天気予報に「夏日」「真夏日」の語が頻出する日が過ぎ、やや穏やか、とはいっても最高気温は30℃あたりまでは届くここ数日。明日は雨、しあさっても雨。どうやら梅雨入りということになるようだ。
梅雨。つゆ。rainy season。
写真は昨年の令和5年、吉野にて。
スペルト小麦を収穫した。出来はよくないが、播種の遅れに由来するものと、元来よくない畝の土に由来するものとふたつ。あとにはアマランサスをまくつもりでいるが、
数日前から急に冷え込み、ストーブに火を入れた。つい2週間ほど前ではなかったか、扇風機を片付けたのは。裏の畑と庭を少しだけ手入れ。庭はナニワイバラの整理とバラに木酢液を噴霧した。およそ300〜500倍希釈にて。容量をはかるのに、スポイトではなく小さな容器があるとよいので明日調達の予定。ストウチュウ用の焼酎と穀物酢もあわせて。
畑ではタカキビの様子をみて何本かとった。干してあるアマランサスの穂がもういい具合。来週は脱穀作業を段取りしなければと思う。忙しいな。
一昨日色が濃くなっていた甘柿の実をひとつとり、昨日食べた。まだ渋みが芯にあったがうまかった。昨年よりよくなっていると思う。里芋はもう掘り上げてもよさそうだ。
小麦、大麦の播種準備を進めねばと。明日、木酢をまいておこう。畝間には米ぬかか。
ということを考えつつ、あれこれで、一日が終わった。
あれこれのひとつとして、調べ物。碧雲湖棹歌が少し心にしみた。碧雲湖とは宍道湖をさし、永坂石埭の詩が嫁ヶ島にある石碑に刻まれている。
美人不見碧雲飛 美人は 見ず 碧雲は飛ぶ
惆悵湖山入夕暉 惆悵す 湖山の 夕暉に入るに
一幅淞波誰剪取 一幅の 淞波 誰か剪取したる
春潮痕似嫁時衣 春潮 痕は似たり 嫁する時の衣に
読書中のもの。
†. 岩田重則,2006『「お墓」の誕生ー死者祭祀の民俗誌』岩波書店
雨後の夕陽が穏やかに部屋にさしこむ。車の通る音は乾いていて、今日という日の終わりを告げつつ、明日の支度を思い出させる。一日のはじまりが夜であった時代の気分とはこういうものであったろうか。
円卓には製本前のプリント。切れたインクは注文済みで明日には届く。
豪雨で避難の準備をしたのは木次に越してきてはじめてだったので、気がついたことを記しておく。
◆道路の冠水部は、ここがつかるだろうというところ。予想通りの理路から敷衍して、豪雨となったときに通行を避けるべき道と場所がより明確になった。新しい道は災害に弱いといえるのだが、それは本道ではなく、道を通す際にできる・できた・生じた支道、法面、側溝によるものであった。今回みた限りの局所的なものからいえることだが、おそらくかなり普遍的なものではなかろうか。
◆多くの個人の行動選択は合理的かつ計画にそったものである。団体組織も。あやういのは公的機関だなあ。あれは平時のものであって、非常時には弱いものなのだと再認識した。
◆用意しておくべきものとして雨具。応急のものでいい。短時間でもぐっしょり濡れてしまうことを忘れていた。相当に体力を奪われる。
子牛である。毎年、いまごろやってくる新入りさんである。例年より小さい、ということは若いのである。
ここは、育牛をしている放牧地。シロツメクサが旬というところだろうか。
道路を挟んで向かい側はホルスタイン種の放牧地であって、少しばかりみていると、そちらの成牛とは多少好みが違うようにもみえる。
ただ共通するのは、根本(までは)基本食べない。これは自然とそうなるようでいて、たとえばイネ科雑草のように背の高いものでも上から三分の一ほどだけを食べているようにみえる。木類の幼木、実生ならばくばくと、幹部残して全部食べ尽くす勢いなのに比して、何が違うのだろうと、その理を問いたくなるだが、まだたずねたことはない。
ともあれ、こうやって草をはむ姿をみているのは、私たちヒトにとって、いい時なのだ。
聞いたそのとき、いきいきとした像を結んだ話を、記しておく。断片はしだいに朽ちていく。1年以上まえの聞きかじりもある。
◉お弁当をもって美容院へ
木次のまちにある美容院へ、お弁当をもって一日がかりで行った記憶。いまでは車で15分ほどの距離だろうか。その記憶を語る人は、いま90歳をこえている。
よその町にすみ、ときおり訪ねてくる、木次のまち。その人のなかでは生き生きとまぶしいものとしてあるのではないか。よみがえるのではない、いまもあって、その人が語るたびに、現像されるものをおもう。
◉
菜を摘んで粥をつくろうと、一昨日の夜には、ざっとした算段すらしていたのに、すっかり忘れていた。いま、一月七日という日はおわろうとし、夜をまたいで八日になってしまうのだが、天気を予報する便りは、春の嵐が吹くのだと全国的に、そう伝えてきていて、まさかと思っていたらば、先ほど、そう時刻にして零時四〇分くらいに、突然ざざーっと吹いた。
かれこれ一時間か二時間ほど前、部屋を暖めるストーブが示す温度が20℃を超えていて、暑いくらいだと風邪で寝込んでいる妻がいうので、スイッチを切った。ふだんなら、寒くてやれんと思うのだが、一時間たっても、いやいや確かに生暖かいほどだ。冬のさなかだというのに。そう思っていた矢先のことだった。「春の嵐」が音をたててやってきたのは。
気温は朝方に向かって下がっていくようだが、嵐は続くようで、どんな天気になるのだろう。そんなこんなも、まずは寝てから。おやすみなさい。
ほんとは「とき」のことを書きたかったのだが、また。
主よその憐れみもて我が罪を拭い去り給え BWV1083
ペルゴレージの楽曲「スターバト・マーテルStabat mater」から編曲されたJ.S.バッハのモテット「主よその憐れみもて我が罪を拭い去り給え」BWV1083。
深夜まで聴きながら、J.J.ルソーを想う。
それはまた、北欧のみまわり小人トムティと日本のトシガミをつなぐ道を想像することでもある。
お互いに分け隔てられ、ひとりでいる状態を、人間の”自然”として位置づけたルソーの「ワタシ」から、大晦日の夜にトシをもらっていた日本の「ワタシ」へ至る道を、あるのかないのかわからないままに、ここなんじゃないかと進みはじめた夜の曲として。