竹の焼き畑2016-sec.10~盛大に竹を伐るのだの巻

 6月25日(土)。曇りでした。湿度は高いものの、この時分山で仕事をするには過ごしやすい気候といえましょうぞ。さて、参加者は新人?3名(うち女性2名)もあって7名でした。
 ひたすら伐開につとめましたので、かなり進んだのではないかと。明日もあります。
 汗をかいたあと、山のてっぺんで、吹き抜ける涼しい風を受けてだらりと休むのは、ほんとにほんとに最高です。叫びたくなるくらいです。なんなら叫んでもいい。


失われた自然の再生とは

「失われた自然の再生とは何か」への回答として、さくらおろち事務局長時代にこたえたものがある。こういうものだ。

 ここにいう「自然の再生」とは、平成15年施行の自然再生推進法に基づき政府が決定した「自然再生基本方針」、ならびに平成24年閣議決定された「生物多様性国家戦略2012-2020」が基本方針とするものと同義である。
 すなわち「自然」は、人や人工物をも含めた生態系のことを指し、「再生」は狭義の「復元」の意味のみならず、修復、創出、保全、維持管理を含む。つまり、ここでの自然再生とは、人間が生態系の構造や機能を左右しうる存在であるという自覚に基づき、後世の人間が持続的に生態系の恵み(財、サービス、文化的価値など)を受け続ける持続可能性の確保に向けて、生態系を管理する行為である。

 そして住民参加について。

また、「住民参加」とは、内発的動機に基づく個人の自発的参加形態を指し、当該業務として実施する学習会へ、案内チラシや様々なインターネットサービスを使っての案内によって情報を得るか、参加経験者からの勧め等によって、その内容・趣旨を知って参加するその形態をいう。

 そして、環境保全活動を進める上での課題として、以下のように回答している。

 当業務を受託する団体の役割として、生物多様性・持続可能性を根幹とした環境活動を推進するうえで、以下のことを明確にすることが課題であると考えている。
生物多様性、②地誌・地理情報、③生態系を特徴づける物理・化学的環境要因、④地域の文化、社会、産業、⑤自然資源の利用に係わる技術について、
現状とその歴史的変遷をあきらかにしたうえで、そららに基づいて、どの範囲に、いつの時代に、どのような理由で、何が失われてきたかを、出来る限り具体的に把握し、目標・課題に反映させること。

 ま、そういうことです。
 時々読み返して反芻・記憶しておくために残しておくのです。
20150809-P111028502
写真はさくらおろち湖上流部の夏。湖底があらわれている。縄文遺跡もあれば水辺祭祀のあともあった場所。
 

ローカル・ナレッジを読みながら

《社会的なるものほぼすべてについての「一般理論」を求めようとすることの虚しさは増し、そうした理論を手にしたとの主張は誇大妄想と聞こえるようになった。これが統一的科学を望むには早すぎるからか、それともそんなものを信じるには遅すぎるからかは、議論のあるところと思う。しかしそうした科学が、今ほど遠く、考えにくく、望むべくもないように思われる時はない》C.ギアーツ,1983『ローカルナレッジ』小泉潤二訳

そして、青木保は解説でこういう。

「私もこの学会で30年近くを過ごしてきたが、ギアーツの著作を理解する教養と知性を備えたものはまずほとんどこの学会にはいないといってよいかと思う。それに替わって学会を支配するのは、専門に名をかりた野蛮な無教養主義であり、小権力をちらつかせる小エゴイストの横暴である」

閉鎖空間の中でしか知は知たり得ないが、それでも知たるものへの誠実を貫こうとすれば、閉鎖空間=枠組み=地方の知を、こえていかねばならないのだと。

どんなものであれば、いまの時代にあって、読むという行為は、その困難に挑むことなのだと思います。

スターバト・マーテル

スターバト・マーテルに曲づけした作曲家は600人にのぼるとwikipediaに記載がある。 冒頭の一節である《Stabat mater dolorosa 悲しみの母は立っていた》から、そう呼ばれてきたのであるが、著名な10曲くらいであっても聞き比べてみると、わかることがありそうだ。  下に引っ張ってきたのは、イタリアのナポリ楽派オペラ作曲家・ペルゴレーシのもの。 Pergolesi: Stabat mater, for soprano & alto Les Talens Lyriques *上記リンクが切れていたため、ペルゴレーシのスターバト・マーテルはこちらで。

編成などオリジナルに近いのはこちらか。ただし、下にひいたブログが「オリジナルの演奏を再現したとはいえない」という女性ボーカルの二重唱。

J.S.Bachがモテットに編んだ「我が罪を拭い去りたまえ、いと高き神よ(Tilge, Höchster, meine Sünden)」(BWV1083)はこちらで。こちらは男声のボーイソプラノと女声。これから上記でいうところのオリジナルを脳内で奏でてみるか。

◆読んだ記事やブログ等 ・ペルゴレージの「スターバト・マーテル」をオリジナル編成で聴く (私的CD評) ・歌詞対訳講座〜スターバト・マーテル

アマランサス、間引くのがもったいない

 梅雨らしい雨が続いています。昨日奈良から帰り、春焼き畑地の間引きにでかけました。

●アワ、アマランサス、ヒエ

 アワはかたまっているところを多少抜き取った程度です。あと10日くらいたったころに手をつけても遅くはないでしょう、たぶん。

 問題はアマランサスです。発芽はよくなかったのですが、おそらくここ数日で芽を出しているものがちらほらとありました。1ヶ月近くたっての発芽です。

 追加で種蒔きしようと、少しばかりあまっていた種をもってきていたのですが、やめにしました。うまく土ごとほりとって、移植できないかな〜。5つ6つやってみました。明日もひきつづきやってみようと思います。

 雨が降っていたので、写真はとっていませんが、急に大きくなってきていますよ、アマランサス。2メートルを超えるらしいので、ひまわり並だと思えば、順当な成長でありましょうぞ。

 そして、ヒエをどうしましょうかと。筋まきしたのが混みすぎているので、間引きは必須なのですが、これもうつせればうつしたいし、できるのでは?と。

 明日、雨が降らなければ、杉を倒して下のほうに植えてみたいものです。

●再生竹

 かなり伐りました。大小あわせて50本はやっつけたと思います。

●クズ

 20メートルはのばしてものがあったので、5カ所くらいの根元をざっくりと伐りましたが、何度かやんないといかんのでしょうね。

●トマト

 先週とさほど変わりはないように見えます。

●サツマイモ

 同上。

●大豆

 順調にのびてきています。

 

竹の焼き畑2016-sec.9〜今度こそ夏伐りはじめ

6月18日(土)。梅雨のど真ん中に快晴。今年度いちばんの汗をかいた活動日となったと思います。水分補給はぬかりなかったでしょう。また日陰箇所での作業が多かったこともあります。
まだまだこれから、ですけれどね。
さて、この日の参加は島根大里山理研究会から3名(うち1名は午前のみ)、山村塾から1名の計4名です。
夏焼きへ向けて伐開はじめの1歩。倒竹、枯竹の整理が大半を占めます。草刈りも見えないところに切り株や石など、多くのトラップがありますので、そろそろと様子をみながらの作業でした。
あと2日で1ブロックぶんを仕上げる案配です。地味でつらい下調整はできたので、来週はちょっと賑やかに大人数でとりかかれるかな〜♪

そして、春焼き地での発芽状況。

アワはようやくのびはじめました。間引きが若干必要な程度。

ヒエはもっと早く間引きすべきでしたが、手がつかずで、来週ですね。

アマランサスは大変よろしくないですが、ポツポツと出てきているのが希望の種。
少し残った種を、まったく発芽のない地面に少し蒔いてみようかと思っているところ。

日の出団扇を竹紙で

 今年の竹紙づくりはちょいと青色吐息。今年の漬け込みはなしにしよう。なんといっても場所の確保が難しい。樽の置き場所が。まだ漬けこんだままのものも乾燥させて取り込まねばならぬし、漉き枠をつくることと、竹意外の植物を試すなどをしてみよう、そのぶん。
 そして、団扇に使う紙を竹紙でつくるのをやってみたい。まずは団扇の骨だけは既成のものを使う。。。のであるが、夢は日の出団扇です。

 出雲民芸館で邂逅した金津ちかさんのそれ。無骨な竹の骨なのに優美を感じるのはなぜ。人の手がぐぐーっと入っているその気によるものなのではなかろうか。

今日の雑読断片

 昨日、6月16日のことであるが、書きとどめておくべきことして。
【ダイコン】
魚谷常吉 (著)・平野 雅章 (編)『味覚法楽』 (2003;中公文庫)

ダイコンは日本人の食物として最も広く、かつ多く用いられ、常にその恩恵に預かっているのにもかかわらず、恩に慣れてかあまり珍重がられず、その真価を認められていない傾きがあるのは、不思議といわねばならない。
(中略)
最後に、その料理法の中で特にうまいと思われる二、三について述べると、おろしダイコンをもって第一に推したい。(中略)ただ水で洗い、皮のままおろし金でおろせばよいので、そのとき汁を捨てないだけが条件で、もし水分が多すぎると思う場合にはカツオの粉を加えて加減すれば、食いやすくなり味も優れるのである。なおこれに使うしょうゆは、うま味があるものを用いるのも条件である。ぜいたくにするならば揉みノリなど加えてもよいが、そのうま味を賞するには、おろしたままの汁をしぼらないところへ、しょうゆを適宜加えるだけのものに限るようである。

『風来好日スモールライフ』の久保田昭三さんもダイコンをよく使っておられたのではと記憶する。巻頭の写真の中で畑の小さなダイコンを撮っているのだ。常食は馬鈴薯と大根と屑米と自飼いの鶏の卵であったか。そして、お元気だろうか。一筆したためてみよう。
 ダイコンの民俗については、まだ最低限の整理ができていない。平凡社・世界大百科の項で飯島吉晴はこう記しているので、引っ張っておく。整理したものはひとつ前の記事に加筆する。

大根は,かつて青森県五戸地方で,10人家族でひと冬700本用意したというほど,漬物やかて飯の材料として日常の重要な食糧とされた。一方,大根 は種々の形に細工しやすく,婚礼の宴席に男女の性器を模したものが出され,またその色が神聖感を与えるために,古くから正月の歯固めをはじめ,ハレの日の食品や神供として用いられた。

 追記すると、アエノコトにおいて、ひと組のダイコンを男女に模している再現写真があって、これは興味深い。これは奥能登のこととして後述されてもいる。

また大根は種々の俗信や禁忌を伴っている。種を土用の入りや丑の日に撒くと,葬式用や曲り大根になるといって 嫌う所が多い。また大根畑に七夕飾りの竹や桃の枝をさしておくと虫がつかないという所も多い。東日本では,十日夜(とおかんや)を〈大根の年取り〉といい,この日に餅をつく音やわら鉄砲の音で大根は太るといい,大根の太る音を聞くと死ぬといって大根畑へ行くことや大根を食べるのを禁じている所もある。西日本では10月の亥子に同様の伝承があり,この日に大根畑へいくと大根が腐る,太らない,裂け目ができる,疫病神がつくといい,また大根の太る音や割れる音を聞くと死ぬともいう。このほか,半夏生(はんげしよう),彼岸,社日,夷講などの季節の折り目や収穫祭にも大根畑にいくのを忌む。これは大根が神祭の重要な食品であり,大根畑は霊界に近い神の出現する神聖な場所と見なされていたことを示している。

 北九州では,稲の収穫祭である霜月の丑の日の前日に大黒祭が行われ,二 股大根を箕(み)にのせ,供物をして祭っている。奥能登のアエノコトでも,二股大根を田の神として丁重に扱う風がある。大黒と大根は語音が近いためか,二股大根を〈大黒の嫁御〉といっている地方は多い。また〈違い大根〉は聖天(歓喜天)の紋とされ,この絵馬を聖天にささげ,大根を絶ち,夫婦和合や福利の祈 願を行う。また,大根が聖天の持物とされることもある。


【河内とは】
奥出雲町三沢の河内と四日市の土地の履歴をたどるにあたっての知識として備えておきたく。
大塚 英志 (編) 『柳田国男山人論集成』(2013,角川ソフィア文庫)所収
「山民の生活」(下)

p73
山々の神を本居宣長は、大山祇神であろうとか大山辺の神であろうかというけれども、そうではない。民俗にはただ山の神とのみいいならわして居る。山に向かって入るところに祀るまでの神である。荒神は原野山野の神である。

「山民の生活」(第二回大会席上にて)
p76

「山口」とか「川上」とかいう村は次の時代にはすでに川下に成ってその奥にまた村が出来る。例えば若狭の南河の谷などはほとんど源頭まで民家がありまして、「奥坂本」という村の奥になお数箇の部落があります。我々の祖先はかくのごとき地形を河内(カワチ)と名づけまた入野(イリノ)とも呼びました。「我が恋はまさかも悲し草まくら多胡の入野の奥もまかなし」という万葉の歌などは、入野が盛んに開かれた時代には人を感ぜしめた歌でありましょう。
 入野では三方の山から水が流れますから、……

p88

全国を通じて最も単純でかつ最も由緒を知りにくいのは「荒神」「サイノ神」「山ノ神」であります。仏教でも神道でも相応に理由を付けて我領分へ引き入れようとはしますが。いまだ十分なる根拠はありませぬ。
「山ノ神」は今日でも猟夫が猟に入り木樵が伐木に入り石工が新たに山道を開く際に必ずまず祀る神で、村によってはその持山内に数十の祠がある。思うにこれは山口の神であって、祖先の日本人が自分の占有する土地といまだに占有しぬ土地との境に立てて祀ったものでありましょう。

荒神三宝荒神などといって今は竈の神のように思われておりますが、地方では山神と同じく山野の神で。神道の盛んな出雲国などにも村々にたくさんあります。

20150530-P110060902