。

まず基本的なことから。

忌み日について

〜〜してはいけないという日がいくつかあり、民俗学あるいは今は使わない語彙ではあるが総じて「忌み日(いみび、きのひ、ことのひ)」と称されます。簡潔な整理としては、消失してしまった祭礼の残滓的形態。祭礼を構成する多種の要素が抜け落ち、あるいは変容する長いときの流れのなかで、祭礼そのものがなくなった後にまで残ったもの、それが忌み日という捉え方です。
祭礼の前段において、精進潔斎する間をもって忌み日となっており、それは原形(古態)においては、数日にわたるものでした。食べてはならないもの、行ってはならない場所、そうした「してはならないこと」、すなわち禁止事項はむしろ付随することがらであって、たとえば、一番鶏がなく前までに誰にもみられることなく、海につかり身を洗うこと30日、というような「すべきこと」が定まっていました。多く神をまつる日であるのですが、餅つきについていえば、神を迎える準備のひとつとして供物を整えることがあります。餅はそのひとつであったのでしょうが、餅をつく前に、そこに携わる人は身を清めのぞんだのであれば、忌み日はついてはいけないというよりはつく準備をする日(期間)としてあったものでしょう。

特定の暦日が忌み日となること
時間とはなにか。掘り下げればおそろしい問ではあるのにもかかわらず、安易に時計のことだといってみることもできる。だが、時間は時計がかかわるものであって、時間そのものではないだろうとは、これまた安易には思う。
さて、時計は時間ではなく時刻をあらわすもののひとつである。同じことは、暦(こよみ)とカレンダーにもいえる。カレンダーは暦をあらわすひとつのものである。

……長くなったので、つづきはまた。