味噌と納豆を仕込む

 3月13日(月)。曇り時々晴れ。カフェ・オリゼで味噌を仕込んだ日。
 黒大豆の味噌づくりは、オリゼにとってははじめてです。頓原にある森の圃ここぺりでとれた赤名黒姫丸(固定種)ですが、お味噌にするにはもったいないほど粒がきれいでしっかりした大豆です。豆は基本的に無肥料栽培しやすいのですが、肥料使ってもここまでのものをつくるには農薬による管理もしないと難しいのだろうなあ、などと思いながら眺めている……暇はありませんでした。

 シートをひろげ、何度も拭き、アルコール殺菌し、などなど。とはいえ、つくるのは妻の仕事になっておりまして、自然栽培米の白大豆を使って仕込む”味噌仲間”ひとりと一緒に仕込み作業に入る間は、事務作業のほうにかかっていたのですが。
 

 あわせて17kgほどを仕込んだ味噌。樽明けは1年後となります。
 そして今年こそは焼畑地の山畑で大豆をつくり、「焼畑味噌」をつくるのです。
 ともに大豆をつくり、味噌をつくる仲間を募集中!
 こちらからお問合せください。
 奥出雲山村塾(焼畑倶楽部)
 また、竹の葉で納豆をつくる試験にも挑戦。結果はまたのちほど。

 

味噌樽をあけた日

 ちょうど1年前に妻が仕込んだ味噌が開けられた。手伝ってくれた東京の大学生に送りたいのだが、はてアドレスはどこへ行ったっけ? ファイルの場所は覚えているので、奥にもぐれば出てくるだろう。
 そして反省。今年はお世話になっているここぺりさんの赤名黒姫丸で味噌をつくることになっているのだが、計画では焼畑で栽培した大豆を使うはずだったのである。昨年はやろうとしてできなかったことがたくさんあった。今年は大豆をきちんと育てたい。豆なんて簡単なものだと思っていたのだが、さにあらず。どこに植えるかを思案中、肥料を投入しない「移動耕作」にとってはそれがいちばん大事なことだ。

モチアワの精白作業〜詳細写真

 3月1日(水)、曇時々晴。13時〜16時までみっちり脱穀精白作業に取り組みました。
 脱穀は洗濯板で擦って落とす方法を採用しています。素手だと量をこなすにはきつい。軍手の着用も考えましたが、繊維がまじるとあとが面倒だなと思い躊躇してしまいます。
 選別は篩で粒単位にした後、手箕で3〜5回ふるい、唐箕にかけます。
 そこまででこの状態(写真1)
 
 量としては1.7リットルくらい。1キロ弱でしょうか。
 これだけの量の脱穀作業時間ですが、およそ2〜3時間かなあ(アバウト推量)。
 ミキサーに3回にわけてかけ精白(脱ぷ)します。機械とは違い、むいた皮などと一緒なので、再び唐箕にかけて分別します。(写真2)

 するとこうなる。(写真3) 七分づき的状態です。

 これ以上精白度をあげていくと、くだけるものが多くなっていまします。
 唐箕の2番口から出てきているものをみるとこのように少ない。

 精米機に雑穀スクリーンをつけてやったときには、もっとたくさん粉と破片が出てしまったものですが、そこまでやれば、こういう剥け方にはなります。


 さて、この日はタカキビも初脱穀


 もともと収獲量が少なかったものですが、ぜんぶあわせても1.5リットルくらいじゃないかな。
 半分強を試食に供し、残りを種として今年また蒔きます。
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 ひとりで黙々とやっているように見えるかもしれませんし、いや、実際そうなのですが、元来もう少し人が多くてもよいのですし、そうあるべきであるのです。
 はい。奥出雲山村塾、焼畑倶楽部の会員を募集中です。
 国内の焼畑地への研修、海外(東南アジア&スリランカ)もあります。なんとなく興味があるという程度からでOKですよ、お問い合わせください。

アワの精白はミキサーで

 2月28日(火)。雲ひとつない快晴となり、気温は9℃まであがったようだ。風もおだやかで風速1〜2mほど。日の出は6時40分、日の入は18時といったところで、ずいぶんと日が長くなったものだ。

 そんな日和、久しぶりに脱穀作業に三所へ。2時間弱ではあったが、モチアワをそうだなあ、500〜700gほどはやったろうか。いまだに試し試しというところはあるが、ちゃっちゃと手際はよくなってきたように思う。

 そして、現段階での結論として、アワの精白はミキサーがよいということに、決めてしまった。感覚・フィーリングで。あきらかに、精米機よりはよい。粒がつぶれてないのだ。精米機だと、糠というか剥けた殻といっしょに潰れた子実?の白い粉がまじった色だが、ミキサーだとほぼ茶色にとどまっており、ひいたものをひろげてみても、子実が割れたようなものは見つからなかった。

 剥けてないものもあり、およそ7分づきといったところか。

 ミキサーで精白するコツがつかめてきたので、記しておく。

1. 古い型がいい。パワーがないほうが。歯も摩耗しているほうがよさそうだ。使用しているはそう。

2. 1のタイプなら入れる量は半分程度か。モーター音がやや鈍くなり、中でゆっくりまわる感じが偉えるのがいい。

3. 白くなった子実が目立ちはじめて、もうちょいのところでストップ。

4. 量が少ないときや、ひき直しをするときには、唐箕で飛ばした糠・殻はとっておき、それを混ぜてミキサーにかける。

5. 精米機だと状態がわかりにくいが、ミキサーだとよく見えるので、モーターをとめるタイミングがつかみやすい。よく見ること。これに尽きる。

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2016年のガマズミ

 がまずみについて、記事に書いた記憶がありますが、見当たりませんので、これまでの概略を記します。
1. 2015年秋、さくらおろち湖周辺でガマズミを発見。荒廃竹林山林の再利用活動のなかで、低木で材の用途も広く、子どものおやつとしても、大人の滋養食としても、こりゃいいなあと思い、再生に取り組むことにした。ジャムはカフェオリゼで好評。「これはなんですか?」「おいしい」「好き」という声多数であった。
2. 2016年春、種の保存法が雑であったため、発芽は0となるものの、挿し木は何本かが成功。育成に向けての第一歩となる。出雲国の産物帳などにより、出雲地方での方言名は「かめがら」「かめんがら」であることなど文献で確認できたことなども多々。
 寒中見舞に記載の一文をひいておく。
【ガマズミの実】
 ガマズミは別名ヨソゾメ、ヨツズミ、また、方言名としてムシカリ、ズミ、ソゾミなどが知られているものの、奥出雲でどう呼ばれていたかは未だわからない。幹は鍬の柄に、枝は結束の縄として使ったという。果実は晩秋から初冬に甘くなり、疲労回復・利尿の効能があるようだ。染色にも使った。さて、その諸能も存在も忘れ去られようとしているが、この春、種からふやしてみようと思い立った。園芸ではなく、荒廃した山の道を切り開き点々と。うまくいけば五年後には実を結ぶだろう。
3. 2016年晩秋。諸事多忙につき、採集したものを黴びさせてしまったりもするが、小瓶3つ4つぶんのジャムはできた。実を干してドライにしたものは、おやつにはよいが人には出せないねなどと話す。
 昨年、妻につくってもらったジャムですが、「コツがわかった」とのこと。再度聞いて後ほど加筆しておきます。



 さて、本題です。本日、「飯南町の植物ガイドブック」平成25年刊を見ておりましたら、ガマズミの項に気になる記述を発見。以下に引用しておきます。

 p19〜
 ガマズミ
 この地方では「カメガラ」と呼んでいました。細く真っ直ぐ伸びた木を、太鼓のバチに用いました。お宮の神事、神楽などの太鼓のバチはほとんどガマズミでした。
 真っ赤な実は甘酸っぱく、かつは子どもが食べました。また、噛みながら皮と種を除いて、わずかに残る果肉をチューインガムのように噛んで遊びました。

 ガムのように噛んで遊ぶということがわかりません。どういうことなんだ。「わずかに残る果肉」とは種にこびりついた果肉のことなのだろうか。はてさて。

家庭用精米機を使ったモチアワの脱っぷ

 1月8日の作業の結果だけを備忘に書きとめ。
 山本電気のRC-23(製造中止だが市場在庫がまだ豊富)を使った雑穀の脱っぷを実行に移しました。五穀用スクリーンの在庫がメーカーにあり2つ注文したことは以前に記したかもしれません。網目が小さいため、アワはすり抜けますね。

 デフォルト(雑穀向きに推奨されている基本設定)で4回まわしたのが、この上の写真の状態。そして、掬って拡大したのが下の写真です。これならきれい、使える。
 
 しかーし。写真には撮っていませんが、同じ量ほどが網からすり抜けて粉(米でいうなら糠)とともに受皿にたまっているのです。放置しておりまして、本日風選する予定でしたが、やり損ねました。明日、で、き、る、か、な、です。曇ならなんとか。
 そして、同じく写真には撮っていませんが、蕎麦を試してみました。黒皮は剥けず、剥けたものの大半は砕けて次々と粉になってしまうようです。蕎麦粉のよい香りを堪能するはめになりましたが、さて、どうしたもんじゃろのお。ちなみに2年前の玄そばに3年前の玄そばも4割程度混ざったものですが、これだけよい香りがすれば、まだまだ使えるなあと思いました。挽きたてにまさるものはなしということですかな。

エノコログサを食す慣行

 味の素食の文化センターのライブラリーでたまたま見つけた書(郷土食慣行調査報告書1976)の中に、昭和18年に広島・山口を取材したものがあった。調査地は以下の通り。

 廣島縣山縣郡戸河内町、高田郡吉田町、蘆品郡廣谷村、神石郡油木町、

 山口縣大島郡小松町、平郡村

 調査は「現地調査及び文書に依る問合せ調査の結果知り得た郷土食を次の如く分類配列し之を取纏めた」とある。

 複写をとり、一点一点検討していきたいのだが、エノコログサの記載には驚きました、というか盲点でした。アワの原種とはいえ、実際に食していたとは! 食べられるということ、食べている(た)ということ、ふたつは似ているようでちがう。ウェブを検索してみると、「食べてみた・うまかった」という記事まである始末。

 ここですが、脱ぷせずに炒ってます。むぅ、そうか、アワも完全にむかずともよいのかもしらん。早速炒ってみようと台所に向かう前に記事を整理しておきます。

 まずは、先述の調査報告から。

 果実の項目に「きからすうり」と並んであります。

えのころぐさ

(調理方法)九月頃えのころぐさの穂を採取し、揉んで種子を採り、臼で搗いて粥又は飯に炊く外、揉んで採った種子を石臼で碾いて粉末となし団子にして食す。

(採取方法)米麦の補助食として用ふ。

(普及度)縣下一円。

 wikiの記載の中で出所の明記されているものの中からめぼしい項目をひろってみました。

縄文時代前半まではなく、日本にはアワ作とともにアワの雑草として伝わったものと推測される」。〜2003,9『雑穀の自然史 その起源と文化を求めて』(北海道大学図書刊行会)内収「雑穀の祖先、イネ科雑草の種子を食べる:採集・調整と調理・栄養」河合初子,山口裕文 p31-33

 『雑穀の自然史』はこの前、県立図書館で借りてきたものだが、「イネ科」というところでスルーしていた。次回、もう一度借りてこよう。確かめたいことのひとつが「脱穀したのちすり鉢ですりつぶし、水選する。食べるときはアワと同様、粒のままでも製粉しても食べられる」という箇所。水選という工程はあまり見たことがないのだ。調理する直前にするのだろう。

 「食べる」はつくづく奥が深い。

大正7年8月20日(1918)―松江の米騒動

阿井村には大正はじめに種子ものの通販が入り、白菜・ほうれん草・かんらん栽培が広まったという記録があることを以前記した。同じく阿井村で、トロヘイ(ホトホト)が風紀紊乱を理由に禁止されたという記録があるのも(要確認)この頃である。以来、出雲地域の大正前期の社会変化を、少し整理しておかねばと考え、ちょびちょび集めている。

引っかかったのは松江市米騒動。wikiからの孫引きだが、井上清、渡部徹編1959『米騒動の研究』によれば、大正7年8月20日(1918)に松江市で米騒動ありと。ただ県のホームページには、浜田、益田があげられているのみ。ちょっとこのあたり掘ってみないとわからん。

大正の米騒動については、従来

《1918年の大米騒動を引き起こした米価騰貴は凶作を原因とせず,直接的にはシベリア出兵を見越した地主と米商人の投機によるものである。また,その根底には第1次大戦中の資本主義の発展による非農業人口の増大に米の増産がともなわず,地主保護政策をとる寺内正毅内閣が外米輸入税の撤廃などの適切な処置をとらなかったという事情がある。》平凡社『世界大百科事典』文・松尾尊兊

という観点が原因のまとめとして流布し、多くの人はそう理解している。私もかつてはそうだった。が、しかし、近年、食生活の変化という観点が語られることも多い。それが私の追っているテーマだから耳目にひっかかるということでもあるにせよ、だ。そして、米騒動に現れた何かであって米騒動そのものの原因じゃないよともいえるのだが。

というわけで!? 時間がないので、とりあえず、メモをひくのと引用を以下に。また考えましょう。

ウィキより

《背景には資本主義の急速な発展が指摘されている。第一次世界大戦の影響による好景気(大戦景気)は都市部の人口増加、工業労働者の増加をもたらしたほか、養蚕などによる収入の増加があった農家は、これまでのムギやヒエといった食生活から米を食べる生活に変化していった。また明治以降都市部の中流階級では大量の白米を少ない副食で食べるという食習慣が定着してきていた。一方で農業界からの人材流出のために米の生産量は伸び悩んでいた。大戦の影響によって米の輸入量が減少した事も重なり[12]、米価暴騰の原因となった。》

〈日本長期統計総覧〉をどこかから孫引き

◉日本の輸入米の推移

明治元(1868)……1万2000t

明治3(1871)……32万t

★3年で27倍!(統計数値に問題ありかもだが、急増には間違いない。)

明治23年〜明治末にかけて、10万t⇒88万t(これは近隣諸国を支配下においたことによる)

明28(1895)台湾領有

明43     日韓併合

⇒明30から米価は次第に高騰。大正7の米騒動に至る。

大東町老人クラブ連合会『大東の食文化』1999.10にある唐米の記録

《唐米(とう米)

大正一五年〜昭和元年の頃、小学校で北川福正先生が昼食時に、とう米入りの弁当だから見にこいといわれ、校長先生の弁当を見学に行きました。

我が家でも麦の代わりに混ぜて食べましたが、粘りの足りない感じでした。黒い油の玉のようなものが混じっていたりして嫌でした。米不足を補うというより、安い唐米という経済からでドンゴロスの袋(唐米袋)に入っていました。【佐世地区】》

甘味の変遷―備忘録001〜砂糖はどのように普及したのか

 石見のほうから奥出雲に引っ越してきて、煮しめを筆頭にありとあらゆるものが甘いのに驚いた。砂糖の使い方が半端ないのである。いつからどのようにこうなってきたのかを知りたく思って3年あまりが経過した。「いつごろから」の端的なこたえは「戦後から」。明治の終わりから大正のはじめにかけての変化とともにある。前にも記したが、種の通販が村々にも入るのが同じ時代だ。ただ、石見の山奥もそれは同様。出雲(奥出雲)と石見の砂糖使用の差異はどこから生じているのか。吉賀町蔵木をまず見てみよう。

 

 吉賀奥”蔵木村”民族誌という章が、石塚尊俊2005『暮らしの歴史』(ワンライン)の中にある。氏の旧稿から拾遺してきたもので、軽い読み物ふうの体裁だったのだが、さらっと読もうとぺーじをあけたら、びっくり。なかなかに貴重な記録が含まれている。

 石塚は津和野・日原の古老がこう語るのを聞いてしまう。

「同じ鹿足郡でも吉賀の奥は里部とだいぶ違う、ことに蔵木の奥となると、まるで原始時代そのままだというような話も出てくる」

 そこで、どうしても一番奥まであがってみたいと訪ねていくお話である。昭和20年代はじめのことだ。古老の言う「一番奥」とは、吉賀の金山谷と河津のことである。金山谷は4年前か、近世史研究者で茶道家の高山氏をお招きしフィールドワークと講演会を主催したときに訪れた土地である。髙山氏は大変昂奮しながら、ここは古い、文書や伝承でしかふれたことのない隠れ里がまさに今目の前にあるようだと、おっしゃっておられた。石塚氏も蔵木の村役場で取材するうち、「この二地区(金山谷・河津)が西中国山地では最も古い土地であるやに思われてきた」と残している。

 そうかもしれない。ただ、その古い地層のようなものが、いまどこにどのように残っているか、そこまでたどれるかが問われる。預かっている『吉賀記』を開き直し、行ってみたいなあ、また。

 閑話休題

 さて、本題の砂糖。

 蔵木村の民俗調査からの抜書であろうか、山陰民俗9,昭和31年2月からのものとして、項目別に記述があるところから砂糖の項がある。

《[砂糖]調味料として、味噌・醤油はすべて自家製、砂糖は金毘羅まいりの土産などに少しずつ買ってきて配るくらいのものだったが、大正四、五年ごろから一般化した》

 ほかにおもしろい記述をいくつかあげておく。砂糖から脱線し続けるけれど。

《[食器]昔は羽釜はなく、全部鍋だった。それが漸次羽釜にかわったのは、羽釜そのものの普及もさることながら、そこにはまた、雑穀を主とした炊事から、米を主とした炊事への飛躍もありはしないか。茶碗や皿も昔は木のゴギで、塗ってはいなかった。膳は丸い盆で、箸はコウゾの芯でつくった。焼物はカガツ(唐鉢)でもドビンでもほとんど素焼きだった。摩棒のことをデンギという》

 そして、なぞの山芋、モメラのこと。なんだろう。《雑穀時代によく摂られたものにモメラがある。牛モメラという大きい方のは食えないが、普通の小指の先ぐらいのものを四月ごろ採り、えぐいから一日中煮、それに醤油をつけて食う》と。

 砂糖のことがすっかり飛んでしまった。改めて加筆することにして、締切3つをとっとと仕上げる。最後に補助線を3つ。

・山間部における甘味として柿の皮を干して粉にしたものはかつて多用されていた。

・山間では甘味よりも塩がとにかく貴重だった。塩による野菜や魚の保存は、塩そのものを備蓄するという意味も大だった。飢饉の年は天候が悪い、天候が悪いとできる塩の量が少ない(海水の天日干しが不調)。

阿井村の大正7年

 島根県立図書館に、駒原邦一郎,S35.1「私の村のはなし(下)」を確認してきた。〈阿井の山野に自生している草木で〉で載せた草木の名が間違っていないかと。なにせ乱暴な写筆だったのだ。いちばん気になっていた「ゴロビナ」はコロビナでなく、ゴロビナで間違いなかった。

 そして、そこで大正7年という年を明らかにしてある重要なことが記されていたのだ。

 阿井で食料として何が栽培されてきたかが記されているのだが、そこには大正はじめに種子ものの通販によって白菜やほうれん草が栽培されるようになったとある。そして、大正7年にタマネギとトマトが入ってきたのだと。

 そもそもである。

 あくまでも私の作業仮説なのだが、阿井、三沢、馬木については、在来種は戦前まで他地域とくらべてもかなりあったと思われる。しかし戦後他地域よりはるかに急速に潰えてしまう。

 諸要因が整理できてはいないのだが、ひとつの典型例として、サツマイモの栽培がある。阿井では又蔵芋と呼ばれていた。明治14年に大吉の又蔵さんが栽培をはじめたという(年号までわかっているのはなぜか。これも調べてみたい)。ひろく普及するのは戦中戦後のことだ。

 全国どこでも戦中戦後にサツマイモ栽培が広まるということは見られるようだが、入るのが遅かったのは、救荒作物としてさまざまなものがあったということが大きいのではないか。多品種多品目によるリスクヘッジが働いていたということ。それがために江戸時代にあった何度かの飢饉においても、サツマイモあるいは琉球イモが入り込む余地がなかったのだとはいえる。

 飢饉や災害による収獲減に対する松江藩の統治の柔軟性というか独自性もあったといわれるが、栽培品の多品目多品種という側面が大きかった。捜して求めている出雲地方と広島北部・岡山北部にのみ見られる(おそらくある特徴をそなえた)アワの呼称である「クマゴ」の謎にもかかわるかもしれない。

 しかし、資料がそろいきれていない。とりあえず以下のものをあげておく。

岸崎佐久治

『免法記』

『田法記』

櫻木保1967『松江藩の地方役岸崎佐久治ー免法記・田法記』

黒沢石斎(三右衛門弘忠) 『懐橘談』(前編1653,後編1661)

黒沢長顕・斎藤豊仙『雲陽誌』⇒大東図書館・県立図書館で貸出可

『雲陽秘事記』

渡部彝

『出雲神社巡拝記』

『雲陽大数録』

『雲陽郷方古今覚書』

桃好裕『出雲私史』

『出雲鍬』

『懐中万宝記』

地誌等

『大日本地誌大系』

『島根縣史』

島根県人名鑑』

出雲国人物誌』

松江市誌』