本の記録〜2019年2月10日

出雲市立中央図書館にて『山陰民俗』からいくつか複写。

§ムコガンさん

加茂のムコガンさんについて、石塚尊俊が「ミコガミ」すなわち巫女神だとする論考あり。昭和51年(1976)発行の27号に収められている。石塚氏が、井塚忠の「ムコ神さん」の稿、それは山陰中央新聞学芸欄「ふるさと再見」に11月25日に載る予定のものを事前に見せてもらったことに端を発する。安来市から能義奥にかけて11月13日をムコ神さんといい、よそから米をもらい集めてきて、それで小豆飯を炊き、サンダワラに盛って、トコの間か、ウチ庭の先の戸棚の上かに供える。というもの。「よそから米をもらってくる」のは子供たちの役割だったらしく、井塚氏は子供の時分の経験で、数人連れ立ってよその家の門口にたち、大きな声で「ムコグヮのクヮンジ」とやるのがとても恥ずかしかったと記されているという。

それらを端緒として、石塚氏は「ムコガミはミコガミかも!」と思い至り、旧知の坪井洋文が編纂に労をとった『総合民俗語彙』から概要をひき、自ら四国へ取材した折の話が展開されるという構成となっている。
『総合民俗語彙』はデータベース化されて公開されており。
https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/goi/db_param
そこでミコガミをひくとこうある。

ミコガミ
高知県香美郡槙山村から徳島県海部郡木頭村にかけての山間の村々
御子神。
高知県香美郡槙山村から、徳島県海部郡木頭村にかけての山間の村々に行われる神職家の祭。大夫をした者が死んで十五年くらいたって祭るのだが、それも病気や災害があって、大夫が神になりたいという催促のお告げがあって祭るのが普通である。これは天の神の家来になるための祭だといって、必ず十七日または二十三日に行い、そのとき位牌を捨てる。三年たってムカエグライ(迎え位か)の祭というのをすると、本当のミコガミとなる[民伝二ノ三]。このことは『土佐国群書類従』の中にも御子神記事として出ている。神職の家以外は今はテンノカミマツリと呼ぶようである。広島県福山市付近には五月と十一月との十三日に御子神祭がもとはあって、家内の祭であった。醸造家では特に念入におこなった。これを忘れていると瘡を発すると伝えた[風俗答書]。島根県大原郡でミコガンサンというのは、十二月十三日で、この日乞食をして米を集めて食うと足を病まないという。

そう。大原郡のミコガンサンがここに出てくる。この当時の大原郡は木次町、大東町、加茂町、温泉村(すでに木次町と合併していたかも)からなる。くまなくではないが、ひととおり目を通しているその限りでは、ミコガンサンの記載があるのは加茂町のみ。しかも、ミコガンサンではなくムコガンサンである。

これ以上、考えるのには材料不足。
向神=サイノカミ=客人神=まつろわぬ神の線から、もう一度みてみることと、シャグジ=クナトカミがあるのかどうか。来訪神の線からも、見直してみようと思う。

ほか、山陰民俗から複写したものとして、以下がある。
†. 中俣均「出雲地方における”小正月の訪問者”について」(35号,昭和55)
†. 山田良夫「吉賀奥探訪記ー石見鹿足郡蔵木村民俗誌(抄)」(40号,昭和58)
山田良夫は石塚尊俊のペンネーム。次の「石見鹿足郡蔵木民俗誌」と同様、吉賀の「奥」を訪ねた記録である。”多くの民俗学者が訪問している”と書かれたものを見たのはなんだったろうか、思い出せない。が、いまのところ、この石塚尊俊(山田良夫)と、宮本常一を知るのみ。
†. 石塚尊俊「石見鹿足郡蔵木民俗誌」(9号,昭和31)
†. 末次福三郎「出雲大原郡加茂地方の歳時」(9号,昭和31)
加茂町誌記載のムコガンさん、その出所はこれではないかと思う。
《十一月 〔十三日〕向神さん(ムコガンさん)、子供は「ムコガンさんだけんゴンゴごはっしやい」といって各戸を廻り米を集める。それを焼いて神仏に供える。商人のウソツキ祝いもこの日》
ウソツキイワイを先の『総合民俗語彙』でひくと次のようにある。

《鳥取県伯耆では十二月八日のヨウカマチに、変わりものをこしらえて一盃を傾け、これを嘘つき祝といっている[風画二六一]。その際に豆腐は必ず食うという者も多い。これを食うと一年中についた嘘が消えるともいう。
[-]因幡の方でもこれをウソツキトウフと呼び、ついた嘘の数だけ豆腐を買わねばならぬとも、またこのヨウカブキの日の豆腐を食えば、吹雪にやられぬともいっている。嘘と豆腐との関係は不明であるが、岡山県英田郡でも、十二月の八日待ちには豆腐を食べ、この日を年中の嘘はがしといっている[郡誌]。島根県仁多郡でも、やはり八日をヨウカマチともヨウカヤキ・ヨウカブキとも呼んで、米の団子に小豆餡を入れ、焙烙で焼いたおやきをつくる。一年中の嘘を消すために、このおやきを川へ流すのである[民伝一四ノ六]。》

†. 土屋長一郎「稲米呼称の推移」(4号,昭和29)

†. 土井伸一「ワニを食べる文化」(52号,  )

そして、借りている本を以下にあげる。
†. 石塚尊俊,2005『暮らしの歴史』(ワン・ライン)
†. 乙立郷土誌編纂委員会,2005『乙立郷土誌』(乙立自治協会)
†. 藤原俊六郎,2013『新版 図解土壌の基礎知識』(農文協)
†. David.W.Wolfe,2001『地中生命の驚異ー秘められた自然誌』(長野敬,赤松眞紀訳;2003,青土社:Tales from the Underground-A Natural History of Subterranean Life)
†. 浜田信夫,2013『人類とカビの歴史 闘いと共生と』(朝日選書)
†. 内田樹,2012『街場の文体論』(ミシマ社)

『乙立郷土誌』p.142に入会山について興味深い記載あり。

《入会山 現在の乙立地区内の公有林および町内共有林、神社林の大部分は、明治年代まで野山と称し、入会山であり、即ち村中持ちと呼び、共有林として、村人は概ね勝手に山に入り薪や草を採取し、また小炭を焼きあるいは焼畑(通称さんか)をなし作物をつくることもできた》

焼畑をサンカを呼ぶのは、出雲西部の山間部にあるようで、白石昭臣『竹の民俗誌』p26に、志津見地方のことで出てくる。

《かつてはハンゲまでに田植えをすませると、組ごとに管理する山を焼く。無用山ともいう竹や笹を主とする雑木山を焼くもので、サンカ(山火)ともいっている。一戸あたり1.5町歩(約150r)を焼くという。》

他にもいくつか特筆事項があるのだが、のちほど加筆する。灰買いのことなど。

出雲の山墾り〜sec.6

 2月16日(土)。くもりと言えましょうが、数秒ほど陽がさしもすれば、1分ほど雨がパラパラときたりもし、風が一時的に強く吹いたりもする、そんなお天気。気温は6℃。11時頃から中山を歩き状態を観察した。30分ほどは学生らがカブの間引きをする間に、倒して玉切りしてある竹を積む。かれこれ2時間弱の仕事でした。

 例年ならば雪がつねに山の斜面をカバーしていたものですが、今年は10日くらい前から裸の草土がむき出しになっています。草のカバーがないところは土が流れはじめており、場所によっては崩れてもいますね。わずかではありますが。ロゼッタをなす越年草も里の方では葉を起こし、花をつけはじめているなあ、、と思ったのは10日ほど前か。
 雪がないことによる変化は牛の山あがりに顕著でした。けっこうあがっています。食べられる春の草は標高50mほどの里にはあふれはじめていますが、ここいら200mほどのところではまだ枯野でありますが、食べられるものを食べているのです。


 切り崩された崖地にある草ですが、それだけに土の跳ね返りがなくきれいな草であるし、食べやすい?位置にあるからか、よく食べています。12月ごろからそれとなく見る限りでは、再生竹の葉はきれいに食べ残しないほどに食べていることとの共通点があるように思えます。カビなどの菌類にきわめて強いものたちで冬の青さが目立つもの、竹の秋は春ですが、この写真にある草はどうだったでしょう。思いつきついでに記しておけば、枯草菌との関係性もあるのかな。
 牛が秋から冬にかけて歩くところは春夏とは違うのだろうか。そういう問をたててみることにしました。これから見てゆきましょう。
 冬は草のカバーがないことによる斜面土壌の流亡が激しいのだと、ここ数年、里でも山でも、人工的に削った箇所で、そう思います。
 雲南、奥出雲の山は上はなだらか下はストン。爺さんらがそう言うことの理由と歴史的利用の履歴が、気候とあわせてそこから読み取れそうです。
 ブラウンスイスは走ったり跳ねたりと体力を持て余しているようでした。春には卒業なのかなあ? (現在は育牛状態。春から搾乳できる牧場へ移るのです、たぶん)

春、それは食える草の季節

 ”春は食える草の季節”――川上卓也の『貧乏真髄』にある至言である。

 春は、食えない草を探すほうが難しいという理屈やらなにやらではない。「食える」ということの歓び。地面さえあれば町の道端にだって食える草があるのが春なのである。飽食の世となって久しいが、ヘンゼルとグレーテルの「お菓子の家」に胸ときめかせた記憶は誰しも多少はあるだろう。それでも足りなければ、道端にコンビニ弁当やおにぎりが10mおきに落ちている状況を想像してもらえばいいのだろうか。

 ただ食えるというは食うに足るのみにあらず。それは「美味い」ということを、三文字に託しつつ静かな歓びを表してもいる。雪解けとともに、冬を越す野の草々は土を這うロゼッタの形状から、徐々に茎を持ち上げ葉を展開し、春の陽射しを全身で受けながら、小さな花をつけようとする。いわば「生命力全開」状態。そこを摘んで食べるのだから、力がつくに違いない。ただそれだけに少量であっても強いのだから、取りすぎてはあく(悪、飽)となる。

 

 さて、春の美味い草の話。

 タネツケバナが美味いのだ。ミチタネツケバナなのか、タネツケバナなのか、いまだにどちらかはわからねど、食べてみたらうまかった。

●タネツケバナの仲間

 近縁のオオバタネツケバナは、山菜として栽培、出荷もされているという。生食でじゅうぶんに美味いのだから、どうやって食べたらよいかをあれこれ想像してみた。

 雑煮かな。

 

 

足踏み脱穀機の初運転

今年の冬はやる気ないんだろうか、昨日は日中の気温は14℃まであがっていたし、山肌に残っていた雪もすっかり消えている。裏の小さな畑では、カブの葉はロゼッタ状に地を這う形から、葉を立ててはじめ,蕾を抱えた薹まで立ちはじめた。

ちょっと待ってよと、言えるものなら言ってみたい。かたや、暖かいのは仕事がはかどることでもあるわけで……。

本来、秋のうちに終わっているべきことどもだって、片付けるチャンスなのだ。

やるか! という勢いにものって、足踏み脱穀機を軒の下からおろして、宿題を少し片付けた。

・残っていた大豆の脱穀

・残っていたタカキビの脱穀

・スペルト小麦の脱穀試し

ふたつが片付いた。スペルト小麦はやるなり無理だと判断。工夫の余地なしというくらいにうまくいかないのだった。

そして、まったくといっていいほどに意識していなかったのだが、足踏み脱穀機の初運転なのだった。めでたしめでたし。

大豆は650gほどまとまったので、味噌をつくるのだ。

本の記録〜2019年2月4日

出雲市立中央図書館へ。
今週来週のところで雨の日があれば、半日くらいかけて地誌を総あたりして山あがりを調べていく(のだ)。

†. 稗原郷土史編集委員会,昭和60『稗原郷土史』(稗原自治協会)
生活編〜村の年中行事中より
四月
八日の花祭りと大山さんが挙げられている。
《大山さん(だいせんさん)、これは牛馬の守り神として村内各所にまつられている。祭日は一定しないが、春か秋に祭を行って、牛馬を連れて参ったり、参拝者が受けたお札を厩舎に張ったり、供物を牛馬に与えるなどして厩の繁盛を祈った》
※年中行事の項に関して特筆すべきは3点。
・藩政期に続いて明治初期に行われた年中行事について、野尻牛尾家の古文書によって記述したものであること。
・正月につく餅について、粟餅祝を雪隠の神に供えたとあること。
・6月(旧暦)の1日に、麦の御初穂を神棚に供えて麦神祭りを行う、と。

†. 浜田信夫,2013『人類とカビの歴史 闘いと共生と』(朝日選書)
†. 矢野 憲一,1979『鮫 』(法政大学出版局)
†. 一島英治,1989『発酵食品への招待―食文明から新展開まで 』(裳華房)
†. 内田樹,2012『街場の文体論』(ミシマ社)

出雲の山墾りsec.4雑感

昨日の活動(1名)。その雑感をつれづれなるままに。

1週間ほど山に行かないと「なまる」ものだと思う。鈍る。わざの冴えがにぶる、技量が落ちるの意をもって用いる言葉だが、刀剣の切れ味を一義としながらその刀剣の実際の使用が頻ならざる時代において用例が増えてきたものではなかろうか。すなわち武士の本態からすれば「なまる」ことなど考えられないことであるのだから。

よって、山に行かない日が続いたからといって「なまる」ということはおかしいのである。小学館の国語大辞典の「鈍る」、その第四義には「決心がにぶる。貫徹しようとする意志が弱まる」とあり、歌舞伎・早苗鳥伊達聞書(実録先代萩)二幕にある用例をあげている。

「拙者が心はなまらねど左言ふ貴殿の御胸中まことに以て心許なし」

決心とは何か。心が決断するとはどういうことなのか。今日のところで、3つのアプローチをあげておこう。

1. 決心より先に身体は動いている。私たちが「決心」したと意識しているものは「決心」ではない。……下條信輔『サブリミナル・マインド』(中公新書)を参照。

2. 決心とは閉じた個の作用ではなく、集合的集団的かつ公共的な現前である。……C.S.パースについての著作のいくつかを参照のこと。

パースは心についてこう述べている。「われわれはその表面に浮いているものであり、心がわれわれに属するというよりも、われわれが心に属しているのである」

Thus, all knowledge comes to us by observation, part of it forced upon us from without from Nature’s mind and part coming from the depths of that inward aspect of mind, which we egotistically call ours; though in truth it is we who float upon its surface and belong to it more than it belongs to us.

※The collected papers of Charles Sanders Peirce PDF へのリンク

《思考は、世界の残りのすべてから隠された自分だけの何かではなく、本質的に公共的である。思考はいわゆる個人の心の中に所在するのではなく、それを通してわれわれががコミュニケートする公的な記号構造の中に所在する》:コーネリス・ドヴァール,2013『パースの哲学について本当のことを知りたい人のために』(大沢秀介訳,勁草書房,2017)

3. 初心にかえるという語句がある。初めに思いたった心、最初の決心。あるいは、学問・芸能の道にはいったばかりであること。また、その人。というのが辞書的意味である。が、その解し方でいいのか、初心にかえるということは。安田登が、それは衣を切る、後戻りのできないその決断のことだと風姿花伝を参照しながら述べている。……『あわいの心』等を参照のこと。

P1290138-2

竹を切って倒す。

そこに宿る心とは。

心にとめおき、しばしこたえを待とう。

出雲の山墾り〜sec.5

 朝から青空が広がっていた。10時半頃に牧場に着いたが、日陰の水たまりは厚い氷が張ったままだった。北向きの斜面だと雪は2〜5センチ程度残っている。竹炭をつくるのにはちょうどいい。1時時点での気温は10℃。切り捨ててあった竹を集めはじめたが、思ったよりも時間がかかる。雪に足をとられるからかすぐに息があがってしまう。
 うまく着火したら儲けもの、火をつけながら積んでいけると、ガストーチでで火をあててはみたが、こりゃ無理だとあきらめた。やってできなくはないが、夕方までかかってしまう。今日のところは竹を切って積んでいくことにした。
 途中、ノグルミの枝に竹をかけてしまい、処理に手こずってしまった。だもんで、結局積めたのはこれくらい。


 来週の土曜日。雨がふらなければここで燃やして消し炭をつくる。雪はとけているだろうから、切り捨てたままの古竹や新たに10本程度を追加しよう。
 このくらいの寒さはブラウンスイスにはちょうどよいのかな。やたら元気でした。草が少ないのは気の毒だが。気候と土質もあるのだろうが、ま、いろいろ。


 今日の仕事は1名。来週もかな。

 

本の記録〜2019年2月1日

県立図書館へ。
地誌は大山あがりとトロヘン・ホトホト、そしてトンドさんについて網羅的に資料をあげていくことにする。思っていたより時間がかかる、かもしらん。

●借りており、精読もしくは調べるもの
†. 木次町誌編纂委員会編,1972『木次町誌』(木次町)
†. 黒沢長顕,斎藤豊仙,1717;享保2『雲陽誌』(大日本地誌体系,昭和46,雄山閣)
†. 仁多郡役所編纂,大正6『島根県仁多郡誌』(臨川書店,1986)
†. D.モントゴメリー,2017『土,牛,微生物』(片岡夏実訳,築地書館,2018)
†. 宮本常一,1977『宮本常一著作集24・食生活雑考』(未来社)
†. コーネリス・ドヴァール,2013『パースの哲学について本当のことを知りたい人のために』(大沢秀介訳,勁草書房,2017)
†. 根本正之,2014『雑草社会がつくる日本らしい自然』(築地書館)
†. 大庭良美,1985『家郷七十年 村の生活誌』(未来社)

●複写したもの…のちほど加筆…

●閲覧し、再読予定のもの
†. 中村重正,2000『菌食の民俗誌―マコモと黒穂菌の利用』(八坂書房)
マコモタケビジネスが流行っているようだが実際のところどうなんだろうかということ。そして現在国内で栽培されているマコモダケはどこからきたのかということ。このふたつがもやもやとしたままだったので、少しばかり調べてみたかったのだ。詳細はまた次回。まず、後者について。どうやらある時期に中国や台湾から移入されたもののようだ。少なくとも、日本に古くから自生している(た)マコモとは異なる。ウィキ等で万葉集の時代からあったというのはマコモダケではない。万葉集の中にマコモダケの記載はなく、コモのみ。
なお、北米では持ち込みが禁止。まぁ、菌ですし。日本はよくも悪くも甘いのだろうが、変異した菌が繁殖しはじめたら手に負えんだろうとは思う。
農文協から栽培法についての書籍も執筆している三重県中央農業改良普及センターの西嶋政和氏は、〈クボタeプロジェクト 再生農地での作物の育て方>マコモ(マコモダケ)〉のなかで、次のように述べている。

・古くから日本に自生しているものは、食用には適しません。
・食用の栽培種として、中国などから導入し改良された系統が栽培されています。

そして、マコモダケの黒穂菌からとれる顔料をお歯黒に使っていたというウィキペディアはじめウェブのそこここで見られる記述も誤りであろう。少なくとも日本の話ではない。

小山 鐵夫、山崎 耕宇が執筆した平凡社世界大百科のマコモの項目には次のような記述がある。

《マコモの茎の先つまり菰角に黒穂病菌の1種のUstilago esculenta P.Henningsが寄生すると,茎がたけのこを小さくしたような形に太って軟化し,花が出ない。これがまこも竹で,漢名で茭白筍(こうはくじゆん)といい,台湾や中国大陸南部ではこれが栽培される。料理で珍重され,缶詰や冷凍にして輸出もされる。この菰角に黒穂菌の胞子ができると,黒い粉が豊富に出るが,これを絵具にしたり,油脂に混ぜて化粧の眉引きに使ったりしたこともある。また葉や茎で盂蘭盆(うらぼん)の時の祭壇に敷くござを編んだりした。マコモの根と果実は中国で薬用とされ,心臓病や利尿の効があるという》

また、湯浅浩史が執筆した小学館の『日本大百科全書』のマコモの項目には次のようにも。

《マコモの種子は米に先だつ在来の穀粒で、縄文中期の遺跡である千葉県高根木戸貝塚や海老が作り貝塚の、食糧を蓄えたとみられる小竪穴(たてあな)や土器の中から種子が検出されている。江戸時代にも一部では食糧にされていた。『殖産略説』に、美濃国(みののくに)多芸(たぎ)郡有尾村の戸長による菰米飯炊方(こもまいめしのたきかた)、菰米団子製法などの「菰米取調書」の記録がある。
中国ではマコモの種子を菰米とよび、古くは『周礼(しゅらい)』(春秋時代)のなかに供御五飯の一つとして記載がある。また『斉民要術(せいみんようじゅつ)』(6世紀)には菰飯の作り方の記述がある。マコモの子実は彫胡(ちょうこ)ともよばれ、唐の杜甫(とほ)は「滑憶彫胡香聞錦帯羹」と歌った。台湾には秋来菰米(秋がきたらマコモ飯を食べる、という意味)の風習が近年まであった。
マコモタケは『斉民要術』に取り上げられており、明代には野菜として栽培が広がった。また、『万葉集』にはマコモを詠み込んだ歌が22首載り、まこも刈りやその舟を詠んだ歌もある。葉の利用も古くは重要で葉は、莚、薦(こも)や畳に編まれ、菰枕(こもまくら)、雪国の菰靴(こもぐつ)、ちまきに使われた。
江戸時代、所によっては真菰高(まこもだか)と称する税の対象にされた。
マコモタケの黒い胞子はまこも墨とよばれ、鎌倉彫の古色づけとして明治初年以来利用されている。》

ほか、ウェブサイトの中では「カンポンボーイの果物歳時記」のマコモの記事が詳細にして精確で、またの機会に掘り下げてみたい。

†. 浜田信夫,2013『人類とカビの歴史 闘いと共生と』(朝日選書)

†. 菱川晶子,2018『増補版 狼の民俗学―人獣交渉史の研究』(東京大学出版会)…4月刊行の原稿執筆資料として考えてきたのだが、テーマそのものを見送ることにした。

荒地に種をまく

「あぁ、あそこは○○さんが、なんとかしてやろうおもうて、刈って火いれたら火事になってのー。そーからなんもやっとられんけん、なんぼでもかりれーとおもうわ」

陸稲や雑穀をやる土地を探している。

今年は栽培しない管理地も含めて4〜6反ほどを手掛けるつもりでいる。実験的段階から本当の意味での実践的段階へと移行するのだ。ははは。

先のセリフはEちゃんのこたえ。

ここでやれたらなあという土地について、借りられるかとたずねたときのことだ。この後、もっと近いところがいいだろう、あそこはどうだなどと展開したあと、「好きにもっていっていいよー」と言われている柿園のあいている地面をつかわせてもらうことにした。「草刈りはやりますけん」ということで。

雑穀半分、野菜半分にしようかと思う。週1回は通うことでやれるものを。

それにしても、ここも「火事」になってということがとても興味深い。偶然とは思えないくらいに、いいなあと思うところで「火事」をやっている。これだけではない。何度か、いや、思い起こせば何度も、こうしたセリフを耳にしているのだ。いずれも共通するのはカヤ・ススキ、あるいは竹・笹がのしてきている土地であること。

カヤ・ススキは、火の足が早く、飛び火もまわりやすい。草原の火入れを何度か経験せねばと改めて思うた。

三瓶の火入れは3月上旬か。

4月13日(土)…雲月山の山焼き2019|火を使った生態系管理

本とスパイス記録と記憶016−1〜やまたのをろちはワインを飲んだか?

金曜の会の記録と記憶を何回かにわけて記す。メモとしてここにおき、多少整理したものを樟舎にあげる予定。

○やまたのをろちはワインを飲んだのか〜マイケル・ポーラン『人間は料理をする・下』etc.(本の話#0016)

 

マイケル・ポーラン『人間は料理をする』の話が少なかったともいえるが、そうでもないともいえる。なぜかを少し述べておく。

◆本の内容について語ってはいない

たとえば映画や小説の粗筋を話すのは、読んだ人・観た人を対象にしないと成立しないので、これはなし。またノンフィクションの場合でも、その著者になりかわって何かを語るこできない。それは当該書籍本を買って読んでくださいということ。映画であれば上映権を買って上映会を開くということだ。

◆余談1:著作権

現下、国内で主だって権利行使されているのは版権、複製権(copyright)である。つまるところ財産権。元来3つわけられる権利をとりまとめて著作権と呼ばれるものでその3つとは以下。

・著作人格権(公表権、氏名表示権)

・同一性保持権

・財産権(複製頒布権、譲渡貸与権、口述等伝達権、etc.)

◆余談2:図書館での読みかせは?

書協などが出しているガイドラインはわかりやすくていねいである。

http://www.jbpa.or.jp/guideline/readto.html

が、著作権の法理からすれば、この示し方はいかがなものか…。と思う。

すなわち、無償のボランティアならばだいたいOK、営利活動なら必ず許諾をとる(利用料が発生)という示し方。財産権の観点からすると、無償だろうが有償だろうが、関係はない。むしろ無償のほうが侵害の度合いを強める可能性が高いことは、図書館での書籍図書貸出について書店での売上を下げている要因としてちょっとした紛争・議論が発生していることからも明らかである。

ことは文化文明の根幹にかかわることであって、一私人一企業一業界だけの問題ではない。

そう。

朗読として行うことは、法的には許されていないということは明記しておいてよい。

そして、朗読なのか、引用なのかは多くの場合、灰色である。

日本の著作権法では、灰色については「慣行」を基準にする旨記されているので、なんにせよ言論にかかわる新しいことを始めようとする際には、ひとつひとつが引っかかってくるものだ。はじめて1年ほどしかたっていないこの小さな会であっても、だ。だからこそ、法理について熟考しくだしたひとつの基準が、会に参加した方が「その本を読みたくなる」ことを念頭において展開している。そういう意味では、ぜひ!という本でもないことは確か、かな?

◆”運動”の原理主義化への牽制もあるM.Pollanの言説

マイケル・ポーランはベストセラー作家といっていいが日本での売れ行きは今ひとつなようだ。

『雑食動物のジレンマ』(2009年,東洋経済新報社)が代表作なのだが、その要約版『これ、食べていいの?: ハンバーガーから森のなかまで―食を選ぶ力』(2015,河出書房新社)も全米ミリオンにしては話題にはならなかった(たぶん)。また『フードルールー人と地球にやさしいシンプルな食習慣64』(2010年,東洋経済新報社)、『ヘルシーな加工食品はかなりヤバい―本当に安全なのは「自然のままの食品」だ 』(2009年、青志社)という一連の著作は、食の産業化に対する抵抗を訴えており、”運動化”の波にのって「売り物」になっている。そうしたなかで、今回の書籍の取材もできたのだろうが、「急進的」活動家や団体にはやや辟易しているような言い方が多々ある。

また、これまでの”運動”路線とは異なり、中立的というものでもないが、反・巨大食産業というトーンは薄い。

……つづく。。