7月30日(日)です。夏焼きへ向けての焼畑整備、その何日目なのでしょう。
この日の参加者は4名。
朝の9時30分〜午後3時まで、みっちり作業しました。進んだのではと満足。しかし、人が足りんので準備が黄信号です。
天気予報とのにらめっこは相手が笑ってくれたようで、8月6日の火入れ、天は「良し、やれ」と言ってくれているようです。
森のこと山のこと
竹の根がつくる土と土用の丑と
7月24日は1時間半ほど山仕事。間引きと火入れ地の様子見である。様子見のほうは何を見るわけでもないのだが、何が生えているのかとか、今の時期の風はどうなんだろうとか。そんななかで土をみて少し驚いたので、そのことを記しておく。
こちら、竹を伐り火を放って3年目の土である。
1年目は鍬を振り下ろせば跳ね返さんばかりにガチガチであった。この日、振った鍬はさっくりと土の中に潜り込むことができた。いまだ根は張っているものの、ぽろぽろとくずれる。あともう2年もすればフカフカになるのではないか。今段階で歩けばクッション性をもっているのではっきりとわかる。腐葉土の上とまではいかないが、明らかに違うふかふか感がある。
これ、森に戻るにしても、畑にするにしても、大変なポテンシャルをもった土だと思うのだ。
どうだろうね。
土用の丑は昨日だったか今日だったか。意外にもウナギのことに言及する声は聞こえてこなかった。スーパーの売り場をみればわかるように、もはや高嶺の花であって、そうやすやすと買える代物ではない。
だからこそ、この日に買おうとなるのだろうが、もはや無理も限界であろう。
巷間よく知られているように、ウナギはもともと夏には売れないものだ。その旬は油ののる冬である、天然ものであればなおさら。ただ養殖であれば季節は関係はないようだ。江戸時代後期、夏に売れないウナギをどうやったら売れるかということから「土用の丑の日に鰻を食す」という新習慣ははじまり、養殖の時代になり、稚魚の乱獲と表現されるが、それどころではない。約半数が違法な取引で稚魚を入手し養殖しているという報道があったのは3ヶ月前であったろうか。
な、ら、ば。
鰻に変わる土用の丑の日の新習慣を発明したらよろしいだろう。
そこで、ウのつくものではないが、シのつくものであれば、困っているものがある。
シカ
土用の丑の日に鹿肉を食べる。
なんとかならんもんかのお。
星の名前と民俗と
wikiで野尻抱影をひくと、天文民俗学者とある。天文民俗学、はて、初めて聞く言葉だ。JKの全文横断検索でかけてもヒットはしない。googleではいくつかのサイトが出てくるので、ある種の造語であろう。
星の伝承研究室の北尾浩一氏が、2006年に『天文民俗学序説 ―星・人・暮らし―』を著されている。この書ならびに北尾氏が嚆矢となって、小さくとも広まっている言葉、それが天文民俗学であると思われる。
古く”天文民俗”を調べ集めたのは、野尻抱影ひとりであるかに独見していたのは、失礼なことであった。
北尾氏は、いまも聞き書きに全国を訪ねておられるようで、島根県では、出雲市大社町宇龍に17年ほど前にこられて、語り部の喪失を悲しんでおられる。
出雲市大社町宇龍の星の語り部
《「よんべ(ゆうべ)、いつまでおったんや」「スマリがあがるまでおったー」
そのような会話をした日々は遠い昔になってしまった。七夕も海に竹を流してはいけなくなってから行なわない家が増えた。》
いまや七夕の竹は海にも川にも流さない(せない)のだろうか。小さく切り刻んでゴミの日に出すくらいなら(そんな世の中であるのならば)、七夕の祭りなどやめてしまうのがまっとうな感性であろう。
さて、実はここまでが前置きのつもりであったのだが、時間切れゆえ、つづきは次回へ。
以下、備忘として項目をあげておき、のちに加筆しよう。
・死んだら天の川へいく(漁師の聞き書きに頻出…要確認)
・野尻抱影『星三百六十五夜 夏』に「七夕雨」あり
→旧暦で七夕をまつる地域にはこの日の雨を吉とするところがある。出歩かないこと。雨が降らないと七夕さんが作物をもっていく。降れば豊作。というような。北尾氏の聞き書きには、七夕の日には漁に出ない、出ればイカが葉や茄子に化ける、というものあり。
・野尻抱影『星三百六十五夜 夏』の6月28日「へっつい星」に、この一文あり。
《思い出して、私は、江戸時代の学者畑維竜の随筆『四方の硯』(※日本随筆大成〈第1期 第11巻〉所収)の中にある文を読み返したー
ー具象を見ることは、農民よりくはしきはなし、大和の国は水のとぼしき処なれば、四月頃より夏中、農民夜もすがらいねずして、星象をばかり見て種おろし、あるひは夜陰の露おきたるに苗のしめりをしり、米穀の実のると、みのらざるとをあらかじめはかりしる事なり。その星に、からすきぼし、ひしぼし、すばるぼし、くどぼしなどやらの名をつけて、其の星は何時に何の位にあらはれ、何時に何方にかくるなどいひて、その目つもりにてはかること露たがわず。云々》
竹の焼畑2017~sec.17
7月22日(土)。夏焼きへ向けての焼畑整備、その5日めです。
この日の参加者は、な、なんと3名。
いや数ではありません。問題は。
内容についてはのちほど追記するとして、畑地の状況をお伝えしましょうぞ。
・中山東南上部
アマランサス赤穂選抜エリアです。日照の影響なのか間引きをさぼったからなのか、成育は遅れています。モチアワはようやくのびてきました。間に合うのか。大豆はぼちぼちです。
・中山裾部
先週、牛の侵入対策をした箇所です。今のところ最終ラインは突破されていません。牛に食われたモチアワですが、なんとか葉を出し直しており、ひょっとしたら出穂から収穫へとたどりつけるかというところ。
・アマランサス間引き
ここまでほたらかしちゃいかんですよね。そら成育が遅れるわけだわな。反省。
・春の火入れ地ホンリー
一度はあけたゲートを閉じてみています。が、食害はさらに拡大しているようなそうでないような。食われた脇から芽がでてきていますので、このまま食害なしでいければ実をつけるはず。葉が枯れかけているものがちらほらあります。水か窒素が足りないのでしょう。猛暑も一因でしょうか。種は台湾高地のものですからね。
・サツマイモ
やや遅いきもしますが、草刈りを丁寧にしていることもあり順調か。
裏庭の片隅でトノサマガエルとばったり
気温が34℃をさすような猛暑日が続いています。雨が降らないので、庭の木々がそろそろバテ気味な印象。そんななか、外流しがつまり水がたまっていたので、やれやれ掃除しますかとかがんでみたら、小さなトノサマガエルとばったり。
国内では准絶滅危惧種に指定されていますが、島根県ではまだ普通に見ることができます。とはいえ、私が子どもの頃、30年〜40年前とくらべると、たまに見る程度であって、「ほらそこにいるでしょ」と簡単に教えることは難しいものです。そう。都市からやってくる、生き物好きの子供たちにとって、トノサマガエルを捕まえた思い出が忘れらないくらいに大きなことなのだと聞いたこともあります。島根県内ではなぜトノサマガエルが絶滅危惧に至っていないのかのついて聞いたことはないのですが、自然地形と水田の様態によるところなのかなあと思ってみたりはします。
しかし、県という単位で自然を見るのは、本当に仕方なしの便宜であって、せめて水系単位でレッドデータは見るべきなのでしょうね。トノサマガエルでいえば、斐川平野では激減しているのではないでしょうか? たまに立ち寄る実家周辺ではまったく見なくなりましたから。
そんなトノサマガエル(Pelophylax nigromaculatus)ですが、ちょっと目を話した間にいなくなりました。せっかく自分だけの小さな家(池・縄張り)を見つけたと思っていたのに、そうそうに水を抜かれて追い出されようとは思ってもみなかったことでしょう。すまん。山をこえて北に100mいけば田圃もあるのですが。水辺に乏しいわが家周辺ですので、産卵の場を得るのには労多きことだろうなあ。がんばれよ。
さて、下の写真はそのトノサマガエルではなく、アマガエル。トノサマガエルと比べると、手足の吸盤の力が相対的に強く、U字溝のような壁面でもよじ登れることなどから、絶滅危惧からは逃れているようであります、いまのところ。繁殖時期もトノサマガエルより長いのかな。6月までの夜、裏の畑の方ではよく鳴いていました。その頃ほどではないですが、今でも夜の鳴き声はにぎやかです。
雑食性で、虫を食べてくれるらしいので、ヤモリ同様、繁殖繁栄を願う種族です。
一方、蟻が多すぎるのではと。畑にも家にも庭にも。バランスを取り戻す途上の過渡的なものなのかどうなのか。経過観察としたい。
【参考ページ】
◎しまねレッドデータブック
県民必読。コウノトリでどうたら騒ぐ前にもう少し読もうよ。
◎トノサマガエルの生態や捕まえ方(HONDAキャンプ・生きもの図鑑)
◎ニホンアマガエルの生態や捕まえ方(同上)
とてもよく編集されています。考えて丁寧につくられていますよ。クリックひとつで読むことができることに、頭が下がります。監修の長崎大学教育学部の大庭伸也准教授は、「タガメの採餌を巡る生態学的研究」のタイトルで2016年度日本昆虫学会若手奨励賞を受賞した方。
セミがいっせいに鳴き始めた2017年木次の夏
七月小暑の庭と菜園三景
チョウの出現頻度の上昇と葉っぱの食害。気がつくのは後者からでした。幼虫から成虫へという流れからすれば当然、といえばそうなのですが、一安心でもあり、やれやれでもあるのです。とはいえ、昨年とくらべれば食害はきわめて少ないといえましょう。木酢希釈液の噴霧頻度をあげていたり、被害のひどかった鉢植えは場所を変えてみたりしたことも功を奏しているのか。
一昨日は今年はじめて裏の畑にモンシロチョウを確認しました。そして、写真のこの個体がなんなのかがわからんです。ジャノメチョウではあるのでしょうが。
もののついでに、裏の畑から2景。
花ズッキーニが大きくなってきました。朝に初物を1本収穫。
忘れられた高津川のアユ~田中幾太郎『いのちの森 中国山地』#002
《今、高津川の流れには生命の輝きが見られない》
田中幾太郎さんがこう著されてから二十年あまりが経っている。私が高津川の傍に生活したのは、すでに輝きが失せた後からであり、「昔の高津川は〜」という言葉は誰もが語るセリフであった。が仕方のないことである。川としての生命はすでに絶えていたのであって、水が流れる路としての清流を、その名に冠して虚をはるのみであったかと、今ふりかえれば思う。
しかしながら、高津川が国内に残存する数少ない「川」の姿をとどめている河川であることは確かであると思われる。
田中さんがいうように《子どもころは春になると田んぼの溝川にまでたくさんの稚アユがのぼって》くるような川。1939年生まれの田中さんが10歳の時分だとして1950年代、昭和30年代には日本の山と川が激変していく時代であった。
アユがあきらかにおかしくなったのはそれから十年後のこと。1960年代から”アユの高津川”がおかしくなりはじめ、琵琶湖や鹿児島産の稚鮎を放流しはじめることによるその質の変化はこう記録されている。60年間アユ漁を続けてきた、益田市高津町の川漁専業・塩田嘉助氏(76歳)の話として。
《ちかごろのアユはちごうてきた。夏んなってもゆるいところにたかまったまんまで、瀬にゃあ、あんまりのさん。そのぐらいじゃけえ、こまあのがおいいでや。そいから、昔しゃあ瀬につくなあ、十月に入ってからじゃったが、このごらあ八月の末にゃあ瀬へつくのがおる。味も変わったで。年中川が濁っとって、ええあかが付くひまがなあ。そいじゃけえ大きゅうならんし、食うても昔のような風味がなあ。うるかをとっても、どべくそうて(泥臭くて)味がちがう。高津川のアユの本物なあ、こがあなもんじゃあなあ。ことしゃ冬がぬかったけえ天然ものが、また減ろうでえのう》
それでも、つい近年までは西日本有数の天然アユ漁場としてその名を馳せていた。が、もはやそれも過去のものとなりつつあるようだ。
《高津川は漁協だけのものではない。2年連続清流日本一を誇る高津川に今年はアユが少なく防府市、岩国市、広島市から来た太公望の遊魚者たちは「もう益田の高津川には来ない、鑑札料を返してほしい。何が日本一の清流か!」と不満をぶち明け帰って行った》
ここ数年、不漁が続いているのは確かなようだ。※のちほどデータにあたってみたい
石西タイムス2014年06月04日からひくと。
《自然の産卵場が荒廃し、建設機械を入れて造成しないと産卵できないほど川は傷んでいるのだが、行政は何の対応もしない。しかし、「清流日本一」だと喜んでいるが、上澄みの水だけ検査しているから何とかごまかしているようなものだ。下流域だけではなく、中流域でも少し流れのゆるやかな河床はヘドロが溜まっているから、何かのきっかけで一挙に汚染が進むだろう。
そのうえ、河口では遡上しようとしている稚魚を網エビ漁で一網打尽に捕獲している。以前は網エビ漁はアユ稚魚の遡上時期には高津川漁協が県漁連に禁止の申しいれをしていたが、今は県漁連と高津川漁協と組合長が同人物(いずれも中島謙二県議)なのだから、何時まで経っても何の解決策も出てこないまま清流高津川の死期が近づく。
昨年の6月、同組合は理事会を開催し、近い将来アユ稚魚の放流は止め、育魚センターは廃止し、企業合理化を進める。さらに、組合の年度決算は12月に仮決算し外部企業に経営委託するという議案が承認されたと言われている。それなら鮎稚魚放流が一昨年の半分の量になっていたとしても不自然ではない》
と。
稚魚放流の削減を、量の問題だけにフォーカスするのはミスリードをまねくだろうが、多くの問題を抱えているのだろう、高津川漁協。日本における漁業資源管理の稚拙さは昨今とみに指弾されているのだが、指弾はいかんと思います。
川は漁協だけのものではないし、川が見捨てられていくその流れは、一筋縄のものではない。単純化してはならんのです。単純な問題設定、そこからは何も解決していかないから。
今年5月の山陰中央新報の見出しにこんなものがあった。「昨年より高津川アユ増へ実証実験 益田漁協」。要点は《高津川のアユの資源量回復に向け、高津川漁協(島根県益田市神田町)は6月、成育を抑制して産卵時期を遅らせたアユを11月上旬に放流し、仔魚の生残率を高めて遡上(そじょう)増を図る実験を始める。…(略)……落ち込んでいるアユの川への回帰率を高め、漁獲量の回復につなげる》というもの。
久しぶりに川のことを思い出して、少々頭が熱くなった。書きかけなのだが、ここらで休憩。のちほど加筆することとする。
参照資料として以下。
寺門弘悦,村山達朗,金岩 稔2016「島根県高津川におけるアユの天然魚と放流魚の混合率の推定」島根県水産技術センター,東京農業大学生物産業学部アクアバイオ学科
古川彰, 高橋勇夫 編2010 『アユを育てる川仕事 : 漁協、市民、行政がつくりあげる、アユとの共存』(築地書館)
尊い家とは何か〜今和次郎とB.タウトと
粗朶ってなあに?の中であげている「ハンヤ」のことを今和次郎が名著『日本の民家』(1922鈴木書店,1989岩波文庫所収)であげていた。
・鈴木書店の初版(国会図書館デジタルコレクション)
デジタルコレクションでは、岡書院から出た改版のほうの158コマ目にある。
59 備後山間の灰屋
《これらは肥料の製造所である。田圃の中や山の根だどにこれらは作られている。農夫たちは仕事の余暇に山の芝を刈り取って来て、この家の中でもやして灰を作るのである》と。
ほぼこれだけの記述なので、ハンヤについての新たな知見はなかったのだが、何かが気にかかった。今はハンヤの何が気にかかったのだろう。今は日本の民家に何を見ようとしていたのだろう。そうしたことを思い、読み返してみた。これまで資料的に散見する程度のものであったから。それは、考現学の今和次郎ではなく、『日本の民家』を書く作家として読むことである。ほどなく、というより、とてもわかりやすく、今の筆が走るのがどんな家なのかが見えてきた。「山人足の小屋と樵夫の家」では、無邪気ともいえるようなはしゃぎっぷりがほとばしりでている。
《柱は又を頂く丸太を掘立にし、桁や棟木を柱から柱へ架け渡している。自在鉤の工夫は木片のかんたんな細工である。燃えざしの枝が真っ白な灰になり、その端に谷川の水を汲みとってきたルリ色のヤカンが尻をあぶられて留守の小屋の中に残されていたのである。小屋の壁は刈りとった叢の枝で出来ていて、生葉の枯れた匂いが室内に充ち満ちている。そして細かく切り刻まれた日光の片々が、薄暗い室内をぼんやり明るくしている》
今が描く「日本の民家」は、明治の終わりから大正の時代に取材記録され、1922年(大正11)に刊行されたものだ。当時にあっては、ごくごくふつうの民家がその対象となっている。その中でも、粗末な家に、小屋のような家に、つまりは家の原初の姿を形としてとどめるものに今は惹かれているように思える。
開拓者の家(小屋)を今は、「尊い家」だといい、《めったにそれらの尊い家を訪問した人はいないと思うからここで一般の民家の構造を紹介する一番最初に、真実な心で私は、それらの家の話をして置くことにする》として述べる。
《彼らは木の枝や木の幹を切り取ってきて、地につきたてて柱とする。枝の又が出ているとそれが棟木を架けるのに利用される。縄でそれらは結び付けられる。……(略)……。床は土間のままである。一方に入口が付けられ、そこには藁の菰が吊るされる。そこは野原の上の彼らの家の門であり、玄関であり、また部屋の入口でもあるのだ》
今和次郎のこの叙述に、私はブルーノ・タウトと同じ匂いを覚える。篠田英雄訳『忘れられた日本』から一節をひいておこう。
《農民は、今日と異なりできるだけ金銭の厄介にならなかった。それだからこそ彼等の自然観は、家屋のみならず、総じて自分達の作りだすものに独自の形を与え得たのである。実際、私は農家のいかものをこれまでついぞ見たことがないくらいである。 原始的なごく貧しい小屋は、丸太をほんの形ばかり斧で削って柱や梁とし、この簡単な屋根組の上に竹を敷き並べて藁屋根を葺くのである、小屋を蔽うている藁葺屋根の線は非常に美しく、また柱間に塗った藁スサ入りの荒壁は絵のようである》
さて、大まかな見取り線として、松岡正剛による今和次郎と柳田国男の分岐点をひきながら、ひとまず2つの書籍をあげておく。松岡は今の『考現学』をあげる際、次の記を入れている。
《そこへ関東大震災である。焼け野原になった東京のそこかしこを見ていると、そこに草の芽のようにできてくる「現代」の芽吹きに関心をもった。今の目はここで考古から考現に切り替わる。そしてあえて「考現学」の狼煙をあげたのがいけなかった。「柳田先生から破門の宣告を頂戴してしまったのである」。
今を動かしたのは考現学だけでなく、焼け跡に次々に粗末に建っていくバラックだった。これを見ると矢も盾もたまらずに、今は美術学校の後輩を集めて「バラック装飾社」をつくり、ハシゴをかつぎ、ペンキ缶をぶらさげてブリキやトタンや板っきれに「絵」を描きはじめたのだ。銀座のカフェー・キリンがその代表で、そこには原始人まがいの、いわばオートバイ族が壁にペンキスプレーで描くような奇怪な「絵」が出現していった。》
荒地から出現するもの。まがまがしさ。
日本儒学が見出していった「古学」と、ひとつの到達点としての宣長、そして国学。このあたりを鍵として、読み解いていけたらと思う。
ひとつめは柳田が避けてきたものとしての民藝である。
ふたつめは柳田の山神論、みっつめにジル・クレマンの『動く庭』であろうか。
竹の焼畑2017~sec.14
7月6日(木)の活動状況です。
参加者は5名でした。島根大学4名:9時30分~16時00分。地元1名:11時20分〜16時00分。
晴れ時々曇りで、最高気温は28℃。夏の作業としては気温も低めですが湿度は高く、身体にはこたえました。力ではなく気が重要。同じペース(指標のひとつが心拍数)を維持して動くこと、こころに留めおくことですね。
さて内容です。
夏焼準備の初日でした。8月火入れ地点のマーキングと北東斜面竹林の下草刈り。若干の伐倒を行いました。9月火入れ地点の測量と大まかな位置取りもしましたよ。
アマランサスがようやくのびてきています。収穫はおそらく昨年より1月くらい後ろになるかとおもいます。
◉発芽成育状況(2016年火入れ地:蕎麦跡地)
◉発芽成育状況(2016年火入れ地:カブ跡地)