「あの爺さんらも、もうおらんようになった」
田中幾太郎さんがそうつぶやいたときに感じた、いいようのない戦慄の正体に、もうすこし近づいてみたく、著書を再読することとした。『いのちの森 西中国山地』は平成7年に光陽出版社よりおそらく自費出版されたもので、古書も少ない。1000部も刷っていないのではなかろうか。県立図書館で借りてきているものから少しずつ、抜粋と注釈を重ねてみたい。
今回はその1回目、#001である。
田中さんとは数回しかお会いしていないのだが、つかれたようにクマのことを話されていた。5年ほど前のことだから、2010年の全国的な大量出没の後である。この著作と同様、言葉数はきわめて少ない方だ。
ニホンツキノワグマ、そして西中国山地タイプの遺伝子を伝えるものが絶滅危惧種であり、その生息動向が世界的にも注目されている種であることを、島根県民はもっと知ってよい。そして、クマとの共存をはかる活動については頭の下がる思いである。そう島根、とりわけ西中国山地にはその素地が古くは確かにあったのだ。クマを聖獣として敬ってきた「あの爺さんら」。ヘビやタカやオオカミとも交わることのできた自然の博士たち。
『いのちの森 西中国山地』は18章。章ごとに森と川の生き物が語られる。1章のヤマネからはじまり、ゴギやオオカミをへて、最終の第18章がクマなのだ。
p156
《ニホンツキノワグマと、前に書いたホンシュウジカは、はるかな地質時代の昔から日本列島の深山にすみつき、「ブナ帯文化」の狩猟生活を支え、縄文や弥生時代を経て興る稲作文化の基調な随伴種であった意味を顧みる人は少ない。先人たちがたゆまぬ努力で豊かに築いてきた民俗とともに生きてきた”日本人の心の動物”を見失ってもよいものだろうか。金太郎の「足柄山」に代表される、数多くの民話に登場してきたかれらに打ち込まれた生命の意味は、厳しく生きてきた先人たちが伝授した、きわめて科学的な”環境観”であったように思う。》
p158
《西中国山地のクマ猟の”今昔物語”を親子二代で語ってくれたのは、美濃郡匹見町三葛に住む古老、大谷滝治郎氏(九十六歳)と息子の定氏である》
《滝治郎さんが話す昔の熊猟は「奥山ちゅうたり深山ちゅうて、木地師でなけにゃあ寄り付きゃあせんところじゃった。クマちゅうもなあ、深山にしかすまん獣で、里山の方へ下りてくるこたあ滅多にあるもんじゃあなあし、ましてや今のように里の屋敷の周りい出てくるようなもんはおりゃあせんかった。そいからシカのようにゃあ田や畑を荒らさんけえ、退治ることもなあし、わしら親らあからこんなもなあ、深山の守護神じゃちゅうて傷めんように言われよった。この辺の猟師ゃあシカあ捕ってもクマあ滅多に捕るようなこたあなかったでや。そいじゃがシカがあんまりおらんようになってきたりして、たまに捕るようなこともありよった。そがあなときゃあほかの獣たあ違うて、大事に祭りごろをしたもんじゃ。クマあ、熊野権現様が深山に遣あされた使者じゃけえ、こんなあ捕っつりゃあ、必ず罰が当たって、天気が荒れてくるんじゃ。猟師ゃあそりょう恐れて、捕ったクマの白い月の輪を天の神さまに見られんようにせにゃあちゅうて、うつ伏せに寝かあとく。そがあしてその周りにもってって、槍や火縄銃を必ず七本立てかけるんじゃ。そろわんときにゃあ木の枝でもええ。そがあしといて『天の神さま、竜宮のおと姫さまに酒菜を差し上げんと思うて、天の犬を誤って捕りました。どうかこらえて下さいませ。アブラウンケンソウ、アブラウンケンソウ』と呪文を唱えて、かしわ手を打ったもんじゃ』》
ニホンツキノワグマの今日的な意味とはなんだろうか。
「日本は美しい生命の森の山国である」
田中氏の言葉の後ろには、猟師の爺さんらの声なき姿がある。届かぬ手をのばして、一滴なりともすくい取ってみたい。いのちの水を。
島根県は2012年からWWFと共同でプロジェクトを推進している。
いくつかの参考サイトをあげておきたい。