道の記憶、つれづれに

残る道、消える道

誰も通らなくなった往古の山道を、また人が歩きはじめる時が来るのだと思う。その手がかりくらいは残しておけたらいいのになあと、過日訪れた無住地の地図を見ながら考えた。昭和につくられた塗装道は力づくで通っているものが多く。維持を放棄した瞬間から危険な道になる。崩れやすく埋もれやすい。

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木次の平田で、古い道のことを何度か聞いた。その記憶も、草に覆われていく家の跡のように埋もれていきそうだ。とはいえ、感傷ではない、いやそれもなくはないのだけれど、埋もれる前にメモでもなんでも書いとけという気持ちで書くのだ。雑だろうがなんだろうが構わないではないか、まずは自分宛てということでいいのだ。視界のきかない原野に分け入る際、帰路の印にと、点々と何かを置いたり結んだりしておくようにして。だから、いま、これをお読みいただいている諸氏には、そういうものとして、ご寛恕願いたい。

山方・里方という地名あるいは呼称
さて、国内どこでもそうなのかどうかはわからない。ここ奥出雲(地域・あるいは雲南地方)には、山方(やまがた)、里方(さとがた)という呼称がそこここにある。いま住んでいるところが里方であるし、となりあって山方もある。以前通っていた尾原ダムのあたりには山方はふたつあった。地名として残っているところもそうでないところもあり、両方ともに残っている場合もあれば片方だけ残っている場合もある。
試みに、「日本歴史地名体系」をJKで検索してみれば、菅山方村、南山方村など頭についたものなどをあわせても、20に満たない。意外であった。山方村、山方町であげられているのは以下の4つのみ。
山方村(やまがたむら)…島根県大原郡木次町
山方村(やまがたむら)…佐賀県伊万里市
山方村(やまがたむら)…茨城県那珂郡山方町(のち山方町)
山方村(やまかたむら)大分県大野郡三重町

なぜなのかについては、思いつきがないわけではないが、それらはまた次回。

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木次線の終電に想う

飲んで終電で帰るなんて何年ぶりだろう。しかもこれが人生最後、かもしれないなと思い記念に撮影。f:id:omojiro:20200712201649j:plain あと30分ばかりは残っていたビアガーデンの宴席を辞し、急ぎ足で橋を渡り、歩道を横切って無人の駅の改札を抜ける。ちょうど一両編成のディーゼル車がホームに入ってきた。ドアが開き、整理券を抜き取って席につく。ほかの乗客はいない。その木次線出雲三成駅から終着である木次駅まで所要35分。

乗車してから、人が乗り込むことも降りることもなく、窓の外は深い闇。意識はさえてきて酔いが遠のいていく。下久野から日登の区間は時折、窓ガラスに木の枝がこすれていく「ざざーっ」という音が、現実の安心感すら与えてくれる。20時50分、終着であった駅につくと、車掌が運転席から出てきた。あぁ人はいたのだ。運賃をその場で渡して、ホームに出ると、そこにも駅にも人影はない。駅前には一台のタクシーのなかで運転手がなにやら見ている姿が見えたが、ほかに人の姿はない。下りの最終便を待っているのだろうか。そこから歩いて家に帰ってきたのだった。

さて、闇の中を通り抜けた帰路と違って行路は夕刻であり、車両も2両編成で、数名の乗客があった。そして車窓からはいつもと違う風景がのぞめて新鮮であった。気づいたことなどいくつか記しておきたい。

下久野に2軒ほどかぶせものをしていない「生の」茅葺き民家が見えた。驚いた。どちらもよい状態には見えなかったが、あぁ、すぐでにも降りて訪ねてみたい衝動にかられる。訪ねてどうなるというものでもことでもないのだが。

夕刻ということもあるのか、線路脇の道にたつ親子が、楽しげに列車を眺めている姿をみた。なんと言っているのだろう、母の口が動くのが見える。そして列車に、すなわちこちらに向かって笑顔で手を振っている。

鉄道というものの本質がその向こうに見えるような気がしてならない。車が走る道路とは違うなにか、なのだ。その何かについて、また思いついたことを記していきたい。

国家機構は交通形態から生まれる

「国家機構は交通形態から生まれる。つまり中央と地方を結ぶ「道」から生まれたということになるだろう。」

保立道久の研究雑記〜2017年4月21日 (金);基本の30冊、平川南『律令国郡里制の実像』

至言。現代の政治においても、道路や新幹線の誘致・建設というものが、なぜあれほど熱をおびてしまうのかというそのワケを、このあたりから丁寧に読み解いてみることでその是非とともに、別な可能性を開くことができるのではなかろうか。

道は必要。高速鉄道も必要。鉄道だって、橋だって、トンネルだって……。けれど、それじゃないし、なんか違うんじゃないか、という論がそこから生まれるかもしれない。

それは、歴史をみる、その見方の問題であることがひとつ。そしてもうひとつ。民俗学のアプローチが有効であるような「道」と「交通」の問題である。

目下の関心事としては、現大東の阿用、現在の日登(木次)へ通じる道、佐白(奥出雲)へ通じる道…など、日常通っている道からみていくべきであろう。

※別件ではあるが、湯町八川往還は、古代の道(ルート)に近いのではないかな。http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/ja/recordID/1001575725