断簡を連ね考える#1

机上におかれ書棚と行き来するものの収拾をはかる。

野生の思考を中沢新一『精霊の王』のなかに検する

野生の思考(La Pensee sauvage)―世俗にまみれつつある概念である、と言ってみる。

否定的な観点を示しながら、中立から肯定へ傾きうるまでの「振り幅」を用意したいからである。自身が把持している印象の相対化でもあろう。それは対象化(異化)する地点からはじめられる。発すること、言葉として表出すること。主体の内なるものとして、主体の一部を形成している心象―印象であるものが、内なるものから外にあるものでもあることの自覚を促すこと。さらに、いかなる心象であれ、言語として表出が可能である以上、一主体一個体の心象であるものから、集合体の共有概念とでもいうべきものであることが明らかとなる。

その明示性の自覚へ向けての表出こそが、冒頭に示した言表である。

庵野秀明監督の『シンウルトラマン』(2022年公開)、その劇中において、外星人と呼ばれる地球外生命体が地球・人類を理解しようとする行動のひとつとしてクロード・レヴィ゠ストロースの『野生の思考』、そのみすず書房翻訳版を読むシーンがある。みすず書房の翻訳刊行は1976年。爾来50年も経とうかという書籍であり版を重ねている。

あまりに多くの人に読まれていることの弊を言いたい。読書の真髄。テキストを読むという行為の核心。その一片として、エクリチュールと個が一対一で対峙していることを挙げよう。

その唯一無二といっていい出会いの奇跡のような時空に他者性(他者ではなく)が入り込むことは厄介だ(面倒?邪魔?)。いや、これはなんといっていいかわからぬ。多くの人が読んでいるのだという意識がそこにはないほうがいい。この読みは私という個にだけ開かれているのだという意識こそが、読書の真髄なのだ。

しかも、そうであることによってはじめて、その読みは普遍に、他者に開かれたものになる可能性を帯びてくるのだ。

たとえば、松岡正剛の記述はそうした読みにあたると思う。

https://1000ya.isis.ne.jp/0317.html

あらかじめ全体の設計図がないのに(あるいは仮にあったとしても)、その計画が変容していったとき、きっと何かの役に立つとおもって集めておいた断片を、その計画の変容のときどきの目的に応じて組みこんでいける職人のことだ。
そのためブリコラージュにおいては、貯めていた断片だけをその場に並べ、それを動かしているうちに、相互に異様な異質性を発揮する。のみならず、しばらくして「構造」ができあがっていくうちに、しだいに嵌め絵のように収まっていきもする。本来、神話というものはそういうものではないか、構造が生まれるとはそういうことではないか、そこにはブリコラージュという方法が生きているのではないかと、レヴィ゠ストロースは見たわけである。

レヴィ゠ストロースは神話をブリコラージュ的に観察しているうちに、もうひとつ新たな仕組みがあることを発見している。それは、雑多に集めておいた材料や道具の「断片」や「部分」たちが、一応は想定していた「全体」とのあいだであれこれ対話を交わすのではないかと見たことだ。

先に全体があるのが「生命」である。松岡が言う「全体」とは何か。

つづく。。

 

伊勢、熊野、龍神、茸作りの道

1300km以上を車で駆け抜けた4日間。その断片を備忘として記しおく。
龍神村の宮代にあると伝わる、とある墓を探し訪ねた。
墓石があるらしい寺は全国文化財総覧には◯◯寺跡となっており、墓所はそこにないであろうことは予期された。一部の地図には寺名と位置が記されていること、国土地理院地図にのみ、なぜか寺名が地名として記載があること、行けば何かがあるという信のみ。
 6月16日、真夏のような陽射しが照りつける中、いくつかの記載を頼りに、狭く急な坂道を汗をかきながらのぼっていくと、楠の樹冠とその下に石垣がみえた。あぁ、あった。だが、目にできたのは、薬師堂と謹告として記された由緒のみ。屋根と幕を施された宝篋印塔は銘文により応永4年(1397)の建立と知られる。お堂のまわりだけは人の手が行き届いているものの、かつて、山門、宿坊を擁した寺院はやはり寺跡と呼ぶにふさわしいものであった。
 墓石などもまったくみられず、きれいに移動されているようであった。これまでと諦めた。妻は水の張られた田んぼに泳ぐオタマジャクシに「島根から来たんだよ、わかる?」と話しかけ、気分を軽やかにしてくれた。帰りの長い坂を下りはじめると、畑の草取りをしておられた男性がおられた。声をかけ、斯々然々とわけをお話すると、思わぬお返事が! 「あぁ、椎茸の常蔵さんの墓ですか、うちの墓の隣にありますよ」と。
 常蔵さんのことは、祖父から聞いていた。墓参りのたびに花を手向けたりしている。うちだけでなく、何軒かも同じく。
 祖父は山仕事していて、島根に林業指導の仕事で行っていたこともある。島根との技術交流もあったようで、島根と言われて、いろいろ思い出す、、と。墓の場所をお教えいただいた。
 墓所は寺跡から谷を挟んだ裏側ともいえる場所、共同墓地のはずれにあった。こちらも急な坂をのぼった杉林の中である。戒名を記した側面に、「文化元年七月二十二日没」「俗名スルガ国常蔵 施主五味右左衛門」と。
 文化元年は1804年、遡ること230年ほども前になるが、暑さのせいか、ついこの前、数十年前のことのような気に襲われる。
 常蔵は、古老が伝えるところによれば(日高郡誌など)、享和元年ごろ「山向こうの村」である寒川村(現美山村)へきて、椎茸栽培をする一方で多くの人に技術を教えもしたらしい。白髪童顔の姿態は駿河爺(するがじい)と呼ばれ愛されたようである。広井原村で山稼ぎをする中で風邪をこじらせ、戸板にのせらせふたつ向こうの村の医師のもとへ運ばれる途中、かの墓石がある村でなくなるのである。埋葬などの際に関係者間で交わされた文書も残る。原本の所在は未確認だが、翻刻されたものは美山村史資料編に所収。
 椎茸栽培黎明史(仮)の中では、寛政〜享和〜文化〜文政のおよそ40年ほどが業としての立ち上がりの時期にあたる。藩営あるいは商人による資本投下が各地方で盛んになる。浜田藩内での国東治兵衛によるものも同時期であるが、こちらはおそらく失敗に終わっている。
 常蔵は単身ではなく、複数人の集団である。常蔵がそうであったかは不明であるが、当時日高川上流域の寒川、山路には数百人もの木地師集団が、遠州、駿州、信州、日向、筑紫など全国から集まっていた。多くは木地師から農民化しつつあった人々であることに特徴がある。彼ら彼女らは木地づくりと椎茸栽培を同時に行っていた。
 木地師がもっとも早く山渡をやめて定住化していった地方として伊勢がある。その「解体」は織豊時代からはじまり、幕藩体制の下、少しずつ進行していく。その様は堀田吉雄の著書に詳しい。
 伊勢をトポス的仲立ちのようにして、東は遠州、駿州から伊豆に至り、西は紀州から阿波へとに至る道。その中で今も生きる共通項として、サンマ寿司を節目に食する文化がある。古くは熟れ鮨。そのサンマのなれずしを新宮の東宝茶屋で食した。「魚ではなくチーズだと思って食べてみてください」と言われた通り、まさにチーズである。ワインともよくあいそうであった。
 木地師と椎茸栽培。伊勢にある(元)木地師集落で祖父に代から今も椎茸栽培を営む方を訪ねた。木地師の末裔ではないと断られてはいたが、家のつくりや、使う山仕事の言葉にそれらしい片鱗がみられる。椎茸栽培は(栽培とはいうが)、職人の工芸みたいなものだと言われたとき、あぁその向き合い方こそが、木地師が椎茸栽培の先駆者たりえたエートスではなかったかと。
 伊勢と熊野を結ぶ山間にある寺では、文化年間に、椎茸屋(椎茸を扱う商人)が大般若経500巻のうち五巻を寄付した記を拝観することができた。ご厚意に謝しつつ縁を感じ入った。やってくれと背中を押されているのだと、いや本当に。
 海の博物館はすばらしい。ゲーター祭りと、太陽の魚、サンマ(あるいはサバ)を結びながら、展示から海人たちの来た道、私たちが向かう道を考えながら、見入った。
 さて、椎茸栽培が天然採取から栽培へ至る技術開発のなかで行われた技術の「発展」を科学哲学として捉えることが課題なのであるが、無理は承知で行けるところまで行ければよいと思うようになった。勝手なお願いを聞き入れいただき、応対いただいた多くの方々に手をあわせつつ、七月は豊後・日向へ向かう。

小さな畑の隅の肥やし山

令和7年2月17日。先週7日の金曜日から10日たったことになる。あの日の前後に積もった雪が、ようやく前庭からも消えた。裏の畑に面した軒下にはまだ屋根から落ちた雪が残ってはいる。明日からまた雪が降る天気となるようだが、それは予報が知らせてくれるだけであって、予兆を感じることはない。小鳥らがなにか教えてくれてもよさそうなものなのだが。

さて、裏の畑の隅には畑の穀物残滓や野菜や果物の屑やときには牛乳やら何やらをおいたり流したりしている「肥やし山」がある。いつごろからそうしてきたかはわからないが、年に一度ほりおこして下にできた土を畑へ移している。年々よくできるようになっている気がする。なぜか量が増えているのではないか。草が増えているわけではなかろうに。すると、それは野菜残渣の類の増加なのかもしれない。

この日はその肥やし山を整理した。例年と違うところは、昨年畑で株だけはたくさんできたタカキビの稈がたくさん残っており、それを下にひいてみたということ。考えていたわけではない。よく肥えているように見える最下層の土を掘り上げて、畑にほおるのだが、その畑に稈がたくさんほおったままであったのが目に入り、そうか、使ってみようと思い立ったに過ぎない。土の中に通気層ができるのは肥やしづくりにはよいと思われる。好気性発酵に寄与するであろうからだ。

嫌気性菌類での分解を促しているボックスの中の野菜残渣は比較的上のほうへ。分解はボックスの下部では進んでいたが、上部はかんばしくない。時々撹拌すればよいのだろうが、詰まることで水分調整が難しくなることをおそれている。容器が小さいこともあるが、今年はともかく違うやり方を試してみよう。

夕方5時少し前から畑に出て、一時間ばかりいただろうか。ずいぶんと日が長くなったものだ。気温は4℃くらい。けっこう動いても汗はかかないし、寒くもない。土を動かす仕事をするにはちょうどよい季節なのだ。

そして、畑のこと。今年はいろいろ動かしてみるのだ。山の畑に柵をと思う。大豆を作つける場所がなく、山にと思うのだ。獣との交渉をはかってきたが、話し合いは不調に終わり、昨年は種子さえとれないというこれまでにない事態となったことにもよる。

焼畑の次なるシーンを試すときでもある。つづく。

雪に思う

雪は人類史を遡るはるか古代より、地上にあったものだ。そう書きつけてみると奇妙な気がてくる。人がいない昔から天も星もあると言われることに違和はないが、こと雪についてはちがうのだ。

天空も星も手を伸ばしてもふれることすらできない。雪は手にふれることはもちろん、深いそれに身を沈めることもできる。手に取りかたくにぎってたまのようにして誰かに投げつける。転がしてたまをつくり雪だるまをつくる。それだけではない。大量に降り積もる豪雪地帯であれば、これから積もり始めるであろうという日には、明るいうちに、日暮れの前に、かけるものはかいてしまうべく、たんたんと除雪にいそしむものだ。

いろいろと書き連ねてみたいが、頭のなかに結論めいたものがあるうちに、唐突ではあるが、簡潔に終わりたい。雪が積もるところに住み続けたいと思うのだ。そこでは人がやさしい。斐川の人たちも私の母もそう言っていた。

石見から出雲に越してくる際、100センチを超えるような奥出雲の豪雪地帯にそれと知らず住むことを検討していたときもある。いまから思えば無理無理と、妻と話すのは冬の決まり文句のようなものになった。それでも雪のないところで暮らしたいとは、思いはするものの、やめておこうと考え直す。

その理由をひとつ。雪は不合理な存在だから。どんな奥地の田舎でもいまや都市の論理が深く入り込んでいる。そんなところでも、雪に対することだけは「しかたがない」とあきらめて、それに向かわざるを得ない。道路が使えなければ、勤務先からは「今日は休んでください」となる。これから雪もひどくなるからと早退という線もある。だが、災害・非常時というものとはニュアンスが違うのだ。

ヴィスワヴァ・シンボルスカの詩にあるなにか。なのだろうと思いつつ、詩集をひもとくのは、いずれまた。森の思想ともつながることだ。

「雪は天から送られた手紙であるということができる」

戦前の日本で、世界で初となる雪の結晶を

出雲の山墾り〜 R7-sec.2-6

朝から雪、そして雨。降っても小雨程度とみていたが、さにあらず。中止にするかとも考えたが、雨が降れば林内で焼けるな、それもよしと。あれた未整備の一角がある。あそこで。

そう、写真がその「あそこ」。燃えるかどうか若干の不安はあったが、そこそこ火力は出た。よい演習であった。

織火となったところにおいた竹筒ふたつには、鶏汁セット。今回はじめて、筒の側部から火がみえはじめ、途中はずすということになった。生煮えであったので、持ち帰って鍋で再加熱。竹の香りはまあまあ出ていた。

翌日の午後、灰をとりに入った。まだ炭が燃えているところも。突っ込んだ手をアッチッチと引っ込めることになった。

令和6年焼畑の蕪

温海かぶの種子が尽きそうなのは、昨年にほぼ収穫がなかったことによる。かろうじて種子だけを三株ばかりの残存から採った。夏の旱とコオロギらの異常な繁殖、加えて火入れ地のなにか(土質なのかなんなのか)、いくつかの要因のからみあいというか相乗というか。10株もなかったのではなかろうか。実ができたのは。花を咲かせ実をつけてはいたが、小鳥らが食べ尽くさんばかりであったので、未熟なものを里にひきあげ、ビニールか網をかぶせたものから採ったわずかな種子であった。

その種子とかなり以前に採取していたものを播種した。以下はその備忘である。

8月18日:火入れ

8月19日:播種(温海カブ1)
8月24日:播種(天王寺カブ、コリアンダー、ディル)
8月28日:播種(温海カブ2、コリアンダー)
9月7日:追播(天王寺カブ、コリアンダー)
9月15日:追播(天王寺カブ)と大根播種

下の発芽は8月28日。ごくわずかだった。写真はないが、記憶によれば、9月上旬にようやく周辺部に発芽がみられた。

9月下旬から、焼きすぎによるものかどうかの検証も兼ねて、移植を11月くらいまで断続的にやった。

写真は9月29日の様子。驚くほど虫(コオロギなど)に食われていない。夏の暑さの影響だろうと考えた。虫も繁殖できなかったのだ、あの猛暑の日々で。

同じく9月29日の、これはダイコンの発芽(だと思う)。

10月20日。収穫をはじめた。

12月末。それなりの量がとれはした。

熊子ノ記憶探訪#羽須美

10月26日、邑南町の旧羽須美村へ。

昭和32年に、口羽村と阿須那村の合併により成った行政区であるが、素性を知るには明治22年の合併に遡らねばならない。この日まわった土地は旧口羽村にあたる。出羽川が江の川に注ぐ位置(口)にあり、口羽村と称するようになったようだ。古くは神稲郷(くましろごう)の一角※1。上田村、上口羽村、下口羽村、上田村からなった区域である。

口羽・羽須美双方とも、広島県の三次市(作木町)・安芸高田市(高宮町)と接し、島根県では辺境と目されている。昨年そちらに暮らすひとり住まいの父を亡くされた、近所の知る人は「島根のチベットだから」とおっしゃられる。古い、良いものが、残っているのになあ、とも。中国山地脊梁にあって、峠ではなく江の川を通じて山陽側に通じる土地であることが、地図からもみてとれる。

未踏の地でもあったので、町立図書館の羽須美分館で開架資料をみてたずねごとのあと、上田を歩き、下口羽で何人かに話を伺った。以下、簡単なメモを先に記し、のちに、聞き取りの概要を加筆することとする。

 

◆大上田(上田)、平佐、藤社、谷河内、松木を、ところどころ車をとめ、歩き見。地カブは見当たらずも、道端にツルマメ、ツルアズキあり。

 

◆藤社集落石碑(昭和57年建立)のそばにツリフネソウ。このあたりの集落全般に新しい墓石が(一方古いものは奥に隠れているのか整理されたのか)目に入り、暮らしの変貌を物語る。

◆一帯は名だたる鉄穴場だったところで、砂鉄神=竜尾神をまつった堂宇も残る。平佐、大上田、谷河内、それぞれ石積の石材、積み方が異なるところは年代等にもよるのだろうが、大変興味深い。多くが真砂を流した跡に残る岩塊(花崗閃緑岩?)を砕いたものだと伝わる。先の石碑はおそらく、亡き集落中にあって砕きがたく残っていたものではなかったかと想像する。

◆旧上田村の上田(大上田)の集落をまわってみたが、家族住まいが多いように感じられた。ひとり暮らしらしき家は小さく畑をしておられる風が軒先に垣間見える。蔵の多くはおそらく灰屋のあとに建てられているのだろう。礎石の上にたつ柱材がなんであるかが気になった。同様の柱は他の地区でもところどころに見られる。(下の写真左端、下部にそりの見られる柱)

 

◆熊子を知る人が、ふつうにまだあちこちにいらっしゃる稀有な地である。「日本中どこにでもある(あった)ものだと思ってた」という言葉が聞けるとは。。とはいえ、食べた記憶のある人も80代から90代で、記憶も戦前から戦後間もないころまでというのは動かない。

 

◆帰路、熊子を育てた記憶のある方のところへ行くと、刈払機のチップソーを研いでおられた。刃物の手入れが万端であるところ、身をただして習うべし。道端にヤマボクチらしいものを見かけたがアザミだろう。隣には鮮やかな花房を垂れるアザミに、マルハナバチが出入りしていた。

※1)神稲についてはまた別に。平凡社「歴史地名体系」でひけば、和名抄でここ口羽を含む邑南町域の地名として記載。比定地は島根県史によって「現瑞穂町上田所・下田所・上亀谷・下亀谷・鱒淵・出羽・三日市・山田・淀原・和田・原村・高見・上原・久喜・大林、現羽須美村雪田・阿須那・上口羽・下口羽・上田・戸河内」としている。和名抄が神稲として記載するのはほかに兵庫県は淡路の三原郷。

秋から冬へ〜庭と畑点描

10月19日―ガマズミ(カメンガラ)

かなり鳥に食べられるも、数年前までの全滅というほどではない。朝方、鳥たちが争いながら、啄んでいたが、この頃はあまり聴かない。どれだけ残るかわからないが、11月の終わりには熟しはじめるので、そこまで残れば採ろうと思う。挿し木から定植して8年くらいになるか。

10月19日―オトコヨウゾメ

庭木のなかで、ブルーベリーの隣にある。シマトネリコの陰になっており、もう少し陽があたればよいのにと思う。できるかな。ヨーゾメはガマズミの地方名で、土佐ではそう呼んでいた。妻が牧野植物園で買ってくれた牧野富太郎が写生したガマズミの画があるのだが、そこにはヨーゾメと記されている。オトコを冠するのは、オトコヨモギなどと同様、食べられない植物の意。食べられないガマズミなる意である。食べられないが、花はガマズミのような小花が群生するではなく、こぼれる粒のような白い花を、春にみせてくれる。その可憐はオトコには出せないものだ。名を変えたほうがよかろう。ならば、なんとつけようか。しばしそんなことを考えた。苦く食べられないとはいうが、果実酒としてよい味を出すらしい。紫から黄、薄紅と変化していく紅葉も美しいと、人はいうが、じっくり見たことがない。忙しいからなどといわず、今年は味わってみたいものだ。

10月24日―サクラマメ

猛暑、炎暑、なんと呼び、記憶にとどめおくのがよいのだろう。令和6年の夏。雨が降らない。連日35℃から38℃の最高気温。お盆をすぎれば、、、という見込み(願い)もかなわず、サクラマメの葉は白い班で満ち、たまらず、毎夕灌水をはじめた。息を吹き返しはしたものの、花をつけない。それだけの力が残っていないのだろう。9月も半ばをすぎてだったろうか結実には遅すぎる開花に、今年はひと鞘でも種子がとれればよいだろうと見ていた。なんとか間に合いそうではある。

10月24日―シュウメイギク

庭には白とピンクとあり、白い花がなかなか咲かず、でも、こうして花が見られるのはうれしい。

10月24日―スダジイ

いまごろ、若芽がとは思う。夏をしのいでのものかと思う。秋の終わりに鉢を移そう。

10月16日―金木犀

去年、かなり強く剪定したと記憶する。花は例年より多いくらいに咲いた。撮影した数日後にはいっせいに散った。香りが遠くまで流れるものだが、ご近所ではうちの金木犀がいちばん大きく、、、。ん、うちだけだろうか。いつも車をとめて家まで歩くとき、漂う香りは、どの金木犀だろう。などと、花の姿よりは香りが先立って心に残る。秋のあるときを知らせてくれるとともに、あぁ、今年も金木犀が咲いたね、と、安堵を世にもたらす幸せな木だ。

麦が発芽、里芋来る

10月29日、麦が発芽していた。写真は裸大麦のイチバンボシ。スペルト小麦も同じく発芽。播種は双方同日、1〜2日たっているようだから、10月28日発芽としておこう。播種は10月24日だったか。昨年より2日ほど早い播種で、発芽も早いはず。昨年より4〜5日ほど早い出足とみておく。もう1週間は早くてよい。大麦のほうは10日前だったと思う。基準を10月18日と叩き込もう。梅雨にかからないことを優先するとそうなる。今年、そうするのをやや躊躇したのは、気温の高い日が続いたからなのだが、うむ、ま、よしとして、来年の5月、6月まで、順調なることを祈る。懸念はカメムシである。増えているのだ。防除を木酢液でやってみることにする(日本木酢液協会)。冬の準備から。

午後、里芋来る。持ってこられたIさんと畑の様子などお話する。お会いするのはじつに1年ぶりだろうか。Iさんの里芋、こし、ねばり、甘みがあり、三刀屋在来とこちらでは呼んでいるが、特産でもなんでもなくて、昔からつくっているからということを聞いて、そうつけている。森の圃ここぺりの宮本さんから紹介いただいた方である。

出雲の山墾り〜 R6-sec.30

令和6年10月18日。晴れのち曇り。最高気温は30℃にまで達したようだ。暑い。東の山の端から、積雲かと見紛うような雲が湧き上がるのを見た。車で葡萄園からオリゼに帰る途次、まだきれいな花をつけている萩をところどころに見つける。ブレーキを踏んで、ものの30秒もあれば、手折ることもできたのだがそうはせず。記憶とともにここに記しおくこととする。長く暑かった夏は、人の畑に不作をもたらし秋の実りをそぎはしたが、野の草木は秋を忘れることなく淡々と、咲くべきときに咲いている。強さ、逞しさ、というものではなく、美しさをこそ、認めたい。端整であることを表す「美」であるより、可憐と形容すべきだろうが、よりふさわしい和語を見つけられず。

さて、この日、目にし、感じたことの断片を散りばめておく。

オリゼの庭と裏の畑と

†. 金木犀の花がいっせいに散りはじめた
一瞬なにかと思うほどに、樹下の足元をオレンジに染めていた。香りはまだかすかに漂う。昨年、樹高をおさえるべく強剪定を施しており、樹勢は変わらずとも弱ってはいると思う。その割には花がつきすぎかとも思う。カボチャを丸い樹冠全体に這わせるようにして強い陽射しを当てないことが、あるいはよい作用をもたらしているのかもしらん。谷間にあるような裏庭の環境にあっては、夏は日照に恵まれた点のような場所だから、カボチャにとっては当然の所行で、金木犀を思ってのことではない。お互いの加減がよいようにみえる。

†. ケールの発芽を確認、九条ネギはまだ
5〜6日前に播種したセルにおいて。冬の間に雪をかぶりながらも成長生存できるだろうか。春に花がつけば種子をとれるだろうか。

†. シュウメイギクの白が昨日開花
オリゼの庭のシュウメイギク。一輪のみだが。明日は雨が降るというのに。

山の畑にて

火入れ後、4回めくらいの草刈りか。これが最後かもしれないくらいの秋の草。急傾斜斜面については来週再来週にできるとよいのだがと思う。

†. セイタカアワダチソウ
鮮やかな黄の色が、まだ枯れるのには間がありそうな鈍い草色の中に目立つようになった。目についたものは、どうであれまず刈り取る。また花をつけるだろうが、勢いをそぐために。ツルアズキの群生が見られた場所で急繁殖をはじめたようだが、遠目からの視認したのみ。後日確かめることとする。

†. 牛の侵入
なぜこんなところに糞が。一頭のみ。小柄なやつだ。のびた草がないでいるところをたどりながら推するに、蕪栽培跡地の急斜面から入ったようだ。クサギを数本切り倒して崖に投げ込むように置いた。数日内に様子をみて、補強する。蕪が無傷だったのがなにより。

†. 焼畑の蕪
前回移植したものは、大きなものは活着(というのだろうが)したようだ。1週間以内には間引かねばならぬ箇所が目についた。日曜には少しばかり抜こう。形状のよいもの、すなわち種をとりたいものについては移植、そうでないものは持ち帰ることとする。

†. 焼畑の大根
前回播種したものの半分ほどが発芽か。

†. 焼畑のコリアンダーとディルとケール
雨が続いたなか、一月遅れくらいでの発芽と成長。どこまで大きくなれるだろうか。

†. タカキビ
小さくともよい種子がついている、ばら撒き地のものを2本刈り取る。タカキビは日照大事。

†. 大豆
一粒種はとれそうだ。種子をつけることすら無理かとみていたので、胸をなでおろしたい。焼畑・山畑大豆の血である。

†. コナラとシラカシ
なんと、シラカシを刈払機で切ってしまった。地面10センチほどから上。下部に葉を残してはいるので、生き残ってください。コナラは背をずいぶんとのばした。170センチくらいか。今年の春、牛にほぼすべて食われたところからの回復である。

†. キバナアキギリ
夏焼地の東斜面脇に花をつけて群生。はじめて見た、はずはないのだが、20mあまりにわたって群生している様ははじめてである。焼畑をしたことの何らかの影響によると思う。きれいだ。北西に面した1〜2mほどの切立ちの下でゆるやかな坂路である。火入れ前に何度か草刈りをしたことで、他の競合植物が劣勢となり、地下茎をもつアキギリの株立がふえたのだろう。

山野の谷間に広くはえる多年草です。秋のキノコ狩りで、よく目にする花のひとつです。山で秋を告げる花です。

《飯南町の植物ガイドブック,H25,飯南町森の案内人会》に記されているが、キノコも今年の秋は多く目にする。まとまった降雨がつづき、土がつねに湿っているからという要因も、キバナアキギリの群生をひろげたと思われる。

シソ科アキギリ属。学名はSalvia nipponica。日本のサルビアである。茶花として琴柱草(コトジソウ)の名としても知られる。《宮本巌,摘み草手帳,S53,山陰中央新報社》に、宮本はこう記す。

キバナアキギリは雪深い中国山地はいうまでもなく、雪の降る海岸山地でも十分見ることができる。仁摩町、大田市の後背を走る邇安山地、あるいは島根半島を縦走する島根山脈がそうである。かつて、約200万年も前、日本海ができたといわれるが、それ以来日本海がもたらす多量の積雪は新しい種の分化をうながし、かつそれに適応する数々の種を生み出した。地史的な要因によって作出される植物は他にもいろいろな要素があるが、こうした日本海の積雪が作り出した要素を特に日本海要素と呼ぶ。キバナアキギリはその日本海要素の一つである。春、残雪の消えやらぬころ、伸びた若芽を摘み、ゆでた後(塩)、ゴマあえ、辛子あえ、または油いためとする。