バター作りワークショップのお知らせ

 9月24日の日曜日はバター作りのワークショップです。

 内容と申込はfacebookのこちらのイベントページから。

◉バター作りワークショップ by 森と牛と畑とーダムの見える牧場

 フレッシュバターを生クリームからつくるというのは、食育というキーワードを加えると多発しています。なにせ方法は簡単。生クリームを容器にいれてふるだけ。

 それじゃあつまんないなあと、思ってしまうのは私だけではないはず、、と思う。生クリームと牛乳とのつながりが実感しにくいのです。生クリームってどうやってつくるの?ってことが加わるし。牛乳だって工場で殺菌やパック詰めの工程をへているとはいえ、搾ったミルクとのつながりが感覚にでもって得られる。生クリームではそれが弱いかほぼない、と私には思えるのです。

 そして、牛乳から手作りで、バターがつくれないわけではないのです。かかる時間が生クリームでは10分〜15分かかるのが、20分〜30分にふえるというくらいのことで。

 また、ガイドページにも書いたのだけど。これは野菜を中心としたマーケットで開催されるワークショップです。

「バターは工場でつくられるもの。いまの当たり前も、ここ数百年の常識。50年後に野菜は工場だけでつくられるものになり「野菜って土で栽培できるの?」という時代がきてもおかしくはありません」

 スリランカで水牛のヨーグルトが素焼きの鉢に入れられて売られていたのを思い出します。日本の牛乳は大半が乳業会社の製品であり、個人経営酪農家の牛乳はきわめて稀だ。製造プラント建設だけで最低1億円はかかるときく。そら個人じゃ無理だ。

 そういう世界から少し離れて、牛やミルクを見てみるためのWS。そのためには牛乳からせっせとバターをつくる経験がよい。と、私は思う。

 

 

焼畑はつくられた世界の中にはない

「焼畑ってどういうことなんですか? 灰が肥料になるの? 毎年焼くの?」

1日のうちに10回ほども、そんな問いを受けただろうか。

いつもならやや飽きてくるのが、今日はそうはならなかった。客層が下の写真にみる会場から少しは伺いしれるのだが、変態的ともいえるほどに、おもしろかったのだ。別な言葉でいえば個性的。トラックに積んで帰ろうかという間際にアマランサスをみて(え、あれは何? 待って〜と)追っかけてきた親子はわかりやすい例だが、みなそんな異質性を心地よく発揮していらしたように思える。

とはいえ、焼畑とは何かという答えの厄介さを感じた人はさすがにいないだろう。それはひとえに私の修行の至らなさでしかないのだが。このもどかしさを如何ともしがたいので、断片を箇条書きしてみよう。

1. 焼畑とは何かという問は、自ずとある完成された世界を前提にしている。時と状況がそのものの意味すらも変えてしまうというふうには「もの」や「こと」を捉えない。すなわち、問は知っている者や体系から知らない者へとおりてくる知識によって答えられる。

焼畑のそうした関係性とは異なる世界にあって意味と価値をつくっているので、問いがあったとしても答えという形で応答することは「正しく」ない。

「違う」のが通常であり、経験とは単一の知識をさすのではなく、固有性をさすものである。

これがわかりはじめると、民俗や自然を知る古老がしばしば、こちらが問うたこととはまったく筋の違言葉を発する瞬間ときに、心踊るようになる。

2. 作物を栽培する、育てるということは、収穫のためになされるものであると我々は考える。つまり時間の経過の後のことが目的となる。よい栽培方法があって、よい収穫がある。原因があって結果がある。目的があって手段がある。

……そうした対とは異なるあり方や考え方、世界観が焼畑の中には宿っている。

種のまき方、種のとり方ひとつひとつをとっても、そうだ。

通説的説明では、焼畑の栽培が場所を移動する=Shiftingするのは、地力の衰えによる(あるいは除草の手間が増大するため)のだとされる。が、本当にそうなのだろうか。

こう考えみよう。私が火を入れた後に種をまくことは「結果」ではないのか、成果ではないのか、と。そしてそこから、因果ではない種と私と自然と世界の関係性が開けてくる。

つくられた世界ではない。脳化=硬化した世界とは異なる身体性がその基層といえるものにはあろう。

3. 我々が知る日本の焼畑像は、さかのぼっても江戸中期以降のものであると仮説づけて考えたほうがよい。少なくともそうすることで焼畑の可能性が大きく開けてくる。空間的にも時間的にも。

竹の焼畑2017-sec.29

9月8日(金)快晴。最高気温27℃。 活動報告です。
○参加者:島大から2名、教員1名(午後〜)、地元1名の計4名。
○時間:10時~16時
○内容
10:00~10:20…作業内容協議、確認。
10:30~12:15…火入れ地草刈り整備
12:20~13:10…昼食・休憩
13:15~14:40…火入れ地草刈り整備、8月夏焼地と中山雑穀地観察&ニンジン播種
14:50~15:50…春焼地のさつまいも救出(草刈)/ホンリー間引き/アワ、ヒエ栽培地観察


▲この草を刈り。見えないですが、草の下に竹がうまってます。 ○課題 年度当初からではあるが、活動参加者の見込が計画より相当に少なく、半分以下ではなかろうか。規模をおさえた計画とあわせて、技能向上を次年度からははかりたい。夏焼は9月に雑草灌木等を燃やすことにして、他地域への研修旅行を企画するのがよかろう。

◉栽培地状況 ○蕎麦は花をつけています。
○カブ、3日ほど続いた降雨で発芽です。一安心。

○中山袖地のアマランサスはまずまずの出来(2年畑)
○中山そば地跡はここにきて牛に食われてしまいました。アマランサスが多少収穫できる程度か。 ・アマランサスは葉を食べます。茎は細ければ食べる。いちばんよく食べるのは大豆。花をつける前にほぼ全滅。モチアワも実は食べないのですが、茎と葉を食べるので踏み倒すなどされており、熟す前に倒伏。もともと発芽・生育ともによくなかったのですが、ここへきてほぼ全滅の様相です。

○春焼地のホンリーが色づいてきました。美しい。

●そして本日のブラウンスイス。涼しくなって食欲も増進中!?

申年ノ飢饉ー天保7年飢饉ヲ思フ

「この人は、お金がなくても、食えるように、いろいろやってるよ(笑)」

自分のことをそう言われてなるほどなとは思った。そんなつもりはないのだけれど、山を焼き雑穀を育て、野草の食べ方をいろいろと試し……、などなど。研究なのか趣味なのか事業※なのかは判然としないが、実践を積み重ねているのは確かだ。※森と畑と牛と

今日は松江市立中央図書館で、享保の諸国産物帳のうち隠岐、出雲、備前備後のものを草木を中心に通覧して必要箇所を複写し、ほか開架で目についたものをめくっていたら、あっというまの3時間だった。こうした書や資料を読んでいると、飢饉、救荒のことは必ず出てくる。

滅びゆく、用の済んだ、時代に取り残されたものばかりを集めていることは、冷笑されることもしばしばだが、いやそれはそのとおりであると自覚しているが、役に立つことがあるとしたらば、消え行く「食べるための」智慧を集めているということなのかもしらん。

飢饉は多く農村で生じる(てきた)。江戸時代以降、都市での餓死は少ない。食糧は都市に集積されるものだが、現代においてはどうなのだろう。そもそも食糧がどこでストックされ流通し消費されるのかというそのめぐり方において、現代日本の農村と都市の対比は意味が薄い。

農村から作物をつくる知恵や技術が少しずつ失われていくはじまりは江戸時代に入ってからだと推察する。中期・享保年間あたりから、農書や救荒の書が次々と刊行されることがその傍証である。およそ300年も前から、「山に入れば生き延びられる」ことは稀になっていったのだ。あえて悪し様にいえば「ただ言われたままにつくるだけ」の農民は江戸時代に誕生し今日までその栄華をきわめているのだ。とはいえ、山野の知=野生の思考の断片は生きていて、再生も復興も可能な時代に我々はいるのだということを希望としよう。

宮本常一著作集23「中国山地民俗採訪録」は昭和14年に宮本が見聞したものが中心で、金山谷や戸河内や匹見のことでへぇー、ほぉー、なんでだろう、とおもしろく読めるところ多出する。

なかでも、山口県玖珂郡高根村向峠(むかたお)のことは、何度か通ったり眺めてきた土地であることと、2〜3の書き留めておくべき項目があったので以下に記す。ひとつは、そう、飢饉のことである。

《この土地で困ったことと言えば飢饉であった。飢饉はじつに多かった。食べるものがなくなると、座に敷いてある筵をさいて食べたという話もある。すると子供の小便がしみていてうまかったという話さえ残っている。

向峠から宇佐へ下るところに墓があるが、これはウダオレとて餓死したものを埋めたところだという。さびしいところで木がよく茂っていて、若いものが夜宇佐へあそびに行って、ここまでかえると狼が頭の上をとび越して行ったという。その藪の中に何人も死んだ人がいた。坂がのぼりきれなかったのであろう。

銭をくわえて死んでいたという話もある。一番ひどかったのは申年(天保七年)の飢饉で、村のものはおおかた死にたえかけたという。その百回忌が昭和一一年にあった。》

申年の飢饉という言葉は鳥取藩で語り継がれたものとしてよく出てくる。

(以下加筆予定)ホトホトのことなど。

種子を残す意思と摂理と

 温海かぶの種を蒔いてから1週間。昨日確認したところでは、なんと発芽は0。炭で黒くなっている地面なのでどんなに小さくとも緑色を見過ごすことはない。どれだけ出ているか、雨の中、期待を胸にすべる山の斜面をのぼっての0。落胆と同時になぜだろうと「?」が脳内を行きつ戻りつした。

 火入れから25日ほどたった蕎麦が発芽しなかったところに蒔いているので、条件はよくない。とはいえ、過去2年ほどは火入れした2〜5日後には発芽が確認できていたものだ。ちょっいと原因を整理してみよう。

・島根大の冷蔵庫で保管してきた2年前の種子である。冷蔵庫から出したのはおそらく数日前か。

→常温の方がよいのかもしらん。あるいはもう少し早く冷蔵庫から出しておくべきか。種子にとっては冬から春に変わったという認識となる。

・発芽しにくい土である

→蕎麦が発芽しなかった地であるからして。蕎麦よりは条件悪くても発芽はしそうなのがカブなのだが、どうでしょう。

・降雨が少なかった

→一時的に降ることはあったが、まとまった降雨は8月30日〜9月5日までない。これが要因として大かもしらん。山の斜面でかつ水もちの悪いところであると思われるので。

 最寄り気象台データである大東の降雨記録をあげておこう。

大東気象台降雨記録

 さて、書きおくべきこと、本題はこれからなのだ。

 落胆を胸に、?マークを頭にのせて、山を降りようとしたとき、ふと目がとまった。

 ん?? これはカブじゃあないか。

 おそらくこぼれ種と思われるカブである。種を蒔いた周辺部、すなわち火入れした地面と草が生えている境界部で発芽しているではないか。けっこう成長している。双葉から3つ葉を出しひろげている。おやおや。要点をば以下に。

・種は2年前のものと推定される。

・8月5日に火入れした際、蒔かれて眠っていた種子の大半は死んでしまったが、温度が死ぬほど高くならず、しかも休眠を打破するくらいには高くあがった地点で発芽したもの。発芽から2週間くらい経過したものか。

 種子の生存にかかる摂理を感じる。

 

竹の焼畑2017-sec.28

8月30日(水)晴れ。最高気温25℃。
活動報告を箇条書きにて。
○参加者:島大から5名、教員1名、地元1名の計7名。
○時間:10時〜15時半
○内容
10:00〜10:40…30分〜40分、竹の伐採についてのミニ講習
11:00〜12:50…次年度火入れ予定地の荒廃竹林伐倒(学生)/中山畑地の草刈り(地元)
13:00〜14:00…昼食・休憩
14:00〜14:40…温海カブの種蒔と蕎麦の間引き
14:40〜15:30…春焼地のさつまいも救出(草刈)/ホンリー間引き/アワ、ヒエ栽培地の草刈

○課題
伐倒技術・進め方にまだ問題あり。
伐倒竹の跳ね返りで頬を怪我した男性1名あり。絆創膏をはる程度の浅い傷ではあるが、大怪我につながるケーススタディとしてメンバー共有のこと。

怒る大人、叱られる子供、やってはいけない事

 友達の家で、囲炉裏をひょいとまたいだら、その瞬間足を払われて鉄拳をもらった。コラとも、何が悪いとも、一言もない、大人は怒っていた。

 いま60代(とおぼしき)男性が幼少の頃の記憶を語った言葉である。

 何をしたら怒られたのか。

 そんなことも、次々と時代の波に洗われて見えなくなっていく。

 大人が何も言わずに怒ってげんこつで子供をなぐる。かれこれ50年も前のことになるのだろう。そんなことが”自然”であったのは。

 なぜやってはいけないのか。大人に言葉はない。問答無用。

 社会が今より少しは豊かさをもっていた時代。

 懐かしさや良きものをそこに想定しているのではない。1960年代、昭和30年代後半から、日本の社会はいよいよ崩壊へ向かって走っていく頃なのだから。

 しかしながら、ここで囲炉裏とはなんであったのかを、子供と大人の関係性とともに探り描くことは、とてもおもしろいことだと、私は思うのだ。

 囲炉裏に限らない。「怒られた記憶」「何をしたら怒られたのか」ーー跡形もなく洗い流される前にスケッチしておきたい。

 宿題がまたひとつ。無理のきかなくなった身体を奮い立たせるにはよい火種だ。

 さて、出かけますか。

 

竹の焼畑2017-sec.27

8月26日(土)。

八月も終わろうとしているのに、夜は寝苦しいほどに暑い日が続いています。それでも、昼のセミの声よりも夜の虫の音のほうが大きく感じられるようになりました。家の裏の畑では、花オクラが咲き始め、1mもあろうかという大きな葉を広げ存在感を誇っていた花ズッキーニも、その実に種を宿すようになり、種を採ってみようという株を残して根を断ち切りました。

そんな夏の終わりの兆しを感じながらも、天気予報は真夏日の注意を喚起するもので、最高気温は32℃だったでしょうか。それでも、七月八月の猛暑下をくぐった身にとっては、「涼しくなったね」と言いたくなるような日でした。そして蚊が多く、うるさく頭のまわりを飛び回るので集中力をそがれます。こりゃたまらんと陽のあたる場所で草刈りに勤しむことにしましたが、アブがちくちく刺してくるのにはまいりました。

閑話休題

この日は、学生4名、一般1名の計5名で取り組みました。

メニューは、来年春または夏の火入れに向けての荒廃竹林伐開作業です。

活動に初参加の学生もおりましたので、ガイダンスと座学による講習を行ってからフィールドへ出ました。ポイントをあげるということは山の作業ではかえって害にもなりかねないのですが、竹の伐倒について3つを強調しておきます。自分自身への言い聞かせも含めて。

竹を伐るときにーー

1. 倒す方向を決める。……なぜその方向なのか=倒す順番、倒した後に動かす順番。技術をあげていくことを意識して決める。なりゆきで切らない、倒さない。

2. 退路を確保。障害物があればのぞいておく。いくつかのパターンとシミュレーションをイメージする。

3. 意識してゆっくり動く。見る、聞く、感じる。平地と山とでは動き方も頭の働かせ方も変える。身体はゆっくり、頭は平地以上に回転をあげて使うこと。

そ。山で活動すると頭がよくなり、痩せることができるのですよ。

あなたもいかが?

ハンザケの産卵シーズンとなり

 オオサンショウウオ。ハンザキ、ハンザケと呼ばれる両生類は出雲地方山間部ではなじみ深い生物である。3000年前から姿を変えることなく生存している”生きた化石”であり、日本固有種でもある。生きた化石とされるのも、シーボルトが日本からヨーロッパに持ち帰ったことに由来するのだが、鳥や蝶とくらべ人気・認知の度合いは低いのだろう。中国地方が生息分布の中心でもあり、研究・調査・保護活動も盛んである。とはいえ他地域と比較すればのことであって、絶対数は圧倒的に少ない。どの自然環境分野でもそうであろうが。

 年々昆虫採集を趣味とする人間が減ってきていることを耳にするように。

 さて、9月2日に近所(といっても車で30分)でオオサンショウウオの観察会があるという。そんなこともあって、妻が経営するカフェ・オリゼの今日の黒板にこんな文言を書かせてもらった。

 オオサンショウウオに限らない。大量絶滅の時代を迎えているいまの世界のありようを見つめながら、日々を生きるあり方の針路を定めていこう。

 なにを話し、なにを書き、なにを買い、食べ、つくるのか。

 

 島根・鳥取・岡山・広島・山口の中国5県にすむみなさん。

 秋の虫が鳴く夜の向こう、どこかに感じるその山の向こうにある渓流のどこかで、今宵、やがて滅びることになるオオサンショウウオが卵を産んでいます。その生命の行末に思いを馳せてみましょう。地には平和を。

 

2017年冬から2018年春の焼畑へ向けて(1)

 竹の焼畑は今年が3年目。年々焼く規模は小さくなっているが、やること=活動・作業内容は増えている。奥出雲町佐白の実施地の場合、畑として使った後、放牧地へ誘導するとしている。そして放牧地誘導、すなわち牛が山にあがることも進んではいるのだが、草刈りは欠かせない。焼いて畑にした後、数年はその土地を「管理」する必要があるわけだが、年々その面積はふえるわけだ。  3年を節目として「管理」を手放した場合、今年までのところで手がけた面積ぶんを、年間とおして面倒見するということだ。

◉2015年夏

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◉2016年春&夏

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◉2017年春、夏

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 けっこうな面積ですよ、これは。
 実際、半年後に作付けできていないところが半分はある。
 草や灌木を刈って焼くというのを2年に一度くらいの割合でできないものかなあ。  畑の作物も、牛が食べてもよし、収穫もするという加減の半栽培的なものを。