令和6年8月18日。火入れは無事終了。よく燃えた。火―燃焼は天然自然の現象に属するものと通常理解もされ、常識とも齟齬のないものである。しかるに、目下この世の生物では、人だけがその操作を行える。このことに異議を唱える論を想像するのは難しい。この事がまた不思議な気にさせる。「火」はヒトが数万年をへて築き上げてきた文明の象徴ともなっている。火を操ることが、いわば、ヒトと自然とを分かつものでもあるからだ。
野でも山でも、火を放ち、燃やすことはそこにある生命圏(生態系)に大きな撹乱をもたらす。それはあくまで撹乱であり、破壊ではない、と、私は自覚意識しているのだが、今世に生きるヒトの大部分はそれを破壊とみるし考えるだろう。自然の撹乱なるものが何を指し示しているのかが、常識的な理解想像の範疇にないのだから、当然である。自然の撹乱は、自らがそこによってたつ生態系に火を放つということの経験あっての理解得心となる。
「野山に火を放つ」と、ここまでのところ述べてきた。焼畑と呼ばれる行為がそこには含まれる。焼くだけでなく畑をつくるということを示している熟語であるのだが、今世のヒトにとって理解想像を超えるがゆえに破壊としかとれない「焼」と、十分に理解想像の範疇に入る「畑」との組み合わせであることが、誤解の温床であろう。私もかつては「畑」の方に引っ張られていた。特殊で乏しい経験であるにもかかわらず、10シーズンをへていくにつれ、焼畑は畑という概念でくくられる行為とはずいぶん違うと感じ考えるし、それは他の地域、人、文化の焼畑でも同じようなことではないかと思われるのだ。
さて、このつづきは次回へ持ち越し、火入れの様子をあげていく。
まずは動画と写真をいくつかあげつつ、加筆をしていきたい。