ある焼畑の記録

8月5日。中国地方のとある農家の焼畑を手伝う機会を得た。記録に残らない貴重なものゆえ、この場所に備忘として記しおく。こう書きつつ思う。おそらく江戸時代中頃に遡る、今私たちが「日本の焼畑」として認識するものも、書くことをためらうものであったのだろうと想像する。江戸時代中期以降、各地で農書が書かれる動きやあるいは料理書が書かれる経緯との対比を、焼畑に物語らせてみたいものだが、それは今はおく。
概況を記す。(のちほど加筆)
◉実施地について
◉時刻について
早朝5時30分より。6時前には着火。鎮火は8時前だったと思う(カメラの記録で再確認)
◉人員
2名。ひとりかふたりだという。
◉語録(記憶から消えぬうちにこれを記したかった)
・今回はよく焼けなかった。(材が足りなかった。準備ができなかった)
→基本的に雑木(クヌギが多くみられた)を約1年前(秋)に切って放置したもの。視覚にはいるもので多いのは熊笹。枯れ具合からいって1週間〜10日前くらいに刈ったものか。
・無駄なことだと思うけれど、漬け物がうまいうまいといわれるのでやめられない
→無駄なことというのは投入労力に対して利益が少ないということか。また、販売よりもあげたりすることが多いのだと思われる。
・ここは(焼き畑地)、木村式の果樹園にしようと思っている。
・朝だけん、ここはよう燃えん。昼にもう一度火を入れる。
→熊笹のみをひいてあるところをさしての言葉である。熊笹の下にも落葉や枯草がまじる。夏の焼畑は露による湿りがあるものだが、それは土についてとりわけ大きい。土が湿っていれば材が燃え広がる際に必要なエネルギーをそのわずかな水分の蒸発に奪われることになる。

ある焼畑の風景

竹の焼畑2017〜夏焼火入れ

8月6日(日)、11時30分着火〜13時30分鎮火、15時30分消火確認。
おかげさまで無事終了しました。37℃の猛暑に加え、火の熱風熱射が強烈でした。山の馬の背にあたる場であり、風向は不安定という難所ですが、従事者16名全員フル稼働で乗り切りました。稔りの多い回だったと思います。
レポートはのちほど改めて。8月9日(水)に片づけと現地確認調査などを行います。
蕎麦は今回、バラ蒔きするのみでかくこともかぶせることもしていません。
鎮火後2時間を経過していましたが、ところどころ炭も残っており、蒔いた種がぱちぱちと一瞬でポップしていたところもあります。蕎麦の種もコーンと同様ポップすると白くなるのですね。粉をひくと白いのでそりゃ当然といやあ当然かもしらんですが、新鮮でした。


竹の焼畑2017~sec.23

夏焼火入れに向けての最終調整日、8月4日(金)です。猛暑日。最高気温で35℃であったでしょうか。
この日の参加者は5名、、、の予定でしたが、窮状を救わんとする何かが動いたのか、ひとり増え、二人増えで、最終的には8名で取り組みました。
9時~16時までの作業で、おおお、なんとか形になり、今年も準備は整いました。
明日の火入れ。
うまく焼けますように。


モチアワ、タカキビ、ヒエの現状

 春焼き地のモチアワが出穂です。勢いはありませんし稔りは薄いでしょうが、7月13日(下の写真)の惨状からすればよくぞここまでという感があります。シカにもウシにも食べられました。出穂前というのは、茎が美味しいのでしょうか。
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 そして、本日、すなわち2017年7月31日のモチアワが下の写真です。

 ちなみに昨年、2016年8月3日のモチアワはこちら。稔り方の違いがわかるかと思います。
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 続きましてタカキビです。
 まず7月13日。こりゃダメだわと思いました。
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 が、ここまで回復はしています。
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 そして、ヒエ。
 7月13日のこの食害のさまはひどいものだと思いました。
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 約20日後の7月31日の状況がこちら。
 モチアワ、タカキビより状態は悪いのですが、この勢いがどこまで続くか、ですねえ。
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 これから夏の盛りの1ヶ月は光合成能力をいかんなく発揮できるときであります。
 見守っていきますよ。
 応急処置の草刈りを約15分実施しました。
 水曜日にまた少しやっておこうと思います。

竹の焼畑2017~sec.21

7月30日(日)です。夏焼きへ向けての焼畑整備、その何日目なのでしょう。
この日の参加者は4名。
朝の9時30分〜午後3時まで、みっちり作業しました。進んだのではと満足。しかし、人が足りんので準備が黄信号です。
天気予報とのにらめっこは相手が笑ってくれたようで、8月6日の火入れ、天は「良し、やれ」と言ってくれているようです。



2017年アマランサス(赤穂)の成長を振り返る

島根県仁多郡奥出雲町佐白における竹の焼畑。アマランサスの焼畑栽培については2年目にあたる。赤い立穂を有する種を優先的に栽培すべく、新たな種を入手し育成することにした。長野県松本地方で自然栽培による育成を重ねている種である。
これを火入れ後、蕎麦と蕪を栽培した後にまくものとして試してみた今年。途上であるが振り返りつつ課題をもう一度整理してみようと思う。
◉5月18日
通称「中山」。播前にはオオアレチノギク(おそらく)が背を伸ばし始めている。中山ではオオアレチノギクが焼畑後のパイオニアプランツとして優先している。この日、そのキクを根こそぎ抜いて種を蒔いた。
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◉6月4日
なかなか発芽しないこともあり何度かにわけて種を蒔いているのだが、この段階でも発芽は認められなかった。
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◉6月10日
待ちに待った発芽。ひとあんしん。
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◉6月23日
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◉7月6日
地形上、日照にめぐまれておらず、また間引きが大きく遅れたこともあるのだが、成育はよくないうようだ。
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◉7月24日
夏、ぐんぐんと成育してほしい〜。
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竹の根がつくる土と土用の丑と

7月24日は1時間半ほど山仕事。間引きと火入れ地の様子見である。様子見のほうは何を見るわけでもないのだが、何が生えているのかとか、今の時期の風はどうなんだろうとか。そんななかで土をみて少し驚いたので、そのことを記しておく。

こちら、竹を伐り火を放って3年目の土である。

1年目は鍬を振り下ろせば跳ね返さんばかりにガチガチであった。この日、振った鍬はさっくりと土の中に潜り込むことができた。いまだ根は張っているものの、ぽろぽろとくずれる。あともう2年もすればフカフカになるのではないか。今段階で歩けばクッション性をもっているのではっきりとわかる。腐葉土の上とまではいかないが、明らかに違うふかふか感がある。

これ、森に戻るにしても、畑にするにしても、大変なポテンシャルをもった土だと思うのだ。

どうだろうね。

土用の丑は昨日だったか今日だったか。意外にもウナギのことに言及する声は聞こえてこなかった。スーパーの売り場をみればわかるように、もはや高嶺の花であって、そうやすやすと買える代物ではない。

だからこそ、この日に買おうとなるのだろうが、もはや無理も限界であろう。

巷間よく知られているように、ウナギはもともと夏には売れないものだ。その旬は油ののる冬である、天然ものであればなおさら。ただ養殖であれば季節は関係はないようだ。江戸時代後期、夏に売れないウナギをどうやったら売れるかということから「土用の丑の日に鰻を食す」という新習慣ははじまり、養殖の時代になり、稚魚の乱獲と表現されるが、それどころではない。約半数が違法な取引で稚魚を入手し養殖しているという報道があったのは3ヶ月前であったろうか。

ニホンウナギは準絶滅危惧種。絶滅の日が確実に近づいている。

な、ら、ば。

鰻に変わる土用の丑の日の新習慣を発明したらよろしいだろう。

そこで、ウのつくものではないが、シのつくものであれば、困っているものがある。

シカ

土用の丑の日に鹿肉を食べる。

なんとかならんもんかのお。

『草原の河』8月1日より広島・横川シネマにて

 日本で初めてのチベット人監督による劇場公開作。

 こうした作品は山陰地方に住む者にとっては、広島・岡山での上映を期待することになる。そして8月1日より広島の横川シネマでの上映がはじまるので、行こうと思う。

 ソンタルジャ監督のインタビュー記事を読んだ。

 この映画ではプロの役者を採用していない。チベット人だけで映画をつくりたかった監督は、その理由を、チベットにはプロの役者がほとんど居ないということに加えてこうのべている。

「この父親役のグル・ツェテンさんにしても、もし普段やってることと全く違うことをやれと言われたらとてもできないと思うんです。でも牧畜民という自分自身を演じるということなので、彼はできるわけです」

 演じるとはなんなのか。

 演劇・映画・舞台を通じて表現されるものとはなんなのか。そんな問を発しようものなら、現代的意味、商業的意味、思想的意味、教育的意味。無数の意味が横溢しかねない。

 そして、この映画にはその「毒」に毒されないものがあるように思えた。

 ソンタルジャ監督は侯孝賢の映画から影響を受けたという。侯孝賢の映画はスクリーンから離れた客席の存在を前提としてつくられているように思えるし、蓮見重彦もそういうことをどこかで書いていたと私の記憶にはある。そういうこととはどういうことか。

 映画のシーンに笑いを誘うところがあるとしよう。そこで笑う観客があたかも映画の1シーンであるかのように、映画を観ながら感じてしまうのだ。そんな映画は通常は退屈なものとして敬遠される。夢中にさせることを回避しているのだから。

 さて。『草原の河』はどうなのだろう。楽しみである。