粗々〜カブとクマゴの時間

標題の件、図書館での資料渉猟の折、メモすらしていないことをも含めて、まず書き残しつつ後ほどの整理に委ねる。
◆島根県出雲地方においては近世以降、水田を有しない耕作地帯はきわめて稀である(この件、要精査)。畑作なり漁撈なり、その比重の軽重こそあれ、水田稲作を基軸とした農耕文化がこの地域の特徴である、ように見える。が、しかし、である。大局的にはそう見えたとしても、個々の集落、ひとつひとつの儀礼、年中行事、それらを丁寧にみていくと、稲の儀礼にみえて、その基底に畑作があるのではないかとうかがわせたりするものがある(白石昭臣の論考との差異など補足)
◆地カブを供物とした儀礼がそうである。年取りカブ(正月カブ)と呼ばれる地カブは、文字通り、大晦日には欠かせぬものとされ、歳神さんを迎えるトシトコの飾りにはジンバソウなどと並んでこのカブをぶら下げる。また、この年取りカブは稲こぎにも米とならんで主役となる。
すなわち、稲こぎが終わったのちに、千歯こぎなど道具にお供えをするのだが、その供物とはカブと精米した米である。カブを一升枡に逆さに(尻が上に)おき、枡にはこぎおわった稲籾を精米した白米をなみなみと満たす。これを供えるものだ。
なぜカブなのか。なぜ米とカブなのか。
◆現在、森と畑と牛と、島根大学里山管理研究会が中心となって行っている「竹の焼畑」のフィールドは、旧奥出雲町の山方地区にあたるが、その山方と斐伊川をはさんでの隣地である林原、そして岩伏山をはさんだ向かいにあたる下布施地区は、かつての畑作優先地帯であり、焼畑をふくめた畑作文化がかつて濃厚にあった土地だった。尾原ダム建設(2011年:平成23年竣工)による集落移転によって、現在は無住地帯である。
◆白石昭臣は何度か調査に訪れ、その断片が論文・資料には残されている。白石の集大成的遺作ともいえる『農耕文化の民俗学的研究』(岩田書院)、集落移転を契機とした民俗調査報告書、島根県教育委員会, 1996『尾原の民俗 : 尾原ダム民俗文化財調査報告書』。  とりわけ「年取りカブ」に関するものとしては、前者のp.328にある一文は、後者より微妙に詳しい。ご本人にうかがえないことがくやまれる。

《〔事例11〕島根県仁多郡仁多町・大原郡木次町下布施一帯の山村では、大晦日に「トシトリのカミさん」と称して、ヒゲ(根)のついた地カブ(蕪)と二叉大根を、オモテの床の間の年棚に上方から吊す。これに大根ナマス、カブの味噌汁、ソバを供える。》

先の山方地域について2,3、気になることを記しておく。

ダム建設の残土置き場となったため、山中に点在していたものをここに合祀したときく。 伝承にも山の信仰の色がこい。※1
タイシコの雪隠し。馬にのってやってくる毘沙門天。尼寺の跡(姥石とも)。などなど。

ヌルデのこと
春といえば、美保神社(美保関)の青柴垣神事。 春は生命が芽吹くはじまりの季節。
◆青柴垣神事ではトコロイモ・里芋が重要な供物……4月1日には海でトコロイモ(野老)を洗うという神事あり。いまでは他の地方からもってこられるらしいですが、かつては山の畑でつくられていました。そう、焼畑で里芋をつくっていたエリアなのです。海の色彩とともに山の神信仰の色が濃い。
◆山村塾が焼畑をしている土地(旧仁多町山方)では、かつて関講があり、御札と稲魂のやどった種籾を美保神社に詣でて受け、各家々で札は水口に祭り、種籾は用意した種籾とまぜて苗をつくったものです。
◆そして、神事に用いられる負棒。かつては「もり木」であったと。もり木は消失した民俗儀礼に多出します。花嫁を背負う木でもあり婚姻時に用いたのち大事に保管し、その嫁が死する時にともに弔うあるいは骨を拾うときに使う箸にするなど。これはおそらくアイヌの神送りにまで連なるものですが、焼畑実践者であれば、おなじみ、ヌルデの木が材として使われます。椎葉でも、そして先に焼畑フォーラムが開催された井川でもありました。焼畑のあと、最初にはえてくる木、それがヌルデです。奥出雲の佐白でもそうであることは、焼畑地の草刈り参加者にはおなじみでしょう。
◆海とヌルデの関係は「塩」ということからも ヌルデといえば、椎葉のクニ子おばばとこんな話をしたのを思い出します。 クニ子「山にはなんでもあるから」 私「あ、でも、塩はないでしょう」 クニ子「ヌルデの実があるわね。塩の代わりになる」 ヌルデの実が白い粉をふいているのをなめると塩辛いです。粉はリンゴ酸カルシウム。塩(塩化ナトリウム)とは違うのだけれど、昔から山での塩分補給になっていました。
◆なぜ、ヌルデの木なのでしょう。生命の根源にある塩をふき、焼畑で最初に芽生える森の先導者。小正月では占いの木でもあり、魔除けの木でもある。 そう、焼畑の民にとってヌルデとは死と再生に深くかかわる木なのです。

クマゴのこと
◆クマゴの記載のみられる町史等をみるに、こらまで島根県内で確認できたのは次のもの。広島県北部をまだあたっていない。三好市の図書館にいけばある程度そろうだろうか。 赤来町史 勝部正郊氏が取材執筆されており、聞き取りの要約であっても信頼がおける。 そのままひく

《さて明治から大正にかけての食事の概況を記すと次のようになる。この記録は昭和四十四年の夏、来島地区、赤名地区、谷地区における六十才以上の老婦人が語った若き日の食生活をまとめたものである。  主食といえば、米三分にクマゴ七分のものだった。朝はたいていが茶粥に漬物。昼は飯に漬物。ハシマには飯に漬物。夜も飯に漬物それに煮しめ。そして自家製の味噌でつくった味噌汁があった。味噌汁の中身はそれぞれ時節のものが入れられ、タカナ、ネギ、タケノコ、ナスビ、大根など……(中略)……主食の過半を占めたクマゴはこの昭和の初めまで用い、特に谷地区ではクマゴこなしの共同作業までみられた。》

大和村誌 p.638(第三章民俗慣習ー第ニ節食物) (江戸から明治にかけての食として)主食は米三分、クマゴ(粟)七分で、時によって粟のかわりに麦、甘藷、または大根や菜葉を細目に刻んだものを混ぜて炊いた。 羽須美村誌(下) p494

《第五項 くまご(こあわ) 麻畑の後作として、「くまご」を栽培した、これは麦と共に米の補給物として重要なものであった。  麻刈りした畑に、ほとんどがバラ蒔きをしていたので、水田の除草や、養蚕の合い間を縫って、手入れをするのだ。手入れといっても主に、間引きと除草である。(中略)反収二石も獲れれば上作である。  この「くまご」も年々減少して昭和十五、六年頃より極度に少なくなり、三十五、六年に至って殆ど姿を消してしまった。  昭和の初期までは、常食として米に混ぜて、ご飯に炊いていた極めて重要な食糧であった。御飯一升について二合ー四合(二割ー四割)を混ぜて食した。炊きたての温かいうちは、黄色で香りもよく、たべ易く味も悪くはなかったが一旦冷えると、香りもなくボロボロして食べ難いものであったように記憶している。》

ここで特筆すべきことはいくつかあるが、なんといってもくまごを「こあわ」としていること。
◆桜江町誌、旭町史にクマゴの記載はなし
どちらも食生活の項目に雑穀の記載はあって、その比重の大小は地域内の差はあれど、それなりに大きい。桜江町については粟食も濃厚でウルチ粟の飯を食していた記録もあるが、その粟をクマゴとは呼んでいない。旧石見町も山間部はそうであろうから(未確認)、クマゴの境界はちょうど瑞穂町のあたりとなろうか。
おそらくもっとも近年までくまごを食していたと思われる都賀行をあわせてみると、地カブをよく食していた地域と重なるのではなかろうか。
さらに西の地域を資料の渉猟と、森神、大元神、地神の残存、祖霊信仰とあわせて探っていきたい。
◆クマゴ、地カブについて大浦周辺で聞いてみるも、年寄りはみんなおらんようになった。とのこと。ただ、地カブと思しきカブはそこここに点在している。

 

※1…山中に点在していたのではなく、尾白峠周辺にあったものだろう。写真右に草に隠れて見えない石仏がある。双体の才ノ神で、『尾原の民俗』など参照。2022/02/06追記

灰小屋雑考

邑南町へ在来作物調査へ行く道すがら、灰小屋の「遺構」をみる。灰小屋といっても、岡山県から広島県にかけての高原地帯、山間部から島根県石見地方東部に多くみられるものは、田畑に近いところにもうけられ、そこで土を「焼く」小屋としてある。地域によって呼称の異動はあれど、このあたりだとハンヤと呼ぶことが多いようだ。
関心がありながらも放置してあるテーマであって、テーマは5つばかり。
1. 小屋の建築として…農夫がつくる建物という点、住ではなく機能性に特化したものとして。しかしながら中では火を扱うという点から納屋とは異なり、住に近いなにかを有するのではないか。すなわち住居の原型としてとらえてみたときに、何か大きな発見がある気がしている。
2. 再生を試みる実践…少なくとも3つの観点がある。ひとつめは焼土をつくる技法とその効果について。農学的アプローチがベースにありながら、環境民俗学をもちいねばとけぬ問題がある。どのような林野利用と農事の循環、作物栽培、複数の要因のからみあいのなかで醸成されてきたものであろうから。そして、多くは茅葺きであったことから、茅葺きの技術を小さくとも身につけることとリンクしている。安藤邦廣先生にご助言いただく予定。
3. 灰利用の文化…草木から繊維を取り出し、糸をつくる、あるいは紙をつくる、そのとき灰は書かせぬものである。麹菌を培養する際にも特定の樹種の灰が使われた。ほか、山菜の灰汁抜きに、焼き物の釉薬に、衣類の洗浄に、あげればきりがないほど。化学でどうのこうのという面をこえた感覚にせまってみたい。
4. 灰小屋の風景と環境と…田畑の中に煙がそこここからたちのぼっている風景。夢のなかであってもそれを見てみたい。灰小屋ひとつひとつは、その配置のバランスもさることながら、芝木を山から持ち運ぶ便、土を運びこむ便、できた焼土を田畑に戻す便、うまく燃焼させるための季節による風向きと強さ、などなど、多くの要因を計算にいれて合理的に設置されるものだが、それらが谷に散居しているさまは、その理ゆえに美しいものであったろうと思う。
5. 焼畑との関係はありやなしや…あっただろうと連想のまま書かれた記事はみかけるが、どうなんだろう。容易な結びつきはちょっと得られそうにないのだが。
むしろ、建築面からみるに、たたら小屋からの連続性をみるほうが得るところが多いのでは。
日本ではじめて、弥生時代の竪穴式住居が復元されたとき、参考にしたのが出雲地方のたたら小屋の構造であったと聞く。火を扱いながら、茅等の草葺であること、地面を掘り下げた構造であること……。ハンヤは掘っ建て柱は使わないが、その基本設計は系統を同じくするものではないか。

●関連過去記事
尊い家とは何か~今和次郎とB.タウトと
粗朶ってなあに?

購った図書について2019

少しずつ加筆のつもりでおいておくもの

†. 川島宙次,昭和53『日本の民家―その伝統美』(講談社現代新書)
†. 昭和61『聞き書 静岡の食事』(農文協)
†. 根本正之,2014『雑草社会がつくる日本らしい自然』(築地書館)
†. 広戸惇,平成2『出雲方言とその周辺』(出雲市民文庫:出雲市教育委員会)
†. 青葉高,1981『野菜―在来品種の系譜』(法政大学出版局)
†. 1997『祖父母から孫に伝えたい 焼畑の暮らし―静岡市井川の老人たちが語る山の人生』(静岡市立登呂博物館)
†. 土橋 寛,1965『古代歌謡と儀礼の研究』(岩波書店)
†. アリストテレス,1999『アリストテレス 心とは何か』(桑子敏雄・訳,講談社学術文庫)
†. 坪内洋文,『イモと日本人』(未来社)
†. 野本寛一,1989『軒端の民俗学』(白水社)
†. 朝尾直弘,網野善彦,山口啓二,吉田孝,1987『日本の社会史〈第8巻〉生活感覚と社会』(岩波書店)
†. ●●,『物語の中世 神話・説話・民話の歴史学』
†. ●●,『摘録鸚鵡篭中記 元禄武士の日記』(上下巻;岩波文庫)
†. 村井 淳志,2007『勘定奉行 荻原重秀の生涯』(集英社新書)
†. 早川 孝太郎,2017『猪・鹿・狸』(角川ソフィア文庫)
†. ヴィスワヴァ・シンボルスカ著,沼野 充義 訳,1997『終わりと始まり』(未知谷)
†. 宮田登, 網野善彦ほか編著,1984『日本民俗文化大系〈9〉暦と祭事―日本人の季節感覚』(小学館)
†. 矢内原忠雄著,若林正丈編,2001『「帝国主義下の台湾」精読』(岩波現代文庫)
†. T.A. シービオク 著, 池上嘉彦訳,1985『自然と文化の記号論』(勁草書房)
†. エドゥアルド・コーン著,奥野克己,近藤宏監訳,2016 『森は考える 人間的なるものを超えた人類学』(亜紀書房)
†. 『猫はなぜ突然姿を消すのか』(  )
†. 高取正男,1982『高取正男著作集〈5〉女の歳時記』(法蔵館)

 

 

戸河内町史・民俗編にみる小正月の訪問者

 なかなか見つからないものを探すときには、ほかの気になるものをひろい集めたりするものだ。ちがうだろうか。良し悪しを問う前に、もうこれは癖のようなものだから、なるようにやるしかないのだが。開き直りつつも、これでいいのかという迷いもあるということで本題。

 頭がパンク寸前にいろんなものが渦をまいているので、忘れぬように、あちこちに記しているもののひとつとして。

 横田の図書館に、戸河内町史や東郷町史など隣接する広島の誌史があり、3分だけ見るならどれだろうと数秒迷った末、戸河内町史・民俗編を手にとった。だだっとななめ読んだらば、なんとも興味深いページが。年中行事の小正月の項だ。

 ひとつ。小正月の訪問者=来訪者は、満月の夜にやってくるということ。

《正月の14日か15日の夜のことだが、最初の満月の夜に、顔を隠し箕を着たりして家々を訪ねる、いわゆる小正月の訪問者がある》

 これまでうかつにもこのことを考えて見なかった。そう、小正月は満月の夜でなければならないのだ。旧暦の15日は満月。この意味するところによくよく気をつけて、これからみていこう。

 ふたつ。地域によって截然と、やるところとやらないところがあるということ。これは地図をみながら再確認。

《小板には「とろへい」があった。猪山では「とのへい」、本郷、上殿などでは「とろとろ」といっている》

 声は「とろへい、とろへい」とかけていたようだが、「とろとろ」もあっただろうと思われる。そして、問題はその声である。

 みっつ。神霊示現の声は奇矯なものだったこと。

《また、とのへいの声は、ふだんと違った変な声をだす。そこで猪山では、ふだんに変な浮わついたような声を出すと、「とのへい声をするな」と、親からたしなめられた》

 刊行が1997年と新しい。ひょっとしたらこの声についてまだ何か聞けるかもしれない。

 森と畑と牛と1号が終わったら、取材してみよう。

本の記録〜2019年2月28日

島根県立図書館へ。16時〜18時。
正月習俗のなかに奥出雲の「正月カブ」について何かわかることがないかと『出雲民俗』からピックアップしておいた記事を観る。出雲民俗の会による『出雲民俗』は1949年から53年まで1号〜21号までが刊行されている。原本の所蔵はあるようだが、閲覧は複写簡易製本されたもののみ。請求したなかで「痛みがひどいので、お見せできません」というものもあり。原本はあるはずなので、《平成25年4月から施行された「島根県教育委員会が管理する歴史資料の利用に関する規則」に基づく利用の手続きが必要です》ということで事前申請となるのか。仕方あるまい。いや、嘆いているのではない。この有り様を所与の現実として、どう振る舞うかを心にとめおかねばならぬ。

さて『出雲民俗』。次回ていねいに読むとして、今回は斜め読みしながらメモ書きしたのみ。
※メモ書きはのちほど加筆
†. 石塚尊俊「歳神とその祭儀ー出雲を中心に山陰における」(14号,年頭行事特集,昭和27年2月)
†. 松崎清「年頭習俗語彙ー仁多郡横田町一」(14号,年頭行事特集,昭和27年2月)

次に『山陰民俗研究』。
†. 山崎亮「石見地方の「森神」をめぐって−明治初年「神社書上帳」を手がかりに」(15号,2010年3月)…これについては島根大学のトポリジニにPDFがあった。
http://ir.lib.shimane-u.ac.jp/ja/list/journalarticles/001002/item/37917

今回借りた図書は5冊。
†. 野本寛一,2010『地霊の復権ー自然と結ぶ民俗をさぐる』(岩波書店)
†. 梅原猛,昭和55『空海の思想について』(講談社学術文庫)
†. トマス・カスリス,2016『インティマシーあるいはインテグリティー』(法政大学出版局)
†. 青葉高,1981『野菜―在来品種の系譜』(法政大学出版局)
†. 高取正男,昭和48『仏教土着―その歴史と民俗』(NHKブックス)

みざわの地蔵と麦の春

3月24日、三沢、見覚えのあるサイノカミさん。以前見た場所からここまで移ってこられたのか、それとも兄弟姉妹関係にあるようなものなのか。確かめようと4年前だか5年前だかに撮影した写真を探してみるが出てこない。もとあった場所というのも、土から掘り出され、このあたりにあったのだろうと数メートルか数十メートルは場所を変えている。藪に覆われるようなところだったから、なくなっちゃいけないと、雨もしのげるこの場所に移されたのかも、しれない。
いったいいつ頃つくられたものなのかという問も含めて、気になるので、ここに置いておく。

焼畑地は麦の様子だけ確認。 スペルト小麦

裸麦

畝間に草をしくかどうか、思案中。ススキなり笹なり、そばにあるものがよいだろうと思う。
それにしても、家の裏の菜園畑とくらべると、草が少ないなあと思う。量も種類も。
冬はもともと雪で覆われる場所だから、ということもあるだろうけれど。

年取りカブのあるところ

2月23日(土)。1年半ぶりくらいに年取りカブのある谷へ。 谷に着いて車を降りると鶯の声。
Yさんのお宅まで畑をみながら歩く。2年前は雪が降り積もる谷を歩いたっけと不確かな記憶をなぞりつつ。
開口一番「鶯、鳴いてましたよ」といえば、「あぁ、2日前からないちょるね」と。  1時間半ばかりあれこれお話を伺った。

・里芋も去年はダメだったと。こたつの上に出されていたのは、よそから種芋をもらってきて育てたもの。地のものとは味が違うという。形を聞いたらば、昨年から塾でも栽培している三刀屋在来と同じ系統のようだ。大事に育てよ。

・「あんたつづれもしらんかね」といって、出してきてもらった「つぅづぅれ」。裂織の綴。ボロの着物のことだが、仁多郡ではぼろ布を裂き織りにして作ったそでなしの仕事着のこと。中国地方山間部で用いられてきた方言。ちょっとした雨ならぬれないし、あたたかいし、しょいものやらにもいいと。

「わたしゃ背が低いけん、こげにみじかいだども、もっと長いもんだけんね」 文化財データベースなどでみると、その意味がよくわかる。というより、こっち、現役ですから。文化財とか遺産ってものがほんとに陳腐にみえてくるほどに、ビビッときた。 からさでさんのこと、縄(にかわ)のこと、ききそこねたこと多数。干し柿いただいた。ありがたし。

出雲の山墾り〜阿井の竹林でその1

出雲の山墾り特別編ということで、阿井の竹林へ行ってきました。
荒れた竹林を「きれいに」しつつ、タケノコ林として「再生」したいという希望に「ここは無理を押してでもいかねば」と、赴いた次第。草にしろ竹にしろ邪魔者扱いだけでうごくケースが大半な中、「ここのタケノコは白くて甘くて」というような愛がある。稀有なことなのです。
というわけで、写真をいくつか。

本の記録〜2019年2月10日

出雲市立中央図書館にて『山陰民俗』からいくつか複写。

§ムコガンさん

加茂のムコガンさんについて、石塚尊俊が「ミコガミ」すなわち巫女神だとする論考あり。昭和51年(1976)発行の27号に収められている。石塚氏が、井塚忠の「ムコ神さん」の稿、それは山陰中央新聞学芸欄「ふるさと再見」に11月25日に載る予定のものを事前に見せてもらったことに端を発する。安来市から能義奥にかけて11月13日をムコ神さんといい、よそから米をもらい集めてきて、それで小豆飯を炊き、サンダワラに盛って、トコの間か、ウチ庭の先の戸棚の上かに供える。というもの。「よそから米をもらってくる」のは子供たちの役割だったらしく、井塚氏は子供の時分の経験で、数人連れ立ってよその家の門口にたち、大きな声で「ムコグヮのクヮンジ」とやるのがとても恥ずかしかったと記されているという。

それらを端緒として、石塚氏は「ムコガミはミコガミかも!」と思い至り、旧知の坪井洋文が編纂に労をとった『総合民俗語彙』から概要をひき、自ら四国へ取材した折の話が展開されるという構成となっている。
『総合民俗語彙』はデータベース化されて公開されており。
https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/goi/db_param
そこでミコガミをひくとこうある。

ミコガミ
高知県香美郡槙山村から徳島県海部郡木頭村にかけての山間の村々
御子神。
高知県香美郡槙山村から、徳島県海部郡木頭村にかけての山間の村々に行われる神職家の祭。大夫をした者が死んで十五年くらいたって祭るのだが、それも病気や災害があって、大夫が神になりたいという催促のお告げがあって祭るのが普通である。これは天の神の家来になるための祭だといって、必ず十七日または二十三日に行い、そのとき位牌を捨てる。三年たってムカエグライ(迎え位か)の祭というのをすると、本当のミコガミとなる[民伝二ノ三]。このことは『土佐国群書類従』の中にも御子神記事として出ている。神職の家以外は今はテンノカミマツリと呼ぶようである。広島県福山市付近には五月と十一月との十三日に御子神祭がもとはあって、家内の祭であった。醸造家では特に念入におこなった。これを忘れていると瘡を発すると伝えた[風俗答書]。島根県大原郡でミコガンサンというのは、十二月十三日で、この日乞食をして米を集めて食うと足を病まないという。

そう。大原郡のミコガンサンがここに出てくる。この当時の大原郡は木次町、大東町、加茂町、温泉村(すでに木次町と合併していたかも)からなる。くまなくではないが、ひととおり目を通しているその限りでは、ミコガンサンの記載があるのは加茂町のみ。しかも、ミコガンサンではなくムコガンサンである。

これ以上、考えるのには材料不足。
向神=サイノカミ=客人神=まつろわぬ神の線から、もう一度みてみることと、シャグジ=クナトカミがあるのかどうか。来訪神の線からも、見直してみようと思う。

ほか、山陰民俗から複写したものとして、以下がある。
†. 中俣均「出雲地方における”小正月の訪問者”について」(35号,昭和55)
†. 山田良夫「吉賀奥探訪記ー石見鹿足郡蔵木村民俗誌(抄)」(40号,昭和58)
山田良夫は石塚尊俊のペンネーム。次の「石見鹿足郡蔵木民俗誌」と同様、吉賀の「奥」を訪ねた記録である。”多くの民俗学者が訪問している”と書かれたものを見たのはなんだったろうか、思い出せない。が、いまのところ、この石塚尊俊(山田良夫)と、宮本常一を知るのみ。
†. 石塚尊俊「石見鹿足郡蔵木民俗誌」(9号,昭和31)
†. 末次福三郎「出雲大原郡加茂地方の歳時」(9号,昭和31)
加茂町誌記載のムコガンさん、その出所はこれではないかと思う。
《十一月 〔十三日〕向神さん(ムコガンさん)、子供は「ムコガンさんだけんゴンゴごはっしやい」といって各戸を廻り米を集める。それを焼いて神仏に供える。商人のウソツキ祝いもこの日》
ウソツキイワイを先の『総合民俗語彙』でひくと次のようにある。

《鳥取県伯耆では十二月八日のヨウカマチに、変わりものをこしらえて一盃を傾け、これを嘘つき祝といっている[風画二六一]。その際に豆腐は必ず食うという者も多い。これを食うと一年中についた嘘が消えるともいう。
[-]因幡の方でもこれをウソツキトウフと呼び、ついた嘘の数だけ豆腐を買わねばならぬとも、またこのヨウカブキの日の豆腐を食えば、吹雪にやられぬともいっている。嘘と豆腐との関係は不明であるが、岡山県英田郡でも、十二月の八日待ちには豆腐を食べ、この日を年中の嘘はがしといっている[郡誌]。島根県仁多郡でも、やはり八日をヨウカマチともヨウカヤキ・ヨウカブキとも呼んで、米の団子に小豆餡を入れ、焙烙で焼いたおやきをつくる。一年中の嘘を消すために、このおやきを川へ流すのである[民伝一四ノ六]。》

†. 土屋長一郎「稲米呼称の推移」(4号,昭和29)

†. 土井伸一「ワニを食べる文化」(52号,  )

そして、借りている本を以下にあげる。
†. 石塚尊俊,2005『暮らしの歴史』(ワン・ライン)
†. 乙立郷土誌編纂委員会,2005『乙立郷土誌』(乙立自治協会)
†. 藤原俊六郎,2013『新版 図解土壌の基礎知識』(農文協)
†. David.W.Wolfe,2001『地中生命の驚異ー秘められた自然誌』(長野敬,赤松眞紀訳;2003,青土社:Tales from the Underground-A Natural History of Subterranean Life)
†. 浜田信夫,2013『人類とカビの歴史 闘いと共生と』(朝日選書)
†. 内田樹,2012『街場の文体論』(ミシマ社)

『乙立郷土誌』p.142に入会山について興味深い記載あり。

《入会山 現在の乙立地区内の公有林および町内共有林、神社林の大部分は、明治年代まで野山と称し、入会山であり、即ち村中持ちと呼び、共有林として、村人は概ね勝手に山に入り薪や草を採取し、また小炭を焼きあるいは焼畑(通称さんか)をなし作物をつくることもできた》

焼畑をサンカを呼ぶのは、出雲西部の山間部にあるようで、白石昭臣『竹の民俗誌』p26に、志津見地方のことで出てくる。

《かつてはハンゲまでに田植えをすませると、組ごとに管理する山を焼く。無用山ともいう竹や笹を主とする雑木山を焼くもので、サンカ(山火)ともいっている。一戸あたり1.5町歩(約150r)を焼くという。》

他にもいくつか特筆事項があるのだが、のちほど加筆する。灰買いのことなど。

出雲の山墾り〜sec.6

 2月16日(土)。くもりと言えましょうが、数秒ほど陽がさしもすれば、1分ほど雨がパラパラときたりもし、風が一時的に強く吹いたりもする、そんなお天気。気温は6℃。11時頃から中山を歩き状態を観察した。30分ほどは学生らがカブの間引きをする間に、倒して玉切りしてある竹を積む。かれこれ2時間弱の仕事でした。

 例年ならば雪がつねに山の斜面をカバーしていたものですが、今年は10日くらい前から裸の草土がむき出しになっています。草のカバーがないところは土が流れはじめており、場所によっては崩れてもいますね。わずかではありますが。ロゼッタをなす越年草も里の方では葉を起こし、花をつけはじめているなあ、、と思ったのは10日ほど前か。
 雪がないことによる変化は牛の山あがりに顕著でした。けっこうあがっています。食べられる春の草は標高50mほどの里にはあふれはじめていますが、ここいら200mほどのところではまだ枯野でありますが、食べられるものを食べているのです。


 切り崩された崖地にある草ですが、それだけに土の跳ね返りがなくきれいな草であるし、食べやすい?位置にあるからか、よく食べています。12月ごろからそれとなく見る限りでは、再生竹の葉はきれいに食べ残しないほどに食べていることとの共通点があるように思えます。カビなどの菌類にきわめて強いものたちで冬の青さが目立つもの、竹の秋は春ですが、この写真にある草はどうだったでしょう。思いつきついでに記しておけば、枯草菌との関係性もあるのかな。
 牛が秋から冬にかけて歩くところは春夏とは違うのだろうか。そういう問をたててみることにしました。これから見てゆきましょう。
 冬は草のカバーがないことによる斜面土壌の流亡が激しいのだと、ここ数年、里でも山でも、人工的に削った箇所で、そう思います。
 雲南、奥出雲の山は上はなだらか下はストン。爺さんらがそう言うことの理由と歴史的利用の履歴が、気候とあわせてそこから読み取れそうです。
 ブラウンスイスは走ったり跳ねたりと体力を持て余しているようでした。春には卒業なのかなあ? (現在は育牛状態。春から搾乳できる牧場へ移るのです、たぶん)