おいしい雑穀づくりと小屋づくりと山畑の手入れetc.~11月12日

作業日報。

11月12日(土)。

参加者1名+軽トラ1台。晴れ。気温?℃(14時)。

アマランサスが終わらず、アワは軒下に吊るしたままでした。

雀たちに随分とあげてしまったようで、試しに少しほぐしてみることに。

まずアマランサスと同じように厚い板の上におき、延棒で叩いてみたのですが、そっと叩いても飛び散る飛び散る。動画などでもよく見る光景です。ブルーシートの上でやりあとで集める方式でもよいのすが、なにぶん、ひとりで作業することが大半なので、それも難しい。

採用したのは洗濯板に擦り付ける方式。これが意外によいです。アマランサスとは比べ物にならないほどあっというまに解けます。

こりゃあ楽ちんだわ〜。いやもう来年は全部アワでもいいわと思うほどに気持よいです。ただ少し冷静になってみれば、アワは皮むきの工程がこの後あるのです。精米機をつかってやることも検討していますが、約8万円。法人をたちあげた後に機械を購入し、山村塾に貸し出す形をとるか。それはともかく、後工程もあるので、手間は変わらないのかもしらんです。

そして、裏庭で来年種取りように植えた小麦の芽が出ました。まずはひと安心。来年の常畑と小屋掛け計画へむけて。がんばるおー。

◉経過

12時30分~16時00分 アワ脱穀作業、アマランサス脱穀作業

16時00分~16時10分 片付け・撤収

おいしい雑穀づくりと小屋づくりと山畑の手入れetc.~11月7日

作業日報。

11月7日(月)。

参加者1名+軽トラ1台。晴れ。気温17℃(14時)。

2時間ほどでしたが、やりました。

裏の畑の土用豆をすべて収穫し、つるを始末しました。

ならして、うねたてして、さやえんどうを植えるかいなかを思案中です。

◉経過

14時30分~16時10分 アマランサス選別作業

16時10分~16時30分 蕎麦の結束、干し場さし

16時30分~16時40分 片付け・撤収

おいしい雑穀づくりと小屋づくりと山畑の手入れetc.~11月5日

作業日報。

11月5日(土)。島根大学里山理研究会との協同活動日です。

参加者6名+軽トラ1台。晴れ。気温17℃(12時)。

蕎麦は収獲遅れでした、やっちまいました。

あと10日前だったらなあと後悔。

◉経過

10時00分~11時30分 芋掘り

11時30分~12時10分 マーキングなど

12時10分~13時00分 昼食休憩

13時00分~14時30分 蕎麦収獲

14時30分~15時00分 カブ地間引き

▲芋掘りの後で。

▲蕎麦地。

おいしい雑穀づくりと小屋づくりと山畑の手入れetc.~11月4日

作業日報。

11月4日(金)。久しぶりの「晴れ」の日。肌寒くなってきましたし、そろそろ霜が降りそうですよ、蕎麦を収穫せねば〜。そして、今日は、まだまだかかるよアマランサスの選別作業でした。

参加者1名+軽トラ1台。晴れ時々曇り。気温17℃(12時)。

◉経過

14時00分~16時15分 アマランサス選別

16時15分~16時30分 片付け、撤収

おいしい雑穀づくりと小屋づくりと山畑の手入れetc.~10月24日

作業日報です。 10月24日(月)。三所の古民家で作業。トーミを本格使用し「成功」。 参加者1名+軽トラ1台。曇り時々雨。気温18℃(12時)。
◉経過
10時40分~11時00分 ダムの見える牧場のカブ地を路上から確認。牛柵の倒壊などなし。ブラウンスイスの新入りが引っ越してきており、しばし見学。
11時00分〜11時20分 古老取材:蕎麦、地カブ、柿渋のことなど
11時20分~12時40分 三所の古民家へ移動。アマランサス調製作業
12時40分~13時10分
昼食休憩
13時10分~16時15分 片付け、撤収


◉取材
 久しぶりに師匠の顔が庭先に見えたので、立ち寄ったら、これをなめて見ろと。どうだ?と。近頃はなんでもインスタントになったからなあ、と。何をおっしゃりたいのか、そしてこれはなんなのか。

 ……整理しましょう。ブルーシートに蕎麦を干されておられました。今年はできが悪いと、長雨でダメだったと。いやこちらもダメでした、焼畑に播いた種が発芽しなかったんです。なんででしょう? うーん、覆土せんとだなとの答え。 ここからがまた長いのですが、大幅に省略しますね。 液体は柿渋です。しかも匂わない。なめてもOK。2年〜3年かかるとか。そしてその柿渋を障子紙の古いのに塗る。その柿渋紙を敷いて蕎麦の種を干せば、通気性もあって乾燥がうまくいくのだということでした。つまりは試作段階なのか。 以下は断片備忘録です。

・地カブ……まぁ、自給自足の中でつくってきたというか、とってきたものだ。カブは雪にも寒さにも強い。冬、青物がない時にもとれる。春、とうだちした時のものもよい。そういうものは、とっておくものだ。桑園の中でそういう場所をとっていたものだ。(桑園の端というより桑園のなかだと)。
・タカキビ……脱穀したらもってきてくれ。箒の1本くらい土産にあげるから。これはとにかく長持ちするからいいんだ。

◉アマランサスはトーミでしっかり分別できることが判明 詳細はまた改めて写真解説をば。底なしに思えた脱穀調整作業にかなり明るい兆し。

 

ススキとセイタカアワダチソウの棲み分け?

 ススキが群落形成するころとセイタカアワダチソウのそれとは重なるようだ。後者はひところ盛んに目の敵にされていたが、最近ちょっとおとなしい気もする。見慣れたせいだろうか。建設残土を入れたところなどには相変わらず強い生命力ではびこっているようだが。
 群落を形成するものには、他の植物体を排除する物質を出すものが多い。蕎麦もそのひとつで、焼畑初年に蕎麦を播くのには、雑草の侵入をおさえる効果を期待してのものもある(椎葉村聞き書き記録で見聞した)。セイタカアワダチソウはやがて自らの出すその物質が自家中毒的に作用し弱っていくのだというニュースを見たのだが、どれほど信頼できるものかはその作用機序も含めて一度調べてみたい。
 茅葺きのまねごとだけでもしてみたいと、茅(ススキ)が生えているとつい見入ってしまうのだが、昨日こんな風景を見た。

 ススキとセイタカアワダチソウが共存共栄している。どんな関係なのだろう。現在拮抗しつつ、これからススキが黄色い花を駆逐していくのだろうか。

 そして、こちら。茅葺きをしようと目論んでいる小屋の周りをセイタカアワダチソウが取り囲んでいる。写真では見えないかも知れないが、ススキもすこーし混じっているのだ。

 両方とも刈ってしまった。さて、今後どうなるのやら。これまでの経験から、刈り取り後の勢力回復力が強いのはセイタカアワダチソウのほうである。開花時期はススキとほぼ同時期だが、地下茎に蓄えられる力はセイタカのほうが強いのではないか。また、ススキは株立ちだが、セイタカはバラ立ち(なんというのか)のように面積を広げやすい。ただ、環境変化に最終的に強いのは株立ちなのかもなあと思ったり。
 そして、この小屋周辺は種取りや実験的菜園として利用できればと思っているのだが、、、はてさて。
 その生き物がそこにいるのには何か理由があるはずで、それを知りたいのだ、ぼくは。
 竹が邪魔だというので、まず切り倒すというのではないやり方を試行してきたのだが、なかなか伝わりづらいものだなあ。
 この建設残土を入れた場所が牧場となっている。竹がはびこる理由は人間が管理しなくなったからというだけではないと思うのだ。なぜ竹がそこにふえたのか。そんなことを草刈り機をとめて、夕暮れの道をとぼとぼ歩く途中で考えている。わからない。わからないことだらけだ。
 余談。
 荒地に最初に進出するのはオオアレチノギクやヒメアレチノギクで、焼畑(夏焼)の跡地にもこの2つが入り込んでいる。開花は夏から初秋にかけて。一方、ススキもセイタカアワダチソウも晩秋である。ほかの花が咲き終わった後にくる。さて、このふたつともが外来種で明治以降に「来日」したものである。江戸以前の焼畑ではどういう遷移をたどったのだろうかという点が気になる。
 さてさて、建設残土の荒地といえば葛。こちらは在来で利用法も多様。繊維から糸をとったり、若葉を尻拭きにも使い、そして葛根は澱粉をいまでも利用する。葛の葉はまだ元気があるが、気温が10℃を下る日が増えてきて勢いが急速にしぼんでいる。
 荒地にふえる者たちと竹との共通項など、少し整理してみたい。次回!

畑と茅と森と近況報告〜2016年10月17日

つれづれなるままに、奥出雲山村塾の近況報告です。
アワ、ヒエ、タカキビ、アマランサス。この4つの乾燥は十分。脱穀調製に入っています。あぁ、もちろんすべて手作業でして、気が遠くなりつつありますが、その度に気を取り直しつつ試行錯誤が続いています。
ここ数日は根を詰めてやりましたので、指や手の平の痛みがかなり来ており、揉むよりは叩くほうにシフト中です。まな板状のものにアマランサスを載せて棒で叩く。これが基本ですが、殻が取れずに残ったものは、手箕をなんどもふり、篩に幾度とかけ、団扇であおぐ、息を吹く、と何をやってもうまくいかず、最終手段として指で揉んで実を取り出した後、また同じことの繰り返しとなります。 半日やると指先がヒリヒリしてきますので、何か別な方法を編み出さねば。。。。この調子だと一冬以上かかってしまいかねない。


アワは来年の春蒔き用の種とするものを優先する予定です。が、予定は未定でもあり、料理用にまわして、タネは再度入手でも悪くはない。在来で手に入ればそれがよいでしょう。今年播いたのは岩手のモチアワでしたので、西日本のモチアワで入手できるものがあればそれを優先したい。
そうそう、東北のアワは島根にもかなり入ってきているようです。少量とはいえ、県産の雑穀栽培は需要があるのではないでしょうか。少し調べて、、というより、こういうときに、さくっと聞けるとよいのですが。基本メールでしか質問は受け付けていないようで、アワの発芽についての質問メールを送ったのが6月だったか。いまだ返信なしです。
閑話休題。来年のアワはかなりの量の播種を目ざし、面積拡大するぞ。圃場確保にこれから走らなければ!! もちろん普通の畑では無理です。誰も手をつけない遊休地か放棄地。世間の外れをひたすら歩むのみ。


上の写真は右からモチアワ(岩手の種から)、タカキビ(これも岩手種だったかな。ただし林原在来も収穫しています)、アマランサス(脱穀したもの、岩手産の種と長野の種が混じっているはず)。ちなみに、アワは見たことのない老人も多いほど、出雲地方では早くから姿を消しているようです。出雲地域で、アワ、ヒエ、キビなどの雑穀で最後まで栽培が続き、今でもまれにつくっておられるのはタカキビです。なぜなのか。聞き取りを進めたい。
さて、道具や物置の場所をつくるために、小屋をつくります。場所は提供いただけます。感謝。骨格は使ってない建設資材など。壁はこれも板などを拾ってくる。屋根は竹を組み、茅で葺きます。仮設でトタンを縛れるとよいのですが、これも拾えるかなあ。
雨がたまらぬよう排水もとらねばなりません。あくまで小屋なので、仮設性も担保せねばならぬし、なかなか頭も手も足も使いますが、修行ですなあ。
山あがり取材調査は遅々としていますが進行中ではあります。牛だよねえ。牛。志津見の村々には猿の頭を厩に祀った話も調査記録に残っています。

中野の豆腐とこんにゃく

木次線開通100周年。式典はこっそりと一瞬除いて、写真だけじっくりと眺めていました。そうそう、別な機会に阿井村から中野村に嫁にきて、木次線を使って里帰りしていた90歳のお婆ちゃんに話を聞くことがありました。中野は新しく普請した家が多く、古いものは残っていないのだと。しょーけ小屋(塩気小屋)は、小さい頃に見た。姑さんがつくっていたが自分はやっていないのだと。今でも豆腐とこんにゃくは年に何度か、朝4時からつくるのだと。
また、同じ婆さんと近所の茶飲み友達とのお話の中で土用豆のこと。ここら(中野)では、土用豆ではなく七夕豆と呼ばれているようです。だらず豆とも呼ぶそう。青い時分には塩ゆでにもして食べるというのは初耳でした。阿井のご出身ならば、ホトホトのことをたずねればよかったなあ。次回。
あ、中野での麻づくり、共同作業(蒸したりといった)の体験を語れる人と出会いました。79歳。戦前のことです。忘れておられるでしょうから今度写真と手土産持参で行ってきます。茅葺きの軒はに麻を使ったそうですが、首をかしげながらだったので、そこらは再度確かめましょう。

奥出雲の蕎麦栽培はたたら製鉄の興隆とともにひろまった?(わけではない)

焼畑の蕎麦の様子は明日確認してくるとして、作業用メモ。

16/09/10の山陰中央新報の記事にひっかかった。

http://www.sanin-chuo.co.jp/health/modules/news/article.php?storyid=561119179

→リンク切れ(2019/08/28確認)

問題の箇所を引用する。

”同町のソバは、たたら製鉄の原料となる砂鉄を採った跡を田畑に変えたり、木炭生産のために切り出した山林の跡を焼き畑にしたりしながら栽培が広がった。”

新聞記事にしては大胆な書き方であって、通常は「○○によれば」という上で書かれそうなものであるが、大丈夫なのだろうか。

「木炭生産のために切り出した山林の跡を焼畑にする」。可能性はあるにしても、いつの時代のことなのだろう。そもそも奥出雲での蕎麦栽培が「広がった」のは、そこではないだろう。

………

†. 焼畑・切替畑とたたら山内・製鉄の関係については未見未聞。断片的な史料しかないのだろうが、まずは史料と文献をそろえてみよう。そもそも蕎麦についても出雲蕎麦について流布しているものがかなり怪しいのだから。

†. 奥出雲で蕎麦栽培が”広がった”のはむしろ近年でしょう。農林水産統計をしらみつぶしにあたってみることに。他の産品にも注目。大根、柿、椎茸、などなど。耕地面積もわかれば。

……

原傳の著作など読み直すところからか、、、と思って検索かけたら、なんと。国会図書館アーカイブで公開されていた。原傳,1934『松江藩経済史の研究』(日本評論社)

 丹念に読んでみよう。

◆2019年8月28日追記

 「奥出雲で蕎麦栽培が”広がった”のはむしろ近年」の記事を追加する予定ゆえ、その下書き的に。

◉原傳の『松江藩経済史の研究』がわかりやすいのだが、管見の及ぶ限り、奥出雲地方における山野利用の歴史・地理分野の資料から推測されるのは、鉄山経営が保護されていた藩政期において、山林の焼畑で蕎麦を栽培するのは困難であったろうということ。

 少なくとも奥出雲の蕎麦栽培は、たたら製鉄とは別脈の流れからよってきたるものだろう。

1)原傳の『松江藩経済史の研究』からみてみる。

2)太田直行著,昭和13年刊『出雲新風土記 味覚の巻』から、八川におけるソバ栽培について。

3)統計資料、農水省等のデータから

4)矢富熊一郎 著,昭和40年刊『石見匹見町史』から第2編・歴史編〜江戸時代〜そばの栽培

第13回日本オオサンショウウオの会邑南大会

全国から(邑南町をのぞく県内参加者はおそらく10人未満)約150名が集まった”第13回日本オオサンショウウオの会邑南大会”のレポートは今週末に〜。
10月2日の昼間の部のみ参加して奥出雲町布勢・八代川のオオサンショウウオのことも片隅でアピールしてきました(A1ポスター2枚手作り)。噂にたがわず報告会は大変エキサイティングでして大満足、いや、ホントおすすめしたい、来年は鳥取県南部町で開催です。みなさん是非!

さて、以下は自分用・関心のポイントです。
◉出雲地域の関心の低さは根深い。形成されてきた自然観の違いと社会集団のスケールが関与しているんだろう。
◉中高生と研究者が同じ舞台で発表するなんて「学会」はそうそうないです、素晴らしい! 「大人」の態度もそれぞれでこれまたおもしろいし、いい!
例えば……中学生の発表に対して質問が3つの姿勢でなされました
・大人A)言葉が不適切ではないか。おかしい。説明して。
・大人B)○○だったんだよね。その時こういうところが大事なんです。どうでした? 教えて。
厳しく大人げなくもあるけれど、同じ研究者として対等に接しているAさん。中学生の理解度を考えながら、教育的にやさしく接しつつも、ポイントを引き出そうとしているBさん。
どちらもありでしょうし、両者とも探究心・好奇心・研究心が感じられて、大会への好感度がさらにヒートアップしました。
◉人がバカにならないための環境・頭がまわる、頭を使う環境設定がある。
人口密度と人口の違いがどうやらわからなくなっている人がいて、何度も自分の耳を疑ったのだが、どうやら頭を働かせることを全力で回避するような環境にいると、そうなるのかなと思い。
◉近い将来オオサンショウウオは奥出雲からはいなくなることが見えたので、なけなしの保全活動&調査だけじゃあかんのだろう。
◉江戸期の博物誌などをみると、サンショウウオオオサンショウウオが混同同一視されている。サンショウウオをのぞくと紙に残っている地方名も思いの外少ない。ハンザキ、ハンザケ、アンコウ、ハダカス。食す、飼うなど。食べた人の記憶が残っている間にもうちょいひろっておくべし。
◉タニグクはヒキガエルではなくオオサンショウウオであるとの見解を碩学から頂戴した。土壌の神=スクナヒコナ=農業神とのかかわりの中であたってみたい。

9月27日の焼畑レポートより

9月27日焼畑レポート。 アマランサスの収穫を終えました。アワ、ヒエ、タカキビとともに、木次と三所にわけて干してます。

さて、アマランサスの運搬途中に布勢のポプラで三沢のIさんとばったり。雑穀を分別する手箕のふるい方を誰かに教わりたいんですけど〜という話のなかで、「うちのトーミを貸すよ」と申し出いただきました。ありがとうございます! 温海カブは順調なるも間引き必須。蕎麦は雨による倒伏もあってあまりかんばしくないです。もっと秋らしく晴れてくれ〜。

9月も終わります。おいしい雑穀スイーツ開発へ向けてダッシュです。