春の火入れレポート

 6月9日の焼畑レポート(速報簡易版)をアップした。閲覧頒布はご自由に。

http://s-orochi.org/public/wp-content/uploads/2018/03/yakihata2018haruyakirepo.pdf

さて、関係各所に郵送したり直接届けたりしているなか、呼び止められて、話をうかがう。

《木は切り立てのものもよく燃える。油があるから。ちょっと置いたものより。山ひとつやったときにはそうしたものだ。庭木にするような木はとくに》

 これ、ほんとかなということと、一理あるかもなあということと。「今度やってみます」と半ばから返事でこたえたものの、確かに冬の時分、雪がうすくつもっている頃に、それやったことがある。伐採後6ヶ月はたった乾燥したものが半分、その上に当日伐採した竹をさらに倍ほども積んで燃やしたのだが、よく燃えた。きれいに炭と灰になった。

・油は燃えるというより、水分をはじいて材が吸水するのを防ぐことで、へたに乾燥するよりはよいのだろうか。

・切り立ての木の枝が燃えるとは思えず、樹種によるのだろう、竹などはそうか。

 やってみるのが一番。冬にいろいろ試せればいいなあ。

火入れの後、鍬を入れて腰を抜かしたこと

 6月9日に火を入れ、翌10日に播種やら苗の植え付けやらをやった。そして17日になり、サツマ芋の苗は枯れている。「枯れるの覚悟で植えるか」とは言っていたものの。火入れ後、地面に鍬を入れてみて、「なんじゃこりゃあ」と腰を抜かしたその意味はあまり理解されていなかったように思う。
 この土じゃあ無理です。条件がそろえばなんとかいけるかも、というところ。昨日は炎天下のなか、水をまくというので、アホかと。夕方以降に撒くのだということにしましたが、どうでしょうか。
 自分たちで、みて、かんがえて、きめて、やる、ことを促してきた「つもり」ですが、いかんですね、深く反省する時間を車を運転しながら、鍬をおろしながら持ちました。かくいう我も、陸稲の苗を「ダメかもしれないし、そうなるだろう前提」で、植え付けはじめたのですが、徒労感が先行し、ママゴトのような施業となりました。トホホ。保険のために、桁の斜面をキープしていたので、そこを急遽草刈りして、植え付けはじめたのですが、試しに鍬を入れた場所が幸運にもよかっただけで、砂利が多すぎ、難儀です。小一時間ほど格闘して断念。この斜面には、アマランサスを明日明後日にと決めて、別な手を思案しました。が、なにも思い浮かばない。あげくに、炎天下に放置した苗が収縮し黄色く変色しはじめる始末。
 そんなことがあった翌日ゆえ吉宗農園の投稿が新鮮でした。
 吉宗さん、農園見学について曰く。
「どんな方が来られてもすぐ仕事にしてもらえる洞察力と臨機応変に対応する知恵を身に付ける練習です。また、伝えることで自分自身理解を深める」と。
 来月再来月のどこかで見学を申し込もうとスケジュールをながめつつ、忘れぬようここに記しておくモノです。

ウバユリ、チガヤ、ハチク

 火入れから4年を経過した、通称「中山」では、植生のきわだった変化が見られる。
 今年(2018年)春の徴を忘れぬうちに書きとどめておく。

 写真にみえるウバユリ、これまで牧場地ではまったく見られなかったものだ。種がどこから運ばれてきたのか、休眠していたものが芽生えたのか……。通称”中山”のなかで古い通し道から1段あがったところにある。日陰で水のあるところに植生の適応があるはずの植物だから、なぜにここに?しかも単独でという?がつきまとう。来春また観察してみよう。

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・昨年目立ったミツマタはどこへ行ったのか、今年は開花をみることができなかった。知らぬ間に(夏の草刈り等で)短く切り詰められてしまったのか。

・イタドリがふえた。

・春に開花するアザミがやや減った。

・火入れ1年目には単一植生で山を占有していたアレチノギクの姿がうすい。これからなのか。ただ、昨年夏の火入れ地にはボツボツと「きゃつら」とこぼれだねからの蕎麦だけが芽を出している。 
 牧場の火入れ地に関してはまずこれだけ。まだまだありそう、あるはずで、思い出したら追記しておく。

 さて、住まいする木次町30区の山道、道路の脇に出ていたハチクを切ってきた。時期は遅い。多くは、背丈を超えるほどにのびている。喰えるかどうか。結論として、さすがに背丈ほどのものは筋張っていて食べるのには難あり。だが、根本に近い部分のほうが先端よりもより食しやすくはあった。

 チガヤはここ数週間で穂に花をつけている。「シューッとぬいて」、茎の下をかじりながら吸ってみると、甘いような気がしないではない。少なくとも苦みはなく、2本、3本とかじってみるうちにくせになりそうだ。子どものおやつにはちょうどいいのではないか、これくらいの甘さが。

 ジューンベリーは、最近、鳥がしつこくこなくなったせいか、人が食べるぶんもけっこう残った。毎日つまみぐいしている。とりたてがいちばんおいしい。山にたくさん植えても鳥の餌にしかならないだろうから、庭に植えて楽しむのがいいんだろう。果実が実る木をもっと世にふやしたいものだ。

 実生から育てられないものか、ちょい挑戦してみようか。ガマズミの実は今年も芽を出しそうもない。やり方をかえて、また来年チャレンジしよう。そろそろ挿し木用に山から枝をとってこなくては。

竹の焼畑2018-春の火入れ前に

 記録が残せていない。  2018/05/27時点。  春の火入れ準備へ向けて、7〜10回の活動日を経過したところで、ざっくりと、遺漏もあること前提で、ほんとうにざっくりと記しておこう。

◆2017年の夏焼地あとの状況

・蕎麦も温海カブも成育はよくなかった。土質、地形、気候、種子、など各種要因と相互連関の複雑さからいって、「原因」たるものを記しがたい。どれも、『栽培」にとってよいとはいいがたいものがあるという点はあった。

・カブは種取りのために残してある。蕎麦の跡地を中心に古代小麦を11月ごろ撒種して、発芽そのものはよかった。春からの成育が遅かったのは山地特有のものだとしても、春先に鹿(だろうと思われる)の食害にあい、その後の乾燥もあって、枯れてしまうような区画が3〜4割あった。

・そして、昨日、5月26日の写真を下にあげる。

◉温海カブの春

 小鳥、おそらくスズメではないか。ほとんどの実が食べられてしまった。

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5月16日の状況がこうであった。

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ここから10日が経過していたわけで、そりゃ間があきすぎていた。枯れるのも早い。一昨年は6月の上旬に種取りをしていたから、遅すぎるというわけでもない。平地では時期としてはまだ少し早いくらいだから。ただ、もともと食害にあっているということ、そして水持ちが悪い場所にあった(馬の背部分)ということ、今年は植物の開花・結実が平年より2週間あまり早いということを考えれば、もっと早くに動いていれば、ここまでひどいことにはならなかったろう。

 やむを得ない。一昨年の種が若干残っている。発芽率は落ちているだろうが、それらを撒くことと、保険として昨年購入しておいた温海カブの種子を今年は使う。

古代小麦の春

こういう状況だ。

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出穂も得られた。問題はここから先。少なくとも鳥には食われないように、開花後2週間後くらいには防鳥の網をかぶせることとする。 きびしいなかでのかすかな希望でもある。カブも蕎麦もダメであったし、鳥からも獣からも食われていまうという状況のなかで、どういう結果が得られるか、もう少しだけねばってみたい。

サクラの春、ウバユリの春

 木次の土手のソメイヨシノは今日明日で満開になるだろうか。花見に訪れる車が臨時の駐車場にも並んでいるのがみえた。平年よりも数日早い開花のようだが、確かなことはようわからん。

 古来、春の開花のタイミングというのは農事にとって重要なサインであった。指標となる花の木がいくつかはあったものだとはいくつかの民俗学の書に記されてはいるものの、個別具体的なことを耳目にしたことはない。これからもないのか、あるのか、あったらいいなとは願っている。あるいは自らがつくれればそれもうれしい。

 種を植える、苗をおろす、土を起こす、水を田に入れる、それらひとつひとつの行為は、早すぎてもならず、遅すぎてもならず、しかもその適期は短い。天候にも恵まれ、災難にもあわず、よき稔りを迎えるための、”勝負”とでもいえようか。

 そう思ってみれば、春はチューニング、音あわせの時間なのだ。舞台にはさまざまな草木がそれぞれの音を奏でるためにあがってくる。サクラもその中のひとつだが、ツクシ、ホトケノザ、ワラビ、フキノトウ、タケノコ、スミレ、……それぞれが土の中から、木の芽から、舞台にあがってくるのだ。はじけでるように。

 Spring has come!

 昨日は、この目で見ることのなかった演奏者のひとりを豆腐屋さんからの帰路、峠の崖地でみつけた。

 ウバユリである。

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 その根は澱粉質を含み、食糧のひとつとして重要なものであった「らしい」。

 日本国語大辞典にはこうある。

《夏、茎を出し、その頂に緑白色で長さ七〜一〇センチメートルにもなる漏斗形の花が横向きに咲く。地下に卵形の鱗茎(りんけい)があり、良質のでんぷんがとれる。葉は楕円状心臓形で先がとがり、長さ約二〇センチメートル。若葉は食用となる。かばゆり。ねずみゆり。学名はCardiocrinum cordatum》

 

 若葉、すなわち、今土から出ているこの鮮やかな葉だが、アクが強いものの、食べられるというのだから食べてもよいのだが、なにせ量が少ない。見守りつつ、来年増えるようだったらそのぶんをとってみたい。山の谷一面にこの花が咲く景観をみることができたのはいつの時代までであったろうか。古名をがはゆり(がわゆり)と呼ぶと同じ辞典には記されている。樹陰で湿度を要する植物であるから、ギボウシ=ゴロビナ=ウルイともその生存条件は近い。

 ともあれ、これから、ゆっくりみていこう。

坊主と風は10時から出る

 3月27日、三瓶西の原の火入れにボランティアとして参加してきました。受付も含めた総員は約130名ほどでした。報道では延焼したこととか、逃げ遅れた消防車が1台焼け死んだことがとりあげられていましたね。「消防車が焼けちゃった」というのはそりゃニュースにはなる。犬が人をかんでもニュースにもならないが、人が犬をかんだらニュースになるという理屈において、ではありますが。

 なぜそうなったのかということについて、どこぞの新聞は「強風で」と書いてました。が、強風ではありませんで、「強風ということにした」のでありましょう。

 これは、強風などの自然要因であれば「不可抗力」として人的責任を問われないがためであります。

 2010年10月、静岡県御殿場市陸上自衛隊東富士演習場での野焼き中に、男性3人が焼死した事件では、一審で責任者2名が有罪判決を受けていますが、安全対策は万全にとっていたが、「強風による不可抗力だった」というのが、被告の言い分でありました。

 いや、三瓶の一件でもだれかに責任があるということを言いたいのではありませんよ。むしろその逆。草原自然で起こることは複雑であって、個別の要因に絞り込むのは危ういことです。リスト化してチェックしていけばつぶしきれるものではないということです。

 野焼き、山焼きで事故が起こるたびに、対策、対策と叫ばれ、マニュアルが整備されたり、より多くの人員や予算や時間が割かれるようになります。

 私、これ、間違っているのでは?と考えるのです。このたび参加した三瓶の火入れでその思いをさらに深くしました。回を追って述べていきたいと思います。

 今回は、ほんのさわりとして標題のコトバがあるのです。風の動きをどうとらえるか、という話のきっかけにすぎませんで、さほど深いコトバではありません。

 火入れに際して、強風のおそれがあれば、それは当日であっても中止です。当然のこと。突発的な強風があるではないかといわれるかもしれません。それあくまで突発的で長い時間にわたるものではござらん。そもそも火入れをすれば、熱風によって風の向きや強さは複雑に変化します。

 坊主も風も10時から動くというのは、太陽熱による温度の差が生じることによる風の発生を意味しています。風は目に見えませんが、大きな動きは雲で見ることができます。ただ、火入れに際しての風はそれ以上に向きが重要なのであります。

 山野に火を入れる際の基本は、風下から点火するということ。ゆっくり火を動かすことと、しっかり焼くことがその効果です。

 しっかり焼く。これ大変重要で、灰になるまで焼けていれば、それ以上焼けることはありません。くすぶった炭が残っているとそこからまた再発火してしまうので、いかんのです。また、火入れの効果として一定温度で長く焼くことで得られることもいろいろあるのでね。

 野焼きの場合、次に重要なのが、「迎え火を打つ」ということ。風向が一定であればことは簡単で、風下から点火したあと、両脇にも火を入れ、かまぼこ状に展開した火が3分の2〜4分の3ほども進んだところで、風上から点火するというのが理想。

 そして、理想どおりいくことなどほぼありません。

 さて、どうするか。ここで安全第一を優先すると、まったく安全第一にならないという矛盾が生じることとなります。

 どういうことは、次回以降にて。

 (つづく)

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焼畑でイセヒカリ

”竹の焼畑2018”を策定中。

地道にとはいえ、これ(写真)をひとりで伏せ込みなおすのはどうなのだろう。

自棄になっているわけではない。今日あらためて現場を検分し、冷静に考えて、ひょっとしたらできるのかなと思ったのだ。

昨年度の様子から、今年はだれも集まらないかなと想定していたので、そのなか3名が残ったのは朗報だった。だが、うち2名は学生OBであるし、学生1名では動かないほうがいいだろう。

ただ、例年そうであるように、火入れ当日の人は確保できる。

問題は準備と栽培の手入れにほとんど人が入らないということ。

さて、そんななか、今年は陸稲に取り組むことにきめた。

焼畑イセヒカリ、である。陸稲といえば糯性のものが大半かと思いきや、粳もあって、なかでもイセヒカリは取り組んでいる人も多い。

焼畑で栽培される作物は時代と環境によって変化してきたものだ。陸稲を試すべきとは1年ほど前から考えていたことだが、ここへきて踏み切るのにはいくつかの理由がある。

・雑穀栽培を続け周辺へひろめていくうえでは「機械化」に取り組むべき時期にきている。とくに籾摺り、脱ぷなどの調製過程。機械はほぼすべて米に特化してつくられていて、オプションの機具をつかえば雑穀にも対応できるというまでのもの。

有機栽培、自然栽培の農家がいよいよなくなってしまうのではないかとこのごろ思う。お店と数家族が養えるくらいの米と大豆と少々の野菜は確保しておきたい。その道をいまからつけておきたい。市場に出さないものでよいのだから。水をつかう水稲は最上流の田んぼでもない限り無理だろうから、畑地、しかも僻地の畑地に限られる。焼畑のできる土地と条件はほぼ同じだ。

・米の単位面積あたりの収量は他の雑穀を大きくしのぐ。稲わらがとれるのも魅力だ。稲作を見直す意味でもこれはいまから取り組みたい。

・参加者の昼食用に。ま、これはおまけ。

 さて、相性を考えて、モチアワ、タカキビ、センニンコク、ダイズ、アズキ、ヒエ、などと混植。

5月下旬の梅雨入り前に火入れだとして、イネは苗を移植するか。直播は時期と土とからして難だろう。

 育苗をどうすべえということなど、なにかと複雑じゃが、まあなんとか、したい、です。

森と畑と牛と いま・そして

 奥出雲の小さな山村は、水を蓄え、資源を育み、食やエネルギーをまちへ送る役を果たしてきた。山村とまちとの連なりが、都市を育み、世界と繋がり、今日の生活経済文化圏がある。
村を破らず川を荒らさず山を荒らさず真の文明を築き上げてきた先人の労苦には万感横溢するを禁じ得ない。
しかるにここ数十年来、圏域をめぐる循環を生み出す源流、山村における森の荒廃と産業の凋落には底が見えない。人的資本は減耗の一方である。
くわえて現在、地域固有の在来作物や採集草木利用ならびにそれと連なる民俗文化はまさに消滅しようとしている。
しかし……。
生命現象における死は再生と同じ地平にある。より存在する為に複雑多様化しつつ、時にはそれを捨てる。私たちは、ひとつの文明の滅びのなかから、創出の道を歩もうと思う。森は、殺したり殺されたり食べたり食べられたりしながら、複雑精妙な共存共生の場をつくる力をもっている。人は、牛を飼い畑をつくることを通して森の生命場とつながってきたのだ。
世界が向かう先は闇ではあるが、この森に集うひとりひとりが、小さくとも強く、暖かな灯りとなって、美しい野山と人の世界をつくりだす希望となろう。

森と畑と牛と 設立趣旨より
「森と畑と牛とβ」発刊を機に、巻末に掲載した一文をここにあげてみた。

焼畑の終わりと始まり

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 日本における焼畑は稲作以前、縄文時代から行われていた可能性が唱えられてきた。空間的にも北海道から八重山諸島にまで広がっている。その形態や特質は多くの変貌を時間的にも空間的にもとげながら、野山に火をいれるというその一点は近代まで連綿と続けられてきたことに間違いはない。

 少なくとも数千年におよぶ焼畑という営みも、昭和三十年代に入り急速に衰退し、確実に終焉を迎えたと、野本寛一は言う。現在の80代世代が、その最期を見届けたことになり、私たちにその探求の道は閉ざされた。

 一方で、平成も終わろうとするこの時代に、焼畑の火は消えそうで消えず、もはや歴史の進みの淀みとはいえないだろう。むしろ、数千年のときをへて、やっと、私たちは焼畑の真実にたどりつけるのかもしれない。黄昏に飛び立つミネルヴァの梟をとらえるがごとく。

 繰り返し同じようなことを言う。焼畑のイメージはつねに焼畑そのものから遠ざかろうとする。裏切り、間違い、幻像。「灰が肥料になるのですか」「究極の循環農法ですね」「環境破壊では」……すべてイエスでありノーである。

 奥出雲・佐白の地で「焼畑」を試行して三年。焼畑は農法や伝統や文化というよりは、生命現象に近いなにかであると予感する。

 焼畑は通常、Slash and burnで通用するが、Shifting cultivationも捨てがたい通念だ。むしろ「移動」することが「焼く」ことよりも本質をついているだろう。通説では、焼畑が場所を移動=Shiftingするのは、地力の衰えあるいは除草の手間が増大するためだとされる。が、本当にそうなのだろうか。

 別な言い方をしてみよう。焼畑が移動をその核にすえるのは、管理から逃れるためであり、定住と集団の大規模化に抗するためであると。anti-cultivation、すなわち反文化としての焼畑

 山の利用をめぐって、明治政府はまず自由放牧を、つぎに焼畑をしめだした。間接的にではあるが。抑圧する側としては、制御したいのであって、抑圧そのものが目的ではない。

 反文化は、文化に抗するわけだが、それは文化の側からの視点であることをことわっておく。

 

 野山に管理を徹底することで、結果としてなにが起こったのか。国は富を拡大できただろうか。人は豊かさを享受できただろうか。幼子を飢えや病気でなくす悲しみを総体として減らすことができただろうか。これもイエスでありノーである。

 「森が荒れ」「鳥がいなくなり」「山にはもう入れない」と土地の老人たちはいう。

 嘆きだろうか。いやそうではない。これは託されているのだ、まだ動ける私たちに。

 もうやらなくてもいいのだと。

 だが、やるなではなく、やってもいいというメッセージがそこにはある。

 やるなら覚悟をもっておやりなさいよ。そうやさしくはいわないだけであって。

 

 そう勝手に受け取って、私たちははじめたのだ。

 荒れた森を切り開き、火を入れ、畑をつくる。花が咲き、虫が集まり、鳥が少しずつふえ、荒地のキク科雑草の繁茂も二年目でずいぶんとおさまり、見ることのなかったスミレや柔らかな草、眠っていたチャノキが背をのばしはじめている。新しい森が成熟するにつれて、これらの生命はまた次第に消えていくだろう。

 作物の種はあつくまき、その多くは死に、生き残りもどんどん間引いていく。それでもできたりできなかったりする。

 まあ、なんとかつくりたいという一心なのだが、生と死が等価であるような生命の流れに同化することでなんとか私も生きたいと願う。

「山をする」牛

◉「山をする」

「放牧することをわが地方では『山をする』といいました」

 佐藤忠吉は『自主独立農民という仕事』(森まゆみ著・バジリコ刊)のなかでそういう。昔というのがいつのころからなのかはわからない。皇国地誌に残る牛馬の頭数や昭和30年代まではいくばくかの古態を残していたであろう民俗の記録などから、少なくとも江戸時代中期からの姿であるならば大変おぼろなものではあるが想定はできる。つい60年ほど前まで、「山をする」という言葉は生きていた。

 また区域を出雲にとどまらず同類の地勢や集落形態、経済圏ともいえる鳥取県岡山県広島県中国山地地帯にひろげれば、奈良時代からつづく牛馬放牧地帯であることは確かである。日本における牛馬を飼養した起源については考古学的知見がわずかにあるばかりであり、定説らしきものも不確かなようである。

 そもそもが、これ、牛馬放牧に対する国民的「無関心」に起因するようだ。稲作の起源、あるいは縄文・弥生の土器などわかりやすい形のみえるものについては、その時代を証するごく一部の断片であるのにもかかわらず、その断片から全体像をむやみに描こうとするがゆえのゆがみがあるように、このごろ思えてならない。

 同じ轍をふむことをおそれつつ、わからなくなった「牛をする」ことについて、想起をめぐらしてみよう。

 牛を山に放つことは、私たちがイメージする放牧とは違うなにかであったことは、言葉そのものからもうかがえる。

 私たちの頭は、牛を飼うことを、目的別にわけて分類して事足りることに、あまりにもなれすぎてしまった。

 牛乳(生乳)生産のための乳牛。肉にするための肉牛。このふたつのいずれかであって、古来日本の和牛は食用ではなく乳をしぼることもなかったがゆえに「役牛」と一括されていることにもよくあらわれている。

 死んだ牛はすべてではないにせよ、肉として食されていた。建前として禁じられていたがために記録に残っていないだけである。また乳を飲むこともあったらしいが、基本は小牛のためのものであった。あたりまえといえばあたりまえだが。

 そして、つい数十年あるいは現在でも牛を飼う家々のその「目的」を私たちは忘れている。いわゆるペットである。とりわけ江戸時代後期から昭和の戦後まもなくのころまでにおいて、ここ奥出雲をはじめ、鳥取、岡山、広島の山間部において牛の放牧頭数は全国屈指のものであった。しかもどの農家も一頭から数頭までの小規模でありながら、共有山野での放牧や平地への貸出(鞍下牛とこの地方では呼んでいた)といったリースもあれば、権利のやりとり、保険・金融機能との融合、市場取引などの重層的利用もからんだ、文字通りの資本財(cattle〜capital)であったのだが。。。

 だが。個々の家々の動機は、使役とともに糞の堆肥利用という合理的目的はあったにしても、女性や子供の「愛玩動物」としての価値と効果を低く見積もりすぎてはいなかったろうか。

 民俗資料ではない、老人倶楽部がまとめた「言い伝え」のような文集のなかにあらわれる、牛を飼っていたときの綴りには、牛といかに情を交わしていたか、その気持がにじみでているのだ。鞍下に出すときには、からだをきれいにふき、藁をあんだ沓をはかせ、前の日からごちそう(おからや大豆をしぼった呉汁)をとらせ、見えなくなるまで手をふって見送る。

 帰ってきたら必ず痩せていてかわいそうだったというその心はやはりこの国ならではのものであったことだろう。

 少なくとも多頭飼育をし、肉を食べる国の牛飼いの話を伝えきくに、情が移らないような飼い方をするのだという。裏をかえせば、日本においては情が移ってもよいとしていたしその利点のほうをたかくみていた可能性は高い。

 寡頭飼育であるがゆえの必然でもあろうが、「山をする」といったときのような、他のあり方とのインタラクションのよさがあったのではなかろうか。具体的にはまだみえない。