物乞いと神人と森人〜雑考:わからないものへ向かう仕方

 私たちはいつの頃からか、日々の暮らしのなかにあった、繊細な思考を失った。それがどんなものであったかさえ、想像はおろか妄想すらできはしない。これは悲嘆ではない。希望をもたないところから見える光であるならば、あるいは真実のかけらなりとも、落としてくれるかもしれない。

 私は何を繊細な思考と呼ぼうとしているのか。どのような思考が繊細さと結びつくのか。浮かんでは消えていくイメージの連鎖に頼っている思考をそう呼ぶだけではないのか……。

 繊細な感受性、ではない、繊細な思考。

 たとえば、次の一文をよんだとき、あぁ、これは感性というよりは思考だ、と、思った。

《そして実践家であった。……(中略)……(乳牛の)搾乳が終わって夜遅く二時や三時になっても、車をとばして村の病人の相談にのる、悩む人の相談にのる。しかも生まれたときの姿のまま、自分を自分以上に大きく見せようともしない、小さくも見せない。……(中略)……大坂君の「牛が落ちつかないのは化学肥料を使う田の畦の草を食べているのが原因ではないですか」という言葉は大変なヒントになりました。硝酸塩中毒になっているというわけです。それほど彼は感性のよい、感受性のつよい男で、一九六五(昭和四十)年、隣りの農家の農薬によって汚染された田の畦の草を牛に与えたところ、瞳孔の異常、視野狭窄が起こることに気がついて私に教えてくれた。》

森まゆみ,2007『自主独立農民という仕事』)

 まとまらない迷想のなかで、藁をつかむような感はあるが、こう言ってみる。

 「わからないもの」を考え、とらえようとするときに、思考は繊細なものとなる。

 ここから、はじめてみようと思い立った。

 先の大坂君は、繊細というより科学的なのでは? そう思う人もいるだろうし、無理もないのだが、それは科学の本質に対する誤解に起因する。科学の思考は繊細なものなのだ。

 記事カテゴリの中で、「ホトホト・カラサデ」に入れている一連のもののなかに、それはたちあらわれる。

 あるいは、「岩伏の谷の森神」でふれようとしているものに、それはある。

 荒神も石神も森神も、果たしてなんであったかについて、知ることは不可能であると、すでに何十年も前に柳田國男が記している。

 私たちの時代には、「わかる」ことが当たり前となった世界である。

 わからないことも、わかる人から教えてもらえれば、わかったことになってしまう時代。「わかる」こと、それは人であれウェブであれ、情報のデータベースとして存在し、その場所から「ダウンロード=複写」してくることでしかない。

 そのような知とは異なる相貌をもっているのが、凋落と落日を嘆かれている日本の民俗学である。

 河出文庫宮本常一『生きていく民俗』。その解説を「無数の風景」と題して寄せている鶴見太郎は、こうときはじめる。

民俗学とはすぐれて経験的な学問である。民俗事象が無数の人間によって積み重ねられた経験の堆積である一方、民俗学に従事する側にもまた、旅先その他における無数の出会いがある。》

 さて、本題はここからなのだが、もはや夜も明け方に向かいはじめた。睡魔にひとまずは降伏するとして、ここで、いくつかの断片をあわてて記し、自らの道しるべとしておく。

・経験的であるということは、国家的なものに抗する知を志向する。

・日本の乞食の源流に聖性あり。

・仏教のサンガ組織が物乞いによる組織運営を選び取ったことの後世的意義

・乞食する僧も職人も、山を拠点にした。そういう山とはなんであったのか

 そして、もうひとつ、宮本常一『生きていく民俗』からの引用をもって、この記事のタイトルとの関連を示しておこう。

p.40「物乞いと商売」〜

《(白山では)山地を焼いて焼畑耕作を行なっても、そこから得られる食糧だけでは半年食いつなぐのが精いっぱいで、食物がなくなると地内子たちは椀を持って牛首まで出かけたのである。牛首の親方たちの家ではヒエの粥をたいて飢えた農民にふるまった。しかし山に仕事のある間はよいが、雪が降って仕事ができなくなると、この人たちはいよいよ窮して、山を下って平野地方に出て物乞に歩きはじめる。……(中略)……雇われて働けばよさそうなものであるが、そうする者は少なく、ただ家々の門口にたって物を乞うたのは、もともとそのまえに白山の御師または強力として働いていたころの名残であったとも考えられる。そのころは白山信仰者の家をお札配りなどして歩いて金や食物を得ていたに違いない。

……(中略)……

 山奥で生活をたてることはまったく容易ではなかった。山中の者が里へ乞食に出る風習は実は白山山麓ばかりではなかった。中国地方の山中からも里の方へ乞食に出る風習があった。

……(中略)……

 (中国地方ではたたら製鉄に要する膨大な炭焼き需要があったことに言及したうえで)

 米をつくるだけではとうてい生活のたてようのない山中でも、こうして炭焼のもうけがあるということによって、山中にも人が住んだ。しかし炭焼で得られる金もたいしたことはないから、雪が深くて炭焼もろくにできないころには箕や簔をつくり、また篩などもつくって、春さきにになると里の村々へ売りに出たのである。なかなか器用につくってあって、里の人には喜ばれたが、だからといって、毎年買ってばかりはいられない。しかし、売りにくれば義理にでも買わなければならないとされた。また売る方も、相手はきっと買ってくれるものと信じていた。今日の商法からすると不合理なようであるが、山人は里人がその製品を買ってくれなければ生活をたてることができないので、ただ品物を買ってもらうというのでなく、助けてもらうような心持があった。だから買うことを拒否するようなことがあると、放火されたり、物をぬすまれたりする場合すらあった。》

(つづく)

味噌をつくる前に~#2

 味噌づくりの主役はカビである。

 一口にカビといっても確か数万種におよぶ。広大な世界がミクロの次元にひらかれている。その膨大なカビ世界のなかのひとつの種類が、味噌をつくってくれる。名前もきちんとある。学名をアスペルギルス・オリゼという。Aspergillus oryzaeと綴るラテン語読みだと、オリゼではなくオリザエなのだが、英語読みのオリゼーが、ことこの菌に限っては一般的だ、国内では。

 それというのも、石川雅之の漫画『もやしもん』の貢献による。アニメ化、ドラマ化もされ、一躍スターダムにあがったカビの中のカビ。スターといってもいいだろう。

 一般には麹菌(コウジキン)と呼ぶことが多いこのカビ、パンやごはんの上にできていることもある、ありふれた菌なのだが、なにがこの菌をして、人をひきつけてきたのか。

 種として同定されたのは明治時代に入ってからなのだが、菌そのものの存在は古く知られ、その起源、すなわち人による利用は少なくとも室町時代にまでさかのぼれるようだ。コウジキンの利用という観点からすれば、さらにルーツを奈良時代弥生時代にまで求めることもできる。

 よく引かれる例として、播磨国風土記にある酒造りの記述がある。奈良時代播磨国とは、江戸時代における播州で、平成の現代では兵庫県南西部にあたる地域。そこに宍禾郡(しさわのこおり)庭音村というところがかつてあり、こういう記述が残っている。

《大神の御粮(みかれい)沾(ぬ)れてかび生えき

 すなわち酒を醸さしめて

 庭酒(にわき)を献(たてまつ)りて宴 (うたげ)しき》

 

 神にお供えした、乾燥ご飯がぬれてしまって、カビがはえてしまった。だったらと、そのカビで酒を醸造しあらためて神に献上し、宴を開いたのだった。

 いまでも、日本酒をつくる原理はこの当時と基本的にはかわならい。コウジキンを使って発酵させる。コウジキンは味噌、醤油の醸造にも使われてきた。

 そんな日本人に欠かせない菌ともいえるコウジキンだが、かつて猛毒を生成する可能性があるという疑いがもたれたことがある。アスペルギリス・オリゼは、ながらくアスペルギリス・フラバスのひとつという分類をされてきた。で、このフラバス、天然では最強ともいわれる毒を生成する。オリゼにもどうやら同じ能力があるようだ。

 この嫌疑に日本の醸造業界は震撼した。これをきっかけにオリゼの研究がすすみ、2006年には全遺伝子配列が解明、嫌疑ははれた。ちょっとわかりにくいのであるが、たしかにオリゼにも毒を生成す遺伝子をもっているのだが、それを働かせないようにする機構が幾重にもしかけられているということだ。

 また、この研究の副産物として、オリゼという菌の精妙にして不思議な特性が明らかになってきた。いや、こんな素晴らしい菌がどうやってできたのだと。

 学会で「国菌」に指定すべきだという声があがり、いまや他の4種とともに日本の国菌として褒称されている。

 そして、室町時代にはじまったことが絵図などから確認されている、このオリゼを培養して売るという仕事、種麹屋。顕微鏡もなく、自然科学も未発達の時代にあって、現代の遺伝子操作顔負けのことをやってのけていたわけで、「世界最古のバイオビジネス」という呼ばれ方をするようにもなった。

 そう。味噌をつくるということは、千年をこえて培われてきたものに、加わるということでもあるのだ。

岩伏の谷の森神〜#1

森と畑と牛と。

森、畑、牛は三位一体ともいえる関係にあるのだが、この営みを森から考えるための断片を今日はここに記す。”森神”はいまどこにいるのか。その答えを求める試行でもある。

◉2017年の8月20日、小さな祭りをはじめた。「岩伏の谷の小さな夏祭り」

いま、祭りとなれの果てがた無数に散らばるなかに、私たちの世界はどっぷりつかっている。「オリジナルの不在こそが大量の模倣者を生み出す」というのでもない。たしかに私たちの記憶や想像の中にある祭りの原型のようなものがオリジナルだとすれば、現実世界に展開されている多くの祭りはその部分を模倣することで祭りと称することが可能になっているように思える。
しかしながら、何が祭りなのか。
この岩伏の谷で、その消失を確かめることで、来るべき祭りを期したい。

◉祭りには始まりがあって終わりがある。日常を区切る非日常であり、常態であれば、それは祭りとは呼ばない。「〇〇祭り開催中」という幟がつねにあがっている店舗のそれを祭りと呼ぶことは、認知する側にとっては極めて難しくものだ。

◉森の木は倒れることに意義がある。倒木がなければ、若い木は育たない。天然林というものはそうなっている。倒れた木は微生物が分解して土となり、他の生物がそこに生きる糧となる。
この話を最初に聞いたのは、ソシオ・メディア論の水越伸からであった。著書『メディア・ビオトープ』は、再読してみたい。

◉現代がかかえる「問題」の核心には、倒木の価値を位置づけられないがゆえのもどかしさがある。

◉岩伏周辺に残る信仰には山伏のような流浪の民間宗教者の影響があったようだ。

・岩伏山を女人禁制としたこと。
・牛馬信仰を荒神信仰と結びつけたこと。
・大山信仰、縄久利信仰、ふたつが相争った形跡があること。
・岩伏山と素戔嗚尊の降臨伝承は「出雲中世神話」の影響を受けたものであるとすれば、この地に伝承をもたらしたのはいかなる人物であったか。
・隣地に伝承と痕跡の残る妙見信仰との関連は不明。

こうしたことどもを糸の口として、たどれるものをたどっていきたい。

◉ダム建設による集落移転の際、かつての山道のあとに合祀されてものと聞く碑。脇にある地蔵尊らしきものは不明。※1

◉碑のある場所から、ダムの見える牧場をのぞむ。

◉塚神をまつる痕跡があることはこの地にあっては珍しい(これまで聞かない)。この三神について聞き取りをしておきたい。※2

三宝荒神は、ここでは地主神としての性格を色濃く有するものであったろうと推測する。
地主神。とこ=大地の主である。

・とこぬしのかみ
・じぬしがみ
・じしゅのかみ

映画「もののけ姫」に登場するおっとこぬしは、乙事主ではなく、おおとこぬしのかみ=大地主神ととらえてみると、宮崎駿が求めていたものにも近づけるのではなかろうか。

◉この地から数キロ西にある佐白の志学荒神社は、三宝荒神を親神とする。

「今日の雑読断片」 に、柳田國男「山民の生活」に三宝荒神を「山神と同じく山野の神」と言っている箇所を引用しており、ここに再掲。

全国を通じて最も単純でかつ最も由緒を知りにくいのは「荒神」「サイノ神」「山ノ神」であります。仏教でも神道でも相応に理由を付けて我領分へ引き入れようとはしますが。いまだ十分なる根拠はありませぬ。「山ノ神」は今日でも猟夫が猟に入り木樵が伐木に入り石工が新たに山道を開く際に必ずまず祀る神で、村によってはその持山内に数十の祠がある。思うにこれは山口の神であって、祖先の日本人が自分の占有する土地といまだに占有しぬ土地との境に立てて祀ったものでありましょう。…荒神も三宝荒神などといって今は竈の神のように思われておりますが、地方では山神と同じく山野の神で。神道の盛んな出雲国などにも村々にたくさんあります。
(大塚 英志・編『柳田国男山人論集成』(2013,角川ソフィア文庫)p.88〜)

◉塚神も意味あるようで不明なり
柳田國男「石神問答」より

《姥神もまた山中の神なり
姥神の名には三種の起源混同せるがごとし
山姥は伝説的の畏怖なり
巫女居住の痕跡諸国の山中にあり
姥神はすなわちオボ神に非ざるか
姥石という石多し》

「巫女居住の痕跡諸国の山中にあり」から思うに、岩伏山の麓にあった比丘尼の寺というのは、巫女の居た庵ではなかったか。

※1)2022/01/26追記:地蔵らしきものとは、尾白峠にあった才の神ではないかと思う。
島根県教育委員会,   『尾原の民俗―  』〜信仰伝承―4路傍の神々3,才の神には、法印、下布施とともに、山方と尾白の才の神を次のようにあげている。
《尾白地区の才の神は、尾白ダワという佐白に通じる峠道の傍の石祠に双代像で祀られている。近くに杉と榊の木や地蔵仏がある。年末にこの地の所有者である近くの藤原さんがお供えをするほか、シシネガン(神)さんともいって、シシネという皮膚の隆起物の病気のときこの才の神に願をかけて祈る人もある》と。
山方のものは耳の神であること、石であって像はないようであるから、この双体像は尾白の才の神を移したものだと思われる。

※3 塚神は見聞することこそ少ないが『尾原の民俗』はじめ、記録記載は多い。

ホウソウ神(疱瘡神)とホトホト

 元旦に古代出雲歴史博物館へ寄った際、書棚にあった、文化財保護委員会編,昭和42年刊「正月の行事2・島根県岡山県」(平凡社)を開いてみた。「被差別(という意味の表現だったと記憶)の村から来る人が……」という記述があり、貴重なものだと思いをはせた。いまやそうした記載はできなくなっているだろうし、そうした地区にこそ、もっとも古いその地の古層を形成してきた文化が、人知れず保持されていただろうことは容易に想像できる。

 数分で立ち去るつもりが、つい読み進めるうち、岡山県真庭郡新城村の正月行事の中に「ホトホト」の記載を見つけた。そして驚いた。以下に引用する。

《(13)十四日 ・ホトホト 厄年の青年たちが厄落としのためにやっていた。十四日夕刻、蓑と笠をきて、盆(神のお椀)に綯い初め(ないぞめ)で用意した一尺(九〇センチメートル)程度のゼニツナギに一厘銭をさして載せ、細目に開いた雨戸の内側に置いて、ホトホトといって戸をたたき、物陰に潜む。家内の人が、ゼニツナギをとり、箕に供えていたオイワイ餅(ほうそうの餅)ととりかえ、祝ってやる。物陰から出て餅を取りにくると、用意していた杓で水をかけていた。これを厄落としと呼び、もらった餅を食べて「厄をまぬかれる」といっていた(図120)。〔大所部落〕では、この餅を四隅に必ず一個置いていた。〔下町〕では、一厘銭を四隅に落として「厄を落とす」といった。厄のないものにはオカチンや豆を与えていた。その見分けは、ゼニツナギに銭をさしているかどうかであった。〔茅見部落〕では、厄年の者は必ず三軒以上まわり、橋を渡ってはならぬといっていた。〔美甘村三谷部落〕では、男が女装をして行っていた。こうして青年たちは何軒もまわり、たくさんの餅を集め、またドブ(濁り酒)をつくっている家に若水たごを持ってもらいにいき、翌日氏神で酒宴を開いていた。このホトホトも信仰心が薄くなり、ヘイトウ(こじき)だという観念が強くなって、三十年ほど前から行われなくなった。》

 疱瘡神との習合が大変興味深い。疱瘡神を年越しに迎える事例は、東北地方にいくつかあって、真庭のホトホト=疱瘡神の祭事と共通するポイントが若干ある。

・供物は床の間とは別な場所におかれる

・来訪は一時であり、すぐに退散を願う

・年越しの前後に行われる

 

 ただ、ことの本質は「よからぬもの」の来訪であることが肝要なところであろう。

 

 今年は仕事の都合でどうしても頓原のトロヘンを取材することかなわなかった。来年へ向けて、来訪する神の姿を追っていきたい。

味噌をつくる前に〜#1

 今年は毎年味噌をつくっている妻を手伝って、…というより自分でもつくれるように見て聞いて手を動かしてみようと思い、少し考えたことを記してみる。

●味噌をつくってみようと思うその心は

・山の畑で大豆をつくり、味噌をつくる……仲間が5人くらい集まるといいななどとも。焼畑倶楽部の会員募集にも資するだろうということ。焼畑というと「焼く」ことにフォーカスされてしまい、畑で作物をつくるのだということを「忘れ」ている方が大変に多いのだ。だから、焼くのはともかく、つくることに関心をもってもらいたいなというその試みでもある。焼いた場所は当然のことながら、2年3年と作物をつくったあとでも、大豆など豆科作物は栽培できるし、むしろそのほうがよく育つ。「奥出雲山村塾」のフィールドでもそこは実証済みであるし、留意点もわかってきた。ただ、草を刈ること・柵をつくること、この手間がひとりでやるにはきつすぎるのだ。だから、仲間でやりたい。そういうことだ。 
 そして山の畑で収穫した大豆を味噌にすることがよいのは、味噌には味噌汁という素晴らしい食し方があるからだ。雑穀は現代の食生活にあわせるための工夫なり知恵・情報が必要だが、味噌汁は、いい意味でも簡単にだれでもつくれる。
 また、大豆は雑穀よりも収穫後の調製の手間がいらない。籾摺りや精白、そして商品として売ろうとおもえば、石抜きも必要になる、その労力がかからないことは大きなメリットだ。相反する面としては、虫に食われやすいということ、長期保存がきかないということくらいか。

・おからで、味噌をつくる……小さな豆腐工房でパート勤めをしていると、毎日大量のおからが出るのを目にする。あぁ、これ全部食べられるものなのになあと。味噌にはできるだろうしすでに商品もある。しかし、おいしさやそのお手軽感が何か違う気もする。どういうおから味噌だったらいいのだろうと。まずはふつうの味噌をしっかりつくってみないと、と。
このふたつを背景にしつつ、思いだけは膨らむのだが、さてどうなることか。ここで「続く」となってもよいのだが、味噌のことをもう少し書いてみる。

●味噌づくりが家の当たり前の仕事だった時代 …味噌はそれぞれの家でつくるのが当たり前だった100年ほど前のことを私たちはどれだけ知っているのだろうか。私たちは、味噌や醤油は買う方が立派な家であるという転換が起こった世代の話をまだ聞くことができる。それは変化どころの騒ぎではなく革命ともいえるできごとである。たとえば雲南市の旧中野村ではおよそ60年前に起こったようだ(調査中)。
 他の日本の農村でもおよそ「買い味噌」は家の恥とされていたと、多くの民俗資料や文献で見ることができる。一家の食料を管理できない、基本的技術である味噌づくりに失敗した、つまりはどんなに貧窮していようと味噌の確保は当然のことであったということ。
 もっとも、味噌が買えるようになった時代になってはじめて「恥」となったわけだし、実際「買う」場合もあったからのことだろうから、比較的短い時代の間の価値観なのかもしれない。

●三年味噌の本来の価値〜おから味噌の方向を探る
 
ここで想像してみたいのは、味噌づくりに必要な計画性というものだろう。各家庭で1年に使う味噌の量は、多少の変動はあるにせよ一定だったろうし、前の年につくった量と同じだけを仕込めばよいともいえ、そこに計算や計画が入り込む余地は少ないようにも思える。
 が、しかし、それは味噌の原料である豆や麦や麹や塩がいつも必要なだけ入手できる現代に生きていればこその想像なのだ。
 ところで、三年味噌とは、いまでは3年間じっくり熟成発酵させてつくられ、2年3年と歳を重ねることで、深みのある芳旨味とコクが生まれる、上等なもの高級なものとして喧伝されている。が、元々の語義としては、三年味噌を食べるように心がけるべきで若い味噌には手をつけないことから使われるものだ。すなわち「古い味噌」の代名詞だった。
 昔から飢饉は3年続くものだった。それを乗り越えて存続するためには、3年の食料備蓄が必要最低限の備えとして戒められていたのだ。味噌・塩・穀類のストックはつねに2〜3年ぶんを保持してはじめて「一家」といえた。
 麦の糠や籾も混じったものも味噌(ぬかみそ)にしたように、熟成が籾屑の分解(とまではいかないまでも食感を柔軟にはしたのでは)をすすめ、食べやすいものにもしただろう。
 おから味噌づくりのレシピをみると豆乳をいれるものが多いのだが、豆腐づくりの場にいるものとしては、それは本末転倒というか、なんでーと思うのだ。分離したものをなんでいっしょにするかというと、それって作り手の手間をはぶいているだけじゃないかと思う。そこまでお手軽にしていいのかと、罪悪感すら感じてしまう。
 だから、豆乳はいれない。それが自然だと思う。
 おからだけの味噌だと、微量ミネラル等に欠け、風味は落ちるかもしれない。味噌汁ではなくなめ味噌、あるいは糠味噌のような使い方がよいのではなかろうか。あるいは雑穀を精白・選別する際に出てしまう籾屑をまぜてみるか。
 まあ、そんなことを考えてみた。
(つづく)
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【参考】 高取正男,昭和51「生活学事始め」(『高取正男著作集4・生活学のすすめ』法蔵館所収)

かち栗飯が美味しかった

 1月8日は、カフェ・オリゼのお手伝い。木次チェリヴァホールで開催の演劇カーニバル&マルシェカーニバルへの出店をサポートしました。

 そのマルシェでお隣だった金山要害山保存会が出しておられたのが、戦さ勝ち栗飯。

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 これが美味しかったのであります。

 まずはこの竹皮がただものではない感があります。まさか自分たちのところで採って乾燥させてのばして、、、という皮じゃないでしょうね。それを確かめたかったのですが、気がついたら撤収されていました。さすが戦上手。

 竹皮についていえば、これ、マダケだとは思うのですが、皮が大きい。これほどのマダケの皮がまだとれるのでしょうか。手入れされた竹林でないと、これはないだろうというほどの上物です。あるいはこれだけ東アジアのどこかからの輸入物なのか。結んだ竹皮のひももいかしています。イラストもデザインも自分たちでつくったものだというアイデンティティを伝えてくれます。外面と中身が乖離したデザインが跋扈する中にあっては、信頼感・安心感があります。

 そして、なにより中身なのであります。これがよかった。

 なんといってもうまい。

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 人工甘味、旨味の類いがありません。塩が必要最低限。栗のほのかなうまみとおこわのおいしさで十分。色づけに使われている黒米のコクのようなものさえ感じられます(気のせいかもしれないが)。よかったよかった。また食べたい。そう思える久々の”新”郷土食でした。

 そう、郷土食ではないのです。新郷土食。要害山保存会らしい戦にちなんだ何かを編み出すべく、自分たちで考えてつくったのだという気概が感じられます。だから「新」。しかるに、この新こそが真の意味でも郷土性をつくりあげていく可能性をもっているのです、今の世にあっては。

 惜しむらくは、この栗、かちぐりではありません。

 勝ち栗とは元来、搗ち栗(かちぐり)をもじったものですが、私がおいしいさに感激しながら、食べたのはふつうの栗でした。冷凍保存されたものを使っておられるのだと思います。

 が、そういう私、かちぐりを食べたことはない!のです。すみません。

 かちぐりとは。。。。

 ひとことでいえば、干した栗です。干して搗いて、殻・甘皮をむいた栗のことを搗ち栗と呼ぶことは和漢三才図会にもあります。そしてこの干して熱を加えて皮をむいて保存するという方法は、古来・縄文時代から数千年にわたって、日本に住む人々が栗を食べてきた歴史とともにあったものです。

 保存・携行性にすぐれ、乾し飯とともに、かじってよし、水にひたして食べてもよし、炊飯してもよしという優れものでしたので、武士団にもよく採用され、また「勝ち」と「搗ち」の同音から武運を呼ぶものとして重宝されたものなのでしょう。

 木次駅前の狼煙(のろし)あげは観るチャンスを逸しましたが、なにかの折にまた、このかち栗飯を食べてみたいですし、搗ち栗を使った勝ち栗飯をつくれるように精進していきましょうぞ。

 

 

 

平成30年1月4日8時38分の風景

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仕事はじめの日だった。
人の世には始まりがあり、草木虫魚にはそれがない。しかし彼らには永遠があるのかもしれない。
どちらがよいとも思わぬ。人は人として人の世を生きるのみ。
人が人としてやらねばならぬことの筆頭には仕事というものがある。
1月7日の今日から、車輪がまわるようにその「仕事」がはじまっている。
朝食の後、そういえば、今年の目標をかわしてなかったね、と妻に問うた。
1分ほどでお互いの一文字を決めた。
私の今年の目標。

昨日、益田市のグラントアで開催中のエドワード・ゴーリー展を観て、記憶に残った展示がこれだった(リンク先はamazonで購入できるその書籍)。

THE POINTLESS BOOK: Or, Nature and Art.

「無意味な本 あるいは自然と芸術」
意味によって覆い尽くされようとしている世界。その源たる書物というものに無の点を打つこと。無がひらくものに期待しよう。

摘み草の記憶〜#001

 野山のものを採取し食す。この行為を促すマインドセット※1は、食文化・食習慣の変容にさらされてなお、その原基のようなものを保持するのではないか。そう推するに足るいくつかの出来事があったので、まとまりなくも綴ってみる。
 かめんがら(cf.2016年のガマズミ)について、子どもの頃にはよく山で取って食べていたと、いま60代の方々から聞くことがあった。ここでいう「子どもの頃」という時代を、現在65歳の人が10歳だった頃とすると、昭和38年(1963年)のことだ。
 昭和38年といえば、東京オリンピックの前年である。農村には牛に代わり、トラクターをはじめとした機械が入り、トラック輸送が食品流通をかえ、日清のチキンラーメンをはじめとした食のインスタント化が進行していた。「鉄腕アトム」の放映がはじまった年でもある。ちなみに当時にあっては原子力は未来の夢のエネルギーと見られており、資本主義を打倒し民衆を解放するものとして共産主義が推するものでもあった。  この時代、家庭で味噌をつくることが「恥ずかしい」「遅れた」ことだと見られる地域もあった。味噌や醤油は「買う」ことが進歩的だと。
 小さな経済循環を解体し大きな経済循環のなかで、社会を再形成することが「是」とされた時代である。「こんにちは赤ちゃん」がヒットしていた。ベビーブームの谷間の世代でもある。

日本の出生数と出生率1900-2010.jpg
By Mc681投稿者自身による作品, CC 表示-継承 4.0, Link

この項、つづく(のちに加筆)。
●2017年12月の年の瀬に、とある40代女性の会話の渦にちょっと驚いたことについて。 「今の子達でも、〇〇の実をとって食べたりするから、びっくりしたのよ。いつ覚えたんだろうと」 「へえ。そうなんだ。私たちが子どものころは、△△はよくとって食べたよね〜」 「あぁ、□□は吸うと美味しかったわ〜」
 そうした行動や嗜好が発動するのは10歳前後であって、長じるに従って失せていく。ただ、いずれは消えてなくなるかもしれない。なにより、消そう消そうとする力は強く作用しているのだから。
 ここで注目したいのは3つのことである。
1.民俗文化の断片が子どもたちの「遊び」の中に残存するということ……柳田國男が「小さき者の声」で言及していたように、それらは大きな変形を起こしながらも残る。柳田はそれを「大人の行為を真似する」ということに因を求めているが、《模倣》ではない何かがそうさせるのだと考えると、ひとつの理がそこに見いだせる。
2.採集草木の利用が社会の中で失せても、子どもの「おやつ」「遊び」の中に残存するということ……よくわからない。あえて予断をはっきりさせることで、自らの認知に注意を促そう。たとえばガマズミの実を子どもが取って食べるのは、おやつとしてであって、大型の果樹の品種導入などによって食用としての利用が駆逐されていった後でも残るのだと。
3.子どもは大人よりはるかに非合理の世界に生きているということ… 子どもは「感覚の世界(養老孟司)」で生きている。子どもの存在そのものの価値を近代社会は否定しつづける。老人の存在も同様。
 こうしたことを念頭におきながら、いま40代の母にあたる人たちに残る「摘み草」の記憶をたどってみようと思う。時代でいえば、今から30年〜40年ほど前、1970年〜80年代である。
島根県雲南市在住・Aさんの言
 島根県川本町で生まれ育ち、小学生の頃に同県頓原へ移住。母は昭和20年生まれ。道の草をとって、こうやって食べるのだと教えられたり、むかごの取り方などを教わった。が、本人は山菜とりなどにあまり興味はない。
〇母のこと
・母は9人兄弟の下から2番目。上の人たちが働きに出るため、10歳頃からご飯をつくる炊事の係をしていた。まわりの人たちから、食べるものについていろんなことを教わった。
・山菜採りが好きだった。春が来るとうれしかったようだ。春になると、車にのせて連れて行ってといわれ、よく出かけた。車を運転していると、ずーっと外を見ていて、「あ、とめて」と言っては、草をとってきていた。
〇教えてもらった草のこと
・道ばたにあったイネ科っぽい、シューっとした葉がある。茎を折るようにしてしゅーっと引き抜くと白い綿みたいなものが出てきて、食べられるということを教えられた。
・味は覚えていない。おいしいとは思わなかったが、まずいとも思わなかった。
〇注:上記の草はおそらくチガヤであろう

※1私たちの脳と心はいまだに、定住農耕よりも、狩猟採集生活への適応をいまだ強く保持している。俗説のようにきこえるが、進化心理学の定見でもある(らしい)。

畑もちを搗く〜その2

 12月28日。働きに出ている豆腐屋さんで年取りの畑もちを搗いた。

 畑もちを搗く〜その1であれこれと思案したが、成り行きの末、以下のレシピとなった。

◆材料

・もち米1升……精白したものを購入

・もちアワ0.5合……焼畑2016年産。精白後、水に浸すこと2日。

・タカキビ1合強……焼畑2017年算。皮むきをミキサーで行い、3割程度が挽き割りとなったものを風選。さらに水選したものを5日ほど水に浸したもの。水換え3〜4回。とくに最初の数日は半日で換えるくらいがよいのだと思った。

※アマランサスとヒエは今回、入れなかった。それでよいと思う。もち米とタカキビだけでよいのではとも思う。もちアワをふやすのであれば、タカキビを減らしてもいい。挽き割りの度合いはもう少し増えてもいいのでは。

合計1升2合程度

◆手順

1. 蒸す水(熱湯)を用意する。今回は餅つき機を使った。杵で搗く場合、こねの工程に時間をかけないと、雑穀が飛び散る。

 蒸す機械にもよるのだろうが、もち米100%の水の量と同じにした。

2. 蒸し器(今回は餅つき機)の下からもち米8割、その上にタカキビその上からモチアワをのせ、もち米2割ぶんをのせる。

3. 蒸す。(機械まかせ)

4. 搗く・こねる。(機械まかせ)

5. 搗きあがったらすぐに丸餅にして保存。

 搗きたての餅を味見がてらほおぼったが、想像を超える美味しさ! 来年はもっとたくさん搗きたい。ほんのりピンクがかった色であり、白いもちをあわせて紅白にもみえるので、よいのではなかろうか。

 このレシピ(雑穀の配分)は、結果としては匹見(島根県益田市)のたかきびもちに近い。

 『聞き書島根の食事』に、たかきびもちとしてこうあるものだ。

《精白したタカキビを二、三割、もち米と一緒に蒸してもちを搗く。たかきびのつぶつぶと香ばしさは、また変わったもちの味である》

 匹見といえば、とち餅が有名であり、栃の実の味わいに対する嗜好が、ここにひいたタカキビモチにも表れているのではなかろうか。つぶのまま搗くということ、そして材料としてはもち米があくまで主ということ。他の山間地域で大正後半から昭和はじめにつくられていたタカキビモチが、粉にひいたり、あるいはいったん搗き潰したものを加えたりするのとは違う。

 過疎地の典型のようにいわれるが、このタカキビモチからうかがえるのは、もち米をふんだんに使えるような産業の進展が大正期の匹見にあったのだと推し量れる。

 モチのねばりは、いまでこそ、もち米を使って簡易に得られるわけだが、かつて、タカキビだけからもねばりを得ようとしたその苦労を思うと気が遠くなる。

 さて、食し方としてはシンプルな雑煮があいそうな気もするし、焼き餅も捨てがたいと思われるが、それについては、次回。

 

ホトホトと餅とダイシコの関係〜その2

 年の瀬に畑もちを搗くことと、正月のもちを考えることは、並行している。

 なぜ人は正月に餅を食べるのかということだ。

 つい数日前に、ホトホトと餅とダイシコの関係といってみているものの、関係を説いてはいない。関係とはほどとおく連想のかけらみたいなものしかない。さて、どうしたものか。

 きょうは年賀状に添える短文をのせつつ、雑想として記したい。

【クマゴ雑想】

 失われた穀物、クマゴを追いかけて二年。どこかで散見した資料に、熊子(クマゴ)とは広く雑穀でアワの代わりに用いたものを呼んだとあったのだが、典拠を失念し思い出せない。供物としての粟、その代理たる穀物の総称ということだ。邑智では神に供える米を「くましろ」といい、和名類聚抄には「神稲 久末之呂」とある。

 年取りの餅を搗く前に、乞食の古態を思った。食を乞うものへ正月、餅を差し出す民俗には、クマゴに通じるものがある。食べることをわかちあうことの尊さを、せめて小さなところから確かなものとしていきたい。

 柳田國男『食物と心臓』を百回読めば、もう少しうまく記せると思う。

 そう自分にいいわけしつつ、いくつかの引用をお許しいただきたい。

「モノモラヒの話」〜

《只の憫みを乞う窮民以外に、正月の始めにどこからとも知れず、春田打ちなどの祝言を唱えて、米や餅を受けてあるく者も貰い人であった。(中略)此点は美作備中等の正月のコトコト、奥州仙台付近のチャセンゴ等、全国にわたって例の多い風習であって、(中略) 出雲能義郡でも旧十月の亥子の夜、むこ神さまという神を祭るのに、米を多家から貰ってあるき、それで小豆飯を炊いて供え、又自分たちも食べる(広瀬町誌)》

「身の上餅のことなど」〜

《餅の私有が他の多くの食物とちがって、現実消費の時よりも可なり久しい前から、開始せられ得たということが、是をめでたいものとした原因の一つではなかったろうか。少なくとも今日もなほ活きて行われているモツという二つの動詞が、この餅という日本語と関連のあることだけは想像してもよくはないか。単なる祝いの日の共同の食物としてでなく、是が神様先祖様は申すに及ばず、二親  を初め、特に敬意を捧ぐべき人々の前にそえられ、正月になると囲炉裏の鈎、臼鉈苧桶鍬鎌その他の農具から、牛馬犬猫鼠にまでそれぞれの餅を供え、大小精粗の差こそあれ、門に来て立つ物もらいにまで、与うべき餅が用意せられてあったといふことは、大げさな語でいえば、人格の承認、即ち彼らもまた活き且つ養われなければならぬといふ法則の徹底だと云いうる》