活動状況です。
7月1日(土)には1名で14時〜16時に草刈り。2日(日)には10時〜15時30分まで10人が火入れ地観察と打合せを行いました。
以下は7月1日(土)の状況です。
◉発芽成育状況その1(2017春焼地)
ホンリーはぐんぐんとのびています。
モチアワもようやく出揃った感あり。ここから追い込めるか。間引きはほとんど施していませ。再生竹の除去のみ。目下のところ他の草の発生もないです。風の強さに倒伏気味ですね、栽培種ならではか。
ヒエとタカキビですが、牛にくわれながらも、総体としては生長中。共存共生の道をいかに築くかの試金石でもあります。まず入ってくる牛の個体数が少ないという状況下なので、あくまで試金石ですが。
モチアワのこぼれ種がおのればえしています。草を刈ると他の草の下から出てきます。大変興味深い。(雑草には負けているが、発芽して生長もできている)。
投稿者: omojiro
宇沢弘文「社会的共通資本」を読みながら
明日、私たちがまだ知らない世の中のしくみ〜『社会的共通資本』(本の話#0007)を開くにあたって、どういうふうにのぞんだものかとあぐねていた。
3つの文をあげて、考えてみている。
小島寛之《いつも先生は、温かい励ましの言葉をくださった。塾の先生であろうと、何であろうと、「良い仕事をする」ということでは、貴賤はない、君は君の居場所でとにかく良い仕事を目指すべきだ、そんなふうに鼓舞してくださっているように思えた。》〜宇沢弘文先生は、今でも、ぼくにとってのたった一人の「本物の経済学者」
宇沢弘文《むかし、あるところに一人のラビ(ユダヤ教の教師)がいた。Aという人が相談にきたところ、ラビはお前のいうことはもっともだといった。つぎに、Aと争っているBという人がやってきたが、ラビはBに対してもお前のいうことはもっともだといったわけである。この経緯を傍で聞いていたラビの奥さんはいった。あなたはAに対しても、Bに対してもお前のいうことはもっともだといった。ところが、AとBとは争っているわけで、あなたのいうことはまったくおかしい。そこでラビは奥さんに向かっていった。お前のいうことはもっともだ」》〜『「成田」とは何か』岩波新書

岩井克人《それ以降の活躍はまばゆいばかりです。渡米の契機となった数理計画法の研究は58年にアロー氏らと出版した「線形及び非線形計画法研究」という論文集に結実します。当初は社会主義経済の分権化の研究でしたが、そのための数学的手法を開発する中で、数理計画法という新たな分野を作ってしまったのです。
その後、消費者の顕示選好理論の一般化に成功したほか、一般均衡理論の存在証明や安定性 の条件についての研究を立て続けに発表し、数理経済学研究の最先端に立つことになります。
宇沢先生の名前を広く経済学界に知らしめたのは、62年の「宇沢の2部門成長モデル」です。56年にロバート・ソロー氏とトレバー・スワン氏が発表した新古典派成長モデルは、経済成長経路の不安定性を主張したハロッド=ドーマー理論に対し、均衡理論を使って、完全雇用と両立し長期的にも安定的な成長経路を描くことに成功しました。
ソロー=スワン理論で中心的な役割を果たすのが集計的生産関数ですが、宇沢先生の2部門 モデルは消費財と投資財を区別することで生産関数を一般化し、新古典派成長理論の応用可能性を拡大したのです。同時に、新古典派の枠組みでも経済成長が不安定的である可能性も示しました。
その後、チャリング・クープマンス氏やデビッド・キャス氏とともに、規範的な立場から経済成長を分析する「最適成長理論」を開拓します。技術進歩率を人的資本の蓄積によって説明す る論文も発表し、後の「内生的成長論」の先鞭をつけています。
宇沢先生はこうした業績によって、36歳で米シカゴ大学の教授となりました。積極的に若手を中心とした研究会も開き、ジョセフ・スティグリッツ(米コロンビア大学教授)、ジョー ジ・アカロフ(米カリフォルニア大学教授)、ロバート・ルーカス(シカゴ大教授)、青木昌彦(スタンフォード大名誉教授)、早世したミゲル・シドラウスキーの各氏ら、多くの重要な経済学者を育てています。
ただ、それまでの宇沢先生の仕事はすべて新古典派の枠組みの中です。新古典派は基本的に自由放任思想に理論的基礎を与える経済学にほかなりません。そしてシカゴ大はミルトン・フリードマン氏を主導者とする自由放任思想の牙城なのです。先生はその思想を受け入れられず、 ベトナム戦争に対する反対運動が世界的に広がる中で68年に東大の経済学部に移られました。》
《私は酒場のアルコールの匂いの中で、世界最先端の数理経済学者として仰ぎ見ていた宇沢先生 の「心」が、それとは別のところにあることを知りました。事実、先生は日本に戻る前から新古典派に批判的な英ケンブリッジ大学のジョーン・ロビンソン氏らと親交を深め、その影響の下に「ペンローズ効果」に関する論文を69年に発表します。
企業内の経営資源の大きさが企業成長を制約することを示したエディス・ペンローズ氏の「会社成長理論」を基礎に、ケインズ経済学的な投資理論を初めて数学化した論文です。先生の仕事の中で最も優れたものだと思います。
宇沢先生は新古典派経済学からの脱却を試みていたのです。しかし、先生の分析手法は基本的に新古典派の枠組みを出ることはありません。先生は自らの分析手法と、正義感に基づく自由放任主義批判――冷徹な頭脳と暖かい心――の間のギャップに長らく葛藤していたのだと思います。その葛藤の切れ切れを、私は酒場でのお話の中から漏れ聞いたのです。
私はその後、米国に留学してしまいますが、先生が反公害や反成田空港の運動に積極的に関わり始めたことは人づてに聞いていました。74年のある日、友人から岩波新書が送られてきました。先生の「自動車の社会的費用」でした。
自動車が市民生活に与えるコストは1台200万円という衝撃的な数字が提示されていますが、基本的には先生の「暖かい心」の力で書かれた本です。それは人びとの「心」を動かし、 大ベストセラーとなりました。日本が曲がりなりにも公害対策の先進国になったのは、この新書によるところが大きいはずです。
私も81年に日本に戻り、再び先生のお話を酒場で聞くようになりました。一番知りたかったのは、「暖かい心」と葛藤していたはずの「冷徹な頭脳」がどうなったかです。そして、先生が70年代の後半から「社会的共通資本」に関する研究に取り組まれていることを知ります。》
だが、その内容を聞いていささか失望します。社会的共通資本とは、自然環境やインフラや社会制度の総称でしかない。ストックとしての公共財と言い換えてもよい。それが私有財産制の下では乱用されるか過小供給になることは、新古典派経済学でもよく知られた事実です。すでにその頃から社会主義体制には資本主義以上の矛盾があることは常識になり始めていました。社会主義に陥らずにいかに社会的共通資本を維持し発展させていくかに関して、先生自身、理論的な解答を見いだせていなかったのです。
ただ、私はすぐに、先生自身も社会的共通資本という概念自体には新しさがないことを百も承知であることを知ります。先生は学界の中での認知ではなく、市民をいかに動かすかという 社会的な実践を選び取っていたのです。「冷徹な頭脳」を「暖かい心」に仕えさせることにし たのです。晩年の先生が経済学の中に「人間の心」を持ち込むことを提唱し始めたのは、その自然な帰結であったのです。》
「冷徹な頭脳」より「暖かい心」 2014/9/29付 日本経済新聞 朝刊
チョウもバッタもイカだって
一昨日のこと、庭の草むしりをしていたら、小さなバッタと出くわした。久しぶりのことだった。1年前に山で見た記憶があるようなないような、そんなものだ。「あれ?いたのか」がそのときの感であるのなら、今回は「おぉ、いたのか」という、わかりやすくいえば「うれしさ」があった。
バッタなぞ、子どもの頃はあふれるほど草むらにはいたものだ。
感傷ではない。実利にもとづくうれしさでもある。
裏の畑の土がそこそこよくなってきたので、キャベツを植えてみようかと思い、そういえば3年前に苗をおいたらぜんぶ食われていたなあと。あれはモンシロチョウだったのだろうか。モンシロチョウの幼虫はバッタがいればけっこう食べてくれるということを聞いた。わかりやすくいえばバッタは益虫だと知ったわけだ。益虫だから認識を変えたわけではない。バッタについての知識がひとつ加わったこと。それもある。あるのだが、そのバッタ一般と目の前に現れたバッタとはまた違うものであるように感じた。それがなんなのか。いま、いろいろと考えている。
ともかくも、お前、がんばれよ、と声をかけておいた。
さて。
クロマグロもニホンウナギもいつのまにやら希少な生物となりにけり。今年はスルメイカもぱったり店頭に出てこない。日本海側(山陰)にはまわってこないのだろうか。ざっとググってみれば、「スルメイカが採れない 漁獲6割減 価格は2倍に」との記事によると、もともと山陰では秋から冬が旬ということか。
《1~2月にかけて東シナ海で生まれるスルメイカは、春から夏にかけて太平洋側を北上、秋以降は産卵のために日本海を南下する。》
大好きなウナギは、数年前から年に1〜2回食べるにとどめている。スルメイカもそうなってしまうのか、トホホ。自家製塩辛を楽しみに待つ妻のためにも、漁獲規制を望む。とりすぎなんよ。「妖精のためにとっておく」とは茸採りを終える決り文句であったか。そんな上品なものでなくても、「自分たちの利益のためにとっておく」ことすらできないのが、漁業という業界の難しさであるようだ。どうしたらいいのかという前に、消費者主権とやらを行使したつもりになりつつ、小さな記録をとることも、はじめてみようと思う。
庭にやってくるものたちの記録として。
今日はこのチョウ。
ベニシジミだと思う。
スイバやギシギシが食草。その手はたくさんはえてるし、ふえる傾向にもあるから当面は目にすることも多いでしょう。よろしくね。
JJの贈り物#002~地域とは問題が解決できなかった前回の地理的範囲より広い範囲のこと
4年ばかり前のこと。島根県の邑南町へグリーンツーリズム研修で訪問したときに、こう言われたことが宿題のようにして耳に残っている。
「雲南市。(われわれとは)レベルが違いますね(笑)。なんでもできるでしょう(から、われわれのことが参考になるかどうかはわかりませんが)」
規模の大小が活動の質量ともに左右する。そういうシステム(社会の仕組み)の中で私たちは生きているという認識は、規模が小さければ小さいほどにリアルだ。痛いほどにわかってしまう。そして、大きなものの中に生きるものは、しばしばそれを忘れる。邑南町で耳にすることになった件の言葉には確かに、「あなたたちにはわからないかもしれない。わかりますか」という皮肉とも裏メッセージともつかない何かがあった。
いやいや、雲南市だって十分に小さな自治体であるし、同じ課題を共有する仲間なんだよね、ということはその場にいた誰もが了解しているようでもあった。邑南町の件の発言者とて、そのうえで「痛み」を共有しようと試みたのかもしれない。わかってほしいということであったか。
この「痛み・辛さ」というものは、時間的な先送り、空間的な排除、人的な選別によって、「押しつけ」が可能である。わからない人にはまったくわからなくなるものだ。たとえ目の前にあっても。なぜ、そんなことを思い出したのは、JJの『アメリカ大都市の死と生』第22章にある、糸のタイトルにあげた字句を目にしたときからだ。
《範囲は広いほど、また人口は多いほど、どちらも神の視点から見て、まとまりのない複雑な問題として、もっと合理的かつ容易に扱えます。「地域とは問題が解決できなかった前回の地理的範囲より文句なしに広い範囲のこと」という皮肉な批評は、この意味では皮肉ではありません。……(中略)……でも都市計画がこのように、取り組む問題の性質そのものについて根深い誤解に陥ってきた一方で、この誤りを負わされることなく非常に早く進歩しつつある生命科学は、都市計画に必要な概念の一部を提供してきました。》
JJがいう、都市計画に必要な、生命科学の概念と手法とはなんだろう。明示されてはいないが、手法については、#001であげた、プロセスを考えること、帰納的に考えることなどがそう。
そして重要なのは、《都市で起こるプロセスは、専門家だけが理解できる難解なものではありません。ほとんどだれにでも理解できます。一般人の多くはすでに理解しています。ただこれらのプロセスに名前をつけていないか、こういった原因と結果の普通の取り合わせを理解すればそれに方向づけできるということを考えたことがないだけです》という、一般人と専門家の「違い」である。
都市計画を実質的に左右している官僚機構は、一般人でも専門家でもなく、そのBridgeたるべき存在である(べき)なのだが、まったくそうなっていないのはなぜか。一般人の思考回路をもたず(よって理解できず)、専門家の思考回路や概念すら理解しえないところだと私は考える。後者については個人にもよるが、前者については病理ともいえるもので、超えがたいものがある。
…つづく。
「いまの日本酒は技術力」という言葉の意味
人がものをつくる過程において、さまざまな制約が、つくる人にのしかかる。時間、空間、材料、天候、などなど。時代によってそれらの比重は変化するが、本質は変わらない。制約要素そのものの数は計量可能であり、書籍の目次のように列挙はできる。だが、組み合わせは無限ともいえるほど存在し、少なくとも人間ひとりの処理能力の限界を超えている。だからこそ究極において「勘」による決定が、つくるものの質を左右するのだ。
勘と経験が混同されるようになった。いや経験という言葉の意味が変質したのだろう。経験値、経験知といわれるように、それは計量可能なものとしていまや多くの人が認識している。経験は「積む」ことで蓄積されるのだと。あるいは体験という言葉もそうであって、○○体験なるものが泡のように世間に溢れ出している。
よしあしでもなく、憂えているわけでもない。
そうした世の趨勢にあって、「ものそのもの」に向かう職から受ける示唆を大事にしたいなと思った土日の2日間であった。
また加筆したい。酒蔵で杜氏の話を伺う機会をへて、考えたこと、考えてみたいことについて。
自然農=混作はきたなく見えるのか
「草だか野菜だかわからんし、きたない。どれだけとれるかもわかったもんじゃない」
自然農へ向けられた苦言である。ただ誤解なきよう、これ直接面と向かって言われてるんだが、全然いやな気にならんのです。なぜだろう。発言者が農業を正面きってやってる人だからだろうと思う。こうして言語だけで記すとひどい発言に感じてしまうんのだけれど。
さて、ひとつ前の投稿で「混作」へチャレンジするのだと書いたのだが、今日たまたま開いた、飯沼二郎,1980『日本の古代農業革命』にも同様の”混作きたない”をみて、なぜだろう、なんだろうと不思議な思いにとらわれたので、備忘として記す。すなわち飯沼はこう言う。
《このことは、東南アジアの農業の性質を考えるうえに重要である。東南アジアの農業、とくに畑作の一次的性格としてのミックス・ファーミングともいうべき間作、混作をまぜあわせたような形態(中尾氏も上述のように根菜農耕文化の一特徴としてあげている)が潜在的に存在していた。それはこんにちの焼畑のなかにのみ残存するのではなく、平地の畑にも残っている。……(略)……タイのサンパトンやビルマのインレー湖周辺の農村では、畑にいろいろの作物が雑然とつくられているようで、みためにはきたないが、その技術には伝来の習熟性がかんじられる。》
対して、混作を「美しい」とは言わないが、ある感動をもって書き残しているのが六車由実である。2004『東北学』Vol.10中にある。
《たとえば、昨年の秋に、ラオス北部、ルアンパバンの周辺で目の当たりにした焼畑の光景は、私たちの想像をはるかに超えて豊かで感動的だった。ここでは平地には雄大な水田が広がっているが、そのすぐ先にある山では焼畑が拓かれ、陸稲だけでも10種類近くの稲が育てられ、隙間にはハトムギ、バナナ、ウリ、キャッサバ、トウモロコシ、ゴマ、オクラ、サトイモなどさまざまな作物が混植されている》
うむ。その東南アジアの混作をまだ目にしたことがなく、これ以上の言を控え、加筆できるだけの材料をそろえていきたい。
竹の焼畑2017~sec.11
雨が足りない日が続いています。灌水設備をもつ野菜農家からも悲鳴がきこえてくる今日このごろですが、われらが山畑はいかに。
どうしたもんじゃろのお。これでは「人口減少局面における中山間地の新たな土地管理手法開発」などと、言えた口ではありません。が、しょんぼりしてる場合ではないのです。いま、かんがえはじめているのは、「焼かなくてもいいじゃね」的方法。
「焼く」ことに注力するあまり、ちょっと他に目が向きずらいという面もあるしですね。混作。これを試してみたい。
草との共存、いっそ、牛との共存です。
牛にくわれてもいいような、そんな農ができたらおもしろいなあ。
さて、本題です。
6月23日(金)焼畑地状況
◉発芽成育状況その1(2017春焼地)
・ホンリー…前週の2倍ほどには成長しています。育ちざかり。
・タカキビ…牛に食われたところは、まちがって密になっていたところです。パラパラとばらけていると食べられにくいのだということですね。
・モチアワ…ようやく伸びてきました。発芽率は悪いです。計算してませんが、2〜5%くらいか。
・ヒエ…半分くらいは牛に食われました。トホホ。回復してくれればよいのですが。
・サツマイモとツルアズキは草に覆われており、確認を断念(すみません、最後に見たので疲労でちら見くらいしかできず)。
◉発芽成育状況その2(2016夏焼跡地)
・アマランサス…やっと。やっと。遠くからでも視認できるほどに生長してきました。カブ跡地にまいたものは、牛に食われる覚悟で放置していたのですが、どうやらまだ食われてません。いつ味をおぼえるか、それが問題。そうなるまえに背丈を伸ばしてくれれればいいのですが。
・モチアワ……中山エリアには松本在来をまいてますが、発芽率わるし。覆土の問題なのか、土の問題なのか、種の問題なのか、旱の問題なのか。考えすぎるのもいかんので、思い切って昨年とった岩手在来の種を適当にえいやっと方方にまきちらしました。どうなりますか。
・タカキビ……林原在来を10m一列ぶんほどまいて、あとは50粒程度を、これまたえいやっとほうぼうに放り投げました。
◉その他
春焼地の再生竹がいきおいをましております。畑地部分と周辺部で目立つものは刈り取りました。アマランサス、モチアワ、タカキビ、それぞれ最後の播種。数日以内で発芽すればなんとか収穫までいけるかもしらん。来週から大豆、ツルアズキ、土用豆をまきはじめます。
この日の実質作業時間3時間×1名。
おまけの1枚は100年(千年?)の森づくりをうたう山を削った斜面。どうなるんかハラハラしてしょうがない。昨年から地面の草類、落葉はすべて撤去する管理に移行したようで、はやくも急斜面の土壌流亡がめだってきた。芝の類でも植える計画なのだろうか。浅学ゆえ余計な心配が先にたつ。新たな自然管理手法と思われ、どなたがご教示いただければ幸い。
JJ(ジェイン・ジェイコブズ)の贈り物#001〜序
Jane Jacobs,1961″The Death and Life of Greate American Cities,『アメリカ大都市の死と生』山形浩生訳(鹿島出版会)。この本を読む資格を手にしているような気がする。読めなかったものが読めるようになっている。島根県吉賀町に引っ越してくる直前に買ったはずの本。帯の惹句にはこうある。「近代都市計画への強烈な批判、都市の多様性の魅力、都市とは明らかに複雑に結びついている有機体」。ジェイン・ジェイコブズ(以下JJ)を紹介する際に、この中の前ふたつでもってなされることが多い。わかりやすいしね。「都市計画への批判」「都市の多様性の魅力」この2つだけをとれば、JJを読まなくても、なにがしかの紹介文や解説を読んで、それらしくわかったようにはなれる。私の理解だって、それらとさほど変わりはしなかっただろう、これまでは。
読み解くのは、惹句の中の3番目、「複雑に結びついている有機体である」。この言があらわそうとしている『アメリカ大都市の死と生』の可能性をあきらかにしていきたい。それは、有機体、すなわち生命とは何か、どうとらえるべきものなのか、ということでもある。
22章 都市とはどういう種類の問題か から引用しよう。
《生命科学では、特別な要素か量ーたとえば酵素ーを特定し、その複雑な関係と、他の要素や量との相互関連を苦労して学ぶことによって組織だった複雑性を扱っています。……中略……原理的には、これらは都市を理解して助けるのに用いられる方策とほぼ同じです》
JJののちの著作『経済の本質-自然から学ぶ』では経済を生命現象としてとらえようとしている、その萌芽とみることもできよう。だが、この見方は補助線であって、JJが繰り返し主張する帰納的方法とは軌を異にするものだ。
肝要にすえるべきものは、JJが「ここまで本書を読んできた方なら、これらの方策をあまり説明する必要はない」としてあげている「都市の理解で最も重要な思考習慣」、すなわち次の3つである。
《・プロセスを考える
・一般から個別事象へ、ではなく個別事象から一般へと帰納的に考える
・ごく小さな量からくる「非平均的」なヒントを探して、それがもっと大きくてもっと「平均的」数量が機能する方法を明らかにしてくれないか考える》
どういうことだろう。それは、あと100回、このシリーズが続いたらば明らかになるであろうことだ、と思う。
以上。
コンクリート護岸で失われていくもの
ランドスケープデザイナー・廣瀬俊介の『風景資本論』を読んでいる。2011年(平成23年)の11月、すなわち3.11の年に刊行されたものだ。3〜5年ほど前に書店で手に取って贖ったような気がする。大阪だったか東京であったか。そしてしばらくは、カフェ・オリゼの書棚のしかも目立つところにありながら、じっくり時間と腰をすえて読んだことは、これまで、なかった。何度も噛みしめるように読んでいた白井隆,2004『庭の旅』(TOTO出版)の隣に並んでいたのだから、背の「風景資本論」という言葉とその存在だけの痕跡が記憶の中にとどまり続けていた。きょう、その書を手にとり机の横においたのは、いま進めている”ビレッジ”のプランで、いかに風土設計を取り入れるかに腐心しているからに他ならない。デザインを職とはしていない私がデザインをしなければならないところに追い込まれているからこその「腐心」、「苦心」であるのだが、それは理不尽なことではない。廣瀬が本書の中でいうように、デザインの本義は職能ではない。
《「design」は本来、日本で誤解されているようにあるもののかたちを作品的または商業的につくる仕事ではない。あるもののあり方を考えるところから、そのあり方に則したかたちを成すまでの仕事が、本当の「デザイン」にあたる。》
別な言い方をすれば、デザインとは、コピー&ペーストができるものや参照するもの(今どきそれらを「アイデア」と呼ぶことが多いようである)ではないということだ。商業デザインのそれはむしろ「複製」できることがその本質であるかのように、今日の日本では、見える。みながそう感じ、とらえ、考えているように、思えるのだ。
廣瀬の言からすれば、デザインは「あるもののあり方」を考えるところからはじまる。地域づくりやまちづくりにデザインの手法が多用されるようになってからは(山崎亮の功績は大きい、罪もあるにせよ)、馴染みあることだ。しかしながら、《資本の管理と充実は、資本の内容が確認できてはじめて行えます。しかし、日本各地で目ざされる「まちづくり」「地域おこし」には、自然科学、社会科学、人文学を基礎とした確かな「地域資源」の調査方法をもたず、当てずっぽうに行われている例が多い…。》
心あたりのある方も多かろう。ワークショップと呼ばれる方法は「やらないよりまし」という言い方もされるし、ひょうたんからコマが出るように、当てずっぽうでも、当たるものは当たるし、当たらなくても、やること自体に意義はあるともいえる。だが、そうした「流れ」が何をもたらすかということに、もっと自覚が向いてもよい時期にきていると思わないか。
それは「風景資本論」所収の一枚の写真とキャプションが語るものでもある。
台風23号の災害写真で、治水を目的としたコンクリート地盤が後背地盤からの吐水の不十分さからはがれ落ち、隣接する石垣は崩れていない、その対照を映し出したものだ。とても象徴的な図絵であって、たくさんのことが思い起こされる。私的個人的な連想として。
そのひとつが宮本常一著作集21巻「庶民の発見」に所収された、石工の話である。
以下、引用しつつ、ひとまずとじたい。整理がつかないので。
《田舎をあるいていて何でもない田の岸などに見事な石のつみ方をしてあるのを見ると、心をうたれることがある。こんなところに、この石垣をついた石工は、どんなつもりでこんなに心をこめた仕事をしたのだろうと思って見る。村の人以外には見てくれる人もないのに……」と。》
《「しかし石垣つみは仕事をやっていると、やはりいい仕事がしたくなる。二度とくずれないような……。そしてそのことだけ考える。つきあげてしまえばそれきりその土地とも縁はきれる。が、いい仕事をしておくとたのしい。あとから来たものが他の家の田の石垣をつくとき、やっぱり粗末なことはできないものである。まえに仕事に来たものがザツな仕事をしておくと、こちらもついザツな仕事をする。また親方どりの請負仕事なら経費の関係で手をぬくこともあるが、そんな工事をすると大雨の降ったときはくずれはせぬか夜もねむれぬことがある。やっぱりいい仕事をしておくのがいい。結局いい仕事をしておけば、それは自分ばかりでなく、あとから来るものもその気持をうけついでくれるものだ。」》
「そのあり方に則したかたちを成すまでの仕事」を、かつての石工たちは「行為」としては、ひとりあるいは数人でなしてきた。彼らこそ真の意味でのデザイナーであった。