ツキノワグマが島根から消えるとき〜田中幾太郎『いのちの森 西中国山地』#001

 「あの爺さんらも、もうおらんようになった」

 田中幾太郎さんがそうつぶやいたときに感じた、いいようのない戦慄の正体に、もうすこし近づいてみたく、著書を再読することとした。『いのちの森 西中国山地』は平成7年に光陽出版社よりおそらく自費出版されたもので、古書も少ない。1000部も刷っていないのではなかろうか。県立図書館で借りてきているものから少しずつ、抜粋と注釈を重ねてみたい。

 今回はその1回目、#001である。

 田中さんとは数回しかお会いしていないのだが、つかれたようにクマのことを話されていた。5年ほど前のことだから、2010年の全国的な大量出没の後である。この著作と同様、言葉数はきわめて少ない方だ。

 ニホンツキノワグマ、そして西中国山地タイプの遺伝子を伝えるものが絶滅危惧種であり、その生息動向が世界的にも注目されている種であることを、島根県民はもっと知ってよい。そして、クマとの共存をはかる活動については頭の下がる思いである。そう島根、とりわけ西中国山地にはその素地が古くは確かにあったのだ。クマを聖獣として敬ってきた「あの爺さんら」。ヘビやタカやオオカミとも交わることのできた自然の博士たち。

『いのちの森 西中国山地』は18章。章ごとに森と川の生き物が語られる。1章のヤマネからはじまり、ゴギやオオカミをへて、最終の第18章がクマなのだ。

p156

《ニホンツキノワグマと、前に書いたホンシュウジカは、はるかな地質時代の昔から日本列島の深山にすみつき、「ブナ帯文化」の狩猟生活を支え、縄文や弥生時代を経て興る稲作文化の基調な随伴種であった意味を顧みる人は少ない。先人たちがたゆまぬ努力で豊かに築いてきた民俗とともに生きてきた”日本人の心の動物”を見失ってもよいものだろうか。金太郎の「足柄山」に代表される、数多くの民話に登場してきたかれらに打ち込まれた生命の意味は、厳しく生きてきた先人たちが伝授した、きわめて科学的な”環境観”であったように思う。》

p158

《西中国山地のクマ猟の”今昔物語”を親子二代で語ってくれたのは、美濃郡匹見町三葛に住む古老、大谷滝治郎氏(九十六歳)と息子の定氏である》

《滝治郎さんが話す昔の熊猟は「奥山ちゅうたり深山ちゅうて、木地師でなけにゃあ寄り付きゃあせんところじゃった。クマちゅうもなあ、深山にしかすまん獣で、里山の方へ下りてくるこたあ滅多にあるもんじゃあなあし、ましてや今のように里の屋敷の周りい出てくるようなもんはおりゃあせんかった。そいからシカのようにゃあ田や畑を荒らさんけえ、退治ることもなあし、わしら親らあからこんなもなあ、深山の守護神じゃちゅうて傷めんように言われよった。この辺の猟師ゃあシカあ捕ってもクマあ滅多に捕るようなこたあなかったでや。そいじゃがシカがあんまりおらんようになってきたりして、たまに捕るようなこともありよった。そがあなときゃあほかの獣たあ違うて、大事に祭りごろをしたもんじゃ。クマあ、熊野権現様が深山に遣あされた使者じゃけえ、こんなあ捕っつりゃあ、必ず罰が当たって、天気が荒れてくるんじゃ。猟師ゃあそりょう恐れて、捕ったクマの白い月の輪を天の神さまに見られんようにせにゃあちゅうて、うつ伏せに寝かあとく。そがあしてその周りにもってって、槍や火縄銃を必ず七本立てかけるんじゃ。そろわんときにゃあ木の枝でもええ。そがあしといて『天の神さま、竜宮のおと姫さまに酒菜を差し上げんと思うて、天の犬を誤って捕りました。どうかこらえて下さいませ。アブラウンケンソウ、アブラウンケンソウ』と呪文を唱えて、かしわ手を打ったもんじゃ』》 

 ニホンツキノワグマの今日的な意味とはなんだろうか。

 「日本は美しい生命の森の山国である」
 田中氏の言葉の後ろには、猟師の爺さんらの声なき姿がある。届かぬ手をのばして、一滴なりともすくい取ってみたい。いのちの水を。

 島根県は2012年からWWFと共同でプロジェクトを推進している。
 いくつかの参考サイトをあげておきたい。

◉WWF:クマの保護管理についての情報

◉日本クマネットワーク

 

 

 

 

雲州一国の者他国へ出る事甚禁じてあり

 温泉津の蔵元、若林酒造の開春、これ美酒なり。日日楽しむ。

 ほの暗い樽中の発酵を垣間見、肌寒い蔵中で糀の香りに慰撫されてより、またその味わいもひとしおというもの。さするに数日前のこと、佐賀錦から生酛づくりでものされた無濾過生原酒をちびりちびりと飲みながら、そういえば種村季弘氏が温泉津のことで筆を走らせておられたはずで、あの本はどこにあるのだろうと、思い起こしていた。

 あっけなくも昨日発見。実家の棚にあるのを持ち帰ってきた。

 ふむふむ。これであったか。

 書名は『種村季弘のネオ・ラビリントス7巻 温泉徘徊記』。河出書房新社から全8巻で刊行され、手元にある第7巻は1999年の初版。現在、需要は満たしての絶版である。種村季弘の古書はそもそも市場に出ること少なくして、値崩れしないことで知られる。しかるに6巻の食物読本がほしいなあと思いアマゾンでみるに、2000円の根づけが!? どれどれと思ってクリックしてみれば、タバコ臭ありますと。なるほど。他の出品をみれば9000円〜12000円となっている。

 納得。

 いい値段である。ほいほいとは買えぬ。諦念の向こうにあって手の届かぬものでもない。まっとうな本の適正価格というのはこのあたりなのだろうなと思う。

 さて標題に記した本題のこと。

 野田泉光院の『日本九峰修行日記』から、種村がひいたものである。

 泉光院野田成亮(しげすけ)は日向国佐土原の安宮寺の住職をつとめた修験宗の山伏であり、多くの行を積んだ大先達であった。文化9年(1812)9月から文政元年(1816)11月までの6年2ヶ月を諸国修行にまわり「西の芭蕉」とも呼ばれた。宮本常一『野田泉光院ー旅人たちの歴史1』として、石川英輔が『大江戸泉光院旅日記』として一冊にまとめている。

 つまりはたいへん著名であり、文化・文政年間の旅の記録とあれば、”観光資源”として”活用”されていそうであるが、これが島根県内では一切みたことがない。理由はあれこれ思いつくのだが。

 件の一文は、山伏の野田泉光院が出雲国に入ると、泊まるところがなく大変苦慮したすえにでてくるものらしい。今の時代も変わってないなあと思った次第。

 さっそくその記を県立図書館の地下書庫より出してきてもらい閲覧。『日本庶民生活史料集成』の第2集におさめられている。

《雲州一国の者他国へ出る事甚禁じてあり、因って旅ということを知らざる者多き故、人の情も慈悲も知らざる者多し》

 もっとも平田ではよくしてもらった人もいて、出雲に格段に悪い印象をもったわけでもなさそうだ。長州から芸州そして石州をへて出雲に入るその日記をつらつらと眺め読むに、他国に比して神仏をのことを語り合うことがきわめて少なかったように思える。それがゆえか、出雲路をしめくくるに痛切なひとことを残している。

《且又雲州は神国と他国よりは称すれども、雲州の人は神威も知らず、神国にして神国に非ず、人気宜しからざる国なり》

竹の焼畑2017~sec.12,13

活動状況です。
7月1日(土)には1名で14時〜16時に草刈り。2日(日)には10時〜15時30分まで10人が火入れ地観察と打合せを行いました。
以下は7月1日(土)の状況です。
◉発芽成育状況その1(2017春焼地)
ホンリーはぐんぐんとのびています。

モチアワもようやく出揃った感あり。ここから追い込めるか。間引きはほとんど施していませ。再生竹の除去のみ。目下のところ他の草の発生もないです。風の強さに倒伏気味ですね、栽培種ならではか。

ヒエとタカキビですが、牛にくわれながらも、総体としては生長中。共存共生の道をいかに築くかの試金石でもあります。まず入ってくる牛の個体数が少ないという状況下なので、あくまで試金石ですが。

モチアワのこぼれ種がおのればえしています。草を刈ると他の草の下から出てきます。大変興味深い。(雑草には負けているが、発芽して生長もできている)。

ルリシジミと虫と

 からっつゆでダム湖も干上がらんばかりであったのが、ここ数日降雨も続き、みながほっとしているところでしょうか。庭も畑も、草がぐんぐんのび、虫の姿もふえました。
 畑のズッキーニ(ステラ)はウリハムシに食われ気味。今年は庭の草木が、さほど虫に食われないなあと思っていましたが、ここにきて大発生の予兆が……。様子見です。
 下の写真は、ルリシジミヤマトシジミか、判別できませんが、この日は飛んでいるのをよく目にしました。

 そして、なんだろう、この子。あまり見かけませんが、アゲハかなにかでしょうか。

 そういえば、数日前、裏の畑に猿がやってきたらしい。そうか。ついに……。

宇沢弘文「社会的共通資本」を読みながら

 明日、私たちがまだ知らない世の中のしくみ〜『社会的共通資本』(本の話#0007)を開くにあたって、どういうふうにのぞんだものかとあぐねていた。

 3つの文をあげて、考えてみている。

 

小島寛之《いつも先生は、温かい励ましの言葉をくださった。塾の先生であろうと、何であろうと、「良い仕事をする」ということでは、貴賤はない、君は君の居場所でとにかく良い仕事を目指すべきだ、そんなふうに鼓舞してくださっているように思えた。》〜宇沢弘文先生は、今でも、ぼくにとってのたった一人の「本物の経済学者」

宇沢弘文《むかし、あるところに一人のラビ(ユダヤ教の教師)がいた。Aという人が相談にきたところ、ラビはお前のいうことはもっともだといった。つぎに、Aと争っているBという人がやってきたが、ラビはBに対してもお前のいうことはもっともだといったわけである。この経緯を傍で聞いていたラビの奥さんはいった。あなたはAに対しても、Bに対してもお前のいうことはもっともだといった。ところが、AとBとは争っているわけで、あなたのいうことはまったくおかしい。そこでラビは奥さんに向かっていった。お前のいうことはもっともだ」》〜『「成田」とは何か』岩波新書

岩井克人《それ以降の活躍はまばゆいばかりです。渡米の契機となった数理計画法の研究は58年にアロー氏らと出版した「線形及び非線形計画法研究」という論文集に結実します。当初は社会主義経済の分権化の研究でしたが、そのための数学的手法を開発する中で、数理計画法という新たな分野を作ってしまったのです。

 その後、消費者の顕示選好理論の一般化に成功したほか、一般均衡理論の存在証明や安定性 の条件についての研究を立て続けに発表し、数理経済学研究の最先端に立つことになります。

 宇沢先生の名前を広く経済学界に知らしめたのは、62年の「宇沢の2部門成長モデル」です。56年にロバート・ソロー氏とトレバー・スワン氏が発表した新古典派成長モデルは、経済成長経路の不安定性を主張したハロッド=ドーマー理論に対し、均衡理論を使って、完全雇用と両立し長期的にも安定的な成長経路を描くことに成功しました。

 ソロー=スワン理論で中心的な役割を果たすのが集計的生産関数ですが、宇沢先生の2部門 モデルは消費財と投資財を区別することで生産関数を一般化し、新古典派成長理論の応用可能性を拡大したのです。同時に、新古典派の枠組みでも経済成長が不安定的である可能性も示しました。

 その後、チャリング・クープマンス氏やデビッド・キャス氏とともに、規範的な立場から経済成長を分析する「最適成長理論」を開拓します。技術進歩率を人的資本の蓄積によって説明す る論文も発表し、後の「内生的成長論」の先鞭をつけています。

 宇沢先生はこうした業績によって、36歳で米シカゴ大学の教授となりました。積極的に若手を中心とした研究会も開き、ジョセフ・スティグリッツ(米コロンビア大学教授)、ジョー ジ・アカロフ(米カリフォルニア大学教授)、ロバート・ルーカス(シカゴ大教授)、青木昌彦(スタンフォード大名誉教授)、早世したミゲル・シドラウスキーの各氏ら、多くの重要な経済学者を育てています。

 ただ、それまでの宇沢先生の仕事はすべて新古典派の枠組みの中です。新古典派は基本的に自由放任思想に理論的基礎を与える経済学にほかなりません。そしてシカゴ大はミルトン・フリードマン氏を主導者とする自由放任思想の牙城なのです。先生はその思想を受け入れられず、 ベトナム戦争に対する反対運動が世界的に広がる中で68年に東大の経済学部に移られました。》

《私は酒場のアルコールの匂いの中で、世界最先端の数理経済学者として仰ぎ見ていた宇沢先生 の「心」が、それとは別のところにあることを知りました。事実、先生は日本に戻る前から新古典派に批判的な英ケンブリッジ大学のジョーン・ロビンソン氏らと親交を深め、その影響の下に「ペンローズ効果」に関する論文を69年に発表します。

 企業内の経営資源の大きさが企業成長を制約することを示したエディス・ペンローズ氏の「会社成長理論」を基礎に、ケインズ経済学的な投資理論を初めて数学化した論文です。先生の仕事の中で最も優れたものだと思います。

 宇沢先生は新古典派経済学からの脱却を試みていたのです。しかし、先生の分析手法は基本的に新古典派の枠組みを出ることはありません。先生は自らの分析手法と、正義感に基づく自由放任主義批判――冷徹な頭脳と暖かい心――の間のギャップに長らく葛藤していたのだと思います。その葛藤の切れ切れを、私は酒場でのお話の中から漏れ聞いたのです。

 私はその後、米国に留学してしまいますが、先生が反公害や反成田空港の運動に積極的に関わり始めたことは人づてに聞いていました。74年のある日、友人から岩波新書が送られてきました。先生の「自動車の社会的費用」でした。

 自動車が市民生活に与えるコストは1台200万円という衝撃的な数字が提示されていますが、基本的には先生の「暖かい心」の力で書かれた本です。それは人びとの「心」を動かし、 大ベストセラーとなりました。日本が曲がりなりにも公害対策の先進国になったのは、この新書によるところが大きいはずです。

 私も81年に日本に戻り、再び先生のお話を酒場で聞くようになりました。一番知りたかったのは、「暖かい心」と葛藤していたはずの「冷徹な頭脳」がどうなったかです。そして、先生が70年代の後半から「社会的共通資本」に関する研究に取り組まれていることを知ります。》

だが、その内容を聞いていささか失望します。社会的共通資本とは、自然環境やインフラや社会制度の総称でしかない。ストックとしての公共財と言い換えてもよい。それが私有財産制の下では乱用されるか過小供給になることは、新古典派経済学でもよく知られた事実です。すでにその頃から社会主義体制には資本主義以上の矛盾があることは常識になり始めていました。社会主義に陥らずにいかに社会的共通資本を維持し発展させていくかに関して、先生自身、理論的な解答を見いだせていなかったのです。

 ただ、私はすぐに、先生自身も社会的共通資本という概念自体には新しさがないことを百も承知であることを知ります。先生は学界の中での認知ではなく、市民をいかに動かすかという 社会的な実践を選び取っていたのです。「冷徹な頭脳」を「暖かい心」に仕えさせることにし たのです。晩年の先生が経済学の中に「人間の心」を持ち込むことを提唱し始めたのは、その自然な帰結であったのです。》

「冷徹な頭脳」より「暖かい心」 2014/9/29付 日本経済新聞 朝刊

チョウもバッタもイカだって

 一昨日のこと、庭の草むしりをしていたら、小さなバッタと出くわした。久しぶりのことだった。1年前に山で見た記憶があるようなないような、そんなものだ。「あれ?いたのか」がそのときの感であるのなら、今回は「おぉ、いたのか」という、わかりやすくいえば「うれしさ」があった。

 バッタなぞ、子どもの頃はあふれるほど草むらにはいたものだ。

 感傷ではない。実利にもとづくうれしさでもある。

 裏の畑の土がそこそこよくなってきたので、キャベツを植えてみようかと思い、そういえば3年前に苗をおいたらぜんぶ食われていたなあと。あれはモンシロチョウだったのだろうか。モンシロチョウの幼虫はバッタがいればけっこう食べてくれるということを聞いた。わかりやすくいえばバッタは益虫だと知ったわけだ。益虫だから認識を変えたわけではない。バッタについての知識がひとつ加わったこと。それもある。あるのだが、そのバッタ一般と目の前に現れたバッタとはまた違うものであるように感じた。それがなんなのか。いま、いろいろと考えている。

 ともかくも、お前、がんばれよ、と声をかけておいた。

 

 さて。

 クロマグロニホンウナギもいつのまにやら希少な生物となりにけり。今年はスルメイカもぱったり店頭に出てこない。日本海側(山陰)にはまわってこないのだろうか。ざっとググってみれば、「スルメイカが採れない 漁獲6割減 価格は2倍に」との記事によると、もともと山陰では秋から冬が旬ということか。

《1~2月にかけて東シナ海で生まれるスルメイカは、春から夏にかけて太平洋側を北上、秋以降は産卵のために日本海を南下する。》

 大好きなウナギは、数年前から年に1〜2回食べるにとどめている。スルメイカもそうなってしまうのか、トホホ。自家製塩辛を楽しみに待つ妻のためにも、漁獲規制を望む。とりすぎなんよ。「妖精のためにとっておく」とは茸採りを終える決り文句であったか。そんな上品なものでなくても、「自分たちの利益のためにとっておく」ことすらできないのが、漁業という業界の難しさであるようだ。どうしたらいいのかという前に、消費者主権とやらを行使したつもりになりつつ、小さな記録をとることも、はじめてみようと思う。

 庭にやってくるものたちの記録として。

 今日はこのチョウ。

 ベニシジミだと思う。

 スイバやギシギシが食草。その手はたくさんはえてるし、ふえる傾向にもあるから当面は目にすることも多いでしょう。よろしくね。

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JJの贈り物#002~地域とは問題が解決できなかった前回の地理的範囲より広い範囲のこと

 4年ばかり前のこと。島根県の邑南町へグリーンツーリズム研修で訪問したときに、こう言われたことが宿題のようにして耳に残っている。

雲南市。(われわれとは)レベルが違いますね(笑)。なんでもできるでしょう(から、われわれのことが参考になるかどうかはわかりませんが)」

 規模の大小が活動の質量ともに左右する。そういうシステム(社会の仕組み)の中で私たちは生きているという認識は、規模が小さければ小さいほどにリアルだ。痛いほどにわかってしまう。そして、大きなものの中に生きるものは、しばしばそれを忘れる。邑南町で耳にすることになった件の言葉には確かに、「あなたたちにはわからないかもしれない。わかりますか」という皮肉とも裏メッセージともつかない何かがあった。

 いやいや、雲南市だって十分に小さな自治体であるし、同じ課題を共有する仲間なんだよね、ということはその場にいた誰もが了解しているようでもあった。邑南町の件の発言者とて、そのうえで「痛み」を共有しようと試みたのかもしれない。わかってほしいということであったか。

 この「痛み・辛さ」というものは、時間的な先送り、空間的な排除、人的な選別によって、「押しつけ」が可能である。わからない人にはまったくわからなくなるものだ。たとえ目の前にあっても。なぜ、そんなことを思い出したのは、JJの『アメリカ大都市の死と生』第22章にある、糸のタイトルにあげた字句を目にしたときからだ。

《範囲は広いほど、また人口は多いほど、どちらも神の視点から見て、まとまりのない複雑な問題として、もっと合理的かつ容易に扱えます。「地域とは問題が解決できなかった前回の地理的範囲より文句なしに広い範囲のこと」という皮肉な批評は、この意味では皮肉ではありません。……(中略)……でも都市計画がこのように、取り組む問題の性質そのものについて根深い誤解に陥ってきた一方で、この誤りを負わされることなく非常に早く進歩しつつある生命科学は、都市計画に必要な概念の一部を提供してきました。》

 JJがいう、都市計画に必要な、生命科学の概念と手法とはなんだろう。明示されてはいないが、手法については、#001であげた、プロセスを考えること、帰納的に考えることなどがそう。

 そして重要なのは、《都市で起こるプロセスは、専門家だけが理解できる難解なものではありません。ほとんどだれにでも理解できます。一般人の多くはすでに理解しています。ただこれらのプロセスに名前をつけていないか、こういった原因と結果の普通の取り合わせを理解すればそれに方向づけできるということを考えたことがないだけです》という、一般人と専門家の「違い」である。

 都市計画を実質的に左右している官僚機構は、一般人でも専門家でもなく、そのBridgeたるべき存在である(べき)なのだが、まったくそうなっていないのはなぜか。一般人の思考回路をもたず(よって理解できず)、専門家の思考回路や概念すら理解しえないところだと私は考える。後者については個人にもよるが、前者については病理ともいえるもので、超えがたいものがある。

 …つづく。

 

「いまの日本酒は技術力」という言葉の意味

人がものをつくる過程において、さまざまな制約が、つくる人にのしかかる。時間、空間、材料、天候、などなど。時代によってそれらの比重は変化するが、本質は変わらない。制約要素そのものの数は計量可能であり、書籍の目次のように列挙はできる。だが、組み合わせは無限ともいえるほど存在し、少なくとも人間ひとりの処理能力の限界を超えている。だからこそ究極において「勘」による決定が、つくるものの質を左右するのだ。
勘と経験が混同されるようになった。いや経験という言葉の意味が変質したのだろう。経験値、経験知といわれるように、それは計量可能なものとしていまや多くの人が認識している。経験は「積む」ことで蓄積されるのだと。あるいは体験という言葉もそうであって、○○体験なるものが泡のように世間に溢れ出している。
よしあしでもなく、憂えているわけでもない。
そうした世の趨勢にあって、「ものそのもの」に向かう職から受ける示唆を大事にしたいなと思った土日の2日間であった。
また加筆したい。酒蔵で杜氏の話を伺う機会をへて、考えたこと、考えてみたいことについて。

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自然農=混作はきたなく見えるのか

「草だか野菜だかわからんし、きたない。どれだけとれるかもわかったもんじゃない」

 自然農へ向けられた苦言である。ただ誤解なきよう、これ直接面と向かって言われてるんだが、全然いやな気にならんのです。なぜだろう。発言者が農業を正面きってやってる人だからだろうと思う。こうして言語だけで記すとひどい発言に感じてしまうんのだけれど。

 さて、ひとつ前の投稿で「混作」へチャレンジするのだと書いたのだが、今日たまたま開いた、飯沼二郎,1980『日本の古代農業革命』にも同様の”混作きたない”をみて、なぜだろう、なんだろうと不思議な思いにとらわれたので、備忘として記す。すなわち飯沼はこう言う。

《このことは、東南アジアの農業の性質を考えるうえに重要である。東南アジアの農業、とくに畑作の一次的性格としてのミックス・ファーミングともいうべき間作、混作をまぜあわせたような形態(中尾氏も上述のように根菜農耕文化の一特徴としてあげている)が潜在的に存在していた。それはこんにちの焼畑のなかにのみ残存するのではなく、平地の畑にも残っている。……(略)……タイのサンパトンやビルマのインレー湖周辺の農村では、畑にいろいろの作物が雑然とつくられているようで、みためにはきたないが、その技術には伝来の習熟性がかんじられる。》

 対して、混作を「美しい」とは言わないが、ある感動をもって書き残しているのが六車由実である。2004『東北学』Vol.10中にある。

《たとえば、昨年の秋に、ラオス北部、ルアンパバンの周辺で目の当たりにした焼畑の光景は、私たちの想像をはるかに超えて豊かで感動的だった。ここでは平地には雄大な水田が広がっているが、そのすぐ先にある山では焼畑が拓かれ、陸稲だけでも10種類近くの稲が育てられ、隙間にはハトムギ、バナナ、ウリ、キャッサバ、トウモロコシ、ゴマ、オクラ、サトイモなどさまざまな作物が混植されている》

 うむ。その東南アジアの混作をまだ目にしたことがなく、これ以上の言を控え、加筆できるだけの材料をそろえていきたい。

竹の焼畑2017~sec.11

雨が足りない日が続いています。灌水設備をもつ野菜農家からも悲鳴がきこえてくる今日このごろですが、われらが山畑はいかに。
どうしたもんじゃろのお。これでは「人口減少局面における中山間地の新たな土地管理手法開発」などと、言えた口ではありません。が、しょんぼりしてる場合ではないのです。いま、かんがえはじめているのは、「焼かなくてもいいじゃね」的方法。
「焼く」ことに注力するあまり、ちょっと他に目が向きずらいという面もあるしですね。混作。これを試してみたい。
草との共存、いっそ、牛との共存です。
牛にくわれてもいいような、そんな農ができたらおもしろいなあ。
さて、本題です。
6月23日(金)焼畑地状況
◉発芽成育状況その1(2017春焼地)
・ホンリー…前週の2倍ほどには成長しています。育ちざかり。

・タカキビ…牛に食われたところは、まちがって密になっていたところです。パラパラとばらけていると食べられにくいのだということですね。

・モチアワ…ようやく伸びてきました。発芽率は悪いです。計算してませんが、2〜5%くらいか。

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・ヒエ…半分くらいは牛に食われました。トホホ。回復してくれればよいのですが。
・サツマイモとツルアズキは草に覆われており、確認を断念(すみません、最後に見たので疲労でちら見くらいしかできず)。
◉発芽成育状況その2(2016夏焼跡地)
・アマランサス…やっと。やっと。遠くからでも視認できるほどに生長してきました。カブ跡地にまいたものは、牛に食われる覚悟で放置していたのですが、どうやらまだ食われてません。いつ味をおぼえるか、それが問題。そうなるまえに背丈を伸ばしてくれれればいいのですが。

・モチアワ……中山エリアには松本在来をまいてますが、発芽率わるし。覆土の問題なのか、土の問題なのか、種の問題なのか、旱の問題なのか。考えすぎるのもいかんので、思い切って昨年とった岩手在来の種を適当にえいやっと方方にまきちらしました。どうなりますか。
・タカキビ……林原在来を10m一列ぶんほどまいて、あとは50粒程度を、これまたえいやっとほうぼうに放り投げました。

◉その他
春焼地の再生竹がいきおいをましております。畑地部分と周辺部で目立つものは刈り取りました。アマランサス、モチアワ、タカキビ、それぞれ最後の播種。数日以内で発芽すればなんとか収穫までいけるかもしらん。来週から大豆、ツルアズキ、土用豆をまきはじめます。
この日の実質作業時間3時間×1名。
おまけの1枚は100年(千年?)の森づくりをうたう山を削った斜面。どうなるんかハラハラしてしょうがない。昨年から地面の草類、落葉はすべて撤去する管理に移行したようで、はやくも急斜面の土壌流亡がめだってきた。芝の類でも植える計画なのだろうか。浅学ゆえ余計な心配が先にたつ。新たな自然管理手法と思われ、どなたがご教示いただければ幸い。