タネは生きているのか死んでいるのか

 焼畑に挑みはじめてからというもの、タネというものが、さまざまな相貌で立ち現れては、私に問いを投げかけてくる。秋から冬に向かういまの季節に、人はタネをとり、草木は大地にそれを落とし、あるいは飛ばし、哺乳類が口をつけ、実とともに鳥たちがついばみ、タネはひろがっていく。
 タネには、発芽を抑制する機構や物質を保持している。トマトであれば、私たちがおいしく食す、種のまわりのあのジェル、稲や麦であれば、籾殻が発芽を抑制する物質を含んでいる(ようだ)。機構としては、温度、湿度、光に、一定の条件をもってさらされることで発芽のスイッチが入るというようなものだろうか。
 タネは生きているのか、死んでいるのか。話したい欲動にはかられるが、先がみえているようなきがしてくだらなくも思える。手にいれた空を飛ぶ羽を前にしてメンテナンスの仕方を思案するようなものか。問いそのものではなく、この問いそのものが無効になっていくような仕方がないものだろうか。その地点にたてば、タネは、生と死の2項対立をこえるもの、異なる地平を見せてくれるにちがいない。

 20171104-P127023202

20171026-P127011102

20171025-P127010102

 

20171104-P127022502

20170926-P127000402

20170919-P126095802

20161219-P115034102

20161112-P115014202

ガマズミ201603

 そう考えるようになったのは、「死んだ」タネを何度か目にし、手にしたからだ。  トマトの種取りの際のこと。完熟状態にまで放置し、タネのまわりのジュルを何度か水洗いするのだが、その最終過程、すなわちほぼ発芽抑制物質のジュルがとりのぞかれた状態で水にひとばんつけてしまったことがあった。取り出して、十分に吸水し乾燥させておくのを忘れていたのだ。
 やっちゃったな、きれいにとれたからいいかなどとのんきにかまえて、取り出し始めたのだが、発根をはじめているタネがいくつもあった。しかも、タネとして健康優良とみえる大きく形のよいものから。死産というべきなのか。どうなのか。
 タネとりは手間のかかる仕事だ。ゆえに農を業としてやっている人は自家採種などしない。自然農法栽培者は例外としてあるが、「手間がかかってしょうがないが、こればっかりは仕方がない」という嘆きを聞いたこともある。割にあわないとしかいいようがない。「割にあわない」というのは近代の人間社会スケールでみたときの話である。タネをとることで得られるものは、タネそのものだけにとどまらないのではないか。
 ラオスの、あるいはスリランカの混作農業では、百種をこえる作物を、他家受粉するものも含めて同じ地に栽培するという。それはそれは「美しい」光景だという。一度みてみたい。その美しさを。 確かめておきたい。モンシロチョウが一匹も飛んでいない一面のキャベツ畑との彼我の違いを。日本で美しいとされる、畝にいっせいに並ぶ同じ大きさ・色・形の野菜畑との違いを。混作農業の畑からタネをとる仕事は女性の仕事だという。女性しかできないようなある特殊な能力が介在しなければなしえないのだろうと推測する。彼女たちの動きを目を身体を、感覚が老いさらばえてしまう前に、この身で感じとっておきたい。彼女たちとタネとの間に何がかわされているのか。子をみごもり産むことができる存在だけが、その交感をなしえ、知ることができるのだとしても、かることがあるのではないか。
 タネの死産。それは水槽の中だけでなく、土の上でもある。焼畑でまいた蕎麦のタネは発根ののちの日照りで死んでいた。覆土をした家の裏の畑でも今年は何度かみた。なにがいけなかったのかと考えた。いくつかの理由・原因とその相関がわかるようになってきた晩秋、でもみにおぼえたかすかなうずきは、タネを生命あるものとして感じるものである。ま、そういう共感もあるかというほどのものかもしれない。タネという堅さのある「モノ」から、やわらかな根や芽が出る誕生と死が隣あっていることで、そこに生命を感じるのだろうし、ふつうの植物が一部を切ってもそう簡単には死なないこと、再生することとと違う点だろう。
 発芽しないタネだとて「生きている」状態にはある。発現する機会をうかがうためのなにかはいくばくかの有機性があることが条件だからだろう。アワ・ヒエのタネは長期にわたって保存が可能だという。飢饉にそなえて、俵にいれた籾を天井からつるしていたという話やその映像を何度かみたことがある。倉にしまってあった100年前のタネが発芽したということもときにきく(とはいえ発芽率は1%以下だというが)。十数年前のアワのタネをゆずってもらったが、数十粒をためした1年目には発芽0であり、今年はなんとしたことか実験を忘却していた。その貴重な籾を手にしても、生きている感じはしない。期待がないからだろうか。なんの反応もないからなのか。所詮、感情移入によって生じるとこだともいえるが、ここでいう感情とは、一個体のいっときの属性に過ぎないという、あまりに単純化されたものだ。普遍性がないというのならまだましなものだが、ノイズにすぎない、例外、特殊、……なものということに換言すべきものいいだ。が、ほんとうにそうなのか。人の生死、死生観という領域に少しふみこめば、ことはそう簡単なものではない。つづくとすれば、論点を整理してとりかかるべきものだ。タネの思想ともいうべきか。    

コメントを残す