日の出団扇を竹紙で

 今年の竹紙づくりはちょいと青色吐息。今年の漬け込みはなしにしよう。なんといっても場所の確保が難しい。樽の置き場所が。まだ漬けこんだままのものも乾燥させて取り込まねばならぬし、漉き枠をつくることと、竹意外の植物を試すなどをしてみよう、そのぶん。
 そして、団扇に使う紙を竹紙でつくるのをやってみたい。まずは団扇の骨だけは既成のものを使う。。。のであるが、夢は日の出団扇です。

 出雲民芸館で邂逅した金津ちかさんのそれ。無骨な竹の骨なのに優美を感じるのはなぜ。人の手がぐぐーっと入っているその気によるものなのではなかろうか。

今日の雑読断片

 昨日、6月16日のことであるが、書きとどめておくべきことして。
【ダイコン】
魚谷常吉 (著)・平野 雅章 (編)『味覚法楽』 (2003;中公文庫)

ダイコンは日本人の食物として最も広く、かつ多く用いられ、常にその恩恵に預かっているのにもかかわらず、恩に慣れてかあまり珍重がられず、その真価を認められていない傾きがあるのは、不思議といわねばならない。
(中略)
最後に、その料理法の中で特にうまいと思われる二、三について述べると、おろしダイコンをもって第一に推したい。(中略)ただ水で洗い、皮のままおろし金でおろせばよいので、そのとき汁を捨てないだけが条件で、もし水分が多すぎると思う場合にはカツオの粉を加えて加減すれば、食いやすくなり味も優れるのである。なおこれに使うしょうゆは、うま味があるものを用いるのも条件である。ぜいたくにするならば揉みノリなど加えてもよいが、そのうま味を賞するには、おろしたままの汁をしぼらないところへ、しょうゆを適宜加えるだけのものに限るようである。

『風来好日スモールライフ』の久保田昭三さんもダイコンをよく使っておられたのではと記憶する。巻頭の写真の中で畑の小さなダイコンを撮っているのだ。常食は馬鈴薯と大根と屑米と自飼いの鶏の卵であったか。そして、お元気だろうか。一筆したためてみよう。
 ダイコンの民俗については、まだ最低限の整理ができていない。平凡社・世界大百科の項で飯島吉晴はこう記しているので、引っ張っておく。整理したものはひとつ前の記事に加筆する。

大根は,かつて青森県五戸地方で,10人家族でひと冬700本用意したというほど,漬物やかて飯の材料として日常の重要な食糧とされた。一方,大根 は種々の形に細工しやすく,婚礼の宴席に男女の性器を模したものが出され,またその色が神聖感を与えるために,古くから正月の歯固めをはじめ,ハレの日の食品や神供として用いられた。

 追記すると、アエノコトにおいて、ひと組のダイコンを男女に模している再現写真があって、これは興味深い。これは奥能登のこととして後述されてもいる。

また大根は種々の俗信や禁忌を伴っている。種を土用の入りや丑の日に撒くと,葬式用や曲り大根になるといって 嫌う所が多い。また大根畑に七夕飾りの竹や桃の枝をさしておくと虫がつかないという所も多い。東日本では,十日夜(とおかんや)を〈大根の年取り〉といい,この日に餅をつく音やわら鉄砲の音で大根は太るといい,大根の太る音を聞くと死ぬといって大根畑へ行くことや大根を食べるのを禁じている所もある。西日本では10月の亥子に同様の伝承があり,この日に大根畑へいくと大根が腐る,太らない,裂け目ができる,疫病神がつくといい,また大根の太る音や割れる音を聞くと死ぬともいう。このほか,半夏生(はんげしよう),彼岸,社日,夷講などの季節の折り目や収穫祭にも大根畑にいくのを忌む。これは大根が神祭の重要な食品であり,大根畑は霊界に近い神の出現する神聖な場所と見なされていたことを示している。

 北九州では,稲の収穫祭である霜月の丑の日の前日に大黒祭が行われ,二 股大根を箕(み)にのせ,供物をして祭っている。奥能登のアエノコトでも,二股大根を田の神として丁重に扱う風がある。大黒と大根は語音が近いためか,二股大根を〈大黒の嫁御〉といっている地方は多い。また〈違い大根〉は聖天(歓喜天)の紋とされ,この絵馬を聖天にささげ,大根を絶ち,夫婦和合や福利の祈 願を行う。また,大根が聖天の持物とされることもある。


【河内とは】
奥出雲町三沢の河内と四日市の土地の履歴をたどるにあたっての知識として備えておきたく。
大塚 英志 (編) 『柳田国男山人論集成』(2013,角川ソフィア文庫)所収
「山民の生活」(下)

p73
山々の神を本居宣長は、大山祇神であろうとか大山辺の神であろうかというけれども、そうではない。民俗にはただ山の神とのみいいならわして居る。山に向かって入るところに祀るまでの神である。荒神は原野山野の神である。

「山民の生活」(第二回大会席上にて)
p76

「山口」とか「川上」とかいう村は次の時代にはすでに川下に成ってその奥にまた村が出来る。例えば若狭の南河の谷などはほとんど源頭まで民家がありまして、「奥坂本」という村の奥になお数箇の部落があります。我々の祖先はかくのごとき地形を河内(カワチ)と名づけまた入野(イリノ)とも呼びました。「我が恋はまさかも悲し草まくら多胡の入野の奥もまかなし」という万葉の歌などは、入野が盛んに開かれた時代には人を感ぜしめた歌でありましょう。
 入野では三方の山から水が流れますから、……

p88

全国を通じて最も単純でかつ最も由緒を知りにくいのは「荒神」「サイノ神」「山ノ神」であります。仏教でも神道でも相応に理由を付けて我領分へ引き入れようとはしますが。いまだ十分なる根拠はありませぬ。
「山ノ神」は今日でも猟夫が猟に入り木樵が伐木に入り石工が新たに山道を開く際に必ずまず祀る神で、村によってはその持山内に数十の祠がある。思うにこれは山口の神であって、祖先の日本人が自分の占有する土地といまだに占有しぬ土地との境に立てて祀ったものでありましょう。

荒神三宝荒神などといって今は竈の神のように思われておりますが、地方では山神と同じく山野の神で。神道の盛んな出雲国などにも村々にたくさんあります。

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竹の焼き畑2016-sec.8〜伐る・植える

6月11日(土)。春から数えて8回目の作業日。夏焼きに向けては2回目となります。
島根大から学生3名(1名は飲み過ぎによる体調不良でキャンセル)、教員1名、そして奥出雲山村塾からの私1名で取り組みました。
天気予報が梅雨らしくもころころと変わり、開始時刻や日にちをどうするかで幾度か協議の末の実施でしたが、結果としてはまずまずかと思います。作業そのものはできましたので。ただ種植えと伐開エリアの確認(協議)のみとなり、伐開開始はできず、でした。
気になるのは、学生メンバーの体力(気力含む)ですね。メンバーが固定しているのはよいのですが、新規加入がありませんので、そら参ってくるかもです。がしかし、かもも同情も利すること少なし。やりますよ、山村塾は平日も。このままでは夏の火入れができませんし、なんための汗と筋肉痛と切り傷・刺し傷かと。至上の麦酒も成果あってのこと。
もちろん舵は火入れ面積縮小の方向に動かしています。
しかし、伐開と伏せ込みそのものは、人が多すぎると非効率な面もでてきます。おそらく6人くらいがちょうどいいはずです。ただ今年は春焼き地の間引きや、7月に入っての大豆の種蒔きや、2年目の山の除草もありますので、次週からは10人以上は見込みたいのですけれど。

人の所業よりも自然の摂理優先の発芽状況ですが、3日前よりもさらに進んではいるようです。上の写真はアマランサス。ただ、やはり状況はあまりよろしくない。アマランサスの種は若干まだ手元にあるので、発芽しないところにポツポツと播いてみようと思っています。次週の平日に。曇りであれば杉の伐倒か玉切りもしたいところ。

縁あって島根大学で入手された山形のツルアズキのひとつ(野生種でなく在来種)を播きました。

朝9時半〜夕方5時までの作業でした。(松江班は10時半〜14時半まで)
◉播いた種
春焼き地:落花生、ツルアズキ(ヘミツルアズキ)、大豆(  )、ヒエ(  )
2年目地:鷹の爪、大豆(   )、タカキビ(林原在来)
おつかされま〜。

モウソウチクの盛衰(仮)

 表題についてのメモ書きが出てきた。おそらく3年前にまとめたものだと思うのだが、本体が見当たらない。拾い出して整理し直すべく、まずここにあげておく。
モウソウチクの盛衰(仮)
1)全国の農家にひろまったのはどうやら昭和初期。それまではごく一部で栽培。
2)戦後、さらにひろまる。
3)1970年代後半から80年代前半にさらにひろまる(タケノコ増産奨励)
  ※70年頃にマダケの世界的一斉開花と枯渇が生じたあとの代替説あり。
4)90年代初頭に中国産筍の輸入拡大で価格暴落と生産の衰退・放棄。
5)90年代後半から放置竹林の荒廃化がすすむ
6)2001年5月21日、NHKクローズアップ現代が「列島に忍び寄る竹の異変」をとりあげる。……間違った理解※も広まるが、一気に人口に膾炙。
 ※荒廃した竹林はきょく(以下欠落)
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焼畑のアワ、アマランサス、ヒエが発芽

 火入れ&播種から2週間たっても発芽が見られず、何が悪かったのだろうかと思い悩む日が続いていましたが、今日、発芽を確認できました。梅雨に入っての気温上昇と降雨によるものと思います。
 しかし、状況はよくはないです。もっといっせいに出てこなければならんのですけれどね。
 こちらがアワ(のはず)。

 そして、こちらがアマランサス。

 5日前に土を多少起こして筋播きしたヒエは、うまく発芽しています。

老松には夏がこたえるらしい

Mさんに松の手入れにきていただいた。ていねいにやっていただいた。頭の下がる思いである。ありがたい。

松蔵と名付けた我が家の庭の老松。前の家主から百年を超える樹齢だと聞いているが定かではない。家が建ったのが昭和30年?だったろうか。家よりも年を重ねているだろうから、90〜100歳というのは妥当な線だろう。

新芽だけを残して他の葉をとってしまっているのは、菌に感染しているからだ。薬で退治する方法もあるらしいが、対処療法であるし、1ヶ月に1度は薬剤を散布しつづける。もともと体力が落ちている老人と同様、一度薬を使い始めれれば、ずーっと使い続けなければすぐに症状は出てくるものだというのだから、松蔵にとってもよい選択ではないだろう(と思う)。

樹勢が回復すれば、病気にもかかりにくくなる。樹勢を回復させる方法はいくつかある。ここからはMさんから聞いたことを主として箇条書きにして備忘とする。

・松は砂地など滋養の乏しい地に率先優先して根をおろす樹種である。土中の菌との共生関係を築くのだが、それは特定の菌種との関係である。

・上記とも関連して、樹勢が衰えたときにも、肥料の投入は功を奏さない。むしろ肥料をとりのぞくくらいのほうがよい。土を砂地にしてみるなどで回復させることもある。

液肥を施すことで回復ははかれる。市販のもの。

・何か手を入れるのであれば、秋以降。12月から年明けくらいまでがダメージが少ないと思われる。

・夏のかんかん照りで水が乏しい時には朝早くか夕暮れに水をやったほうがいい。葉に直接かけるのでもいい。松は水をやらなくてもいいなどというが、そうでもない。とくに弱っているときには。

・根元の豆科系の植物はとったほうがいい。

・菌にやられて茶色くなった葉もとりのぞいたり、地面に落ちたものも取り除くなどしたほうがいい。

……といったところかな。思い出したら追記します。豆はとって鉢に移そうと思う。すぐはびこるので、大きめのプラ鉢にいれて駐車場のうしろでもいいかもね。

竹の焼き畑2016-sec.7〜竹林伐開はじめだった日に

6月4日(土)。6名が参加しての山入りでしたが、中国地方、梅雨入り宣言です。もともと天気予報も夕刻から降雨でしたが、どうやら昼過ぎから落ちそうな気配。そんなこんなもあって、この日から伐開開始予定でしたが、課題協議に1時間ほどとサツマイモの植え付けで午前は終了。島根大チームはここで撤収。
午後は引き続き、ヒエの播種を行いました。


アワとアマランサスの発芽がみられないこともあり、竹の根ががちがちに張った土を起こして、そこに種を丁寧にまく方式を試します。

昨年初秋の温海カブの場合には焼いた後にばらまくだけで発芽は良好でした。発芽には気温や雨量など諸条件ありますが、雑穀の種は違うのかもしれません。そして、温海カブは焼畑で育種されてきた種ですが、今回播種している種はそうではありません。
このヒエの発芽が良好ならば(早ければ1週間で出るはず)、急遽、少量であっても、アワ・アマランサスで追試(追加種蒔き)に挑まねば。
先週定植した匍匐性のミニトマトは無事根付いたようです。こちらは、めでたしめでし、ひとまずは。

そうこうしているうちに、夏焼きの日程がつまっており、人出が足りません。6月中旬、下旬と連続して説明勧誘会を開きますので、どうぞよろしゅう。
島大の某研究室で焼畑ゼミもどうやら開かれます。なんと毎週! 詳報は追って。
そして今日の協議での雑感。昨今の大学生は多忙だとはいえサークル活動は盛んなようです。が、ものをつくる活動は概して低調不人気なようです。”コスパ”でみれば、ものづくりは避けて通る道として認識されている。大学生の本分は要領の良さだということを官学あげて推奨しておられることが功を奏しているのでしょう。
ものをつくる人間がいなくなったら、早晩、社会も文明も世界も終わるのですから、まあ、一般意志なるものは、終わりに向かう道を選択したのでしょう。しかし道はひとつではないので、獣道なり小道なりのものはここにつくっておきたいなあと思っています。以上。

村のはじまり〜1

 日本の村はいつごろから村となったのか? わかったようなわからないような問いではあるが、およそ14世紀頃だとされている。応仁の乱前後のことである。
 さて、島根県仁多郡の北端に位置する三澤郷(現奥出雲町三沢地区、阿井地区の一部、雲南市木次町温泉地区)の成立について、「沢=豊富な水=水源」というものを問いを切り開く先鋒として使ってみたい。
 さするに、三澤における水汲みの場のなかでも、をち水として出雲国国造が朝廷に献上したその水はどこから汲んでいたのか問題の重要ポイントがこの地図の場所である。
 時代は先の村の創生期たる応仁の乱から一時代をさかのぼった奈良・平安の頃になるのだが。
 いやはやさてはて。
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 村の始原への問いは常に頭の片隅にじっとうずくまっている。村を開く、村をはじめる、群れでその土地を占有し、定住することである。むらの語源としてむれ(群れ)があることはどの辞典にも記されていることがらである。移動をつづける狩猟採集あるいは遊牧主体の群れから、ひとつ土地にとどまってそこで命をつないでいくということの始原において、むらは生まれたのだ。
 さするに、それは、私の頭の奥底で、物心つく頃から座しつづける問いへとつながる。
「人は群れとして生きるのか、個として生きるのか」
 村の始原を問うことは、人が群れとして生きるというのはどういうことなのかを問うことなのだ。
 村が人間集団のあり方のなかでも、その基底に位置する形態であるのだから、村は日本だけのものではない。平凡社『世界大百科事典』は「村」の項をこうはじめていてわかりやすい。

〈むら〉とは農林水産業,すなわち第1次産業を主たる生業とするものの集落単位の総称であり,商工業者を主とする〈まち〉に対応する概念である。したがってそれは人類の歴史とともに古く,地球上どこにでも存在する普遍的かつ基本的な社会集団であるといえるが,〈むら〉のしくみや経済的機能は,民族により,また同じ民族であっても地域により,時代によって,きわめてまちまちである。

 一般に<村>という場合、それは<町>に対置される存在であることを挙げたのちに、地球上どこにでも存在する普遍的かつ基本的な「社会集団」のことであると定義する。しかし村の内実、すなわち村を村たらしめるものの時代・地域による多様なあり方を見よと、筆は読み手をいざなおうとする。
 その誘いにのるのは、次の機会にしよう、すぐに訪れる。
 ヨーロッパ、中東、インド、中国、朝鮮……と、きて、日本のところから抜粋しよう。

中世
 広域の地域区分ないし所領単位である郷や荘の内部に形成された,比較的小さな地域単位ないしそれに対応する共同体を指す語として村が現れる。その時期は地域差があり,中世初頭から始まって,中世後期には一般化する。

このような郷=村は支配の単位であるとともに,百姓相互の地縁的な共同体,いわゆる村落であった。これが発展して自治的な政治組織をもつようになったのが惣村である。草分け的な百姓である住人が集団で開発したことが契機となって村が形成された場合は惣村に発展しやすい。領主側の開発が大きな比重を占めた場合,あるいは領主が村落領主の公文層を支配権力の中に組織した場合など,領主支配が強いと自治的な惣村に発展しにくいが,その場合も,中世後期に百姓による共同体の形成が進む。

近世
(1)成立と特質 人の集住する小地域を村と呼ぶことは古代からあったが,〈村〉という行政単位が出現するのは太閤検地以降の検地によってである。また近世の村はこの時代における最も重要な社会的構成単位でもあった。近世の村の特質は石高制と村請(むらうけ)制である。

横田の焼畑といえば蕎麦だという人

 そうそう。ダムの見える牧場での一昨日の活動のこと。

 搾乳したミルク(原乳?)をタンクでピックアップしにきたおじさんが尋ねてきた。この間焼いたところは蕎麦をまいたんかい?と。

 いえいえ、アワやキビですよ。これから夏に焼くところを伐りますけれど、そこにはカブと蕎麦を播く予定です。

 対しておじさん曰く。

 横田の焼畑といえば、蕎麦だと思っとった。焼いた後の一杯がたまらんのだろうな〜とうれしそうな笑顔で。

 そうだろうなああ。苦労して準備して無事に火入れが終わって種を蒔いて、そして乾杯するという中での「宴」がね、落ちているのですよ。まず場所がない。なにより泊まるところがない。煎じ詰めればお金がない。どうしたもんじゃろなあ。