味噌をつくる前に〜#1

 今年は毎年味噌をつくっている妻を手伝って、…というより自分でもつくれるように見て聞いて手を動かしてみようと思い、少し考えたことを記してみる。

●味噌をつくってみようと思うその心は

・山の畑で大豆をつくり、味噌をつくる……仲間が5人くらい集まるといいななどとも。焼畑倶楽部の会員募集にも資するだろうということ。焼畑というと「焼く」ことにフォーカスされてしまい、畑で作物をつくるのだということを「忘れ」ている方が大変に多いのだ。だから、焼くのはともかく、つくることに関心をもってもらいたいなというその試みでもある。焼いた場所は当然のことながら、2年3年と作物をつくったあとでも、大豆など豆科作物は栽培できるし、むしろそのほうがよく育つ。「奥出雲山村塾」のフィールドでもそこは実証済みであるし、留意点もわかってきた。ただ、草を刈ること・柵をつくること、この手間がひとりでやるにはきつすぎるのだ。だから、仲間でやりたい。そういうことだ。 
 そして山の畑で収穫した大豆を味噌にすることがよいのは、味噌には味噌汁という素晴らしい食し方があるからだ。雑穀は現代の食生活にあわせるための工夫なり知恵・情報が必要だが、味噌汁は、いい意味でも簡単にだれでもつくれる。
 また、大豆は雑穀よりも収穫後の調製の手間がいらない。籾摺りや精白、そして商品として売ろうとおもえば、石抜きも必要になる、その労力がかからないことは大きなメリットだ。相反する面としては、虫に食われやすいということ、長期保存がきかないということくらいか。

・おからで、味噌をつくる……小さな豆腐工房でパート勤めをしていると、毎日大量のおからが出るのを目にする。あぁ、これ全部食べられるものなのになあと。味噌にはできるだろうしすでに商品もある。しかし、おいしさやそのお手軽感が何か違う気もする。どういうおから味噌だったらいいのだろうと。まずはふつうの味噌をしっかりつくってみないと、と。
このふたつを背景にしつつ、思いだけは膨らむのだが、さてどうなることか。ここで「続く」となってもよいのだが、味噌のことをもう少し書いてみる。

●味噌づくりが家の当たり前の仕事だった時代 …味噌はそれぞれの家でつくるのが当たり前だった100年ほど前のことを私たちはどれだけ知っているのだろうか。私たちは、味噌や醤油は買う方が立派な家であるという転換が起こった世代の話をまだ聞くことができる。それは変化どころの騒ぎではなく革命ともいえるできごとである。たとえば雲南市の旧中野村ではおよそ60年前に起こったようだ(調査中)。
 他の日本の農村でもおよそ「買い味噌」は家の恥とされていたと、多くの民俗資料や文献で見ることができる。一家の食料を管理できない、基本的技術である味噌づくりに失敗した、つまりはどんなに貧窮していようと味噌の確保は当然のことであったということ。
 もっとも、味噌が買えるようになった時代になってはじめて「恥」となったわけだし、実際「買う」場合もあったからのことだろうから、比較的短い時代の間の価値観なのかもしれない。

●三年味噌の本来の価値〜おから味噌の方向を探る
 
ここで想像してみたいのは、味噌づくりに必要な計画性というものだろう。各家庭で1年に使う味噌の量は、多少の変動はあるにせよ一定だったろうし、前の年につくった量と同じだけを仕込めばよいともいえ、そこに計算や計画が入り込む余地は少ないようにも思える。
 が、しかし、それは味噌の原料である豆や麦や麹や塩がいつも必要なだけ入手できる現代に生きていればこその想像なのだ。
 ところで、三年味噌とは、いまでは3年間じっくり熟成発酵させてつくられ、2年3年と歳を重ねることで、深みのある芳旨味とコクが生まれる、上等なもの高級なものとして喧伝されている。が、元々の語義としては、三年味噌を食べるように心がけるべきで若い味噌には手をつけないことから使われるものだ。すなわち「古い味噌」の代名詞だった。
 昔から飢饉は3年続くものだった。それを乗り越えて存続するためには、3年の食料備蓄が必要最低限の備えとして戒められていたのだ。味噌・塩・穀類のストックはつねに2〜3年ぶんを保持してはじめて「一家」といえた。
 麦の糠や籾も混じったものも味噌(ぬかみそ)にしたように、熟成が籾屑の分解(とまではいかないまでも食感を柔軟にはしたのでは)をすすめ、食べやすいものにもしただろう。
 おから味噌づくりのレシピをみると豆乳をいれるものが多いのだが、豆腐づくりの場にいるものとしては、それは本末転倒というか、なんでーと思うのだ。分離したものをなんでいっしょにするかというと、それって作り手の手間をはぶいているだけじゃないかと思う。そこまでお手軽にしていいのかと、罪悪感すら感じてしまう。
 だから、豆乳はいれない。それが自然だと思う。
 おからだけの味噌だと、微量ミネラル等に欠け、風味は落ちるかもしれない。味噌汁ではなくなめ味噌、あるいは糠味噌のような使い方がよいのではなかろうか。あるいは雑穀を精白・選別する際に出てしまう籾屑をまぜてみるか。
 まあ、そんなことを考えてみた。
(つづく)
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【参考】 高取正男,昭和51「生活学事始め」(『高取正男著作集4・生活学のすすめ』法蔵館所収)

かち栗飯が美味しかった

 1月8日は、カフェ・オリゼのお手伝い。木次チェリヴァホールで開催の演劇カーニバル&マルシェカーニバルへの出店をサポートしました。

 そのマルシェでお隣だった金山要害山保存会が出しておられたのが、戦さ勝ち栗飯。

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 これが美味しかったのであります。

 まずはこの竹皮がただものではない感があります。まさか自分たちのところで採って乾燥させてのばして、、、という皮じゃないでしょうね。それを確かめたかったのですが、気がついたら撤収されていました。さすが戦上手。

 竹皮についていえば、これ、マダケだとは思うのですが、皮が大きい。これほどのマダケの皮がまだとれるのでしょうか。手入れされた竹林でないと、これはないだろうというほどの上物です。あるいはこれだけ東アジアのどこかからの輸入物なのか。結んだ竹皮のひももいかしています。イラストもデザインも自分たちでつくったものだというアイデンティティを伝えてくれます。外面と中身が乖離したデザインが跋扈する中にあっては、信頼感・安心感があります。

 そして、なにより中身なのであります。これがよかった。

 なんといってもうまい。

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 人工甘味、旨味の類いがありません。塩が必要最低限。栗のほのかなうまみとおこわのおいしさで十分。色づけに使われている黒米のコクのようなものさえ感じられます(気のせいかもしれないが)。よかったよかった。また食べたい。そう思える久々の”新”郷土食でした。

 そう、郷土食ではないのです。新郷土食。要害山保存会らしい戦にちなんだ何かを編み出すべく、自分たちで考えてつくったのだという気概が感じられます。だから「新」。しかるに、この新こそが真の意味でも郷土性をつくりあげていく可能性をもっているのです、今の世にあっては。

 惜しむらくは、この栗、かちぐりではありません。

 勝ち栗とは元来、搗ち栗(かちぐり)をもじったものですが、私がおいしいさに感激しながら、食べたのはふつうの栗でした。冷凍保存されたものを使っておられるのだと思います。

 が、そういう私、かちぐりを食べたことはない!のです。すみません。

 かちぐりとは。。。。

 ひとことでいえば、干した栗です。干して搗いて、殻・甘皮をむいた栗のことを搗ち栗と呼ぶことは和漢三才図会にもあります。そしてこの干して熱を加えて皮をむいて保存するという方法は、古来・縄文時代から数千年にわたって、日本に住む人々が栗を食べてきた歴史とともにあったものです。

 保存・携行性にすぐれ、乾し飯とともに、かじってよし、水にひたして食べてもよし、炊飯してもよしという優れものでしたので、武士団にもよく採用され、また「勝ち」と「搗ち」の同音から武運を呼ぶものとして重宝されたものなのでしょう。

 木次駅前の狼煙(のろし)あげは観るチャンスを逸しましたが、なにかの折にまた、このかち栗飯を食べてみたいですし、搗ち栗を使った勝ち栗飯をつくれるように精進していきましょうぞ。

 

 

 

平成30年1月4日8時38分の風景

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仕事はじめの日だった。
人の世には始まりがあり、草木虫魚にはそれがない。しかし彼らには永遠があるのかもしれない。
どちらがよいとも思わぬ。人は人として人の世を生きるのみ。
人が人としてやらねばならぬことの筆頭には仕事というものがある。
1月7日の今日から、車輪がまわるようにその「仕事」がはじまっている。
朝食の後、そういえば、今年の目標をかわしてなかったね、と妻に問うた。
1分ほどでお互いの一文字を決めた。
私の今年の目標。

昨日、益田市のグラントアで開催中のエドワード・ゴーリー展を観て、記憶に残った展示がこれだった(リンク先はamazonで購入できるその書籍)。

THE POINTLESS BOOK: Or, Nature and Art.

「無意味な本 あるいは自然と芸術」
意味によって覆い尽くされようとしている世界。その源たる書物というものに無の点を打つこと。無がひらくものに期待しよう。

摘み草の記憶〜#001

 野山のものを採取し食す。この行為を促すマインドセット※1は、食文化・食習慣の変容にさらされてなお、その原基のようなものを保持するのではないか。そう推するに足るいくつかの出来事があったので、まとまりなくも綴ってみる。
 かめんがら(cf.2016年のガマズミ)について、子どもの頃にはよく山で取って食べていたと、いま60代の方々から聞くことがあった。ここでいう「子どもの頃」という時代を、現在65歳の人が10歳だった頃とすると、昭和38年(1963年)のことだ。
 昭和38年といえば、東京オリンピックの前年である。農村には牛に代わり、トラクターをはじめとした機械が入り、トラック輸送が食品流通をかえ、日清のチキンラーメンをはじめとした食のインスタント化が進行していた。「鉄腕アトム」の放映がはじまった年でもある。ちなみに当時にあっては原子力は未来の夢のエネルギーと見られており、資本主義を打倒し民衆を解放するものとして共産主義が推するものでもあった。  この時代、家庭で味噌をつくることが「恥ずかしい」「遅れた」ことだと見られる地域もあった。味噌や醤油は「買う」ことが進歩的だと。
 小さな経済循環を解体し大きな経済循環のなかで、社会を再形成することが「是」とされた時代である。「こんにちは赤ちゃん」がヒットしていた。ベビーブームの谷間の世代でもある。

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By Mc681投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, Link

この項、つづく(のちに加筆)。
●2017年12月の年の瀬に、とある40代女性の会話の渦にちょっと驚いたことについて。 「今の子達でも、〇〇の実をとって食べたりするから、びっくりしたのよ。いつ覚えたんだろうと」 「へえ。そうなんだ。私たちが子どものころは、△△はよくとって食べたよね〜」 「あぁ、□□は吸うと美味しかったわ〜」
 そうした行動や嗜好が発動するのは10歳前後であって、長じるに従って失せていく。ただ、いずれは消えてなくなるかもしれない。なにより、消そう消そうとする力は強く作用しているのだから。
 ここで注目したいのは3つのことである。
1.民俗文化の断片が子どもたちの「遊び」の中に残存するということ……柳田國男が「小さき者の声」で言及していたように、それらは大きな変形を起こしながらも残る。柳田はそれを「大人の行為を真似する」ということに因を求めているが、《模倣》ではない何かがそうさせるのだと考えると、ひとつの理がそこに見いだせる。
2.採集草木の利用が社会の中で失せても、子どもの「おやつ」「遊び」の中に残存するということ……よくわからない。あえて予断をはっきりさせることで、自らの認知に注意を促そう。たとえばガマズミの実を子どもが取って食べるのは、おやつとしてであって、大型の果樹の品種導入などによって食用としての利用が駆逐されていった後でも残るのだと。
3.子どもは大人よりはるかに非合理の世界に生きているということ… 子どもは「感覚の世界(養老孟司)」で生きている。子どもの存在そのものの価値を近代社会は否定しつづける。老人の存在も同様。
 こうしたことを念頭におきながら、いま40代の母にあたる人たちに残る「摘み草」の記憶をたどってみようと思う。時代でいえば、今から30年〜40年ほど前、1970年〜80年代である。
島根県雲南市在住・Aさんの言
 島根県川本町で生まれ育ち、小学生の頃に同県頓原へ移住。母は昭和20年生まれ。道の草をとって、こうやって食べるのだと教えられたり、むかごの取り方などを教わった。が、本人は山菜とりなどにあまり興味はない。
〇母のこと
・母は9人兄弟の下から2番目。上の人たちが働きに出るため、10歳頃からご飯をつくる炊事の係をしていた。まわりの人たちから、食べるものについていろんなことを教わった。
・山菜採りが好きだった。春が来るとうれしかったようだ。春になると、車にのせて連れて行ってといわれ、よく出かけた。車を運転していると、ずーっと外を見ていて、「あ、とめて」と言っては、草をとってきていた。
〇教えてもらった草のこと
・道ばたにあったイネ科っぽい、シューっとした葉がある。茎を折るようにしてしゅーっと引き抜くと白い綿みたいなものが出てきて、食べられるということを教えられた。
・味は覚えていない。おいしいとは思わなかったが、まずいとも思わなかった。
〇注:上記の草はおそらくチガヤであろう

※1私たちの脳と心はいまだに、定住農耕よりも、狩猟採集生活への適応をいまだ強く保持している。俗説のようにきこえるが、進化心理学の定見でもある(らしい)。

畑もちを搗く〜その2

 12月28日。働きに出ている豆腐屋さんで年取りの畑もちを搗いた。

 畑もちを搗く〜その1であれこれと思案したが、成り行きの末、以下のレシピとなった。

◆材料

・もち米1升……精白したものを購入

・もちアワ0.5合……焼畑2016年産。精白後、水に浸すこと2日。

・タカキビ1合強……焼畑2017年算。皮むきをミキサーで行い、3割程度が挽き割りとなったものを風選。さらに水選したものを5日ほど水に浸したもの。水換え3〜4回。とくに最初の数日は半日で換えるくらいがよいのだと思った。

※アマランサスとヒエは今回、入れなかった。それでよいと思う。もち米とタカキビだけでよいのではとも思う。もちアワをふやすのであれば、タカキビを減らしてもいい。挽き割りの度合いはもう少し増えてもいいのでは。

合計1升2合程度

◆手順

1. 蒸す水(熱湯)を用意する。今回は餅つき機を使った。杵で搗く場合、こねの工程に時間をかけないと、雑穀が飛び散る。

 蒸す機械にもよるのだろうが、もち米100%の水の量と同じにした。

2. 蒸し器(今回は餅つき機)の下からもち米8割、その上にタカキビその上からモチアワをのせ、もち米2割ぶんをのせる。

3. 蒸す。(機械まかせ)

4. 搗く・こねる。(機械まかせ)

5. 搗きあがったらすぐに丸餅にして保存。

 搗きたての餅を味見がてらほおぼったが、想像を超える美味しさ! 来年はもっとたくさん搗きたい。ほんのりピンクがかった色であり、白いもちをあわせて紅白にもみえるので、よいのではなかろうか。

 このレシピ(雑穀の配分)は、結果としては匹見(島根県益田市)のたかきびもちに近い。

 『聞き書島根の食事』に、たかきびもちとしてこうあるものだ。

《精白したタカキビを二、三割、もち米と一緒に蒸してもちを搗く。たかきびのつぶつぶと香ばしさは、また変わったもちの味である》

 匹見といえば、とち餅が有名であり、栃の実の味わいに対する嗜好が、ここにひいたタカキビモチにも表れているのではなかろうか。つぶのまま搗くということ、そして材料としてはもち米があくまで主ということ。他の山間地域で大正後半から昭和はじめにつくられていたタカキビモチが、粉にひいたり、あるいはいったん搗き潰したものを加えたりするのとは違う。

 過疎地の典型のようにいわれるが、このタカキビモチからうかがえるのは、もち米をふんだんに使えるような産業の進展が大正期の匹見にあったのだと推し量れる。

 モチのねばりは、いまでこそ、もち米を使って簡易に得られるわけだが、かつて、タカキビだけからもねばりを得ようとしたその苦労を思うと気が遠くなる。

 さて、食し方としてはシンプルな雑煮があいそうな気もするし、焼き餅も捨てがたいと思われるが、それについては、次回。

 

ホトホトと餅とダイシコの関係〜その2

 年の瀬に畑もちを搗くことと、正月のもちを考えることは、並行している。

 なぜ人は正月に餅を食べるのかということだ。

 つい数日前に、ホトホトと餅とダイシコの関係といってみているものの、関係を説いてはいない。関係とはほどとおく連想のかけらみたいなものしかない。さて、どうしたものか。

 きょうは年賀状に添える短文をのせつつ、雑想として記したい。

【クマゴ雑想】

 失われた穀物、クマゴを追いかけて二年。どこかで散見した資料に、熊子(クマゴ)とは広く雑穀でアワの代わりに用いたものを呼んだとあったのだが、典拠を失念し思い出せない。供物としての粟、その代理たる穀物の総称ということだ。邑智では神に供える米を「くましろ」といい、和名類聚抄には「神稲 久末之呂」とある。

 年取りの餅を搗く前に、乞食の古態を思った。食を乞うものへ正月、餅を差し出す民俗には、クマゴに通じるものがある。食べることをわかちあうことの尊さを、せめて小さなところから確かなものとしていきたい。

 柳田國男『食物と心臓』を百回読めば、もう少しうまく記せると思う。

 そう自分にいいわけしつつ、いくつかの引用をお許しいただきたい。

「モノモラヒの話」〜

《只の憫みを乞う窮民以外に、正月の始めにどこからとも知れず、春田打ちなどの祝言を唱えて、米や餅を受けてあるく者も貰い人であった。(中略)此点は美作備中等の正月のコトコト、奥州仙台付近のチャセンゴ等、全国にわたって例の多い風習であって、(中略) 出雲能義郡でも旧十月の亥子の夜、むこ神さまという神を祭るのに、米を多家から貰ってあるき、それで小豆飯を炊いて供え、又自分たちも食べる(広瀬町誌)》

「身の上餅のことなど」〜

《餅の私有が他の多くの食物とちがって、現実消費の時よりも可なり久しい前から、開始せられ得たということが、是をめでたいものとした原因の一つではなかったろうか。少なくとも今日もなほ活きて行われているモツという二つの動詞が、この餅という日本語と関連のあることだけは想像してもよくはないか。単なる祝いの日の共同の食物としてでなく、是が神様先祖様は申すに及ばず、二親  を初め、特に敬意を捧ぐべき人々の前にそえられ、正月になると囲炉裏の鈎、臼鉈苧桶鍬鎌その他の農具から、牛馬犬猫鼠にまでそれぞれの餅を供え、大小精粗の差こそあれ、門に来て立つ物もらいにまで、与うべき餅が用意せられてあったといふことは、大げさな語でいえば、人格の承認、即ち彼らもまた活き且つ養われなければならぬといふ法則の徹底だと云いうる》

畑もちを搗く〜その1

 働きに出ているお豆腐やさんで、28日にモチをつく。仕事で使っている餅つき機を使って、みんなでそれぞれの家のぶんをつくのだが、私はせっかくなので、畑餅(畑でとれる雑穀のもち)をついてみようと思う。

 畑もちという言葉を最初に目にしたのは、『聞き書山口の食事』の中であり。雑穀の餅のつき方

で引用した箇所にあたる。今度県立図書館に行く機会に索引でひいてみようと思うのだが、山口のこの山代地方だけである可能性は高い。

「畑もちは、あわ、きび、たかきびが主で、もち米に余裕のある家は一割くらいのもち米を入れ」とあるように、もち米を混ぜる場合もあるが、主役は雑穀。

 購入するにはもち米のほうが入手しやすいため、今年の年越しはもち米を8割、2割を雑穀でと、あらかたの筋をたてている。そして、来年は陸稲(おかぼ)を8割としたものを導入しようかと目論んでいるのでその予行でもある。すなわち来年春焼きをやるのであれば、陸稲に挑戦ということだ。

 さて、もち米と雑穀とをあわせたヒントとしたいのは、『聞き書山口の食事』にある北浦海岸(萩市)の食の中にある。

あわもち せいろに、水に十分浸したもち米七合を平らに入れ、その上に同様に一晩水に浸したもちあわ二升三合を平らに入れて、蒸して搗く。搗くときはあわがぱらぱら飛ぶので、先に手でもち米とよくこねてから搗きあげる。

 香ばしく、野菜と一緒に味噌雑炊にしたり、焼いたりして食べる。》

きびもち もち米七合、きび二升三合の割合で搗く。きびは皮をとって一週間ぐらい水にかしたものを使う。渋をとるために、水をときどきかえる。

 せいろに、水に浸しておいた米を入れ、上にきびをのせて蒸す。蒸しあがったら杵で搗くが、このとききびが飛びちらないように、杵を静かに押しながら米と混ぜるようにする》

 ここのあわはモチアワ。もちあわの場合、文字どおり糯性なので、もち米との比率はあまり気にせずともよいだろうと思われる。水に浸す時間はこの箇所ではもち米と同様一晩としているが、たしか他の箇所で2日という記述もあった。いずれにしても、キビのように1週間近くつけるのではない。

 ただ、重要なのは蒸すのは一緒にするということ。

 もち米の上にキビなりアワなりを「平らに入れて」蒸すのだ。

 

 第一仮定で以下の配合を考えてみた。

・もち米7合

・もちアワ2合

・タカキビ2合

・アマランサス1合

・ヒエ1合

合計1升4合

どうだろう。ヒエとアマランサスは今回パスしようか、どうか。とりわけヒエが一手間かかりそうなので。ともかくも準備をすすめよう。というより、タカキビはもう水に浸さねば!なのである。

冬至当夜の日に〜豆腐をつくる・食べる文化の奥にあるもの

「いまでもあそこでは草刈りの後の直会ではひとり豆腐一丁は必ず出すんだそうよ」

「あー、うちもつい最近まではそうだったみたいだよ。さすがに夏の暑い時期に、豆腐一丁はようたべんということでやめになったらしいけど」

 今日の茶飲話より。

 豆腐はハレの日の食であったことを知らない人もふえてきました。私自身、小さな頃から豆腐は日常の食事でありました。ここ島根県雲南地域に越してきてから、ハレの日の食として豆腐があったことを知ったのです、遅ればせながら。そして、とりわけこの地域では豆腐をよく食べるし、木綿豆腐の割合が大変に高い。かつてそれぞれの家でつくっていた豆腐の名残が、そういうことをしなくなってからも色濃く残っているからなのでしょう。

 そういえばこんな話も80歳を超えたおばあちゃんから聞いたのでした。

「味噌も醤油もつくらんし、こんにゃくもつくらん。豆腐くらいは今でもつくるけど」

 全国的にみれば……、どうだろう、味噌をつくる家庭よりははるかに少ないと思いますが。こんにゃくとはいい勝負なくらいでしょうか。一度、可能であれば、悉皆調査をしてみたいものです。漬物や梅干しなどとあわせて。

 

 そして、冒頭にあげた話がでたときに、漂っていた疑問にひとつにちょっとした仮説を出してみたので、今日、はなはだ不備不完全ながら備忘的にあげてみるのです。

《木次ではなぜ豆腐をハレの食とする文化が今に至るまで残存しているのか》

  豆腐づくり必要なものを3つあげてみます。

・大豆
・にがり
・石臼(碾き臼)

 大豆は日本の食にとってなくてはならないものですし、どこでも栽培できるものですが、牛を飼っていたこの地域では、かなりの量を生産していたのではないかと思います。そう。ここで第1仮説です。

牛の放牧地で栽培するものとして、最後まで残っていたのが大豆なのではないか仮説

 わかりますでしょうか?ひとつの長い引用をもって、つづきは、またあらためて加筆します。(なんと、今日は冬至だった! 出雲から伯耆にかけて冬至当夜(トージトヤ)と呼ぶ習俗があります)

 石田寛1960,「放牧と垣内」(人文地理12巻2号)より

仁多郡鳥上地区では垣内すなわち放牧場内に畑(牧畑)があり、夏まや期間中のみに大小豆をつくり、それ以外のときは放牧場となる。

(中略)

 「藩政時代には、この一帯の奥山山地を鉄山と呼び、人家に近い山野を腰林といって、2つを区分して利用していたのである。鉄山は鉄山師の支配する山であり、腰林は農民の私的支配下に置かれた柴草山であった。田付山による採草、薪炭諸資材の採取などが自由になされていたのだる。この口鉄山では鉄師の支配権と農民の支配権とが重畳していた。

(中略)

鉄山は林間放牧地であり、それゆえにそれ(畑)は口鉄山でのみ行われるのである。牧野の中にある畑は1年1作であるわけであるが、作物は大豆または小豆に限られる。作付期間は放牧牛のこない時期に限られている。地盤所有者は自己の畑に耕作しながら、その所有権行使は放牧権を侵害しない限りでのみ許されるにすぎない》

(つづく)

 詳細ははぶきますが、大豆をつくる山(の畑)だけはたくさんあったということです。

 なぜ大豆・小豆に限られるか。

 それは牛が夏の暑い間、まや(小屋)にひきあげられるとき(約2ヶ月)をのぞいて栽培できるという条件にみあうものです。それが大豆であったということです。

 いや、大豆は60日じゃ無理だろうと。そうなのですが、それなるがゆえに仮説なのですが、牛は大豆が実をつければ口をつけないのです、おそらく。

 下の写真は冬至をむかえた我が家の夕食メイン。揚げ出し豆腐でござる。

 

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雑穀の餅のつき方

 農文協から刊行されている『聞き書き山口の食事』を購入した。これで中国地方五県ぶんが手元にそろったことになる。全国47都道府県のシリーズ「日本の食生活全集」の中の5冊ぶんである。残り42冊、全巻そろえてみたい誘惑にかられる。と同時に、日本は広いなあと改めて思う。中国五県、すなわち、広島、岡山、山口、鳥取、そして私が住んでいる島根も含めて、ずいぶん広く大きなエリアだとふだんは感じているが、日本のなかでは小さな一地方に過ぎないのだ。索引等の別巻も含めて全50巻というその大きさをにわかには捉えがたい気にもなる。ただ物理空間的に占めるものはそれほどでもない。図書館でそろえているところも多いので、一冊一冊はいつでも読もう思えば読める。ただ、私が全巻そろえたいと欲するのは、他の文献を参照しながら、ときには料理をつくったりしてみながら、何度も繰り返し読むものだから、手元においておきたいという事情による。一方でそれは、このシリーズの不完全さ、というよりは、食文化を書にまとめるというときにつきまとってしまう欠落に由来するもののためである。

 なにはともあれ、まずは中国五県分について、そらんじれるほどには読み込んでいくつもり。

 さて、本題。

 「日本の食生活全集」において、餅は必ずどの地域にも出てくるのだが、山間部において、餅をつく量が尋常ではないのだ。「冬の間はきらさないようにする」だとか……。ここで言及されちる餅とは、我々、平成の時代に暮らすものが想定する餅とは異なるものが入っているのだろうが、明確に言及している地域は、これまで読んだものの中にはなかった。

 山口県山代地方(錦町府谷)の聞き書きでは、他(の中国地方)では記録されていない、その、餅の異同について、記されている。しかも、つきかたまで書かれているので、これを参考に、我が家の年取りの餅をついてみようと、身を乗り出したほどである。

 少々長いが、そのまま引用する。

《田が少ないので、もち米は二、三畝くらいしかつくれない。もち米は祝いのごとのためにのけておく(しまっておく)。ふだん食べもちはほとんど畑もち(雑穀もち)である。

 白もちは、正月の鏡もちと雑煮用の丸もち少々と春のお彼岸に少し、秋祭りに二、三升搗くだけである。

 畑もちは、あわ、きび、たかきびが主で、もち米に余裕のある家は一割くらいのもち米を入れ、正月前に白もちを搗くときに一緒に搗いて、水もちにして保存する。》

 そして、畑もちの雑穀であるあわ、きび、たかきびについて、「寒もちを搗く」のが調理のほとんどであり、とがんにまぜて炊くことは「麦の備えがないとき以外、ほとんどない」としている。まことに興味深い。そして、餅としてつく際にこうして仕込むだという。

《たかきびは、五日から一週間水にかして、大ぞうけに上げて水を切り、だいがらで搗いて粉にする。たかきび粉を水でこね、湯気の通りをよくするために大きなだんごにして蒸す。よくうみたら(蒸し上がったら)、もう一度だいがらで搗いてもちにする》

 ここで、もう少し掘り下げてみたいことがある。ホウコ餅のこと。

 中国地方の他の山間地域の餅では、ホウコ餅がとりあげられてる。ホウコは山ぼうこにしろ田ぼうこにしろ、もちのつなぎとしての役割が大であった(と思われる)。しかるに、ここ山代において雑穀の餅は果たしてつなぎなしでいけたのかどうか。ホウコ以外でつなぎとなる草木があり、それを使っていたのかもしれないし。

 この件については記事を改めて。

金継ぎ、はじめます(かな)

一昨日、全6回の金継ワークショップ受講を終えました。
金継ぎ師guu.仲秋の金継教室」として雲南市木次町のカフェ・オリゼで開かれていたもの。9月の残暑きびしい日から寒さで凍えるような年の瀬まで、終わってしまえばあっという間でした。漆がかたまるのをまって次の工程にはいるので、3〜4ヶ月はかかるのですね。段ボールを使った簡易な室で「お世話」することも、手間だなあ面倒だなあという気持ちとは裏腹に、手をかけることに漆がこたえてくれているようで、楽しい時間でした。湿度と気温をみながら、霧吹きで段ボールの中をしめらせておくのですが、季節のうつろいとともにかわきかたもなにもかわっていきます。漆は生きている。そう思わずにはいられません。それやこれやもふくめて、昨今ぱぱっと終えるワークショップが隆盛するなかでは息の長い教室だといえましょう。
1回のワークショップは2時間程度なのですが、筆やへらの使い方やら練り方やら、ひとつひとつが「微妙」な加減を会得するのが骨折りでした。いや骨折りというのは言葉が違う。ほんの一瞬なので、つかまえようがありませんし、なんとなくわかった気になっているだけです毎回。よって次回にはすっかりといっていいほど忘れている。メモをとっていてもさして役に立ちません(が、メモがないと完全に忘却)。そういう具合だったので、6回の受講をおえてまず思い立ったのは、忘れぬうちに実践せねば!ということ。これから、自家(カフェ含む)の器を少しずつ手入れしていきます。
下の写真は最終回の様子。ガラス板にのっているのは絵漆です。

最終回を終えてのguu.さんの言葉から。

《金継ぎをやっていると、どの工程もすごく大切なのがよくわかります。 (きっと生徒さんたちにもわかっていただけたはず!) 粉蒔きを美しく仕上げるには、中塗りや下塗りから美しくしておかないといけなくて、中塗りや下塗りを美しくするには、錆漆等の下地から美しくしておかないといけなくて… 「丁寧な仕事」の積み重ねが最後の仕上げに全て表れるのと同時に、「まあいっか」の積み重ねも最後の仕上げに全て表れます。 「ものを直す」ということを、少しでも身近に、気軽に考えていただきたいのとともに、職人さんや作家さんの漆器が、いかに「丁寧な仕事」の積み重ねであるか、感じていただけたら嬉しいです。》

丁寧な仕事の積み重ね。工芸にはそれが出るものですし、伝わる、ときには数千年をへだてても。景観にもあるのではないかと思う、あるいは思いたくなっている、今日このごろ。美しい風景には、人が手をかけただけの積み重ねがあるのだと。ね。