七夕と焼畑儀礼と

去る8月6日の火入れの際、学生が七夕飾りを山に持ち込んで、火入れの竹山に加えていた。ほほぅと感心したものだ。いまや竹に願い事をしたためた短冊をゆわえ、祭りののちに川に流すということは”禁止”されていると聞く。祭りの後で、大人たちはこっそりそれを解体して”燃えるゴミ”の日に出すのだという。

古きを知る人には、”燃えるゴミ”に出すという行為そのものが耐え難く、それをもって七夕の祭りをやめてしまうのだともきいた。それはそうだろう。竹であれ木であれ、それをたてること自体、そこに神とはいえないまでも何がしかの聖なる存在の来臨を願うからこそである。祭りが終わり、その霊的存在が去ったとしても、日常生活のなかのゴミとして扱うことはできないのがふつうの人間であろう。死体を抜け殻としてゴミ扱いできるかということから考えてみればよい。神札を燃えるゴミとして出せるかということを考えてみればよい。

焼畑で七夕飾りを燃やすということと、燃えるゴミに出して燃やしてもらうということとの相違について、漠然と想像をめぐらしてみてほしい。

その行く先には、天空がひろがる。

星と月と太陽と、そのめぐり。

水は空から雨として雪として、ときに雷とともに地に注ぎ、畑を森をうるおし、飲む水となり、清める水となり、流れる川となって、ふたたび天へとかえる。

その想像のなかに、七夕もお盆も焼畑もあったということを、蝉しぐれの夕暮れに思った。

白石昭臣『畑作儀礼』昭和63(雄山閣)を読みながら。(以下引用)

《樹木に祀る焼畑系の山神信仰とこの稲作民の山を崇める信仰が、三瓶山麓を生活の場とするこの人びとの間で重層複合化して一体化し、山を聖地とし他界の地とする信仰として伝わってきたと思う。他界については後に記すが、焼畑系の樹木に斎くとか、後の時代に生まれたと思われる瓶の降る伝承は垂直型のものであり、山中他界もまたそうであろう。一方、海部系の思考は水平型であり海彼を他界の地とする。この二つの系統が復号化したのは、山の彼方の天空と海彼が空中でつらなり、この間を月と太陽とが運行して、ひとつの放物線の中にサイクルを描くという思考の存在した時代があったと考える》

p.168

◉盆に火入れを行ったところとして白石が『畑作儀礼』昭和63(雄山閣)であげているものとして以下がある。p.202  記述がやや混乱しているが、そのまま転記している。

†. 盆に火入れ

・愛知県北設楽郡富山村(ソバ)

・奈良県宇陀郡室生村(ソバと大根)

・島根県鹿足郡日原町(ソバ、楮)

(盆に入るとすぐ)↓

・神奈川県箒沢(小麦とソバ)

(盆の中ごろ)↓

・島根県若桜(ソバ、大根)

(盆ごろに)↓

・長野県下伊那郡天龍村大河内

・大分県宇佐郡上麻生

(盆がすぎるとすぐに)↓

・新潟県別所(ソバ)

†. 彼岸前25〜28日に25日ガケとか28日ガケとかいって、ソバ、ヒエを播くところ

・群馬県藤岡市小柏などのカノ

†. 盆がすぎると焼くところ

・山梨県椿草里(ソバ)

P1260475b

竹の焼畑2017-sec.24

8月9日(水)。曇り、午後から時々雨。10時〜15時でエンジンポンプ・タンクを山から下ろし、防火用被覆ブルーシートを取り払うなど、火入れの片付けを行いました。人員4名。
暑さはないものの(とはいえ30℃)、湿度が高く、なかなかにハードでしたが、午前には終了。火入れ地の蕎麦種の発芽状況を確認しました。茎が出ているものがいくつか見られたのですが、全体からすれば1割〜2割の発芽(発根?)だと思われます。6日に蒔いたときに炭が残っていたため、ポップしてしまった箇所や昨日までの雨で流された箇所などに追い蒔きしました。200g程度かと思います。Kくんの蒔き方が上手い。きけば農業高校出身とか。農高おそるべし。

五穀のにごり酒おろち乃舌鼓 H28BY

 3年目となる竹の焼畑、夏焼きの火入れに木次酒蔵より標題の清酒をいただいた。昨年春の焼畑でできた粟と仙人穀が原料として入っている。いうならば焼畑の酒。

 火入れ式で山の神さんにも差し上げ、地の霊もよろこばれたことだろう。さて、改めて味わってみるに、ころころと味わいが口にした瞬間から喉をこすまでの間に変化するおもしろい酒である。

 度数は18度以上19度未満とあるが、基本は米のお酒=清酒の度数としてはきわめて高いのではなかろうか。エゴマの香りと大変相性がよい。肉や魚よりは卵焼きなどにあう。料理をおいしくする何かがあるのだが、素材や調理との相性はなかなかに難しいものもある。

 奇酒としておすすめしたい。

 そして、来年の仕込みにも粟を提供できるように畑をみていくのだ。

 写真の右隣りにあるのは、今日、その粟の畑で倒伏していた粟の若穂。あと1ヶ月半で黄金色に稔ることを祈りつつ。

ある焼畑の記録

8月5日。中国地方のとある農家の焼畑を手伝う機会を得た。記録に残らない貴重なものゆえ、この場所に備忘として記しおく。こう書きつつ思う。おそらく江戸時代中頃に遡る、今私たちが「日本の焼畑」として認識するものも、書くことをためらうものであったのだろうと想像する。江戸時代中期以降、各地で農書が書かれる動きやあるいは料理書が書かれる経緯との対比を、焼畑に物語らせてみたいものだが、それは今はおく。
概況を記す。(のちほど加筆)
◉実施地について
◉時刻について
早朝5時30分より。6時前には着火。鎮火は8時前だったと思う(カメラの記録で再確認)
◉人員
2名。ひとりかふたりだという。
◉語録(記憶から消えぬうちにこれを記したかった)
・今回はよく焼けなかった。(材が足りなかった。準備ができなかった)
→基本的に雑木(クヌギが多くみられた)を約1年前(秋)に切って放置したもの。視覚にはいるもので多いのは熊笹。枯れ具合からいって1週間〜10日前くらいに刈ったものか。
・無駄なことだと思うけれど、漬け物がうまいうまいといわれるのでやめられない
→無駄なことというのは投入労力に対して利益が少ないということか。また、販売よりもあげたりすることが多いのだと思われる。
・ここは(焼き畑地)、木村式の果樹園にしようと思っている。
・朝だけん、ここはよう燃えん。昼にもう一度火を入れる。
→熊笹のみをひいてあるところをさしての言葉である。熊笹の下にも落葉や枯草がまじる。夏の焼畑は露による湿りがあるものだが、それは土についてとりわけ大きい。土が湿っていれば材が燃え広がる際に必要なエネルギーをそのわずかな水分の蒸発に奪われることになる。

ある焼畑の風景

竹の焼畑2017〜夏焼火入れ

8月6日(日)、11時30分着火〜13時30分鎮火、15時30分消火確認。
おかげさまで無事終了しました。37℃の猛暑に加え、火の熱風熱射が強烈でした。山の馬の背にあたる場であり、風向は不安定という難所ですが、従事者16名全員フル稼働で乗り切りました。稔りの多い回だったと思います。
レポートはのちほど改めて。8月9日(水)に片づけと現地確認調査などを行います。
蕎麦は今回、バラ蒔きするのみでかくこともかぶせることもしていません。
鎮火後2時間を経過していましたが、ところどころ炭も残っており、蒔いた種がぱちぱちと一瞬でポップしていたところもあります。蕎麦の種もコーンと同様ポップすると白くなるのですね。粉をひくと白いのでそりゃ当然といやあ当然かもしらんですが、新鮮でした。


竹の焼畑2017~sec.23

夏焼火入れに向けての最終調整日、8月4日(金)です。猛暑日。最高気温で35℃であったでしょうか。
この日の参加者は5名、、、の予定でしたが、窮状を救わんとする何かが動いたのか、ひとり増え、二人増えで、最終的には8名で取り組みました。
9時~16時までの作業で、おおお、なんとか形になり、今年も準備は整いました。
明日の火入れ。
うまく焼けますように。


モチアワ、タカキビ、ヒエの現状

 春焼き地のモチアワが出穂です。勢いはありませんし稔りは薄いでしょうが、7月13日(下の写真)の惨状からすればよくぞここまでという感があります。シカにもウシにも食べられました。出穂前というのは、茎が美味しいのでしょうか。
20170713-P126023202
 そして、本日、すなわち2017年7月31日のモチアワが下の写真です。

 ちなみに昨年、2016年8月3日のモチアワはこちら。稔り方の違いがわかるかと思います。
20160803-DSC_007502
 続きましてタカキビです。
 まず7月13日。こりゃダメだわと思いました。
20170713-P126023902
 が、ここまで回復はしています。
20170731-P126035602
 そして、ヒエ。
 7月13日のこの食害のさまはひどいものだと思いました。
 20170713-P126023602
 約20日後の7月31日の状況がこちら。
 モチアワ、タカキビより状態は悪いのですが、この勢いがどこまで続くか、ですねえ。
20170731-P126035702
 これから夏の盛りの1ヶ月は光合成能力をいかんなく発揮できるときであります。
 見守っていきますよ。
 応急処置の草刈りを約15分実施しました。
 水曜日にまた少しやっておこうと思います。

竹の焼畑2017~sec.21

7月30日(日)です。夏焼きへ向けての焼畑整備、その何日目なのでしょう。
この日の参加者は4名。
朝の9時30分〜午後3時まで、みっちり作業しました。進んだのではと満足。しかし、人が足りんので準備が黄信号です。
天気予報とのにらめっこは相手が笑ってくれたようで、8月6日の火入れ、天は「良し、やれ」と言ってくれているようです。