4年ばかり前のこと。島根県の邑南町へグリーンツーリズム研修で訪問したときに、こう言われたことが宿題のようにして耳に残っている。
「雲南市。(われわれとは)レベルが違いますね(笑)。なんでもできるでしょう(から、われわれのことが参考になるかどうかはわかりませんが)」
規模の大小が活動の質量ともに左右する。そういうシステム(社会の仕組み)の中で私たちは生きているという認識は、規模が小さければ小さいほどにリアルだ。痛いほどにわかってしまう。そして、大きなものの中に生きるものは、しばしばそれを忘れる。邑南町で耳にすることになった件の言葉には確かに、「あなたたちにはわからないかもしれない。わかりますか」という皮肉とも裏メッセージともつかない何かがあった。
いやいや、雲南市だって十分に小さな自治体であるし、同じ課題を共有する仲間なんだよね、ということはその場にいた誰もが了解しているようでもあった。邑南町の件の発言者とて、そのうえで「痛み」を共有しようと試みたのかもしれない。わかってほしいということであったか。
この「痛み・辛さ」というものは、時間的な先送り、空間的な排除、人的な選別によって、「押しつけ」が可能である。わからない人にはまったくわからなくなるものだ。たとえ目の前にあっても。なぜ、そんなことを思い出したのは、JJの『アメリカ大都市の死と生』第22章にある、糸のタイトルにあげた字句を目にしたときからだ。
《範囲は広いほど、また人口は多いほど、どちらも神の視点から見て、まとまりのない複雑な問題として、もっと合理的かつ容易に扱えます。「地域とは問題が解決できなかった前回の地理的範囲より文句なしに広い範囲のこと」という皮肉な批評は、この意味では皮肉ではありません。……(中略)……でも都市計画がこのように、取り組む問題の性質そのものについて根深い誤解に陥ってきた一方で、この誤りを負わされることなく非常に早く進歩しつつある生命科学は、都市計画に必要な概念の一部を提供してきました。》
JJがいう、都市計画に必要な、生命科学の概念と手法とはなんだろう。明示されてはいないが、手法については、#001であげた、プロセスを考えること、帰納的に考えることなどがそう。
そして重要なのは、《都市で起こるプロセスは、専門家だけが理解できる難解なものではありません。ほとんどだれにでも理解できます。一般人の多くはすでに理解しています。ただこれらのプロセスに名前をつけていないか、こういった原因と結果の普通の取り合わせを理解すればそれに方向づけできるということを考えたことがないだけです》という、一般人と専門家の「違い」である。
都市計画を実質的に左右している官僚機構は、一般人でも専門家でもなく、そのBridgeたるべき存在である(べき)なのだが、まったくそうなっていないのはなぜか。一般人の思考回路をもたず(よって理解できず)、専門家の思考回路や概念すら理解しえないところだと私は考える。後者については個人にもよるが、前者については病理ともいえるもので、超えがたいものがある。
…つづく。