本川達夫先生。
「ゾウの時間、ネズミの時間」の著者として知られる、棘皮(きょくひ)動物の研究者です。
ナマコ、ウニ、ヒトデ、等々。
「なぜ棘皮動物の研究者になったのか」…その理由が素晴らしいと妻がいうので、読んでみたらば、胸をドンドンと打たれるような、心の底の蓋がぱかんと開けられてしまったような、そんな想いで一杯になりました。
原文はこちらです。
また、ページが無くなって消失してしまったときのために、以下に転載しておきます。
なぜなら、今年度で大学を退官されるのです。
最終講義は、3月21日です!!!!
行かねば!
専門は生物学。棘皮(きょくひ)動物(ナマコ、ウニ、ヒトデ、ウミユリ)の硬さの変わる結合組織の研究や、 群体性のホヤを使ったサイズの生物学の研究をしています。
「動物学者です」と言うと、
「動物がお好きなんでしょうね」
としょっちゅう言われるのですが、それほどの動物好きではありません。子供の頃から殺生が嫌いで、昆虫採集など、やらない少年でした。
ナマコを研究していますと言うと、「初めてナマコを食べた人は偉いですね」と、判で押したように言われます。それほどまでにナマコはグロテスクなのでしょう。小生も、こういうイモムシ形の動物は、好きにはなれませんね。30年近くナマコの研究をやっていますが、いまだにだめです。でも、ナマコのことを知ればしるほど、ナマコを尊敬できるようになってきました。尊敬できれば、嫌いであっても付き合っていけます。
さてさて、それではなぜ動物学の研究を? そしてナマコを? ということになりますが、それは、そもそも小学校の頃から、ずっと学問をやりたかったからです。
ではなぜ学問を? ということになりますが、それは正しいことで身を立てたかったからです。自分が儲かるとか偉くなるとかとは関係なく、正しいことをやって生きていければいいなあと、子供ながらに思いました。正しい方向に歩いていれば、やましくなく生きていける。また、正しい方向に歩いているとは、正しいものとともに歩いているという安心感が得られる。ーそんな気がしていました(こんなふうに言葉では表現できなかったでしょうが、小学校の頃から、強くこういう感覚をもっていました)。
動物学を選んだ理由は、純粋な学問をしたかったからです。社会に役立つ学問は応用の学問です。儲かってしまいます。それは不純な感じがしました。それに、社会に役立つということの裏には、自分にも大いに役立つという思惑が、透けて見えるような気がしました。そういうまやかしは、やりたくなかったですね。正しいことが第一で、好き・役立つ・儲かるなどは二の次。どちらかと言えば、嫌いなもの・役に立たないもの・儲からないものに目を向ける方が、ごまかされないで安全だと思いました(ごまかされるというのは、他人にごまかされるという意味よりむしろ、自分の心にという意味です)。
理科離れをどうやって止めようかと、いろいろ議論されています。その関連の文部省の委員会に出ていたことがありますが、そこでの発言は、理科の大切さをアピールしよう、理科の面白さをアピールしよう、理科のすごさをアピールしよう、という趣旨の話ばっかりでした。具体的には、子供たちをピカピカの機械にさわらせればいいだろう、学校をインターネットでつないでコンピュータを身近にしたらいいだろう、などと、技術自慢の話が多く、小生のように、「理科は正しい、だから理科をやれば心の安心が得られると宣伝しよう」などという意見を言う人は皆無でした。
それはそうなのですね。だって、今の科学技術はちっとも正しくありませんもの。科学技術をなりわいとしても、心の安心など、まったく得られません。技術者は、つぎつぎと新しい製品を作って売らねばなりませんし、科学者も、少しでも他人を出し抜こうと競争しており、休まる暇がありません。
それに、科学技術が向かっている方向自体が、はたして正しいのでしょうか?
現在の科学技術は、人間の欲望を満たしながら、欲望の火をさらに燃え立たせることに奉仕するものだと、私は考えています。これでは、科学技術は正しいものとは呼べないでしょうし、科学技術で心の安心など得られません。だから、私が、正しい道を歩むために科学を選んだというのは、間違っていたのですね。
でもやっぱり、私としては、科学に正しさを求めたいのです。だからこそ、科学を批判的に見る努力を、いつもしています。それに、現代社会は、すべての営為が人間の欲望を満たすためのものという気がします。そう居直って見渡してみれば、直接のお役に立たない学問は、やはり、清く正しい営為だと思います。
もちろん、自分だけ清く正しくしていて、それで税金で養ってもらおうなどとむしの良いことを言うのははばかられることです。だからそれなりのサービスをするように、常日頃こころがけていますし、覚悟としては、たとえ労ばかり多くて儲からないことであれ、つまらないことであっても、やるべきことには汗を流す必要があると思っています。そこで、小生のスローガンは次のとおり。
「清く 正しく 貧しく 美しく、めざせ、学問の宝塚!」
「貧しく」を入れておけば、人生、大きな間違いはないと思っています。
さて、直接、社会のお役に立たない学問をするならば、理学部か文学部という選択になります。中学の頃には、どちらかの学部に進もうと思いました。
学問を一生していきたかったもう一つの理由に、「私とはなにか」という疑問をずっと問い続けたい気持ちがありました。ふつう、こういう疑問をもつと文学部に行くのすが、文学部というのは人間の頭や心の中ばかりのぞき込んでいる気がして、躊躇しました。それに「文学部」というと、なんだか自己破滅型の人間じゃなければ行ってはいけないような思いこみがあったものですから。(このあたりは、吉永氏のインタビュー記事も参照)
さて、理学部でも、物理も化学も生物もあります。
物理のように、分子や原子で「私」を含む万物を理解しようとするのは、すっきりとして気持ちは良いのですが、どうも愛想がない気がしました。
世の中では、自然のことは分子・原子ですっきりと理解し、人間や世の中のことは心でなんとなくあいまいに理解するという、二極に分化しすぎているように、当時の私には思えたのです。そこで、心と原子の中間の立場、つまり動物の視点から「私」を理解してみようと思い、生物学科(動物学教室)に進学しました。
こういう発想だと、ふつうはサルの行動を研究する、というふうに進むのがお定まりの道でしょう。でも、なるべくクールに動物を学ぼうという思い、人間とは大いに違うものを研究することにしました。
大学院では貝の研究、それから、ナマコをはじめとした棘皮(きょくひ)動物、そして今はサンゴやホヤも研究対象にしています。これらはどれも皆、あまり動かず、神経の発達していないものたちです。ヒトとは生き方がまったく違います。こういうものを見ていると、動物としてその対極にあるヒトの特徴がよく見えてくる気がします。
これらの動物(とくに棘皮動物)は、みな、ほとんど研究者のいない分野です。
私は、原則として、みんながやっていることや、やりたがることはしないことにしています。
自分や社会が儲からないことは、やらないのが、今の世の中です。嫌いなことは、もちろんやりません。でも、みんなが見捨てていても、みんなが嫌いでも、だれかがやらねばならない大切なことは、いろいろあるはずです。そういうことをやるのが尊い人生だと、私は思ってきました。
ナマコは誰もやりたがりませんね。儲かりませんし、ナマコでノーベル賞がでるわけもないし。
以上、なぜ動物学、それもナマコなのかということを、長々と述べてきましたが、小生のこういう性格からすると、一昔前なら比叡山に登っていたと思いますね。今でも出家願望はあります。
また、短いコメントですが、動画をひとつ貼っておくのです。本川 達雄 -効率の追求と学問の衰退