奥出雲の蕎麦栽培はたたら製鉄の興隆とともにひろまった?(わけではない)

焼畑の蕎麦の様子は明日確認してくるとして、作業用メモ。

16/09/10の山陰中央新報の記事にひっかかった。

http://www.sanin-chuo.co.jp/health/modules/news/article.php?storyid=561119179

→リンク切れ(2019/08/28確認)

問題の箇所を引用する。

”同町のソバは、たたら製鉄の原料となる砂鉄を採った跡を田畑に変えたり、木炭生産のために切り出した山林の跡を焼き畑にしたりしながら栽培が広がった。”

新聞記事にしては大胆な書き方であって、通常は「○○によれば」という上で書かれそうなものであるが、大丈夫なのだろうか。

「木炭生産のために切り出した山林の跡を焼畑にする」。可能性はあるにしても、いつの時代のことなのだろう。そもそも奥出雲での蕎麦栽培が「広がった」のは、そこではないだろう。

………

†. 焼畑・切替畑とたたら山内・製鉄の関係については未見未聞。断片的な史料しかないのだろうが、まずは史料と文献をそろえてみよう。そもそも蕎麦についても出雲蕎麦について流布しているものがかなり怪しいのだから。

†. 奥出雲で蕎麦栽培が”広がった”のはむしろ近年でしょう。農林水産統計をしらみつぶしにあたってみることに。他の産品にも注目。大根、柿、椎茸、などなど。耕地面積もわかれば。

……

原傳の著作など読み直すところからか、、、と思って検索かけたら、なんと。国会図書館アーカイブで公開されていた。原傳,1934『松江藩経済史の研究』(日本評論社)

 丹念に読んでみよう。

◆2019年8月28日追記

 「奥出雲で蕎麦栽培が”広がった”のはむしろ近年」の記事を追加する予定ゆえ、その下書き的に。

◉原傳の『松江藩経済史の研究』がわかりやすいのだが、管見の及ぶ限り、奥出雲地方における山野利用の歴史・地理分野の資料から推測されるのは、鉄山経営が保護されていた藩政期において、山林の焼畑で蕎麦を栽培するのは困難であったろうということ。

 少なくとも奥出雲の蕎麦栽培は、たたら製鉄とは別脈の流れからよってきたるものだろう。

1)原傳の『松江藩経済史の研究』からみてみる。

2)太田直行著,昭和13年刊『出雲新風土記 味覚の巻』から、八川におけるソバ栽培について。

3)統計資料、農水省等のデータから

4)矢富熊一郎 著,昭和40年刊『石見匹見町史』から第2編・歴史編〜江戸時代〜そばの栽培

第13回日本オオサンショウウオの会邑南大会

全国から(邑南町をのぞく県内参加者はおそらく10人未満)約150名が集まった”第13回日本オオサンショウウオの会邑南大会”のレポートは今週末に〜。
10月2日の昼間の部のみ参加して奥出雲町布勢・八代川のオオサンショウウオのことも片隅でアピールしてきました(A1ポスター2枚手作り)。噂にたがわず報告会は大変エキサイティングでして大満足、いや、ホントおすすめしたい、来年は鳥取県南部町で開催です。みなさん是非!

さて、以下は自分用・関心のポイントです。
◉出雲地域の関心の低さは根深い。形成されてきた自然観の違いと社会集団のスケールが関与しているんだろう。
◉中高生と研究者が同じ舞台で発表するなんて「学会」はそうそうないです、素晴らしい! 「大人」の態度もそれぞれでこれまたおもしろいし、いい!
例えば……中学生の発表に対して質問が3つの姿勢でなされました
・大人A)言葉が不適切ではないか。おかしい。説明して。
・大人B)○○だったんだよね。その時こういうところが大事なんです。どうでした? 教えて。
厳しく大人げなくもあるけれど、同じ研究者として対等に接しているAさん。中学生の理解度を考えながら、教育的にやさしく接しつつも、ポイントを引き出そうとしているBさん。
どちらもありでしょうし、両者とも探究心・好奇心・研究心が感じられて、大会への好感度がさらにヒートアップしました。
◉人がバカにならないための環境・頭がまわる、頭を使う環境設定がある。
人口密度と人口の違いがどうやらわからなくなっている人がいて、何度も自分の耳を疑ったのだが、どうやら頭を働かせることを全力で回避するような環境にいると、そうなるのかなと思い。
◉近い将来オオサンショウウオは奥出雲からはいなくなることが見えたので、なけなしの保全活動&調査だけじゃあかんのだろう。
◉江戸期の博物誌などをみると、サンショウウオオオサンショウウオが混同同一視されている。サンショウウオをのぞくと紙に残っている地方名も思いの外少ない。ハンザキ、ハンザケ、アンコウ、ハダカス。食す、飼うなど。食べた人の記憶が残っている間にもうちょいひろっておくべし。
◉タニグクはヒキガエルではなくオオサンショウウオであるとの見解を碩学から頂戴した。土壌の神=スクナヒコナ=農業神とのかかわりの中であたってみたい。

9月27日の焼畑レポートより

9月27日焼畑レポート。 アマランサスの収穫を終えました。アワ、ヒエ、タカキビとともに、木次と三所にわけて干してます。

さて、アマランサスの運搬途中に布勢のポプラで三沢のIさんとばったり。雑穀を分別する手箕のふるい方を誰かに教わりたいんですけど〜という話のなかで、「うちのトーミを貸すよ」と申し出いただきました。ありがとうございます! 温海カブは順調なるも間引き必須。蕎麦は雨による倒伏もあってあまりかんばしくないです。もっと秋らしく晴れてくれ〜。

9月も終わります。おいしい雑穀スイーツ開発へ向けてダッシュです。

山の口あけ

9月は山の口あけ。失われた記憶と記録を求めてのろのろじたばたしている。民俗としての記録が現存するトチノミ採取文化の西の果て「柿木村黒淵のIさん大正11年生まれかあ」※1とつぶやくと、「あぁ○○さんね」と妻曰く。すげー。山村の文化凝縮度は基本的には都市をはるかにしのぐということか。黒淵は数回通り過ぎただけの記憶しかないが、椛谷のさらに奥にある。妻の同級生だった黒淵の子は小学校から寮に入っていたという。

「山村といわれるものの多くは、実は奥まった農村にすぎない」(千葉徳爾,1950)のであるが、数十年前まで農村とは異なる数少ない本当の山村が日本のあちらこちらにはあって、柿木には確かにあったのだろう。

トチノキを1本切り出すと1年分の収入があったので、どんどんと切り出されたというような文字の記録をあちらこちらでみた。多いところで年間10俵もとれる生物資源は家族数年ぶんの現金収入と交換されえた。同時に白米が山村に入ってくる、麦飯が主だった平地よりむしろ早く。

いや、しかし、それでさえ「山村」の残映のようなもので、椎茸の栽培が全国に広まる時代に、時代の結節点があるという仮説を抱いて匍匐している。焼畑もそう。時代でいえば元禄より前の時代。どこからたどれば糸がつかめるのか。

匹見(広見)に椎茸栽培を伝えたという三平さんの墓参に行ってみようか。何かわかるかもしれないと思ったり。

柿木村下須の西にかつてあった広大な笹地の謎も糸のひとつだろうが、参照必須の千葉徳爾の「はげ山の研究」「はげ山の文化」は県内に蔵書がない※2。『西石見の民俗』1962に千葉が「土地利用の展開」を稿している。今日は県立図書館でこれも見てみる。

大山あがり調査も半年放置していたものを再開する。山と牛と竹(笹地)とを結ぶ謎と未来を見出すべく。

雨で倒伏したであろうアマランサスの収穫後の干し場も探さねばだし、ヒエをどうしよう。古来の手法で調製したいし(いやそれしかないし)。アワはまあなんとかなるでしょ。そうこうしているうちに蕎麦もできちゃうよ。やれやれ。

※1)辻稜三「中国山地におけるトチノミ食とその地域差について」1993,人文地理第45巻第2号:調査の概要表に記された取材地一覧を眺めていたら柿木村の文字を見つけてつぶやいた。

※2)勘違いでして、島根大学付属図書館にありました。また、この後、『西石見の民俗』は古書にて購入した。

雨で倒れるアマランサス

 秋の長雨と台風は収獲前の穀物にとってはダメージなので、ほんとに毎日気をもみます。この三連休も稲刈りの予定だった田んぼも多かったろうに。昨年ほどではないですが、すでに倒伏した稲田もちょくちょく見かけて、やばいよなあ、芽がでちゃうだろうに〜と。いや人ごとではありません。  アマランサスはなんと、立ったままでも熟したのち雨にさらされれば芽が出てしまうというしろもの。そもそも9月は残暑が続く長期予報が8月下旬にあって期待していたのですが、見事にはずれており、収穫のタイミングは後ろにずれていってます。  雨がつづけば頭がもたくなり、地面がゆるみ、どさっと倒れる。少しの雨でも。こんなふうに。

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 さて、写真でみるとなかなかアマランサスの大きさがわからないようです。ものにもよりますが、およそ2m〜3mですね。

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 モデルさんが右手にもっているのはアワで、左手がアマランサス。これがほぼ平均的な高さのものです。

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 収穫後、どうやって干したらいいのかを思案してます。稲であれば濡れることで乾きがよくなったりするものですが、アマランサスの場合それより芽が出る可能性が高まる。よって完熟した後に、雨にあたらないところで乾燥させて脱穀するのがよいのです(確か)。  農家の軒先を借りるしかないのですが。果たして見つかるのか!?  

牛の山登りと竹林の役割

 アワとヒエの収穫のために山に向かう日が続いた。毎日数時間。放置し過ぎた焼畑地ゆえ草刈りが半分以上の労力と時間を占める。火入れしなかった防火帯が通り道となるのだが、藪に近づきつつあって、かき分けるのと刈るのとで半日を要したほど。その時の勢いで漆を巻き付けたのか、顔と首がかぶれてしまった。これはまあ軽傷。傷と怪我がいつも絶えない。

 さて、収獲の振り返りはまた別記事にまとめるとして、昨日の発見を。

 この写真である。

 牧場の乳牛があがったあとである。若い牛だ。たぶんあいつだろうと個体も見当がつく。昨年まで、ここの牛たち(といっても恐らく好奇心旺盛な1頭のみ)この写真の手前まではきていた。火入れをこの上のところまでにした理由のひとつでもある。

 なにせ急な斜面だ。何を思って登ったのかをしばし想像してしまった。ずり落ちる速度より早く脚を前へ動かし、転倒のリスクを回避しながら一段上へ身体を移動させる。何度か失敗した跡がみられる。それでもなぜ上へあがろうとしたのだろう。

 好奇心。

 なんだろうな。

 あがった先には一面の蕎麦畑が広がっている。牛の目にはどう映ったのだろう。

 そこで満足したのか、さらに登る意味を感じなかったのか、蕎麦畑に入った形跡は見られなかった。ただ、1週間前にはなかったイノシシの遊び跡が少々。牛が頻繁にくるようになればイノシシも出てこなくなろうし、それが狙いでもある。

 どうやら確かなのは、花が出始めた蕎麦は牛も猪も口をつけないということである。忌避する物質が含有されているのかもしらん。

 ここの乳牛はホルスタイン種である。向かいの山には山岳牛のブラウンスイスが育牛放牧されている。牛舎につながれて育てられたホルスタインは外に出たがらないものだ。その仔牛は外で遊ぶようになり、その仔牛の仔牛になってようやく放牧に慣れる。最低でも3代かかるということに加え、難題はほかにもある。冷涼な気候に適した種であることと平原に適応した身体であること。北海道が適した地であるのだが、それをこの奥出雲の山間地でどう適応させていくか。

 木陰の有無は重要だと思う。落葉広葉樹であれがなおよいが、竹林は夏のいちばんきつい時期、まとまってあると、蒸散効果は高いはずなので、1〜2℃ほど気温をさげてくれるのではと思う。平地であればそう。山の場合、風の通り方にもよる。放牧地は(おそらくかんな流しで)山を削って谷間となった地形である。念頭においておきたいのは、生物多様性を高めるモザイク植生の単位面積がどのくらいだったか。原理と事例をもって確認すべし。

 全体の生態系をどこまで見切っていくか。参照項をあげてみる。

・自然利用の履歴

・周辺の歴史と信仰

・民俗と自然利用の記録

・気温降水量などの記録

・林間放牧研究論文の参照

・竹林の効果について論文参照

・モザイク植生について

 用語など適当すぎるところは後ほど訂正することにして今日はここまで。

 

地方創生に必要なのは経済循環の向こうにあるインプロビゼーション

 藻谷浩介氏がPRESIDENT Online(2016年09月09日)でこう記しておられる。

そもそも地方創生の政策のイノベーティブなところは、交通インフラ整備に工場誘致、という旧来の発想は通じないことを直視し、「地域内の経済循環の拡大」が必要だと明確に掲げたことにある。

 http://lite.blogos.com/article/189813/?axis&p=4

 論旨はだいたい以下である。

・だというのに、地方創生は補助金で箱物つくることだと、未だに考えている議員が大半である。経済循環が何かさえまったく理解できていない。

・そんな中、地方に無駄な補助金を投入するくらいなら、東京一局集中を加速することに注力して、都市間競争を勝ち抜かねばならないという論陣が力を増してきた。

・地方でも成功しているケースは多くあり、大都市こそが学ぶべきである。人材や市場が過少な中でのビジネスは、まさに東京でこそ求められている。

 藻谷氏の論は大筋ではおかしくないのだが、ミスリードを起こしがちだと思う。経済循環がわからない議員を嘆くのはわかるのだが、産業連関表が読める(たとえば自営業者や中小企業が自社の経営に利用するという意味で)人がどれだけ地方にいるのだろうか。私も解説つきで読めるレベルであって、理解しているとは言いがたいのだが。(中国地方、島根県岡山大学の中山良平教授の貢献もあって、大変めぐまれているのに。中山氏の著書『まちづくり構造改革―地域経済構造をデザインする』2014(日本加除出版)は、わかりやすく有益です)

 《地域内の経済循環の拡大》を、どう理解し創生につなげるかについては、その欠点があまりに経済学(均衡理論)らしいことによるのだと思う。経済学は分析のツールであって、ツールでしかない。創生は分析ではないのだから、そこを勘違いしないことだ。

 いや、いや、それ? もちっとヒントを、と誰でも思うだろう。私もそう思う。

 ここからが本題なのだが、ジェインジェイコブズの勉強会をやろうと検討中なのだ。

 ジェインジェイコブズ(以下JJ)は今年2016年が生誕100周年にあたるし。なにより経済学プロパーからは非難囂々、経済学をわかっていない素人が何をいうか爆弾が多数投下されている。

 そんな中、塩沢良典氏がどこかでこんなコメントをしていて、ハッとしたわけだ(あとで出所いれます)。

《ジェインジェイコブズは経済は散逸構造であると言いたかったのではないか。生態学と経済学をつなごうとしたのだ》

 そして、触発されて、手元にある『発展する地域、衰退する地域』を改めて手に取りました。JJの著書は理解するのではなく、道を示そうとしている灯りなのだと、そうひらめいた。

 その道は読者ひとりひとりが見つけ歩むべきもの。対話や討議が必要。できればひとりでなく。ん〜、でも誰もいないし、と思いながら文庫解説をみると、なんと片山善博氏が寄せているではないですか。そのなかで、鳥取県知事時代の事例をあげていたので、それをほじってみました。

 JJはインプロビゼーション(improvisation:ジャズの即興のような)という用語で示しているが、地方創生の「創生」にあたるし、その創生を駆動するのはイノベーション創発)であり、創発の本質はこのインプロビゼーションであろう。すなわち、「要素間の局所的な相互作用が複雑にからみあいながら新たな秩序を形成していく場の力」である。

 さて、事例をみてみよう。→のついた仕組と心情は私の想定である。

【学校給食の地産地消インプロビゼーションをおこすか】

ステージ1)【政策】学校給食の地産地消を促す

      →仕組:栄養士の献立表にもとづいて食材を調達するには地元調達が困難。

      →心情:反発を受けて進まない。

ステージ2)【修正試行】ある栄養士が地元の作付けを調査。

       野菜の収穫量に基づいて献立を作成。

       結果:地産地消率がアップ。

      →仕組:ロジスティクスを担うJA等の組織が動く

       ※ロジスティクスの要諦:必要なものを・必要な時に・必要な量を・必要な場所に

      →心情:コミットメントしている個人が「うれしい」。昂揚感の醸成。

ステージ3)【創発インプロビゼーション

       地元農家が(献立表をみて)、地域外調達をしている食材のなかで、

       地元で調達・作付が可能な野菜類の作付けに着手。

       結果:地産地消率がさらにアップ。

      →仕組:ステージ2より高度なロジスティクスとなる。

          新たな作付が農家にとってプラスとなるかどうかは不透明。

          市場原理とは違う価値観が駆動しながらも、市場とも連動する

          必要がある。

      →心情:地域のため+長期的信頼関係に資する意志決定が農村では結果とし

          て利得が高い。

 場をつくるためには、プレイヤーがステージ3の心情(あるいは規範)を共有しているかどうかが鍵となるのではと思う。農村であれコミュニティであれ大規模システムに抗して経済をまわすためにはこれがアドバンテージとなる。従来、非合理性や因習性あるいは障壁障害として捉えられていたことである。マイナス評価をプラスに捉えるための概念を与えてみたいと思うが、現状、材料不足であり、「宿題」としたい。

 

土用豆の花が咲いた

 播くのが遅れてどうなることかと思っていた土用豆です。やっと花が咲きました。なんとか豆ができるまではいけそうです。
 三沢でわけてもらった土用豆。文化祭(産業祭)に出品されているのを見つけ、在来の豆があったのかと驚き喜び、、、放棄地に囲まれながらも元気に一人暮らしする婆ちゃんの家を訪ね、「持っていきんさい」とわけてもらい、それから在来の蕪菁(地カブ、正月カブ)に出会い、、、と。
 いろいろありました。まだいろいろあるでしょうが、ともかく、花をつけたのがうれしかった。

9月9日重陽の節句の山畑

 9月9日。久しぶりに晴れました。焼畑地の近況報告です。
 8月6日に火入れして播いた奥出雲在来蕎麦が花をつけはじめています。下の写真は防火帯に播いたものです。火入れ地のものも8月19日に追い播きしたものが育ってきました。
 
 咲いているのは小山の中腹でして、私、ゆっくりとあがっていきました。あぁ、咲いている、よかったな〜と感慨にふけろうかというその瞬間でした。
 ブフォ、ブフォ、フガフガ、フガ〜〜。
 うりぼう(うりぼう)が2匹、蕎麦向こうから竹藪のほうへ駆け上がっていきました。
 もう、びっくりしたなあ。あちらもでしょうが。
 生後半年?くらいなのか、子どもではないが、大人ではないくらいの大きさでした。
 兄弟なのか。


 そ、し、て。9月3日火入れの温海カブですが、6日たって発芽は順調。少々密に播きすぎたようで、間引きが大変ですね。それから土着菌?の菌糸が大量に出てきています。熱量が大きかったところに顕著です。培養したい。


竹の焼畑2016ー夏焼き2の火入れ

 2016/09/3(土)・晴れのち曇り:「夏焼2」火入れ。

 今回も無事に火入れが終わりました。本当にたくさんの方々にお世話になっております。ありがとうございます。島根大学から11名、一般から7名の計18名での取り組みでした(見学者含む)。

 時間経過は大まか以下となります。

10時40分 着火

11時40分 約2分の1まで延焼

12時30分 延焼終了

12時30分 延焼終わり

13時00分 鎮火…1回目播種(温海カブ)

14時15分 2回目播種

 さて、毎回、焼け方は違いますが、燃焼温度の実験はできずじまいです。が、しかし、今回、とあるポイントで一升瓶の溶けた残骸があったことから、推定している温度とそう違わないことがより確かになったと考えます。

→燃焼平均温度は400℃〜600℃。

 そして、また今回、1000℃の壁がイメージできたことも大きかった。みなさんご存じのように、1000℃が出せれば青銅がつくれます。弥生の世界ですね。焼畑を火を操作する技術としてみたときに、鉄器精製はすぐ隣にあるわけで、そこんところはもう少しほじってみます。どうぞよろしく。

※2020/07/08追記

 一升瓶のガラスがソーダ石灰ガラスだとすると、軟化点が700℃前後というデータをそのままあてはめるのなら、800℃近くまでの温度上昇が一定時間(瞬間でなく)続いていたのではと。胡乱な考察を認めつつ、再考の気を待つ。

 

★参考★1年前のレポート(数値の出所は省きます)より。

ーーー

・自然に燃え広がるのに必要な温度は350℃。その後数百から1000℃に達する。発生した熱は放射、伝導、対流等によって土壌表面へ伝わっていく。

・日本の焼き畑の記録では、うまく焼けば表面で500℃に達し、深さ2〜3センチで100℃(水の沸点温度)に落ち着く。そして5センチまでいくとほとんど温度上昇はなくなる。

・温度を決める要因は複雑多様であるが、要因としは主に3つある。

有機物量、②水分量、③そして土壌中の空隙など物理的性質である。

このうち最大の要因が土中の水分量。水は土中の無機物有機物の伝導や間隙の空気による対流よりも、伝導率が高いため、熱が下方まで早く伝わる。

・土壌微生物や植物種子の致死温度がおおむね60℃〜100℃。表層3センチまでのものを死滅させ、逆に深さ5センチ土中の生物は生き残る。